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1巻

1-3

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 いつの間にか、母が目を覚ましている。碧はすぐさま駆け寄って、細くなった手を握りしめた。
 母が碧に弱々しく笑いかける。

「ごめんね。心配かけたね」
「ううん。大丈夫だよ。先生は過労だって言ってた。けど、念のために検査しようって」
「検査……」

 母の顔がくもった。すると、煌雅が碧の隣にやって来る。

「おばさん、お久しぶりです」
「……えっと?」

 突然現れた男性に母は驚き、怪訝けげんそうな表情をした。

「煌雅です。九条煌雅」
「煌雅くん? なんで、煌雅くんが?」
「最近、碧と再会して……。今日はたまたま一緒に食事をしようって話をしていたんです」
「な、煌雅くん!?」

 そんな嘘をつくなんて、彼はどういうつもりなのか。

「そうだったの……。この子ったらなにも言わないから、知らなかったわ。でも、嬉しいわね」
「母さん……」
「この子、煌雅くんが大好きだったじゃない。それを、大人の都合で断ち切っておいてこんなことになってしまったでしょう? 碧にはずっと申し訳ないと思ってたの。でも、そう……再会してたのねえ」

 母はどこか遠くを見つめる。

「あの人が亡くなって、どうにか碧と二人で頑張ってきたけど、私がいつまで元気でいられるかわからないし、煌雅くんが碧を昔なじみとしてでも支えてくれるのなら、頼もしいわ」
「俺としては、碧が俺の傍にいてくれればと思ってるんですが。なかなか強情で」
「碧らしいわね。そこは、煌雅くんの頑張りどころなんじゃないかしら?」
「その通りです。おばさんが俺のことを応援してくれるのなら百人力ですね」

 母が心底安堵したような顔をするので、碧はなにも言えなくなってしまった。
 どういうつもりなのか知らないが、煌雅は母の手を握る碧の手の上に自分の手を重ねる。

「今日、アパートに迎えに行ったんです。あそこに碧一人では少し心配なので、しばらく俺のマンションに来てもらおうと考えてます」
「え、大丈夫だよ。何年もあのアパートで暮らしてるんだよ?」

 碧は、煌雅のマンションに行くつもりなどない。そもそも、そんな提案をされても困る。碧には碧の生活があって、この先もう煌雅と交わらない世界で生きていくのだ。
 だというのに、母は碧の言葉をよそに、頷いて煌雅のことを見つめる。

「そう……そのほうがいいかもしれないわね。女二人でも注意が必要だったんだもの、この子を一人にして入院するのは不安だわ」

 検査入院することで、母も弱気になっているのかもしれない。普段の姿では考えられないほど、とてもはかなく見える。その母に、よけいに心配をかけたくない。
 碧は、笑ってうながす。

「……母さん、もう少し寝よう。疲れてるんだから無理することないよ」
「ん、そうする」

 母は目を閉じ、眠りに落ちた。
 碧はそんな母を見て苦しくなる。
 母にとって碧は心配の種なのだ。彼女が頑張りすぎたのは、碧が頼りなかったせいに違いない。
 就職もして、自立した気になっていたが、母からすれば子どものままだったのだろう。
 母を安心させてあげたい。娘の心配などせず、自分のことだけ考えてゆっくり休んでもらいたい。
 そういう気持ちがこみ上げてくる。
 母の傍を離れ、廊下へ出る。碧は壁に寄りかかって、息を吐き出した。
 考えることも、やらなければならないこともたくさんある。
 治療費をどうするのか、当面の生活費だってある。でも落ち着くまで会社は休むことになるかもしれない。有給がどれだけあったのかも確認しなければならないし、保険会社に電話もしないといけない。
 ぐるぐると考え込むと共に、母になにかあったらどうしようという不安で苦しくなっていく。
 すると、煌雅が碧の肩に腕を回し、抱き寄せた。

「大丈夫だ。おばさんは昔から元気だっただろう。ただ、疲れただけだよ」
「……うん」
「碧が一人で頑張りたいっていう気持ちも理解できる。けど、それで碧まで倒れたりしたら意味がないだろう? おばさんのこと、一番に考えてあげよう。とりあえず、一度アパートに戻っておばさんの入院の準備だ」
「そう、だね」
「車回してくるから、ここで待ってな」

 優しい煌雅の声が耳の奥へと浸透しんとうしていく。
 こんな時に、一人でなかったことに心から安堵する。一人だったら、立っていられなかったかもしれないし、そもそも病院にたどり着けていたかも定かではない。
 碧は自分の両手を重ね合わせ、爪の痕が残るほど強く握りしめた。
 深く息を吐き出し、どうにか冷静であれと必死に自分へ言い聞かせる。
 もう、父が亡くなった時のような子どもではない。半人前ではあるが、自立して生きている大人だ。こんな時まで、母に心配をかけたくない。

「碧」

 名前を呼ばれ、顔を上げる。煌雅がいつくしみに満ちた笑みを浮かべて、手を差し出す。

「おいで」

 アパートで聞いたのと同じ言葉、それでも先ほどよりは素直に、差し出された手を握り返すことができた。
 しっかりしないとという気持ちと、彼に頼ってしまいたいという気持ちが交差する。
 煌雅の車に乗り込み、碧のアパートへと向かう。
 アパートで、母の荷物を鞄に詰める。
 碧が準備している間、煌雅はじっとなにかを見つめていた。

「煌雅くん?」
「まだ、持ってたんだな」
「え? ああ、テディベア」

 彼が、くたびれたテディベアを手にとる。このテディベアは煌雅との出会いの象徴の一つだ。いろいろあったが、捨てようとは思えなかった。何度も洗っているせいか、年季を感じるぬいぐるみとなっている。
 それだけ、煌雅と出会ってから時間が経過しているのだ。

「とりあえず、向かうか。荷物貸して」
「え、大丈夫だよ。自分で持てる」
「碧」
「……よろしくお願いします」

 煌雅に軽くため息をつかれた碧は、大人しく頭を下げた。
 ――淑女しゅくじょたるもの、男性に恥をかかすべからず。
 通っていた高校で、よく聞かされた言葉だ。
 女性は男性の小さな厚意を断らないこと。そんな風に教育されたのを思い出す。
 この七年間で、自分のことは自分でするという生活に慣れ、なかなか気持ちが切り替えられない。
 それでも、身体はまだ覚えているようだった。移動の間、自然と煌雅のエスコートを受ける。
 もう一度、煌雅の車に乗り込んで、同じ道を引き返す。
 入院にあたり、改めて担当をしてくれた医者と話をすることになった。
 簡単な検査で、二、三日入院すれば大丈夫だそうだ。ただ、検査を終えたらすぐに退院してほしいと言われた。病院も慈善事業ではないことは理解しているし、しかたがないことだとも思う。しかし、自分たちのアパートでは、母が寝ていてくれるか不安でもある。
 身体を動かさないとという気持ちで働きに出たり、家のことをしたりしてしまわないか心配が尽きない。

「もう少し詳しい検査はできないんですか?」
「一応できますが、より詳しく迅速にということでしたら、大学病院のほうが対応の幅も広いです」

 正直、この病院と大学病院の違いがいまいちよくわからない。ただ、治療が困難な病気が見つかった場合は、大学病院へ紹介されることぐらいは知っている。
 父の時は、確か大学病院だった気がする。
 毎年母は、会社の健康診断を受けているが一般的な項目だけらしい。碧もそうだ。
 過労で倒れたとはいえ、他に病気がないとは限らない。一度詳しく人間ドックのようなものを受けたほうがいいのだろう。とはいえ母は嫌がるかもしれないし、料金だってどれぐらいかかるかわからない。
 詳しい検査はしたいけれど、先立つものがない。
 碧が唇を噛んで考えていると、煌雅が碧の手をそっと握りしめる。

「転院の手続きをお願いします」
「煌雅くん」
「少し二人きりにしてもらえますか?」

 医師と看護師は部屋の外に出ていく。

「碧、一度おばさんには詳しい検査を受けてもらったほうがいい」
「でも……」
「碧も知ってる病院に転院しよう。あの病院だったら、九条の顔が利くから」
「だからって、検査にかかる費用を考えると、どうすればいいのか」
「九条の顔が利くって言っただろう。碧が苦しくない程度に分割してもらえばいい」

 そんなことが可能なのだろうか。いや、煌雅がそう言うのだからきっと、そうできるようにするのだろう。
 いまの碧にとって一番怖いのは、母になにかがあることだ。この提案を拒否した結果、母の身に大変なことが起こってしまったら、悔やむに悔やめない。どうしてあの時、と後悔し続けることになってしまう。
 碧の感情やプライドはこの際どうでもいい。

「お願い、します」
「ん、わかった」

 煌雅がほっとしたように笑った。
 それからの彼の行動は速く、すぐに九条家が懇意こんいにしている病院へ母の転院が決まる。最新の設備で徹底的に検査をし、なにか異常が見つかった時はすぐ対処するよう頼んでくれた。
 彼はどうして、ここまでしてくれるのだろうか。昔なじみだからなのか、それとも碧のことを哀れに思ってなのか。
 かすかな期待が、一瞬頭をよぎる。けれどすぐに否定した。
 自分はかつてのお嬢様ではない。体重も増え、髪も肌も荒れ放題だ。彼の周りには、他にいくらでも美しい女性がいるだろう。
 疲れ切っていた碧は考えるのを後にする。

「手続きはこっちでやるから、安心してくれ」
「あり、がとう……」
「俺がしたくてやってることだ。碧の……ためじゃない」

 ああ、相変わらず不器用な人だ。
 こんな言い方しかできない、とても優しくて大好きだった人。
 そのまま、病院を後にして車に乗り込む。今日は何度、この車に乗ることになるのだろうか。行ったり来たりして、疲れてしまった。
 一度アパートに戻ったら、軽く食べて着替えてから病院に戻り、母の付き添いをしよう。いまのところただの過労で、命に別状はないとわかってはいるが、可能であれば傍にいたい。
 そんなことを考えながら車に揺られていると意識が揺らいでいき、ふっと途絶えた。
 身体が浮き上がっている感覚がするが、目を開けることができない。ただ、頬と頭を撫でてくれる大きくて温かい手を感じて、無性にいとおしくなる。
 目を覚ますと、見知らぬ天井が見えた。

「う……ん?」

 起き上がり、ぼんやりと周りを見る。
 隣には誰かが眠っている。
 碧は混乱しすぎて、逆に冷静になる。毛布をどけて、眠っている人物を確認した。そこには煌雅の綺麗な寝顔がある。

「駄目だ。理解の範疇はんちゅうを越えた……」
「ん、起きたのか?」
「ひえっ」
「驚きすぎだろ」
「な、なにが起こっているのかわからなくて」

 煌雅があくびを噛み殺しながら、上半身を起こす。

「昨日、車の中で碧が寝たから俺のマンションに連れてきた。それだけだよ」
「お、起こしてくれればいいのに」
「起こしたよ。けど、起きなかったからな」

 碧はなにも言えず、少しだけうなって毛布に顔をうずめた。

「え、というかなんでパジャマ……」
「さてと、コーヒーでもれるか」

 煌雅は視線を逸らして、部屋を出ていってしまう。碧は、彼に服の下を見られたと思うと絶望したくなった。あの頃から十キロも増えたのだから、肉づきだってよくなっている。そもそも、そんな自分を彼が抱き上げた可能性を考えると、羞恥しゅうちでどうにかなりそうだ。
 穴があったら入りたいとは、こういう時に使うのだと知った。
 部屋を出ると、リビングに続いていた。

「洗面所はそっちな」
「ありがとう」

 彼が指を差した方へ向かい、洗面所で顔を洗う。
 本当であれば、母に付き添っている予定だったのに。それだけ疲れていたのだろうか。昨日はいろいろなことが一度に押し寄せてきて疲弊ひへいしてしまった。とにかく今日は母の傍にいよう。
 洗面所には、碧が昨日着ていた服が畳んで置いてあった。その服に着替えて、コーヒーを貰ってから、煌雅に言われるがままエントランス前に停まっている車へ乗り込んだ。
 どこに向かうかわからない車から、外を眺める。
 母の病院に向かっているのだろうか。
 昨日の母の姿を思い出し、碧は泣きたくなった。母になにもありませんように……と願う。

「――そういえば、母の転院っていつになるの?」
「今日だ」
「今日!? いくらなんでも急すぎじゃない? 大丈夫なの?」
「問題ない。あの病院が悪いわけじゃないが、うちが懇意こんいにしてる病院のほうが設備が整っているし、見舞いにも行きやすいだろう」

 たしかに昨日の病院は、最寄り駅からバスに乗って二十分ほどの場所にある。碧の家からだと一時間近くかかった。
 それらを考えると、駅近にあるという転院先はとてもありがたい。

「いま向かってるのは転院先の病院だ」

 しばらくして、その病院に着いた。
 そこは有名な大学病院で、名医がたくさん在籍している。碧の家も昔はお世話になっていた病院であり、信頼感があった。
 碧は改めて煌雅に感謝する。お礼を言うと、彼は優しく微笑んだ。

「手続きは昨日のうちに済んでる。今日の昼過ぎには転院してくるよ。入院の準備は先に済ませておいたほうがいいし、先生と顔合わせできれば安心するだろう」
「本当に、なにからなにまでありがとう」
「だから、俺がやりたくてやってるんだ。碧が気にすることじゃない」

 彼の言いようが懐かしくて、碧は口端が上がる。とても久々なやりとりだ。
 煌雅についていき、案内された個室に足を踏み入れる。周りをゆっくり見回して、急激に青ざめた。
 通された病室は、広く優雅だ。正直、こんなにいい部屋でなくていい。

「あの、もう少し普通の病室はないかな?」
「普通って?」
「なんというのか、もっと質素というか。ここまで広くて派手だとちょっと落ち着かないし……大部屋で全然いいの」
「わかった。いてないか確認する」
「わがまま言ってごめん」

 母を見舞いにくる人は少ないだろうし、広すぎていたたまれなかった。
 できれば大部屋、そうでなくとももう少し狭ければ、その分、安いに違いない。
 どのくらいの期間入院するかわからないので、不必要な出費は抑えたい。
 煌雅が看護師に確認を取ってくれた。大部屋にきがないため、手狭な個室が用意される。
 彼の紹介だったからだろう、そこに院長が挨拶あいさつに来た。彼とは面識があり、久しぶりの再会を喜んでくれる。

「――こんなかたちで再会するなんて思いもしませんでした」
「父の時はお世話になりました」
「お母様のことは我々に任せてください。どんな小さな異変も見逃さないようにいたします」
「ありがとうございます。母をよろしくお願いいたします」

 碧は深々と頭を下げた。
 この人であれば信頼できる。父のために、全力を尽くしてくれた人だ。

「俺からもよろしくお願いします」
「はい、もちろんです。煌雅くんも大きくなりましたね。お父様の跡を継ぐために頑張ってらっしゃるとうわさですよ」
「院長にまでそんな話がいってるんですか? 俺はまだまだ若輩者じゃくはいものです。みなさまがたの助言があってこそですから」

 煌雅の顔が、碧の知らないものへと変わっていく。
 彼はこうして上流階級の世界で生きているのだろう。碧にも覚えがある。
 自分たちの言動は両親の評判に直結し、なにか不手際があれば、すぐにそれが人々の話の種となる。
 当時を思い出して、身体が震えた。
 院長と少しだけ話をしてから個室へ戻り、碧は母の荷物を片付けた。昼過ぎに母がやって来て、母を交えて担当の医師と話をする。
 煌雅は用事があるからと病院を出ていったので、碧だけが母の傍にいた。
 母は昨日ゆっくりと眠ったからか比較的元気で、碧が「付き添う」と言っても断られてしまう。
 面会時間ギリギリまで傍にいて、病院を出ると、煌雅の車が停車していた。

「煌雅くん?」
「迎えにきたから、乗って」

 大丈夫だと言いたかったが、これだけよくしてもらっているのに断るというのもどうかと思い、大人しく車に乗り込んだ。

「どこに行くの?」
「俺のマンション」
「なんで?」
「……着いたら話す」

 煌雅は碧の質問には答えなかった。
 彼にはそういうところがある。言いにくいことを口にする時は、場所を整え相手が逃げられないようにするのだ。そして、少し唇を尖らせて話す。
 変わらない彼を、碧は嬉しいと感じてしまう。
 病院から車で十五分ほどで、朝出発した高級マンションへたどり着く。
 朝も思ったが、やはりとても広いエントランスだ。彼の実家を思い浮かべながら、いまの彼はこういうところに住んでいるのか、と実感した。

「パーティーができそうなぐらい広いエントランス」
「そこにコンシェルジュが詰めているから、言えばドリンクを提供してくれる。奥には個室もあって、ちょっとした会議が可能だ。二十四時間、有人でセキュリティ管理がされてる。何か困ったことがあったらコンシェルジュに聞けばいい」

 そう言って煌雅がコンシェルジュルームに向かい、碧を呼んだ。

「碧、ちょっと」
「なあに?」

 素直に従うと、コンシェルジュが頭を下げた。

「申し訳ございませんが、顔認証の登録をお願いいたします」
「顔認証?」
「はい、当マンションでは顔認証システムを導入しております。エレベーターホールに入るためには、カードキーの他に顔認証が必要となります」

 碧はなんだかよくわからないまま、登録手続きを済ませる。
 無事登録が終わり、カードキーが手渡された。
 マンションに入るのに顔認証がいるとは、ずいぶんセキュリティが厳しい。自分が知らない間に、いろいろなことが進化しているものだ。

「行こうか」

 煌雅にうながされ、エレベーターホールに向かう。
 彼はエレベーターに乗り込むと、カードキーをかざして階数ボタンを押した。

「このマンションのエレベーターは、エントランスと自分の部屋がある階でしか降りられないようになっている。例外は、地下のジムとレストランフロアくらいだな。うちは三十四階」
「ここは何階建てのマンションなの?」
「たしか四十二だったかな……三十四階はうちともう一つの部屋しかない。住んでいるのは年配の夫婦だ。職場に近いからここに住んでいるが、もう少し静かな場所がいいなら別のマンションを探そう」

 なぜ家を探すという話が出たのか理解できず、尋ねようとしたがエレベーターが目的階へ到着してタイミングを逃してしまう。
 エレベーターのドアが開き、二人はフロアに下りた。
 再び煌雅がカードキーをかざし、部屋の中へ入る。碧もそれに続いた。
 朝は慌てていたり、彼と一緒のベッドで眠っていたことに驚いたりでよく見ていなかったが、玄関だけで碧のアパートの居間と同程度の広さだ。
 清潔感のあるその部屋はとても静かで、空調の音だけが聞こえる。
 碧が以前住んでいた家も同じように非常に静かで、閑静かんせいな住宅街といった感じだった。聞こえてくる音は小さな子どもの声ばかりだったし、いまのアパートのように怖い音は基本的にしなかった。
 この七年間で、記憶の片隅に追いやったものがたくさんある。特に、父が生きていた頃のことは、意識的に封印するようにしていた。

「とりあえず、荷物はリビングに置いて」

 碧は言われた通り、リビングに向かう。
 廊下をまっすぐ進むと、十八畳はある広いリビングに出た。天井が高く、窓も大きい。窓の外はバルコニーになっていて、白い椅子と机が置いてある。

「部屋の中を説明するからおいで」
「え? 別にいいよ」
「知っておいたほうがいいだろ」
「どうして?」
「……今日から碧もここに住むからだよ」
「え? あっ!? だから、顔認証登録をさせてカードキーを渡したのね!」
「あそこで気づかなかったことに驚いたけどな」

 疲れてぼんやりしていたとはいえ、碧は自分の間抜けさに呆然とする。
 いくらセキュリティシステムが進化しても、客なら煌雅と一緒にいればいいだけで、カードキーも顔認証の登録もいらない。
 言われるままに登録してしまったが、あの場で疑問を持つべきだった。

「私は住まないよ。アパートに帰る」

 いまさらながらもはっきりと拒絶するが、煌雅は引かない。

「あのアパートは駄目だ」
「なんで……」
「周辺の治安が悪すぎる。調べさせたら、女性への暴力事件が多発しているらしい。いままで無事だったかもしれないが、この先も無事とは限らない」
「だからって、勝手すぎるよ!」
「わかってる。俺の勝手だ。だが、これは決定事項だ」
「あのアパートで、私と母さんは二人でやってきたの。いまの自分たちの身の丈に合っているし、変えるつもりはないわ」

 碧が強く訴えても、彼は首を縦には振らなかった。

「……思い出のある場所なのかもしれないが、碧を危険な目に遭わせたくない」
「危険って……。そりゃあ、隣の夫婦はいつも喧嘩けんかしてるし、誰かに窓ガラスを割られたこともあったけど。私自身が襲われたことなんかなかったよ」
「それでも、だ。今後は違うかもしれないだろ」
「どういうこと?」
「……俺が、行ったからだ」

 なぜ彼が現れたことで危なくなるのだろうか。理由がよくわからない。
 碧が怪訝けげんな顔をすると、煌雅が続けた。

「あんな場所に、高級車の迎えがきて、高級時計を身につけた男と付き合いのある女……いかにも狙われそうだ」

 淡々と告げる彼に、碧は唇を噛む。たしかに、煌雅の言う通りだった。
 あのあたりの治安を考えると、金づるになりえる男と付き合いのある女というだけでなどに狙われやすくなる。
 いままで碧たちが狙われなかったのは質素な生活をしていたからだ。

「……それも計算のうちなの?」
「違う。俺の気が……。いや、そんなことはどうでもいい。わかっただろう? 高級車に乗り込むところを近所の人間は見ていた。金のなる木だと思われた可能性は高い。もちろん、なにもないかもしれない。だが、そんな危険な状況に碧を置いておいては、おばさんも心配なはずだ。心労は身体に悪いし、おばさんも碧が俺と一緒にいれば安心だって言っていただろう」


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