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しおりを挟む第三章 ヘメロカリス ~苦しみからの解放~
翌朝。慣れてしまった身体は、いつもの時間に目を覚ました。
ぼんやりとした頭で今日は行かなくていいんだと思い、紗雪は毛布を被り直す。
気持ちよく二度寝して目を覚まし、カーテンを開けた。
久しぶりになんの憂いもなくゆっくりと眠ったからか、陽の光がキラキラして見える。そのまま窓を開けて部屋に風を通すと、時間が動き出した。
今さらになって、部屋の空気がこんなにも滞っていたことに気づく。
ここ数年、眠るためだけに帰っていた部屋。
ゴミを出すくらいはしていたが放置していたものも多く、正直綺麗とは言いがたい。
それに比べて、先日見たハルの部屋はとても片付いていた。
紗雪はポットでお湯を沸かす。
最近飲んでいなかった種類の紅茶を飲もうと、コレクションを取り出した。さまざまな缶に入っている葉の中でアッサムを選ぶ。
アッサムは有名な葉で、カフェに行けばだいたいある。けれど、ここ最近の紗雪はカフェに行く時間もなかったし、疲れていたのもあって比較的軽い味のものを好んでいた。
昔、親しんだ味を最初に楽しみたい。
何種類かあるアッサムの葉の中から特に好きなお店のものを手に取る。
一杯目はミルクティーを淹れ、朝の時間を楽しむ。
しばらくぼんやりとして、ふとスマホを見た。
さっきまでひっきりなしに電話がかかってきていたが、無視をしているうちにおさまった。マナーモードで放置していたのだ。
確認すると、案の定会社からだった。
同僚など会社関係の人たちから電話やSNSでメッセージが届いている。
メッセージは安否を心配しているものから、辞めたお祝い、迷惑だという文句など多岐にわたった。
その中にハルからの連絡を見つける。
【起きたら連絡ちょーだい】
そう書かれているのを読んだ紗雪は、急いでSNSで返信をしようとして、指を止めた。もう時間や人の目を気にしなくてもいいのだ。
彼女はハルに電話をすることにした。
画面をタップして、スマホを耳にあてる。ワンコールが終わらないうちにハルが出た。
「おはようございます」
『おはよー。と言ってももうお昼よ。起きたなら一緒にカフェ行きましょ、カフェ!』
「わかりました」
『じゃあ、一時間後に迎えに行くわねー』
ハルはご機嫌な声で言って電話を切る。
紗雪は一瞬、支度に一時間もいらないのにと思った。けれどすぐに、ハルのほうに時間がかかるのだろうと納得する。
クローゼットを開けると、四年前に買った服と、会社に着ていっていたスーツしかなくてげんなりした。
仕方ないこととはいえ、着ていく服がない。
できるだけマシな服を選び、使い古したコートとマフラーを手に取った。
化粧も最近ほとんどしていなかったので、コスメ類は全て古びている。これらも一新したい。それでもしないよりマシかと軽く化粧をして、かかとがすり減ったスニーカーを履いた。
少し落ち着いたら、服や靴やスキンケア用品など、いろいろと買いそろえなければ。
玄関先に座りながら、そう考える。
そして、足をパタパタと動かしてハルが迎えに来るのを待った。
電話からちょうど一時間後に、玄関のチャイムが鳴る。
飛びつく勢いで迎えようとして、紗雪は身体を押しとどめた。
すぐに開けたら、扉の前で待っていましたと言っているみたいなものだ。それはなんだか恥ずかしい。
彼女は五秒かけて深呼吸をし、ゆっくりと扉を開けた。
「あら、前と雰囲気が違って可愛いわね」
扉を開けた先で、いつも通り美麗なハルが艶やかに笑っている。
昼の光のせいか、紗雪は目が痛くなった。
「さぁさぁ、カフェに行きましょ。アタシのおすすめなのっ!」
「はい」
ハルはマンション前の坂を下りて、路地裏へ入る。紗雪はこんなところにお店なんてあっただろうかと疑問に思った。
ここには社会人になる時に引っ越してきた。
最初の一年はともかく二年目からはほとんどお店が開いていない時間帯にしかいなかったし、休みがあれば休息にあてていたので、自分が知らないのも当然かもしれない。
案の定、感じのよいカフェが見えてくる。
カフェに入ると、弁護士の水谷が優雅にコーヒーを飲んでいた。
「来たか」
「あ、こんにちは」
「おっまたせー!」
ハルが紗雪を連れて、水谷の前に座る。
昼が近いこともあって、カフェにはランチメニューが置いてあった。
紗雪はそのランチメニューをハルと一緒に頼み、会社から電話やメールがひっきりなしに来ることを水谷に伝える。そのタイミングでまた電話が鳴った。
「課長だ……」
すると水谷が電話に出て、自分が弁護士であること、何かあるなら自分を通すことと話し出す。彼は紗雪の代わりに交渉を進めた。
それほど時間が経たないうちに、電話を切る。
「ま、これで大丈夫だろ。弁護士雇ってるなんて、あいつは本気だと思わせるには十分だ。残業代については後日、話をつけるから安心してくれ。それと、俺への支払いはこいつから受け取ってるから」
「え!? そんな! 駄目です! これは私のことなんですから、私が支払います」
慌てる紗雪に、ハルが口を出す。
「えー、ただのアタシのお節介だしぃ」
「駄目です!」
紗雪はきっぱりと言った。
会社は辞めてしまったが一応自立した大人なのだ。こういった支払いは自分でしなければ。
もちろん、ハルの厚意はありがたいし、払ってくれるなら楽だという気持ちもある。けれど、そこまでしてもらうわけにはいかない。
どうにかハルが支払った料金を彼女に直接返すことを了解してもらった。
言われた金額は相場よりも低いが、お友達価格なのだそうだ。二人にそう言われると、その金額を支払うしかない。
紗雪は、せめてなにかしらのお菓子を一緒に渡すことを心のうちで決めた。
一段落すると、水谷が口を開く。
「――そうだ。普通なら離職届が十日前後で届くと思う。もし届かなかったら相談してくれ。それに、退職理由がなんて書いてあるかも確認な。一身上の都合や自己都合だったら、ハローワークになぜ辞めたのかをきちんと報告したほうがいい。とはいえ特別な事情で辞めた場合、制度から貰える金はありがたいが、手続きが面倒くさい。どこかしらに出向く必要もあるしな。それは少し時間が経ってもできるから、とりあえず君はしばらく休んだほうがいい」
「そうよそうよ。すぐに何かしようとしないで、休んだほうが絶対いいわ」
「はい、ありがとうございます。私もちょっとゆっくりして、次のことを考えたいと思います」
そんな話をしていると、ランチが運ばれてくる。紗雪は久しぶりにカフェでのランチを楽しんだ。
その後、水谷は仕事に戻ると先に出ていく。
ハルと二人きりになった紗雪は、なんだかドギマギしてきた。
自分でも不思議だ。なぜ、女性相手にこんなにも胸がときめいてしまうのか。
ハルを改めて見る。
綺麗に化粧をし、爪の先まで手入れしている彼女は身体つきだけが女性らしいといえず、身長が高いせいか筋肉質で大柄だ。
あまり気にしていなかったが、全体的に骨太な気もする。
ハルのことをじっくり観察していたからか、目が合ってしまう。紗雪は彼女ににっこりとほほ笑まれた。
「ねぇ、ユキちゃん。せっかくだから、このあとどこかで買い物でもしない?」
「え、いいんですか? あの、お仕事とかは?」
「今日は夕方までなら平気なのよ。夕方から二件予約入ってるから、行かなくちゃいけないんだけどね」
普通であれば、ネイリストはずっとお店にいて、指名だけでなく飛び込みのお客にも対応するのではないだろうか。
紗雪は少し心配になったけれど、すぐにその考えを振り払った。
ハルが平気だと言うのなら、平気なのだ。
二人でお店を出て電車に乗り、洋服や雑貨などさまざまなものが売っている大型の複合ビルに行った。
ハルに連れ回されるまま、いろいろなお店に入って服や靴を見る。
彼女は紗雪に似合うものをどんどん買ってしまう。紗雪がお金を渡そうとしても、自分が好きでやっていることだからと受け取ってもらえない。
だから代わりに、ハルに似合う靴とピアスを買った。
結果、二人とも両手いっぱいに紙袋を持つことになる。
表通りを歩いていると、ガラスに自分たちの姿が映っているのに紗雪は気がついた。
綺麗な女性とみすぼらしい女が並んでいる。
紗雪は改めて自分の姿に愕然とした。
ガラスに映る自分は自信がなさそうで、髪の毛もボサボサだし洋服も身体に合っていない。靴だって汚れている。
昨日まで自分の姿をまともに認識していなかったとはいえ、これはひどすぎる。
どうにかしなければ。ハルにどこの美容院に行っているか聞いてみようか?
そんなことを考えていると、一台の車が二人の目の前に停まった。
その車は真っ赤でとても目立っている。すぐに窓ガラスが下りてサングラスを外した男性がこちら――ハルを睨んだ。
「おい、陽! なにこんなところで女と油売ってんだよ! 仕事はどうした仕事は」
途端にハルが怒鳴り返す。
「うっせえな! お前、人のことを陽って呼ぶなっつってんだろ! ハルって呼べ、ハルって! あと、仕事は夕方からだ」
「なーにが、ハルだよ。気色悪い」
「いや、ほんっと失礼だわ。驚くほど失礼」
「オネエやってんのは勝手だが、それ使って女騙すようなことすんじゃねぇぞ」
「騙すかっ!」
紗雪は二人のやりとりを呆然と聞いていた。
頭にひっかかるのは、オネエという言葉。
オネエ――よくテレビに出ているタレントの姿が頭に浮かぶ。身体は男性だが心が女性だったり、単純に綺麗になるのが好きだったりする人たち。タイプはさまざまだが、オネエと称されている人たちがいることは、紗雪も知っている。
この時やっと紗雪は、彼女が彼であることに気づいた。
しばらくして男性が車を発車させ、ハルが傍に戻ってくる。
「ごめんねぇ。あいつといると口調が戻っちゃう時があるのよ。本当やんなっちゃう」
「あの、ハルさん」
「ん? なぁに?」
「ハルさんは男性だったんですか?」
「――え、嘘!? もしかしてユキちゃん気がついてなかったとか……そういう?」
「全然気がついていませんでした。綺麗な女性だとばかり思ってました」
「や、だ。アタシてっきりわかっているもんだと――ほら、アタシ、口調はこれで化粧もばっちりだけど、身体つきは完璧に男なのよね。まぁ、鍛えてるっていうのもあるし、手とかも男なんだけど……」
ほら、と見せられた両手。たしかに女性らしい柔らかさはなく、指の関節は太くごつごつとしている。手の大きさだって紗雪より一回り大きかった。
こんなに男性らしいのに、先入観でハルを女性だと信じ込んでいたのだ。女性同士だと思って行動したあれこれが、紗雪は恥ずかしくなる。けれど同時に腑に落ちてもいた。
今まで感じていたハルに対する違和感の原因はこれだったのだ。
そして、ふと考えた。
今のご時世、男性が男性を好きになることも女性が女性を好きになることも珍しくない。紗雪が今まで好きになったのは、たまたま異性だったけれど、彼女――否、彼の恋愛対象はやはり男性なのだろうか。
それを言葉にして問うことはなぜかできず、ぼんやりしていると、ハルに声をかけられる。
「――ユキちゃん?」
「あ、ごめんなさい。少し驚いちゃっただけなんです! 私、すっかり女の人だと思ってましたよ。こんなにも綺麗な男性がいるなんて、神はずるい……」
「あらユキちゃんだって可愛いのに」
「こんな姿を可愛いって言えるハルさんの目は腐っている気がします」
「まぁ、言うわねー」
ハルはころころと笑う。
でも紗雪が言ったことは、本心だ。
隣に立つことに躊躇いが生まれるくらい、ハルは美しい。
そんな紗雪の気持ちに気づくことなく、ハルが楽しそうに次のお店を指さす。
ハルが男性だということに衝撃を受けたものの、彼が女性であろうが男性であろうが紗雪にとって自分を救ってくれた唯一の人であることに変わりはない。
紗雪はハルの顔を改めて見つめたのだった。
散々買い物を楽しみ、二人は夕方前に一度マンションに戻った。
ハルは荷物を置いて、仕事に行くそうだ。
紗雪は彼を慌ただしくさせてしまったことに申し訳なさを感じつつも、久しぶりの楽しい時間に感謝した。自分の中に楽しいという感情が残っていたことが嬉しい。
部屋に入り、買ってきたばかりの服と靴を取り出して眺める。
こんなキラキラしたものが自分に似合うだろうかと一瞬不安になるが、モデルみたいに綺麗でファッションセンスの塊のようなハルが選んでくれたのだ。似合わないことはないはずだと自分を奮起させる。
そして、今日教えてもらったばかりの、彼の行きつけの美容院の予約を取った。
このボサボサでキューティクルなんて存在しない髪の毛をどうにかしたい。そうでなければこの洋服と靴にあまりにも不釣り合いだ。
今まで洋服も髪の毛も靴も、全て地味で目立たないものを選んでいた。規則があったわけではないが、少しでもなにかを変えると上司に文句を言われたのだ。
爪先にマニキュアを塗っただけでもあの騒ぎ。入社当初はきちんとしていた身なりは、どんどんおろそかになっていった。
それに、美容院に行ったり洋服を買いに行ったりする暇や時間があるのなら、とにかく眠りたかった。眠らなければ、体力が回復せず苦しくなるだけだったから。
あの生活と縁が切れたんだと実感すると、いろいろなことがやりたくなる。
どこかに遊びに行きたいし、おしゃれをしてカフェにだって行きたい。他にも有名な洋菓子店や話題のパンケーキ屋にも行ってみたい。久しく会っていない、まだかすかに繋がっている友人たちにも会いに行きたい。会って、これまでの経緯を報告したい。
自分は好きなことをする時間を手に入れたのだ。
しばらくは好きなことを好きなようにやりつつ、ゆっくりと過ごしたかった。
まずは、目の前にある古びた洋服と靴の整理から始める。断捨離は今までの自分を一掃するいい機会だ。
着すぎて生地が薄くなったものや数年前に買ったものなど、紗雪は全てゴミ袋に入れていった。
大学生の頃に買った花柄のワンピースは、デザインが若すぎて今の紗雪には着られない。数年間寒さをしのいでくれたマフラーともお別れをすることにする。
頭に浮かぶのは、優しくほほ笑むキラキラしたハルのこと。彼の隣に並んで不釣り合いな自分でいたくない。
さすがに全てを捨ててしまうと不便なので、最低限のものだけを残して、それ以外の服は処分した。クローゼットの中が三分の一になる。
靴も同様だ。昔履いていた若い人向けの甘めのデザインのものは捨てることにした。
この数年で趣味が変わったわけではないが、こういう靴を履くには若さが足りないという気持ちが出てきてしまっている。年齢で分けているわけではなく、単純に今の自分には似合わないと感じるのだ。
それに、ハルが買ってくれた洋服や靴は、どちらかというと大人っぽいものだった。シックなデザインで、差し色をうまく使った上品なものが多い。
これからはそのテイストのものを集めてみたいと感じている。新しい自分に出会える気がするから。
明日は一日ゆっくりと部屋の片付けをして、洋服は明後日買いに行こう。午前中に美容院に行くので、ちょうどいい。
ハルにも一緒に来てもらいたいけれど、彼には仕事がある。彼の仕事はどうやら不規則で、確実にいつが休みというのがないらしい。
勤めているネイルサロンは土日祝日が休みなわけではなくシフト制だという。ある程度自由がきくのか、予約の時間までは自由にできるし、予約が入らなければ休みにすることもあるらしい。
なんだかイメージしていたネイリストの働き方とは違うが、彼が嘘をついているようには見えなかった。
彼の部屋にはネイルやファッションの雑誌がところ狭しと置いてあり、専用の器具なども持っている。あれを個人の趣味で揃えているとは思えない。今日車で怒鳴っていた男性の言葉もあるので、紗雪はハルの言葉を疑っていない。
だが、ハルについて、自分があまり知らないことに紗雪は気がついた。そもそもオネエだということも今日知ったばかりだ。どうやら彼は紗雪が気づいているのだと思い込んでいたようだが。
ハルについて考え始めると、眠れそうにない。
聞けば教えてくれるだろうか。
紗雪はハルのことを知りたいと思っていた。
とにかく、次はいつ会えるか聞いてみよう。
善は急げと、紗雪は早速、余裕がある日に一緒に買い物に行ってほしい旨をSNSで伝える。するとちょうどスマホを見ていたのか、ほとんど待たずに彼から返信があった。
「――明後日の午後三時からかぁ」
紗雪はすぐに了承の連絡をする。
その日は午前中に美容院に行く。雰囲気が変わった姿を見せられたらいい。
彼女が鼻歌を歌いながら片付けを始めた直後、スマホが震える。どうやら元同僚からのようだ。
メッセージには、辞めたお祝いと今の会社の状況、課長が暴れているらしいが、どうにでもなることなどが書いてある。そして最後に紗雪に続いて辞めてみせるとあった。どうやって辞めたのかを教えてほしいとも添えられていたので、辞めた経緯を簡潔に返信する。
そこでスマホをベッドの上に放り投げ、シャワーを浴びて寝る支度をした。
妙に目が冴えてしまったので眠れないかもしれないと思ったが、ベッドに潜ると自然と眠気がやってきた。気がつけばスマホの目覚ましが鳴っていた。
もう朝の九時近くだ。
紗雪は部屋の片付けの続きをしながら、穏やかに過ごす。
そして翌日、美容院に行く日になる。
紗雪はクローゼットの前で仁王立ちになっていた。
髪の毛を切ってからハルと一緒に買い物に行く予定なので、なにを着るか悩む。
一昨日服をほとんど捨ててしまい、クローゼットには最低限のものしか入っていない。
悩みに悩んだ挙句、結局シンプルなシャツワンピースに厚手のカーディガンとコートを着る。足元も久しぶりにパンプスを履いた。ハルが買ってくれた美しい靴だ。
綺麗なものを身に着けると、やはり気分が高揚する。楽しい、嬉しいという気持ちが湧き上がってくるのだ。
麻痺していた感情が戻ってきているのがわかった。
思えばこの数年、楽しいや嬉しい、幸せなどといった感情を持ったことがなかった。嫌いなものと嫌なものばかりが増えていっていた。
自分の中にある感情が極端になっていって、嫌いかそれ以外しか残っていなかったのだ。
世の中には嫌いの他にも複数の気持ちが存在しているはずなのに。
それをゆっくり思い出しながら、もっと前向きになれる感情を増やしていけたらいい。
紗雪は足取り軽く美容院に向かった。
さすがハルが通っている美容院。そこは随分おしゃれなお店だった。
窓が大きく外から丸見えなのが気になるものの、明るく清潔感がある。
特に指名をせずに予約したのだが、担当してくれたのはハルがいつも指名している人だった。なんでも、ハルが、紗雪が予約したらよろしくと伝えていてくれたらしい。
「――にしても、髪の毛ブスだね」
「……あの、すみません」
「やりがいあるからいいけど! どうする? 一応カットの要望だよね」
「お任せします」
「染めてもいいの?」
「お……、お好きにどうぞ」
「自分がないというか、なんというか。最低限こうしてくれっていうのはないの? 髪の長さは長いほうがいいとか、お手入れの悩みとか」
「この数年髪の毛に時間を割く余裕がまったくなくて、やっと美容院に来られたんです。なので、今までの自分を一掃する感じがいいです」
「わかった。君の新しい門出を僕が手伝ってあげるよ」
鏡越しににっこりと笑った美容師が心強く感じる。
少し言葉がキツイが、優柔不断な紗雪にはちょうどいい。
けれど昔の自分には、もっとこうしたい、こうなりたい、という確固たるイメージがあったような気もした。それが今は、清潔感があればいいとしか思えない。
ただ、いきなりこういうふうになりたいというのはないが、ハルが選んでくれた洋服に似合う自分になりたいとは思う。彼の隣に立ってもおかしくないようでいたい。
美容院は長時間コースになった。
ばっさりとショート丈にカットして髪の色も染める。外国人風のツヤと柔らかさが出るカラーリングにしてもらった。
染めるのは大学生以来だ。少しわくわくする。
担当の人と相談して、日本人特有の赤みを飛ばしてくれるオーキッドという色にした。
全てが終わったのは三時間ほど経った頃だ。伸ばしっぱなしだった髪は軽くなって、色味も明るく変わっている。
こういう自分もいるのだと再発見した瞬間だった。
「はい、これはおまけね。うちで使ってるシャンプーとトリートメントのセット。もしこれからも使いたかったら、うちで買えるから」
「おいくらぐらいなんですか?」
「普通のシャンプーとかに比べたら割高の五千円。大きい容量を買えば、少しは安いよ」
「そうなんですね」
「ま、とりあえず使ってみてよ。ショートだと髪の毛、はねやすいし、ちゃんとブローしてね」
「頑張ります」
「ん、僕が可愛くしたんだから自信持って!」
「ありがとうございます」
美容院を出た紗雪は、髪の毛を掻き上げてみた。ショートになった髪はすかっと指が抜ける。
ハルに会ったらどういう反応を示してくれるだろうか。
紗雪は自分がやたらとハルについて考えていることを自覚した。
自分を助けてくれた人だからか、一緒にいると楽しいからか。
まだ出会って数日しか経っていない、お互い詳しいことを知らない間柄なのに、いつの間にか、心を開いてしまっている。
待ち合わせ場所に着いた紗雪は、楽しい気分でスマホを開く。それを弄りながら待っていると、ハルの大きな声が耳に入ってきた。
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