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1巻

1-2

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 それなのに彼女は、相変わらず碧よりも早く家を出て、碧よりも遅く帰ってくる。確かにその分、給料はいいけれど、このままでは身体を壊してしまう。
 碧はもう一度母に話をして、病院に連れていこうと決意をした。
 七海と二人で会話をしていると、会社に着く。
 働き始めて三年、始業の準備などは身体に染みついている。メールのチェックをし、必要なものに返信をし、営業に頼まれた書類を清書したり、備品の個数を確認して発注をかけたりと雑務をこなしていく。
 そんなに大きくない会社なので、事務員といってもさまざまなことをこなす。
 雑務的なことから、スケジュール管理や調整などの秘書業務まで、やることは多岐にわたる。
 定時になり、碧が帰り支度をしていると七海が声をかけてきた。

「碧、ご飯食べて帰らない?」
「うん、いいよ」

 一緒に会社を出て、歩きながらどのお店に行くかを相談する。

「どこに行く?」
「いつもの居酒屋! あそこの焼き鳥、たまに無性に食べたくなるんだよね」
「おいしいよね焼き鳥。特製のつくねを卵につけて食べるのとか」
「わかるわかる」

 七海とよく一緒に行く居酒屋は、会社の最寄り駅近くにあるが少し奥まった場所のためか、会社の人に出会うことはほとんどないし、予約をしなくても入れる。
 そうして居酒屋で、会社のことやプライベートの話をしながらお酒を飲んだ。二時間ほど楽しんだあと、遅くなる前にとお店を出る。
 駅までの道は、碧たちと似たようなほろ酔いの人でにぎわっていた。

「――やっぱり、金曜の夜のお酒とご飯はいいね」
「本当に。お腹いっぱい」
「二人して結構食べたもんね」

 他愛たあいのない話をしながら歩いていると、高級ホテルの前に差しかかる。エントランスに高級車が停まっているのが目に入った。

「素敵な車……」
「碧って車好きだよね」
「免許は持ってないけど、少しだけ」

 そう返事をしたものの、碧はたいして車に興味があるわけではない。ただ、以前よく目にしていた車種だっただけだ。
「素敵な車」と口にしたのは高級そうという意味もあるが、よく手入れされていて綺麗だと思ったからだった。
 ホテルから出てきた男性が、その車に乗り込もうとしている。

「っ……」

 碧の息が止まる。
 世界のそこだけ、月の光が注いでいるかのように、輝いていた。

「うっわあ、かっこいい人。背が高くて足も長くない? ……碧?」

 七海に声をかけられても、なにも答えられず、一点を見つめ続ける。
 声は聞こえているのに、反応ができない。
 男性は精悍せいかんな身体つきで、磨き上げられた革靴をき、柔らかで身体のラインがわかる洗練されたネイビーのスリーピーススーツを着こなしている。ツーブロックで癖のある青みがかった黒い髪の毛をき上げる姿に、色気がただよう。

「すっごいセレブな雰囲気の人だね。どう考えても、うちらとは関係のないところで生きてる人種だよ」
「……本当にね」

 七年という年月が過ぎても、彼は変わらず素敵だ。胸の内によみがえった感情に、碧は泣きたくなる。
 男性――九条煌雅は碧よりも三つ年上だった。だからいまは二十八歳のはず。
 もう一度、彼に会いたいと思っていた。
 こんな風に願いが叶うとは思いもしなかったけれど。
 碧が目を離さずにいると、煌雅がふと振り返る。そしてすぐに顔を戻し、車に乗り込んだ。
 やはり彼には碧のことがわからなかったのだ。
 それを責めようとは思わない。当たり前のことだから……
 碧はそっとため息をつく。

「……七海さん、帰ろう」
「そうだね。思わず不躾ぶしつけに眺めちゃったよ」
「ふふ、ああいう人たちはあまり気にしないよ」
「そうなの?」
「そういうもの」

 幼い頃から、煌雅の周囲には常に他人の目があった。かつて碧がいた世界も、そうだったのだ。
 あの社会では、ちょっとしたことがすぐ評判になる。
 特に煌雅は大企業の御曹司おんぞうしで、大人からも同級生からも注目されていた。もっとも、だからといって、大人しくしているような人ではなかったが――
 高校生の時など、髪を金色に染め、やりたい放題していたものだ。
 そういえば、そんな彼の髪色はすっかり落ち着いた、綺麗な青みがかった黒に戻っていた。
 こんなことにも時間の経過を感じる。
 うわそらになりながらも七海と会話をしつつ駅まで歩く。そこで彼女と別れ、自宅のアパートに帰宅した。鞄を置いて上着を脱ぎ、洗面所の鏡の前に立つ。
 七年という月日のストレスで、碧は高校三年生の時より十キロ太っていた。
 ストレスによる暴飲暴食と、飲食店でバイトしていた大学生時代に、食費を浮かせようとしてまかないをいっぱい食べていたのが主な原因だ。
 十キロも体重が増えれば、見た目の印象はまったく変わる。煌雅が碧に気がつかなかったのはそのせいだ。
 だから、自分に気づかない彼をうらんだりはしない。
 一目見られただけで、幸運だったと思う。
 そもそも父が存命だったとしても、彼の隣を自分が歩く未来はなかったのだ。
 彼が他の誰かと結婚するのを近くで見続けないで済むだけ、いまのほうがマシなのかもしれない。
 もしそうなっていたら、きっと、耐えられなかった。
 ぽろりと碧の目からしずくこぼれ落ちる。

「――なんで、涙なんか」

 自分に起こったことはきちんと受け入れられている。
 なんだかんだ言って楽しく、幸せだとも思っている。不幸では決してない。
 なのになぜ、涙が溢れるのか。
 洗面台のふちに手をかけて、碧はこぼれ落ちる涙を排水口に流し続ける。
 やがて目が真っ赤に染まり、頭痛まで始まった頃、ようやく雫が止まった。
 碧は鼻をすすって、顔を洗う。
 泣いたってしかたがない。
 居間に戻り、碧は棚の上に飾っていたガラス玉を手にとった。
 それを電灯にかざして、色味の変化を見つめる。
 七色の光と彼の笑顔。
 もう一度、煌雅を見たいという願いは叶った。これで、本当に過去を吹っ切れるはずだ。
 大切にしていたガラス玉を引き出しの中に放り込んで、勢いよく閉める。
 これを貰ってから、壊さないように傷つけないように大切にしていた。
 こんなに雑に扱かったのははじめてだ。
 でも、大事にしていたってどうしようもない。いまの自分と彼が生きる世界は違うのだ。
 二度と彼と人生が交わることはない。
 碧はきつく唇を噛みしめたのだった。



   第二章 白駒はっくげきを過ぐるがごと


 翌日の土曜日。
 碧は午前中に洗濯を済ませ、買い物に出かけた。
 夕方まで待てばタイムセールをやっているが、その時間へ外に出るのは億劫おっくうだ。面倒くさいことは先に済ませてしまったほうがいい。
 ずっしりとした買い物袋を両手に下げてアパートに続く道を歩く。すると、下町然としたこの界隈かいわいに似合わない高級車が停まっているのが見えた。あまりに場違いで、近くを歩く人たちが車を横目で見ながら話をしている。
 こんな路地裏の細い道に駐車されると迷惑なのだが、なにを考えているのだろうか。
 そう思いつつ碧が高級車の前を通りすぎると、車から男性が出てきた。

「おい」

 自分に声をかけているのかはわからなかったけれど、碧はその声に反応して振り向く。
 そこには、昨日とは打って変わって、ラフな服装をした煌雅が立っていた。
 碧は奥歯を噛みしめて、叫び声を我慢する。気がつかなかったことにして、顔を前に戻して歩き出す。

「おい、碧。聞こえているんだろ」
「人違いです」
「そんなわけあるか、俺が碧のことを見間違えるわけがない」
「人違いですってば」

 アパートの階段を駆け上がり、急いで部屋に入ろうとする。ところが、ドアの隙間に足を差し込まれて、扉を固定されてしまった。まるで漫画に出てくる不審者のような行動だ。

「花ケ崎碧、逃げるな」
「私は窪塚です。花ケ崎ではありません」
「知ってる。だから捜すのに手間がかかったんだ」
「捜す? 手間?」
「まあ、いい。とりあえず話がしたい」
「私には話なんてありませんから、お引き取りください」
「なんだよ。俺に会えて嬉しくないのか」

 嬉しくないわけがない。
 気づいてくれたことが、わかってくれたことが、こんなにも嬉しいのに。

「……卑怯なこと、言わないで」

 絞り出すみたいに呟いた。
 けれど、以前のように彼の訪問を手放しで喜べる状況にはないのだ。

「あそこに車を停められると近所迷惑なの」

 うつむいたまま、かろうじてそれだけを告げた。

「わかった」

 煌雅がスマホを取り出し電話をかける。すると、すぐに車が発車する音が聞こえた。
 そこで碧は、彼を部屋に招き入れる。なにしにここへ来たのかわからないが、その目的を果たさず彼が大人しく帰るわけがないと諦めたのだ。
 彼からすれば、このアパートの一室は彼の実家のトイレくらいの狭さだろう。そのことを恥ずかしいとは思わないものの、悲しい気分にはなる。

「……どうぞ」

 その言葉を聞いて部屋に足を踏み入れた煌雅は、玄関の扉が閉まるのと同時に碧の背中に腕を回し抱きしめた。

「なっ……なにするの」

 突然のことに碧は驚きを隠せず、身をよじる。
 煌雅はなにも言わず、ただ抱きしめるだけだ。少しずつ碧は肩の力を抜く。

「久しぶりだな」
「そう、かな」
「七年だぞ!? 久しぶり以外になにがあるんだよ」

 碧を抱きしめる煌雅の力が強くなる。少しだけ痛い。
 けれど、彼の存在を感じられるのはこれが最後かもしれないと思うと、その痛みすらいとおしい。
 できれば、ずっとこのままで……そう願うものの、いつまでもこの体勢でいるわけにはいかない。

「……とりあえず、座って。お茶をれるから」
「ああ、ありがとう」

 煌雅に身体を離されて、寂しさもあるが安堵もした。
 居間に彼を通し、買ってきたものを冷蔵庫に片付けてからお茶を出す。
 煌雅は、コップを握りしめながら碧のことを見つめていた。

「昨日、俺のことを見てただろ?」
「気づいてたの?」

 正直驚いた。あの時、表情を変えることなくすぐに視線を逸らしたので、気がついていないと思っていたというのに。煌雅はそんな碧の反応が気に入らないのか、眉間にしわを寄せる。

「当たり前なことを聞くな。俺が碧のことを見間違えるわけがないだろ」
「昔と全く見た目が違うのに?」

 思わず卑屈な声が出た。

「そうか? そういえば、ちょっと変わったか……けど、それはそれでいいと思うが」

 こちらのわだかまりなど意に介さず、煌雅はさらりと答える。
 碧は内心ため息をつき、さっさと彼に帰ってもらおうと会話を進めた。

「なにをしに来たの?」

 ところが、煌雅が口を開こうとした瞬間、隣の夫婦の喧嘩けんかが始まる。ガシャンと大きな音が鳴り、怒声が響いた。
 耳をすまさなくてもよく聞こえる隣の音は、この安アパートの壁の薄さを示している。
 碧はいたたまれず、煌雅から視線を外した。

「ここは、静かに話もできないのかよ」

 彼が苛立いらだった声で呟く。
 そんな場所に住んでいる自分へのいやみのように聞こえ、碧は煌雅をにらみつけた。

「そんな場所に来たのはあなたでしょう? 煌雅くんは口が悪すぎるって、前にも言ったと思うけど!」

 碧自身腹を立てていたが、もう自分のことを忘れてほしいという理由もあり、あえてキツい言葉を吐いた。
 彼女の言葉に、煌雅は面食らったような表情になる。そして、なぜか嬉しそうに笑った。

「そうだったな。口が悪いのは怖いから嫌だって……言われてたな。ごめん」

 彼はそのまま立ち上がり、どこかに電話をかける。
 しばらくすると話がついたらしく、電話を切って碧の腕を掴んだ。

「碧、行くぞ」
「なんで?」

 ここで従ってはいけないと腕を振りほどくそぶりを見せると、煌雅の力が強くなった。

「いいから……、おいで」

 彼が切なそうな瞳で見つめてくる。
 碧は結局逆らうことができず、立ち上がった。スマホと財布を持ち、彼の後についていく。
 アパートの前まで出ると、先ほど移動したはずの高級車がまた同じ場所に停まっていた。

「さあ、乗るんだ」

 後部座席のドアを開けて、エスコートされる。
 命令されたくないと言いたいのに言葉が出てこず、身体が自然に、彼に従おうとしてしまう。
 煌雅は昔からそうだ。
 少し傲慢ごうまんで、不遜ふそん
 それでも、碧の言うことはきちんと聞いてくれたし、彼女が本心から嫌がることはせず、要望を叶えようと努力してくれる。
 彼が高校生の頃、友人の影響なのか反抗期だったからか、やや口が悪くなった。相手を傷つけるような言葉を口にすることはなかったが、乱暴な言い方が怖かった。
 当時もそう言って碧が嫌がると、すぐに言葉遣いを変えてくれた。いや変えたというよりは、戻したと言ったほうが正しいかもしれない。
 そんなことを思い出し、自分の気持ちに戸惑って黙ったまま車に乗らずにいると、煌雅は碧を抱き上げて後部座席に座ろうとした。

「煌雅くん!」
「いいから」
「乗るから、下ろして!」
「……もう少し、このままでいてくれ」

 ぎゅうと強く抱きしめられ、碧はなにも言えなくなる。
 後部座席に収まった彼の膝の上で、大人しく身体の力を抜いた。
 どこに連れていかれるのか知らないが、彼が自分の嫌がることをするとは思えない。
 ただ、説明は欲しかった。

「ねえ、煌雅くん」
「ん?」
「どうして――」

 自分に会いに来た理由を聞こうとした時、スマホが震える。

「ごめん」
「いや、いいよ」

 画面を確認すると、土曜も仕事に出かけている母からだ。
 こんな昼過ぎの時間に電話をかけてくるなんて珍しい。

「母さんからだ。出るね」

 煌雅が頷いたのを見て、碧は通話ボタンを押す。

「もしもし?」
『窪塚明子あきこさんのお知り合いでしょうか?』
「娘、ですが。どなたですか?」

 聞こえてきたのは、知らない男性の声だ。
 電話越しに聞こえてくる背後の音がガヤガヤとうるさい。

『こちら、救急病院です――』

 その内容に戸惑い、途中でなにを言っているのか理解できなくなった碧は呆然とする。
 彼女の様子がおかしいことに気づいた煌雅が、電話を代わってくれた。
 冷静に会話を続け、すぐに電話を切る。そして、閉ざされていた運転席と後部座席の仕切りを開けた。

「行き先変更だ」

 そう言って運転手に細かい指示を出す。

「承知いたしました」

 静かな運転手の返事に、碧の身体が震えた。
 母になにかあったのだ。不安が渦巻うずまいて、息がうまくできない。

「碧、碧っ!」

 両手を握りしめながら息を短く吐いていると、煌雅が無理矢理、碧の顔を自分に向けさせる。

「俺を見ろ」
「あ、あっ、こ、うがくん」
「落ち着け。大丈夫だから。ちゃんと俺が傍にいるから」

 混乱している碧を、彼が強く抱きしめた。背中をゆっくりとさすってもらって、碧はだんだん落ち着いてくる。それを見計らって、煌雅が口を開いた。

「碧のお母さんが倒れて病院に運ばれたそうだから、いまそっちに向かっている」
「……っ」

 煌雅の服を握りしめ、うなり声を上げる。言葉が出てこない。

「大丈夫だ。きっと、大丈夫だから」

 涙をこぼす碧の頭を、煌雅は大きなてのひらで撫でてくれる。
 碧は彼の腕の中で、小さく震えていた。


 車はすぐに病院に着いた。
 碧は煌雅と一緒に急いで病室に向かう。
 ベッドで眠る母を見て、碧まで倒れそうになった。それを煌雅が後ろから支えてくれる。

「しっかりするんだ。まず先生の話を聞こう」

 その言葉の直後、タイミング良く担当の医者がやって来て、母の状態と病院にきた経緯について説明を始めた。
 どうやら、長年の無理がたたり過労で倒れたらしい。
 しばらく安静にすることをうながされる。

「入院をして検査を受けることをおすすめします」
「検査ですか?」
「はい。疾患しっかんが隠れていないか、この機会に詳しく検査をしたほうがいいと思います」
「わ、かりました。よろしくお願いいたします」

 碧は両手をぎゅうと握り、唇を噛みながら頭を下げた。
 母のことは心配だが、入院・検査となるとその費用がかかる。また、長期になれば仕事にも差しさわり、その分のお給料がなくなるかもしれない。保険だって、出るのかどうか契約を確認しないといけないし、国の補助が出るのかもわからない。
 心配しているだけではなにもならないということを、碧だってもう理解しているのだ。
 母に視線を向ける。母は、静かに眠っていた。
 顔が疲れているし、以前より小さく見える。母はこんなになるまで働き詰めだったのだろうか。自分がもっとしっかりして、もっと給料をかせいでいれば母も倒れるところまではいかなかったはずなのに。
 ただ、母には仕事を抑えてもらいたいと思っていたが、仕事をしなくても大丈夫というわけではなかった。
 碧の給料だけで日々の生活費をどう捻出ねんしゅつするか、考えなければ。食費を切り詰めればなんとかなると信じたい。
 父が遺したお金の残りがいくらあるのかを、碧は知らなかった。そのため、この先の経済的な状況に見当がつかない。
 それに、ここのところ母はずっと体調を崩していた。検査の結果が悪かったら……母を失ったらどうしようと、全身を恐怖が駆け巡る。
 しっかりしないといけないというのに、考えなければいけないというのに。
 父が亡くなった時のことが頭をよぎる。
 ピ、ピ、と無機質な音が耳につく。あれが、長く鳴った瞬間を思い出してしまった。
 一人、遺していかないで。
 もし母まで父のもとへ行ったら、心が折れてしまう。きっとまともに立っていられなくなるだろう。
 黙り込んだ碧の横で、煌雅が看護師に声をかけた。

「――すみませんが、個室にきはありますか? 彼女を移したいのですが」
「確認して参ります」
「できれば、一番いい個室にしてください」

 勝手に話を進める煌雅に驚いて、碧は彼の服の袖を引っ張る。

「煌雅くん、やめて!」
「いいから」
「よくない。個室代なんて払えないよ」

 煌雅をにらみ、さらに強く唇を噛んだ。
 なんてみじめなんだろう。大好きだった人を前に、お金のことを口にしなければならないとは。
 そして、なんてひどい話なのだろう。大切な家族を助けるためなのに、お金が出せないなどと考えるとは。
 昔だったら、なにも気にしないで母の待遇をよくしてもらった。それが当たり前だったのだ。
 もしなにかの病気だったとしたら、どんな治療だって受けさせる。
 これほど不安な気持ちにはならなかったし、そもそも母が倒れるなんて事態にならなかったに違いない。
 けれど、それは昔の話。いまの碧には、そんな経済力はない。

「俺が払うから気にするな」

 情けなくて震える碧に、煌雅が当然だとばかりに答えた。
 その態度に怒りがこみ上げる。彼にとっては大したことのない金額が、いまの碧にとっては大きな負担なのだ。

「なっ、煌雅くんには関係ないでしょ!」
「関係ないとか、そんなこと……っ」
「だって、そうじゃない。これは私の家の問題なの」

 もう、自分と煌雅の間には大きな壁があって、生きている世界が違うのだ。これ以上、みじめにさせないでほしい。これ以上、支えようとしないでほしい。
 甘えてしまうから。昔のように、純粋に彼を好きだった碧が顔を出してしまうから。
 あんな思いをするのは、絶対にもう嫌だ。
 煌雅がいない生活に慣れることが、どれほど大変だったのか彼は知らない。
 心の中で彼の名前を呼ぶのが癖になってしまった碧の気持ちなど、彼にはわからない。

「俺がたす――」

 煌雅はそこで苦しそうな顔になり、言葉を止めた。息を吐き出し、表情を失くす。一呼吸置いた後、改めて口を開いた。

「交換条件にしよう」
「交換、条件?」
「俺がおばさんの治療費を出す。その金額分、碧の時間を貰う」
「私の時間?」
「そうだ」
「意味がわからない。私の時間になんの価値があるっていうの?」
「別に俺に囲われろって言ってるわけじゃない。ただ……七年間の穴埋めをしてほしいんだ」

 煌雅の言葉はわけがわからない。
 そんな提案に乗る気にはなれず、碧は断ろうと口を開く。その時、ベッドから自分の名を呼ぶ声が聞こえた。

「母さん!」


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