ラブパニックは隣から

有涼汐

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1巻

1-3

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 玄関の扉を開けた途端、目の前で笑っていた西平。そのよこつらを殴ってやりたい衝動に駆られながら、舟は冷蔵庫から醤油しょうゆを取り出して手渡す。
 このれしさはなんなのだ。

「ありがとう! すぐ返すよ。刺身買ってきたのはいいんだけど、付属の醤油しょうゆだけじゃ足りなくてさ。うち今、切らしてて」
「……いいわよ。醤油しょうゆぐらい」
「なんか、隣同士のあるあるって感じだな!」

 西平は手を振って一度部屋に戻っていく。そして数分後に醤油しょうゆを返しにきた。なぜかお礼だというクッキーを持って。

「これ、昨日一緒に食事した人からの土産みやげ。美味しいって有名らしいんだけど、俺そんなに食わないからあげる。じゃ、ありがとうねー」

 そう言うと、人懐っこい笑みを浮かべて帰っていった。
 舟は冷蔵庫に醤油しょうゆをしまい、もらったクッキーを口の中に放り込む。

「……美味しい」

 なんだか無意味にいらっている。コーヒーでも飲んで一息つきたい。
 気づけばクッキーは全てお腹の中に収まっていた。思っていた以上に舟の好みの味で、また食べたいと思うほどだ。
 袋を見てみたが、西平が元の包装から移したのか、どこのお店のものなのかいまいちわからなかった。
 直接聞けばいいのはわかっているけれど、散々嫌な態度をとっておいてこんな時だけ自分から話しかけるのは調子がよすぎる気がする。
 それに有名なクッキーだと言っていたから、お店がわかったところで手に入りにくいかもしれない。舟はいろいろ理由をつけて、我慢することにした。


 次の日も、コンビニの帰り道に西平と遭遇した。

「あ、戸松だ!」

 大きな鞄を肩に引っかけた彼は、舟の姿を見ると笑顔で駆けてきて隣に並ぶ。

「コンビニ帰り? 俺は草野球帰り」

 無視をしようと思ったが、予想しなかった言葉に反応してしまった。

「草野球? 西平、草野球なんかやってるの?」
「うん。時々だけど、メンバー足りないと呼び出されるんだよね。んで、だいたいはその後飲み会なんだけど、今日はそっちには参加しないで帰ってきたんだー」
「ふぅん」

 正直舟にはどうでもいい内容なので、適当に頷く。
 しかし、なぜわざわざ隣を歩くのだ。
 帰る場所が同じなので道が一緒なのは仕方がないが、もう少し離れて歩いてもいいのに。
 結局、西平は草野球の話をし続け、舟と一緒にエレベーターに乗った。エレベーターが動き出すと昨日のクッキーの感想を聞かれる。

「クッキー、美味しかった?」
「えっ……、うん。美味しかった……」
「なら、まだ残ってるからあげる」
「いや、いいよ。だって、それ西平がもらったものでしょう? 私が食べちゃうわけにはいかないよ」
「俺は一つで充分だし、美味しいって言ってくれる人が食べたほうがいいよ」

 結局、クッキーの魅力にあらがうことができず、西平に押し切られた舟は、クッキーを箱ごと受け取ってしまう。
 舟は夕食後に、箱に描かれたロゴを頼りにして検索をかけてみた。
 するとすぐに、店がヒットする。クッキーが一箱五千円もする人気商品だと判明した。

「ひぃっ、そりゃ美味しいわ!」

 こんなものをくれるなんて、西平は甘いものが苦手なのだろうか。
 そうだとしても、気前がいい。
 現金なことに、舟は彼がそんなに嫌な奴ではないのかもしれないと思い始めた。

「それにしても、彼女も甘いもの苦手なのかしら?」

 ちょっとしたモヤモヤは残ったものの、それは考えても仕方がないことだ。
 舟は渡せずにいるせんべいにちらっと視線をやる。自分が買ったせんべいもあの男性に喜んでもらえたらいいなと思った。
 それからというもの、今まで一度も会ったことがなかったのが嘘のように、不思議と西平と出社時間が重なるようになった。
 わざわざ避けるのも、それはそれで大人げないような気がして、同じ車両に乗る。

「一本早くしただけで、満員電車も少し楽になるなー」
「西平、近い」
「えー、満員だからしょうがなくない!?」

 毎朝、舟が苦しくないようにと西平はドアに両手をついて場所を確保してくれる。そうすると彼に囲われているような体勢になってしまって、気まずいというより恥ずかしい。
 その日、ガコンッと電車が揺れて、西平と舟の身体が密着した。彼からは、あの停電の男性と同じ香りがする。
 同じ香水を使っているのだろうか。だとしたら、なんという香水なのか聞いてみたい。けれど、どう切り出せばいいのか、舟にはわからなかった。
 そうこうしているうちに電車は会社がある駅に着く。
 当然、電車を降りた後も西平は舟の隣を歩いた。
 正直、二人でいるところを会社の人に見られたくない。
 どうやって差しさわりがないように逃げようか考えているのだが、いつもうまくいかないのだ。

「あ、前方に美玖発見! 先行くね!」

 今日は運のいいことに、前を歩いている友人を発見し、迷わず走り寄った。
 朝だけではなく、帰る時間も西平と度々重なっている。
 そのせいか、社内で偶然会うと、彼は必ず舟に話しかけてくるようになった。
 今まではお互い挨拶を交わすぐらいの付き合いだったというのに、隣に住んでいるというだけで、ここまで態度が変わるものなのだろうか。
 それに西平には彼女がいる。こんなにも自分に親しげにしていると彼女が知ったら、気分がよくないはずだ。
 もしかして別れたのかもしれないとも思ったが、ベランダに出ると、時々「リン」と呼ぶ声や「お前は可愛いなー」と言っている西平の声を耳にする。
 嫌な奴ではないかもしれないが、軽薄な男には違いない。他人事ながらイライラしてしまう。
 元々彼のことが苦手だったこともあり、距離が近くなるにつれ余計にざわざわと心が波立ち、いらった。
 特に腹が立つのは、彼女がいるのに自分を食事に誘ってくることだ。彼女がいると気づかれなければいいと思っているのか。
 自分はお手軽に遊べそうなタイプだと見られているのかとも考えてしまい、暴れたくなる。
 そんなふうに西平に振り回され、気づけば彼が隣の住人だと知ってから半月ほどたっていた。
 今日は金曜日。舟はあの後も金曜日はエントランスに立っている。
 停電の男性らしき人がいないか、ずっと探していた。特に意味もなくコンビニに向かってみたり、郵便受けを開けに行ったりしてみるが、彼らしい人物には一度も出会えないでいる。
 なんだか本当に彼が存在していたのか疑わしい気持ちにすらなってきていた。
 あれは寂しさのあまり見た幻想だったのだろうか。
 あの香りもぬくもりもこんなに覚えているのに?
 待ち始めて一時間ほどたった頃、エントランスに入ってくる男性の影が目に入る。それがなんとなくあの男性に似ている気がして、舟の心臓が高鳴った。
 前髪を手で直し、手渡す予定の紙袋を持ち直す。
 自動ドアが開き、現れた男性に声をかけようとした舟はそこで立ち止まった。影が誰なのかに気づいたからだ。

「西平……」
「あれ? 戸松だ。こんな時間にエントランスなんかでどうしたの?」
「別に……」

 まさか停電の男性と西平を見間違えるなんて思わなかった。そして、今日もまた会えなかったのかと意気消沈する。

「戸松、元気ない?」
「元気、なくない」

 西平に顔を覗き込まれ、思わずぷいっと視線をそらした。

「どっち!? というか帰らないの?」
「帰るわよ」

 うながされるまま、エレベーターに乗り込んで舟は部屋に戻った。
 やっぱり彼とは出会えなかった。西平には会ったというのに。
 会いたい人には会えないのに、会いたくない人には会ってしまう。

「あの人、どうしてるんだろう」

 ベランダで夜景を眺めながら、舟は小さくつぶやいた。


   * * *


 翌日の土曜日。
 舟は盛大にため息をつきながら、カーテンを開けた。
 本日は快晴で、洗濯日和だ。
 今日は買い物にも出かけたいので、さっさと洗濯を済ませたい。
 洗濯機を回している間に、パンの上に卵とピザ用チーズを載せ塩コショウを振ってオーブンに入れた。いつものずぼら飯だ。
 朝食を食べ終えると、タイミングよく洗濯機がピーピーと音を鳴らす。
 舟がベランダで洗濯物を干しているところに、隣から西平が顔を出した。

「なーなー、戸松」
「何? 私見ての通り忙しいんだけど」
「それは申し訳ない。けど、ちょっと確認させて」

 両手を合わせながら拝むようにお願いをする西平を見て、舟は洗濯物をかごの中に置いてベランダの境目に向かった。

「それで?」
「今度、警報機点検あるだろ、それいつ頃だったかわかる? ポストに入ってた紙、間違えて捨てちゃってさ」
「そういうのは、メモしておけばいいのに」

 舟は部屋に引っ込み、お知らせの紙を探した。いつも同じ場所に置いているので、すぐに見つかる。その紙を手にベランダに戻った。

「私たちの階は来週の日曜日。上の階からやってくみたいだから、少し時間がかかるかもよ」
「わかった。ありがとう! 助かったよ!」

 西平はパッと笑顔になる。
 相変わらず彼のことは苦手だが、さすがに知っていることを教えないほどではない。嫌というだけで、相手に嘘をつくのは最低最悪だ。
 それに、隣の住人が知人だというのが結構心強いということにも、舟は気づいていた。
 それが自分の最も苦手な人間であったとしてもだ。
 にしても、醤油しょうゆを切らしたりお知らせの紙を捨ててしまったりと、会社での印象と違い西平は結構抜けている。彼女も気をつけてあげればいいのに。
 舟ですら気づくのだから、彼女がそんな西平の性格を把握していないわけがない。
 そう思うものの、余計なお世話なような気がするので、口には出さない。
 再び洗濯物を干していると、西平に話しかけられた。

「そういえばさ、戸松ってこの辺り長いの?」
「長いわよ。入社する頃からずっとここに住んでるもの」
「ってことは、近所に詳しい?」

 彼が何を言いたいのかわからず、軽く眉間にしわを寄せて「そうね」と答えながら、舟は最後の洗濯物を物干し竿にかけた。
 今日はいい天気なので、帰ってくる頃には乾いているだろう。

「だったら、ちょっと案内してくれよ」
「は? 嫌よ」

 突然の申し出に、思わず不機嫌な顔で振り返る。

「頼む! 俺引っ越してきたの最近だろ? 今まで休日はいろんなところに呼ばれて出かけてたし、平日は帰ってくるの遅いしでさ、店開いてる時間にいたことないんだよー。昼飯おごるから! じゃぁ、今から一時間後ぐらいに!」
「は? ちょっと! 勝手に決めないっ……」

 舟が否の返事をし終える前に、ベランダの窓が閉まる音が聞こえた。

「ちょっと! 人の話は最後まで聞きなさい!」

 ベランダに向かって叫んだけど、返答はない。
 舟は部屋に戻り、約束など聞かなかったことにしようと決めた。
 もともと出かける予定だったのだし、さっさと用意して出かけてしまうのが一番だ。
 化粧と髪の毛を整えて、お気に入りのワンピースを着る。七センチヒールのサンダルをはいて、気分は上々だ。
 西平に見つかる前に、さっさと買い物に行ってしまおう。
 鼻歌を歌いながら玄関を開けると、そこにはすでに西平が立っていた。

「……はぁ?」
「え、なんで俺しかめっつらされたの!? てか、速かったな」
「どうして西平がもう外にいるのよ」
「いやー、せっかく戸松と出かけられるってなったから、わくわくして」

 心の中で「アホか」とつぶやく。
 そんな舟の内心に構わず、西平はにっこりと笑みを浮かべてこちらを見つめていた。

「あのねぇ。そういうのは彼女と行ったら?」
「彼女? 確かに彼女と行けたら楽しいなーとは思うけど。いないし」

 どうやら西平の彼女は本日、不在のようだ。だから自分に声をかけたのかと思うと、やはり腹立たしい。人をなんだと思っているのだ。
 ついムッとした顔をしていると、西平が舟の手を取って歩き出してしまう。

「ちょっと!」
「まぁまぁ、昼飯おごるしさ。前にあげたクッキーまたもらったから、それもあげる!」

 舟はクッキーにつられたわけではないが、仕方なく案内役を引き受けた。
 少しだけこの辺りを紹介したら、別れればいい。

「わかったから離して」
「えー」

 渋る西平から腕を引っこ抜き、「えー、じゃない」と怒ってやる。
 こんなところをあの停電の時の男性に見られ、誤解でもされたら大変だ。
 彼がどこの誰なのかわかっていないし、誤解されたからといってどうなるものでもないのだが、とにかく手を取り合うような男性がいると思われるのは困る。
 それにしても、西平は本当に軽薄な男だ。停電の彼ならきっとこんなことをしないだろう。
 舟は、自分の中で停電の男性が美化されていっているのに気づいていたが、それを止めることはできなかった。

「それで? どこに行きたいの?」
「とりあえず、美味しいそうざい店が知りたい」
「料理しなさそうだもんねぇ」

 彼女の「リン」にでも食事を作ってもらえばいいのに。
 まぁ、料理が苦手な女性も多いし、彼女にも予定があって毎日作る時間があるわけではないのかもしれないが。

「いいけど。そのお店、商店街にあるから、夜八時には終わっちゃうよ」
「全然平気! コンビニとスーパーのそうざいは飽きちゃったんだよなー」
「気持ちはわかるけどね」

 大通りを一本それた道に入る。
 小さいが、肉や魚など基本的なものは手に入る商店街だ。
 駅の反対側には大型スーパーがあるので少々そちらに客が流れてもいるが、昔から地元に愛されている場所だそうで、すたれてはおらず活気がある。おかげで治安がいい。

「ここ。“そうざいオレンジ”」
そうざいのお店なのに、なんでオレンジ?」
「奥さんの好物らしいよ」

 舟が奥にいる女性に声をかけると、人のよさそうなそうざい店の奥さんがにこにこと迎えてくれた。

「あら、舟ちゃんじゃないのー。なぁに? 今日は彼氏連れてきたの?」
「違いますよー。ここ最近、近くに引っ越してきた会社の同僚なんです」
「あらあら、運命みたいねぇ」

 その言葉に舟は空笑いをしながらあいづちを打った。
 別段こんな縁は欲しくないのだが。神さまは厳しい。
 ため息を隠しておすすめのそうざいを紹介すると、西平は目をきらきらさせながら何点か買い込んだ。こんな時にも愛想のいい彼を奥さんが気に入り、サービスしまくられている。
 一緒にいた舟にまで同じようにサービスをしてもらったので、恐縮してしまった。
 そうざい店を出て、お弁当屋さんや百円均一のお店など、この辺りで生活するのならば知っておいて損はないところを数ヶ所教える。
 一時間ほど歩き回り、さすがに疲れてきたので二人は駅前のカフェに入ることにした。

「お礼におごる。好きなの頼んで」
「じゃあ、ケーキセット。レアチーズケーキとアールグレイをホットで」
「俺はブレンド、後、スモークチキンとタマゴのバゲットお願いします」

 注文を済ませ、舟は窓から人通りを眺めた。
 改めて、こうして西平とカフェにいるのが不思議だ。
 彼を苦手だと思っているくせに、話していても不快ではない。多分、西平が舟につっかかる言い方をしないからだろう。喧嘩腰なのは、舟のほうなのは自覚している。
 今も彼は嬉しそうな笑顔をこちらに向けていた。

「今日はありがとう。すっごい助かった」
「別に……。これぐらいどうってことないわよ」

 運ばれてきたレアチーズケーキを口の中で味わいながら、舟は西平に視線をやる。
 大きく口を開けてバゲットを頬張る姿は、実年齢よりも若く見えた。
 誰もが振り返るほどの美形というわけではないが、魅力のある人だ。舟にも、そんなことはわかっている。ただ、明るく人を惹きつける彼を前にすると、自分との違いを思い知らされて落ち込んでしまうのだ。
 どうしようもない被害妄想――
 不意に西平が話しかけてくる。

「戸松って、私服のが可愛いな」
「んぐっ……!? げほっ、げほげほっ!」

 飲んでいた紅茶を噴き出しそうになった舟は、むせて何度も咳を繰り返した。

「あっ、……んたね。突然何を言い出すの?」
「いや、素直な感想?」

 うろんな瞳で西平を睨むが、彼は不思議そうに首をかしげているだけだ。
 舟はこれ以上西平が変なことを言い出す前に、さっさとケーキを食べて席を立つことにした。

「そういったことは、彼女に言いなさいよ」
「確かに! 俺、彼女にはいつも素直な気持ちを伝えたい派だなー」
「それはよろしゅうございますね」

 ちょっとした嫌味のつもりだったのだが、惚気のろけられてしまった。
 少しだけ彼女がうらやましいと思える。
 西平は軽い性格ではあるが、今まで浮気や二股をかけているという噂が出たことは一度もない。
 同期の出世頭で長身のかっこいい彼に、素直に気持ちを伝えてもらえるほど、愛されている「リン」は幸せ者だ。
 自分にもそんなふうに想ってくれる人は、現れるのだろうか。
 停電の時の男性がそうだといいな、と思った。
 彼はどんなふうに恋人を愛する人なのか。西平みたいに素直なのもいいが、照れてなかなか言葉にはしないものの行動で示してくれるのも素敵だ。
 勝手に妄想していると、ときめいて幸せな気持ちになると同時にむなしくもなる。

「ケーキごちそうさま。買い物行きたいし、先に行くね」
「え? 買い物なら俺も付き合うよ」
「いいよ。女性の買い物は長いから。それじゃ」

 ひらひらと手を振って舟はカフェを後にした。
 本当なら隣の街まで出て洋服を見たかったのだが、手にそうざいがある。電車に乗るのは厳しいので、近場のお店を軽く見て帰ることにした。
 本屋で小説と漫画を数冊購入、レンタルショップでDVDを数本借りて帰宅する。
 片づけを済ませ、映画鑑賞の準備をしていると、部屋をへだてている壁が目に入った。
 その壁は、ただの壁だ。
 けれど、この向こうに自分がよく知っている人物が住んでいると考えると、なぜか変な気持ちになる。
 舟はなるべくそちらを見ないようにした。



   第三章 夏台風


 それからというもの、西平からの食事のお誘い攻撃が激しくなった。停電の男性とは一向に会えないのに、連日攻撃されてフラストレーションが溜まりに溜まる。
 その日も舟はイライラとしながら、適当に買ったそうざいを片手に歩いていた。ふと誰かに見られている気配がする。
 また西平でもいるのかと、眉間にしわを寄せながら背後を振り返った。

「……誰もいない?」

 どうやら舟の気のせいのようだ。いろいろと過敏になっているのかもしれない。
 その後はわき目もふらず、一直線に帰宅した。
 部屋は空気がこもっていて、蒸し暑い。舟は窓を開けようと、ベランダに近づいた。すると、目の前で茶トラの猫が毛づくろいをしている。

「へ?」

 なぜこんなところに猫がと驚き、急いで窓を開ける。
 猫は「んなー」と鳴きながら、部屋の中に入ってこようとした。舟は慌ててその猫を抱き上げる。
 大人しく抱かれている様子を見るに、この猫はひとれしているようだ。
 猫の首にはお菓子のラッピングに使われていたであろうリボンがついている。恐らく飼い猫だ。
 舟は布を濡らして、四足の泥を拭いてやった。それから、床に降ろす。
 猫はまるで自分の部屋にいるようにクッションをふみふみと踏み固め、そこで身体を丸める。

「えーっと、君はどこの子かな?」

 答えるわけもないのに、思わず聞いてしまう。

「ねーねー、どっから来たのよー? ここのマンションの子?」

 うりうりと首の下を撫でてやると、目を細めごろごろと鳴く。その可愛さにさらに撫で回したくなるが、猫は構われすぎるのを嫌うと聞いたことがあったので我慢した。
 本当にこの猫はどこから来たのだろうか。
 恐らくベランダづたいに移動してきたと思われるので、飼い主は同じ階の住人に違いない。右隣のペットは犬だし――

「西平のとこかも……」

 舟は猫を抱え、西平の部屋のインターホンを鳴らした。

「うわっ!」

 すぐに西平の声とガッシャンという音が聞こえる。こちらが驚くぐらいに、騒がしい。
 バタバタとした足音がして、扉が開いた。

「すんません! って、戸松」

 目を見開いた西平の顔の前に猫を押し付ける。

「この子。西平のとこの?」
「うわー! ありがとう! 今探してたんだよー!」
「それはよかったけど、外に出すと危ないよ。西平、彼女さんにもちゃんと見ててもらいなよね」

 そう言うと、西平がげんな顔をする。

「戸松はいつも俺の彼女の話するけどさ、俺今、彼女いないよ?」
「……え? いやいや、“リン”って彼女さんいるよね? よく名前を呼んでるの聞こえるもの」
「“リン”なら、ここにいるけど」

 今度は舟がげんな顔をする番だった。


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