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8. 腐女子、ヒロイン扱いされる

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 いっけなーい! 遅刻遅刻! 俺、シルヴァ! どこにでもいるごく普通の十一歳! でもその中身は、末期ガンの療養中に死んで美少年に異世界転生しちゃったアラサー腐女子だからもう大変! 一体、俺はこれからどうなっちゃうの~? 次回『BL主人公に俺はなる!』お楽しみに!
 というわけで、おはようございます。腐女子です。現在、全力で遅刻を回避すべく、全力で廊下を走っております。本当にすみません。良い子は真似をしないように。ちなみにパンは咥えておりません。何故なら食堂に行っている暇などないからです。
 あ~、もう最悪だ。寝坊の原因はわかっている。昨夜の中庭修復完了祝いという名目の親睦会が終わったあと、リアムと二人で談話室の後片付けをしたのだが、ついでに簡単な護身術のレクチャーを受けたりと、消灯時間ギリギリまで何だかんだ話し込んでしまったからだ。
 それに加え、短時間とはいえ夕方に仮眠を取るとか普段やらないことをしたのもまずかった。疲れているのになかなか寝付けず、気が付いたら大幅に寝過ごしていたというわけだ。いまだにカノンと仲直りできていないのも、現状に至る原因の一つであろう。今までのカノンだったら、寝起きの悪い俺を起こしてくれていたはずだ。
 とにかく蛇の下刻の鐘で何とか飛び起き、最速で服を着替え、水場で洗顔と歯磨きをすませた俺は、授業のある教室に向かうべく、階段へと続く廊下を走っていた。ちなみに伝導の館における生活では、階段の上り下りが人生の大半を占めるといっても過言ではない。共有の食堂と風呂などの水場は一階、二階から五階までは対価労働従事者の居住区、六階から十階までが教室で、見習い候補たちの居住区はさらにその上である。
 もちろん洗顔と歯磨きを諦めれば教室には余裕で間に合うが、己の不精でせっかくの美少年アバターの価値を下げるわけにはいかない!!! と奮起し、俺は一階の水場まで行って身支度をすることにしたわけだ。幸い水場は空いていたので待たされるようなことはなかったが、それは同時に時間が差し迫っていることをも意味している。
 近くの食堂から漂ってくるいい匂いに腹を鳴らしつつ、俺は大きな欠伸をした。くっ、腹減った。眠い。欠伸が止まらんっ。階段まであとちょっとだ。走れ、俺!
 とはいえ、さすがに少し速度落として廊下を曲がった瞬間、思い切り誰かにぶつかってしまい、俺は後ろによろけた。
「っ…………!」
 ハッと顔を上げ、謝罪の言葉を口にしようとしたその時。俺の目からはらはらと涙が散った。痛かったわけでも悲しかったわけでもない。単に欠伸を噛み殺しきれなかっただけである。
 が、涙は涙であり、しかも運が悪いことに俺のぶつかった相手は知り合いではなかった。俺と同じ銀髪だから水の民だが、種族の授業で一緒になったこともない。俺よりずっと背が高いし、年上のようだから、もしかしたら見習いかもしれない。種族の授業があるのは見習い候補の間だけだ。まあ、彼の目つきはちょっと鋭いが、怖そうな感じはしないし、これは欠伸の涙なんですよ~、と笑って説明しても大丈夫かもしれない。時間があれば。
 そう、時間があれば!!! だが俺には時間がなかった。というか、このシチュエーション古い少女漫画のテンプレみたいで普通に恥ずかしいな? と思った途端、俺は顔が赤くなるのを感じた。
「す……すみません! 失礼します!」
 思い切り頭を下げると、俺は一目散に階段を駆け上った。そしてひたすら階段を攻略し、尋常じゃない息切れと共に十階の教室に駆け込んだ俺は、空いている席に座ると同時に無事、授業開始の鐘を聞いたのだった……。

                *

「……ふあ~あ……、眠い……」
 ようやく昼休みになり、俺はリアムとクルスとギュスター、それからトリーと一緒に食堂のテーブルを囲み、皿に山盛りになっている岩芋の素揚げをせっせと口に運んでいた。その傍らにあるのは、もちろん黒豆のミルクティーだ。食って、飲んで、欠伸を繰り返している俺を呆れたように眺めながら、隣に座っているリアムが言った。
「お前、さっきから何度目の欠伸だよ。昨日よく眠れなかったのか?」
「夕方に仮眠を取るとか慣れないことしたせいで、何か寝付けなくて。朝もすげー寝坊した」
「ああ……教室に時間ギリギリで滑り込んできたときのお前、マジでやばかったもんな」
「寝起きに階段を一気に駆け上がったせいで、膝がガクガクしてたんだよ。水しか飲んでなかったのに、吐くかと思った」
「体力ないもんなぁ、お前」
「闇の民のお前らと一緒にすんな。そもそも基礎身体能力が違うだろ」
「まあ、それが闇の民の能力の一つだからな」
 そう、水の民は水を、光の民は光を、炎の民は炎を操ることができる。基本、実現可能なことが限定され過ぎていて、能力としてはかなりしょぼいけど。しかし闇の民に備わっている能力は他の民とは少し異なり、鋭敏な聴覚と嗅覚、暗視、それから俊敏で持久力もある運動能力としてあらわれるらしい。一見地味だが、フィジカルが良いのはやはり強みだ。闇の宮殿に併設されているのが、戦闘を学ぶ剣士の館だというのも納得である。
 俺は肩を竦めて嘆息した。
「一応言っとくが、十一歳の水の民なら俺の体力は標準だ。確かにお前らと比べたら体力はないが、そこまで酷くはない。そもそも十三歳の闇の民と同じ体力を俺に求めるな」
 実際、この年頃だと一歳違うだけで心身ともに成長具合がかなり違う。俺の場合、心のほうはともかく、身体的には個人差もあるが、やはり身長など努力だけではどうにもならないこともある。ちなみにクルスとギュスターも、リアムと同じ十三歳だ。
 至極まともなことを口にしたはずなのに、俺の言葉を耳にするとリアムたち三人は顔を見合わせ、目をぱちくりさせた。
「ちょ……何だ、その反応は。おかしなことは言ってないだろ」
 膨れっ面になった俺を見ると、クルスとギュスターが慌てたように口を開いた。
「いや……そうなんだけど。シルヴァが俺たちより年下だってこと、時々忘れるというか……」
「そうそう、何なら年上って言われても、妙に納得してしまいそうになるというか……」
 瞬間、俺は思わずフリーズした。俺もすっかり忘れていたが、実はこの中では一番年下だったのだ。こいつらと一緒にいると滅茶苦茶自然体で過ごせるおかげで、言動に一切のブレーキをかけていなかったことに今更ながら気づく。
 俺は慌てて年下ぶりっ子を発動しようとしたが、その前にトリーが当然のように口を挟んだ。
「シルヴァが私より年齢詐称の疑惑があるのは、最初からわかってることなの。年齢なんてどうでもいいことなの。どう取り繕おうと、シルヴァはシルヴァなの」
「トリー……」
 ……うん、取り繕ってはいなかったけどね? まだ。
 とはいえ、トリーの優しさに俺が感動していると、不意にリアムが俺の眉間を指で突いた。痛くはない。が、その唐突さにびっくりして、俺は目の前のリアムの顔をまじまじと見つめた。
 ……あれ? よくわかんないけど、何か不機嫌になってる……?
「……えっと……、リアム? どうかしたか?」
 俺がぎこちなく微笑むと、リアムは俺の眉間を指で突いたまま、ぶすっとして口を開いた。
「……ここ、少し強く押してると気分がすっきりする。寝付けないときにも効く。試してみろ」
「お……おう。教えてくれて、ありがと」
 戸惑いがちに礼を言うと、リアムは頬を染めながらも渋面で俺の眉間をぐりぐりと押した。
「……どういたしまして」
 一体どうした? 情緒不安定か?
 リアムがようやく眉間から指を放してくれたので、俺は改めて自分で眉間に触ってみた。このあたりか。なるほど、確かに気持ちいいかもしれない。要するにツボみたいなものだろう。
 ツボを刺激したせいか、再び眠気が込み上げてきたので、俺は下を向いて両手で口元を隠しながら大きな欠伸をかました。あ~、やばい。涙出る。
 と、その時。横から声をかけられた。
「ごめん、ちょっといいかな? 急で悪いんだけど、実は君と少し話がしたくて……」
「っ……………………!!!」
 その声は!!! 胡散臭い感じの優しい外山さんんんんんんんん!!!!!
 久しぶりに心臓を鷲掴みにされる衝撃を受け、俺は反射的に勢いよく顔を上げた。
 と同時に、俺の目から涙がはらはらと散る。
 ……あれ? デジャヴ……?
 顔を上げた先には、何だか同じような状況で見たことがあるような、目つきの鋭い銀髪の少年の驚いたような面持ちがあった。
 …………あれ? この人、前にも見たことがあるような? というか、もしかしなくても今朝、俺が階段の近くでぶつかっちゃった人だよね? っていうか、あれ? もしかしてこの人、そのことで俺を怒ってる……? いやいやいや、まさかそんな。いくら何でもそんな暇人がいるわけ……っつーか、ちょっと待て。どう考えても俺、勘違いされてない? 何かよくわかんないけど、いつも泣いてる……的な感じに。うっわ……は、恥ずかしすぎる……っ!!!
 瞬間、俺は顔が赤くなるのを感じた。
「っ……いや、違っ……これは……っ」
 慌てて事情を説明しようと口を開いた刹那、気づいたら俺は彼の胸に顔を埋めていた。……ん? これはアレか? 何かこう……そっと頭を抱き寄せられている……的な。
「っ……………………???????」
 ……ふおあぁあぁあ……っ??????? い……一体、何が……何がこの身に起こっとるんじゃあぁあぁあ……っ???????
「……大丈夫だから。ちょっと下がってて」
 おおお……外山さんのイケボが直に体から響いてくるとか……これはダミーヘッドマイク並みに高性能なのでは……って、やばい。混乱が著しくて、自分でも何を考えているのか意味不明だ。
 俺が状態異常に陥っているあいだに事態はめまぐるしく急展開を遂げ、気づいたら彼は自分の背中で庇うように俺の前に出て、隣に座っていたリアムの胸倉をつかんでいた。
 ちょっ……待っ……うえっ??? 一体……一体、何が起こっ……???
「相変わらず最悪だな、このクソ貴族が!!! いつまで弱い者苛めしてんだ、ああ?」
 弱っ、えっ、俺のこと? ちょっ……待っ……っていうか、超絶ガラが悪いな!!! ほんの一瞬前までの王子様対応はどうした? いや、確かにそれは正しい外山さんボイスの使い方だよ? 本当に実に正しい! 正しい……けど、ホントどうしたーっ? 二重人格? 二重人格なの?
 俺がわたわたと椅子から立ち上がっているあいだに、胸倉をつかまれて身動きできなくなっているリアムが、見たこともない凶悪な顔で彼の胸倉をつかみ返した。
「てめえ……ラチカ。戻ってたのか。さっさと竜の御許に還れ、このクソが!!! 何ならこの俺が送ってやるよ。わざわざ俺に突っかかってきたこと、後悔させてやる!!!」
 …………あれ~…………? 誰、この人? まるで闇堕ち全盛期の時雨さんみたいな声とセリフじゃあないか。演技指導とか全然必要なかったじゃん。もぉ~っ、リアムってばお茶目さんっ!
 っじゃ、ねえ~っ!!! ちょっ……どぉいうこと? これ、どぉいうこと? 初対面の時より数十倍はガラが悪いよ!!! やべ~、俺マジでやばかった!!! 最初にこんなテンションで絡まれてたら、俺は完全に終わってた!!! 俺の知ってる、我が心の友は今何処状態だよ!!! 俺のリアムを返せ! 返せよぉ~っ!!!
 と、全力でパニックに陥っている俺にちらりと視線を投げたかと思うと、リアムは恐ろしい眼光を湛えた瞳でラチカを捉え、驚くほど低い声で唸った。
「つーか、てめえ何勝手にそいつに触ってんだ。さっさとそいつから離れろ」
 ……え、俺のこと? 俺のことでリアムは怒ってんの? いや、でも俺は何もされてない……っていうかリアムお前、俺の話を聞く気はないな?
 ギラギラした目で睨みつけているリアムの胸倉をさらに締め上げ、ラチカが獰猛に唸り返す。
「てめえこそ、いつまでも調子に乗ってんじゃねえ。殺すぞ。こいつは絶対に渡さない。さっさと死ね。クソが」
 ……おう……こっちもこっちでやべぇぇぇぇぇ。実は最近になって知ったのだが、この世界では例え庶民でもまともな家庭に育った者なら、こんな直接的な罵りの言葉は使わないらしい。さっきリアムが口にしたように、竜の御許に還れ的な言い回しをするのが一般的なのだ。
 つまりそう考えると、俺がかつて公然と演技指導で使った時雨さんのセリフなどは、完全にヤクザまがいのガラの悪さだったわけで、そのことに気づいたときは冷や汗が出たものである。周囲がドン引きして、俺のフレンド枠が埋まらなかったのも当然だ。ずっと人のせいにしてたけど、実は俺のせいでもあったのである。
 っていうか、本当に今更だけど何この状況? 一見、乙女垂涎の『私のために争わないで!』展開なのに、どちらもガラが悪すぎてロマンの欠片もありゃしない。トキメキって何? それ、おいしいの? ……ん~、まあ実際、これはアレだよね。最初から俺のために争ってるわけじゃなくて、もともと険悪な仲の二人が俺をダシにして争ってるだけだよね……。
 とはいえ、そのまま放置しておくわけにもいかず、助けを求めるように周囲に目をやった俺は、不意に少し離れた席に座っているカノンと視線が交わった。同じ部屋で生活しているのに、カノンとちゃんと目が合ったのはすごく久しぶりな気がする。
 カノンは青ざめた顔で俺を見たあと、すぐに視線を逸らした。その心配そうな眼差しの先には、リアムの胸倉をつかむラチカの姿がある。俺はカノンの隣の席が空いていることに気づき、ようやくそのことを思い出した。ラチカはカノンの知り合いだ。確か以前、導きの塔で暮らしているときに一緒だった年上の友達の名前がラチカだったはず! 今は研修で館にいないと聞いていたけど、戻ってきてたのか。
 俺は思わず唇を噛んだ。まずいな。ガラは悪いが、ラチカが俺を守ろうとしていることだけは間違いない。このまま騒ぎが大きくなれば、勘違いしているラチカに恥をかかせることになる。
 ……ああ、いや、うん。すでにもう周囲から勘違い野郎のレッテルを張られてしまっているのはどうしようもないとして、これ以上の被害拡大はせめて防ぎたい。というか、絶対に防がなければ!!!
 俺が事態の収拾をすると心に決めた途端、今まで混乱に陥っていた自分のステータスがオールグリーンへと移行したのを確認した。クリアになった思考で、改めて素早く状況を見定める。
 いくら不意を突いたとはいえ、剣士の館で戦闘訓練を受けたこともあるリアムの胸倉をつかみ、反撃させない状態を維持しているということは、ラチカはある程度ケンカ慣れしていると見てまず間違いない。いくら同じ水の民でも体格差と経験値の違いを鑑みれば、俺にできることは恐らくあまりないが、全くないわけでもない。
 何より、ラチカの勘違いこそが俺にとって最大の利点だ。俺としても勘違いの内容が内容だけに、そこを利用するのは多少心が痛むけれど致し方あるまい。荒療治は好まないが、今の状態ではリアムもラチカも頭に血が上っていて、俺の話になど耳を貸さないだろう。
 俺は庇うように差し出されていたラチカの手をつかむと、思い切り後ろに捻り上げるようにし、素早く片腕を拘束した。唯一、俺がリアムから教えてもらっていた護身術である。だが、まだ完璧にマスターしていたわけではないので、俺は素早くラチカの背中に抱き着き、何とか拘束を維持した。
「なっ、何を……」
 ラチカ視点では、俺はリアムにいじめられて泣いているかよわい子に見えていたはずだから、まさかリアムに味方するような行動をとるとは予想もしていなかったに違いない。そうでもなかったら、ここまで油断して非力な俺に拘束されるような真似はしなかっただろう。
 俺という意外な伏兵の登場により、さすがのラチカも動揺し、リアムの胸倉をつかんでいた手が緩む。その隙を突き、リアムが不安定な体勢から思い切りラチカの腹を膝で蹴った。が、ラチカは咄嗟に後ろに重心を移し、自ら腹を折ることで、膝蹴りの衝撃を大幅に受け流した。
 うまい! だが俺が背中に張り付いていたせいもあり、ラチカは完全にバランスを崩した。この期に及んでも俺を庇うように、ラチカが体を捻ったせいだ。と同時に、リアムの拘束が外れる。取り敢えず安堵した瞬間、リアムの拳が容赦なく振り上げられるのが俺の目に映った。
「リアム、そのへんにしておけ」
 刹那、すっと冷たい刃がよぎるように、俺の唇からその言葉が出た。自分でも驚くほどドスの利いた声に、正直ビビる。が、内心の動揺は何とか押し隠し、俺より遥かにぎょっとしたような眼差しを向けているリアムとラチカに大きく嘆息してみせた。
「まったく……俺の前で暴力をふるおうとするとはいい度胸だな? リアム」
 普段通りの軽い口調に戻った俺を見ると、リアムはぎこちないながらもほっとしたように笑みを作り、さりげなく拳を緩めた。
「いや……まさか。フリだよ、フリ。本当に殴るつもりはなかったんだって。ちょっとした脅しだよ。第一、先に手を出してきたのはそいつのほうで、俺のは正当防衛っていうか……」
「ハイハイ。確かに膝蹴りは正当防衛だと思うが、脅しだったとしてもその拳は必要ないだろう。というか、お前がやるとシャレにならん。好感度を下げるのは簡単だが、一度なくした信用を取り戻すのはすげー大変なんだぞ。大体、俺の監督不行届になるじゃないか。お前は俺たちが費やした一ヶ月の謝罪行脚を無駄にする気か?」
「いやいや、だから……すみませんでした」
 不貞腐れながらも悄然と謝ったリアムの後ろから、それまでずっとハラハラしながらも、何とか手を出さずにじっと耐えて様子を窺っていたクルスとギュスターが顔を出した。
「シルヴァ! 今回のはリアムは悪くない!」
「そうだ! リアムは悪くない!」
「お前ら……」
 思わぬ援護射撃に感動しているリアムと、珍しく俺に反抗的な目を向けているクルスとギュスターに微笑み、俺は言った。
「わぁかってるって。心配すんな。今回の件で悪いのは俺一人で、リアムはとばっちりを受けただけだ。本当に悪かった。あとでまたちゃんと謝るから許してくれ。今は取り敢えず、この人に事情を説明したい。この人にもいろいろ迷惑をかけたことを謝らないといけないしな」
 ラチカに向けるリアムの目は相変わらず険しかったが、俺の言葉には渋々頷いてみせた。とはいうものの、リアムはご不満を隠そうともせず俺を睨み、いつになく刺々しい口調で言った。
「つーか、お前もいつまでそいつに抱き着いてんだ。さっさと離れろ」
「んん? そうだな」
 念のためにちらりとラチカを見上げると、俺たちのやり取りに毒気を抜かれたのか、少々放心気味の眼差しを俺に向けた。すぐにまた攻撃的になる気配はないが、一応拘束をしたまま確認する。
「えっと……何かいろいろと勘違いさせてしまったみたいで、本当にすみません。ちゃんと説明をするので、俺に少し時間をもらえませんか?」
「……わかった」
 声も表情も落ち着いているし、何より布越しに感じる筋肉が弛緩している。大丈夫そうだと判断し、俺はゆっくりとラチカの拘束を解いた。まあ、ラチカが俺の怪我を顧みず、本気でリアムに攻撃するつもりだったら、こんな素人の生半可な拘束など簡単に振りほどいていただろう。ガラは悪かったが、心根は優しい人のようだと俺の直感は告げているので、それを信じることにした。
 とはいえ落ち着いて顔を合わせるのはほぼ初めてなので、多少の値踏みも兼ね、俺は改めて目の前にいるラチカをまじまじと観察した。背はリアムより高い。銀色の髪はショートでサラサラだが、長い前髪が顔にかかっているせいで妙に暗い雰囲気だ。鋭い目つきで、不健康そうな白い肌にはそばかすが散っている。目元の印象が強いのは、濃いクマが縁を彩っているせいかもしれない。
 う~ん、何かこう……どこかで見たような気もするのだが、何故かうまく思い出せないな。外山さんボイスでこういった外見のキャラがいたような、ちょっと違うような……。今まで俺が勝手に2.5次元認定したときは、天啓並みにすぐ思いついたのだが。
 限りなくどうでもいいことではあるが、もやもやした気持ちを抱きながら、俺はラチカに聞いた。
「よろしければ、今からでも大丈夫ですか? 結構時間がかかるかもしれないんですが」
「俺のほうは問題ない」
「ありがとうございます。では、ここはちょっと人目もあるので、場所を移しましょう」
 にこやかにラチカとの話をまとめると、俺は深めた笑みをリアムに向けた。
「……ということで~、リアム、悪いけどお願いしてもいいか?」
 チッと盛大に舌打ちしつつも、リアムは仏頂面で肩を竦めてみせた。
「わぁってるよ。次も俺は歌い手の授業だからな。伝導師にお前はサボりだってちゃんと言っといてやる」
「うんうん、すごーく具合が悪そうだったって心配そうに伝えてくれるんだな」
「違え!」
「それから俺の食器なんだけど……」
 リアムはギッと俺を睨みつけながら指を突き付けた。
「貸し三つだ。あれとこれとそれ……利子付けてきっちり返してもらうからな!」
 食器を片付けて、伝導師に言い訳して、あとはさっきラチカから受けたとばっちりの件か。それで貸し三つとは、やはりリアムは優しい。俺は心から感動して言った。
「おお! さすがリアム、優しくて頼りになる我が心の友よ。おかえりなさい……」
「はあっ? 俺はどこにも行ってないだろーが。お前、時々おかしいよな。そこらへん何とかしろ」
「善処する」
「要するに何もしないってことね、了解」
 ようやくリアムがいつもの軽口を取り戻したので、俺はクルスとギュスターに目をやった。
「お前らも悪かったな。ちょっと行ってくるから、あとは頼む」
「おう!」
「わかった」
 それから俺は最後まで口を挟まずに見守ってくれていたトリーに微笑んだ。
「トリー、いろいろ心配をかけてすみません。行ってきますね」
「何のことか知らないけど、さっさと行くの。まったく、騒がしいったらないの」
 泰然とした様子は崩さなかったが、トリーがこの一連の騒ぎに心を動かさなかったわけがない。だがトリーが手を出せば、事態はもっとややこしくなる。見た目は幼女だが、こういうところはさすが成人女性の落ち着きを発揮して頼もしい限りだ。
 俺はテーブルのみんなに手を振ると、ラチカに移動を促そうとして、ふとカノンのほうに視線を投げた。どうしよう、本来ならばカノンにも同行してもらうのが筋であろう。だが、カノンは俺と目が合った途端、あからさまにぷいっと顔を背けた。
 カノン~…………っ!!! 俺だって人並みに傷つくんだからねっ!!! いい加減泣くぞ、この野郎!!!
 涙目になっている俺に気づくと、ラチカはその視線の先に目をやり、何事かを察したように言った。
「気にするな。行くぞ」
「はい……」
 消沈しつつもラチカと共に歩き出した俺は、食堂を出ようとしたところでアルトと一緒になった。アルトは以前、やはり食堂で俺がトリーと問題を起こしたときに、不運にも隣に座っていただけで俺たちの食器の片付けをお願いされてしまった見習い候補の知り合いだ。あの後、手伝ってくれたアルトの友人たちも含め、俺とリアムでお礼に行ったら、無事でよかったとこちらの心配までしてくれた本当にいい奴である。
 結局、埋め合わせも次の食事のときにアルトたちの食器を片付けるだけでいいと言ってくれたので、お礼らしいことは何もせずに終わってしまった。今回の騒動も遠目から見ていたらしく、アルトは中庭に向かう俺たちに苦笑しながら手を振ってくれた。
「……友達か?」
 渡り廊下の前でアルトたちと別れ、修復したばかりの中庭に足を踏み入れると、不意にラチカが口を開いた。
「ああ……えっと。アルトは友達っていうか、知り合いですかね。俺は友達って言いたいですけど、向こうは多分そこまでじゃないと思ってるはずなので」
「ふぅん……」
 少し意外そうに鼻を鳴らしたあと、ラチカは中庭を見回しながら言った。
「何か、ちょっと植木を入れ替えたりしたのか? 花も植えたばかりみたいだし、芝生も馴染んでないっていうか……」
 ラチカの言葉に俺はぎくりと顔を引きつらせた。よく見てるし、鋭いな……。こいつはなかなか侮れないぞ。気を引き締めて話をしないとな。
 別に嘘をつこうとか騙そうとかしているわけではないが、適当に口を開くべき相手ではないようだ。いつもより真摯に向き合わねばならんと、俺は改めて心に誓った。
 俺は中庭を抜けると、裏庭ともいうべき狭い空間にラチカを案内した。この時間はちょうど日陰になり、光の季節という灼熱の繋ぎ手の島では数少ない安息の地だ。ちなみにここはあまり人が通るような場所ではないので、基本的に中庭修復に携わった者たちしか知らない穴場でもある。
 俺が適当な場所で地面に直接座り、ひんやりした塔の石壁に背中を預けると、ラチカが少し間を置いて同じように胡坐をかいた。館の周囲に植えられている緑の木々がさわさわと音を立て、僅かに湿度が上がる。風が吹き、気化熱が奪われたことで少しだけ涼しくなるのを感じた。
「……それで?」
 ぶっきらぼうに口火を切ったラチカに目をやると、俺は少しだけ居住まいを正し、取り敢えず何よりも先にそれを口にした。
「ありがとうございました。俺を助けようとしてくれて。それから本当にすみませんでした。あなたに勘違いをさせてしまって」
 座ったままではあるが、深々と頭を下げた俺を見ると、ラチカは驚いたように身を引いた。
「いや……俺に礼とか、おかしいだろ。勘違いだって、俺が勝手にしたわけで……あんな騒ぎを起こしたりして、お前にとっちゃ迷惑でしかないだろ」
 俺は瞬きを一つし、それから思案するように軽く首を傾げた。
「まあ、確かにいろいろと急展開すぎて、驚きはしましたけど。あなたが悪い人でないことはすぐにわかったので。それに元はといえば、俺が誤解の原因を作ったわけですし。むしろ本当にどう謝罪したらいいのやら……本当に申し訳ないです」
 改めて頭を下げると、ラチカは戸惑ったような沈黙のあと、大きくため息を漏らした。
「……ったく、もういいよ。俺のほうこそ悪かった。ちょっと、勝手に突っ走りすぎた。もっとちゃんと確かめてからでもよかったって、今では思ってる。ただ、あいつ……リアムの野郎とは前からいろいろあって。俺のほうも元々、あいつを殴る正当な理由を探してるみたいなとこがあったから。別にお前だけのせいじゃない。だから頭を上げろ」
 ゆっくり顔を上げると、俺はちょっと不貞腐れているようなラチカの横顔を見た。一見、どこか達観したような大人びた表情だが、それは何故か感情を押し殺しているような、諦めにも似た面持ちに感じられた。そのくせ実際には早とちりで、喧嘩っ早いところもあったりして、なかなかアンビバレンスな御仁のようだ。
 とはいえ一応の和解はできたようなので、俺は改めて自己紹介から始めることにした。
「それでは今更なんですが、俺はシルヴァといいます。どうぞよろしくお願いします」
 ラチカはちらりと俺を流し見たものの、すぐに目を逸らして言った。
「俺はラチカだ。っていうかお前、さっきからずっと思ってたんだけど、本当にカノンと一つしか変わらないのか? どう考えても十一歳の対応じゃないだろ。今もだけど、食堂のやり取りでもお前が頭だった。リアムどころか、あの火花のトリーまで手懐けるとか、お前一体何者だ?」
 最早ぐうの音も出ないカウンターを食らい、俺は今すぐにも戦線を離脱したくなったが、すんでのところで何とか堪えた。ここまでストレートに口にしてくれた人は初めてだから、いっそ正直に話したい気もするのだが、如何せんこの世界には生まれ変わりの概念がない。言葉を尽くして説明しても理解されないだろう。
 初対面にもかかわらず、何故かこの人に不信感を抱かれるのは残念で仕方ないという想いが込み上げてくる。が、人生は致し方ないことで溢れているのだ。
 俺はこれ以上ないほど完璧な微笑みを作ると、言った。
「そうですね。もし、あなたともっと親しくなれたなら、そしていつか俺があなたにそのことを知ってほしいと思ったなら、教えるかもしれません。でも、今はまだその時じゃない。でしょう?」
 曖昧に誤魔化すのも一つの手だが、俺は敢えてそうしなかった。むしろ挑戦的なくらいに言葉を尽くした俺を見ると、ラチカは少し意外そうに目を見開き、苦笑した。
「なるほど。否定したり誤魔化したりしないんだな」
「あなたがご所望なら、今からでもそうして差し上げますよ?」
 目をぱちくりして首を傾げた俺に、ラチカは大仰なくらいに肩を竦めてみせた。
「わぁかったから! そう怒るな。ちょっと言ってみただけだ」
「いやぁ、別に怒ってないですよ。ただ、俺が口先で否定したり誤魔化そうとしても、あなたは納得しないでしょう? 実際、俺も自分が十一歳らしくないのは自覚しています。でも、これが俺なので。まあ、生きていれば年なんてあっという間に取りますから。年相応とか、どうでもいいことですよ」
 ラチカは俺の顔をまじまじと見つめたあと、下を向き、小さく呟いた。
「……そうだな。年を取れば、いろいろ変わる」
 何か含みがあるようにも感じられたが、今は取り敢えず話を進めることにして俺は言った。
「まあ、その話はまた今度ってことで。何というか、その……あなたに勘違いさせてしまったことの真相とか、先にいろいろ説明しないといけないので……」
「……ああ、そうだな」
 気を取り直したように頷き、ラチカはようやく顔を上げた。俺はまず勘違いの原因である涙の真実について語り、その後、俺がこの館に来るまでの経緯、カノンとの出逢いやリアムに絡まれた一件、トリーとの決闘から中庭修復までの出来事をなるべく簡潔に、だが大事なところはできるだけ端折らないよう説明した。
「……とまあ、ざっくりとした経緯はこんな感じですかね。だから今、俺にとって一番の問題はカノンと仲直りできていないことといいますか……」
 ラチカは風に揺れる木々のざわめきを眺めながら時折ぶっきらぼうに相槌を打ち、俺が一通りの話を終えると小さく頷いた。
「話は大体わかった。そのうえで、いくつか確認してもいいか?」
「もちろん」
「あいつ……リアムがお前のために、さっきのアルトとかいう奴に頭を下げたってのは本当か? 貴族でも年上でもない奴を相手に、頼むから自分たちの食器を片付けてくれって?」
 俺は髪で表情の隠れたラチカの横顔を見ながら瞬きを一つし、それから苦笑した。
 結局のところ、ラチカはリアムのことが気になって仕方ないらしい。
「まあ、そうですね。俺はあの時、まだトリーが混じり者であることに気づいてなくて。それにトリーが本当は年上だとか、いろいろな武勇伝があることとかも知らなかったので、全く危機感がなかったんですよ。で、俺が自分の食器は自分で片付けないと……みたいなことをいつもの調子でごちゃごちゃと抜かしはじめたので、さすがにこのままではマズいと焦ったんでしょう。トリーもイライラしていましたし、リアムの機転には本当に助けられました」
 あははっと俺が呑気に笑っていると、ラチカは信じられないような目で俺を凝視した。
「おまっ……本当に馬鹿なのか? トリーが混じり者だってことくらい、聞いてなくても見ればすぐにわかるだろ! 何で気づかないんだよ!」
「え……いや、でも、ほら、トリーがあまりにも可愛かったので、つい。そういうことって、よくありますよね」
「ねえよ! つーか、そもそも混じり者だって気づいた時点で相当やばい奴だってわかるだろ! 大体、相手がやられたフリして謝れば許すっつってんのに、反対に煽って中庭半壊にするとか、お前の頭はおかしいにも程がある!!!」
 おお……何という正論。言われてみればその通りだ。俺はラチカの言葉に感銘を受け、かつての自分の行いに首を傾げた。
「……ああ、ねえ? 俺もそう思います」
「そう思います、じゃねえ! そもそも首を傾げながら言うことじゃねえだろーが!」
「ああ……いやいや、ちょっと待って。今、思い出した! 今、思い出しましたから!」
 俺は慌ててラチカをなだめると、トリーとの決闘に至った動機をちゃんと説明した。
「確かに、俺がトリーに謝れば事態はすぐに収束したでしょう。でも、それだといつまでも俺がトリーと仲良くなれないからです。第一、可愛いものを可愛いと言って何が悪いんですか! 理不尽なのはあっちのほうです! 可愛いは正義ですよ! 何物にも代えがたい、唯一の真理といっても過言ではないでしょう!」
 どどん! と俺が言い放つと、ラチカはドン引きしたような面持ちで呟いた。
「いや……どう考えても過言だし、そもそもお前のその意見に同意する奴なんていないだろ……」
「ええ~っ。ラチカは同意してくれないんですか?」
「するわけねえだろーが! むしろ何で俺が同意するかもしれないと思えたんだ」
 ちょっと照れ気味に笑うと、俺は言った。
「いやぁ、だって泣いている俺のことを助けようとしてくれたじゃないですか。まあ、欠伸の涙でしたけど」
「そのことはもう忘れろ!」
 さすがに赤くなって喚き返したあと、ラチカは悔しげに反撃した。
「……つーか、何? お前、自分のこと可愛いとでも思ってんの?」
「そうですね! 俺、こう見えても美少年なので!」
 元気よく俺が言い放つと、ラチカはもはや呆れたように嘆息してみせた。
「その自信は一体どこから来るんだよ……」
「鏡に映る自分の姿ですが、何か?」
「わかった、わかったから! ったく……どうりでリアムの奴も振り回されてるわけだ」
 ラチカから吐き出された言葉に、俺は目をぱちくりさせた。
「別に、振り回してませんよ?」
「自覚はないのね、了解」
 納得はいかなかったが、それ以上の問答は受け付けない雰囲気だったので、俺は取り敢えず口を噤んだ。しばらくして、遠くに目をやったままラチカが再び口火を切った。
「……さっきの話だけど。トリーが年上だってこと、お前は何ですぐに信じられたんだ? 混じり者でも体の成長が遅い奴は滅多にいない。そういう噂もほとんど出回ってないはずだ。それなのに、ただでさえあり得ない不確かな情報をどうして信じた? あいつが……リアムがそうお前に教えたからか?」
 俺は相変わらずこちらを見ないラチカにちらりと視線を投げ、それから思案するように言った。
「そうですね……もちろんそれもあります。俺はリアムを信じてますから。でも、一番の理由は俺の違和感ですね。俺には三つ年下の妹がいて、見た目はトリーとそう変わりません。でも、トリーの言動は妹よりずっと落ち着いているというか、違和感があったんですよ。そこにちょうど納得のいく理由をリアムが提示してくれたので、多分そうなんだろうなと信じただけです。いくら友人を信じてるといっても、さすがに丸投げはしませんよ。対等な友人でいるには、それなりに自分に責任を持たないとやっていけませんから」
「……手話で意思疎通をしたって言ってたけど、それは何だ? 手信号より細かいやり取りができるのか?」
「手信号は知ってるんですね。手話はほとんど単語ごとに手の合図が決まってるので、慣れれば普通に会話できますよ。まあ、細かいニュアンスとかは無理ですけど。大体は伝わります」
「お前はどうしてそんなものを知ってるんだ? どこかで習ったのか?」
 瞬きを一つし、俺は言った。
「この館に来る前、村で一時期そういう遊びが流行ったんですよ。で、俺が覚えている限りの手話を教えたあと、みんなで新しいのを考えたりして使ってたんです」
 前半は嘘である。だが後半は嘘じゃない。前半の嘘はリアムたちに手話を教えるときに考えておいたものなので、今もそれほど動揺せずに口にできたはずだ。実のところ、この手話は俺がかつていた世界において独学で習得したもので、細部はかなり適当だ。
 では何故、腐女子時代の俺は手話を会得しようと考えたのか。それは一人でカラオケに興じる際、何か振り付けがあったら楽しいなっ、などと思ったのが全てのきっかけである。だが格好いい振り付けの定義がわからず、また激しい運動はしたくなかったため、省エネかつ意味のある動作を取り入れればいいじゃあなぁ~いか! という短慮によって取り入れられたのが、この手話だったわけだ。
「……へえ、それってどういうふうにやるんだ?」
 特に疑問を抱かなかったようにラチカが尋ねてきたので、俺は簡単なものをいくつか実際にやってみせた。
「えっと……例えばこう自分の胸を指して≪俺≫……で≪欲しい・あなた≫……とか、こんな感じですかね。≪欲しい≫は結構よく使います。≪食べる・欲しい≫で食べたいって意味になりますし、好きっていう意味でも使えるので。見ただけで意味がわかる動作も多いので簡単ですよ。ラチカならすぐ覚えられます。使える相手は今のところ限られてますけど。よかったら教えますよ」
 ラチカは驚いたように目を見開き、それから下を向いた。
「……いや、でも、いいのか? 勝手に俺なんかに教えて。それは仲間内で使う暗号みたいなものだろ。安易に聞いた俺も悪かったけどさ……」
 居心地が悪そうにしているラチカを前に、俺は首を捻った。
「俺たちの仲間になるのは嫌ですか?」
「俺がっていうか、あいつは嫌がるだろ。確実に」
「じゃあ、リアムから了解を取ってからにしましょう。多分、大丈夫ですよ」
 楽観的な発言をした俺をじっとり見やると、ラチカは言った。
「お前……そうやってずるずると周りの奴を自分の思い通りに巻き込んでいくんだな。油断ならねえ」
「ええ~っ? じゃあ、どうすればいいんですか。っていうか、どうしたいんですか? あなたは」
「……俺は……別に……」
 ぐっと口を噤んでしまったラチカをしばらく眺めたあと、俺は元気よく宣言した。
「はい! じゃあ、今は俺が決めます! 俺はあなたと仲良くなりたいので、まずは俺と友達になりましょう。それならリアムも関係ないし、友達の友達は友達ってことで、いずれみんなまとめて友達になれますよ。多分!」
「多分って、お前なぁ……。あ~、もう、わかった! お前の勝手にしろ!」
「言質いただきました! ということで、俺もラチカに聞きたいことがあるんですが、いいですか?」
 ほんの僅かではあるが、ラチカが顔を強張らせたのに俺は気づいた。けれどラチカはすぐに表情を隠すと、風に揺れる木々に目を向けた。さっきまでの親しげな色が消えた声音でぶっきらぼうに言う。
「……好きにしろ」
 ……何だろう? まるで何かに怯えてでもいるような。聞かれたくないことでもあるのだろうか。しかしご期待に沿えなくて悪いが、俺の質問は多分それじゃない。
「実はずっと気になってたんですが」
「……ああ」
「さっきトリーのことを、火花のトリーって呼んでませんでした?」
「……はあっ?」
 ぐるりと顔を向けたラチカに、俺はここぞとばかりに畳み掛けた。
「え、いや、確かに言ってましたよね? 火花のトリーって。それってもしかしてトリーの二つ名ですか? 何かいろいろ武勇伝とかあるんですか? トリーや周りに聞いても教えてくれなくて。何か知ってます? 知ってたら教えてください! トリーに二つ名があるとか初耳です! すごい! かっこいい!」
 キラキラした目でぐっと拳を握り締めた俺を見ると、ラチカは大きなため息をついて顔を背けた。
「……ったく、そんなこと俺が知るか。そういうことは本人に聞け。つーか、さっきのは黙っとけよ。俺がトリーに殺されるだろーが!」
「ええ~っ、ラチカなら教えてくれると思ったのに~!」
「知るか!」
「じゃあ、カノンの昔話とか! 導きの塔で同じ部屋だったんですよね? あ、セレスト絡みの話でもいいです! 何かありませんか?」
「お前なぁ……。そういうのはカノンから聞け。仲直りすれば、あいつならいくらでも教えてくれるだろ」
「じゃあ、どうしたらカノンと仲直りできるか教えてくださいよぉ……」
「そんなの自分で考えろ。つーか何だ、さっきから。本当は聞きたいことがあるんだろ? 俺のことで。お前がずっと俺のことをチラチラ窺っていたのに、俺が気づかなかったとでも思ってんのか?」
 俺を真っすぐ見ると、ラチカは覚悟を決めたように言った。
「言ってみろ。何を聞かれても怒らねえから。約束する。大体、言われ慣れてるし。変に気を使われるほうが気分が悪い。お前はそういうことをしそうにないと思ったんだがな。第一、俺と仲良くしたいとか言ったくせに、お前の言う友達ってのはそんな上っ面な関係のことなのか?」
 えっ……う~ん。確かにラチカのことをちょいちょい窺っていたのは本当だ。でも、言われ慣れてるわけがない。ラチカに対し、絶対どこかで見たアニメキャラに似ているはずなのにどうしても思い出せないっ、とかくだらないことで悶々と悩んでいるのは、どう考えてもこの世界には俺一人しかいないはず。
 俺は改めてラチカをまじまじと見つめた。銀髪に茶色の瞳、そばかすと目の下のクマが印象的な外山さんボイスのキャラといえば……誰だ?
 何とも言えない面持ちで首を傾げた俺を見ると、ラチカは盛大にチッと舌打ちし、地面から勢いよく立ち上がった。恐ろしく冷ややかな眼差しで俺を見下ろすと、吐き捨てるように言う。
「さっきの話はなしだ。二度と俺に話しかけんな。殺すぞ」
 その瞬間、大きく風が吹き、木々の揺れでラチカにかかっていた影が深まる。と同時に、俺の脳にとあるキャラが天啓のように閃いた。
「わかったぁ~っ!!!」
 思わず俺は立ち上がり、ラチカの肩をつかむと、その顔を真っすぐ覗き込んだ。
「てめっ……何を……」
「間違いない!!! 弟に似てたんだ!!!」
 ラチカはぎょっとしたように俺を見つめ返した。
「はあっ? おまっ……何言って……」
 やっとわかった! 腐女子時代の俺の最後の推し、奇才イックン監督のオリジナルアニメに出てくるスダケンさんボイスのヤクザな兄、その弟にラチカは似てるんだぁ~っ!!! 俺は思わず心の中でガッツポーズをした。
 しかし少なくとも兄ガチ勢であるこの俺が、何故そのことにすぐ気づかなかったのかというと、髪の色が全然違ったからである。アニメでは髪も瞳も青かった。まあ、さすがに青い髪は無理だとしても、日本人設定だったわけだし、ラチカが漆黒の髪と瞳を持つ闇の民だったなら、俺もここまで悩むことなく天啓がおりてきたに違いない。そしてついでと言っちゃあナンだが、ラチカがずっと気にしていたことが何かも、俺はようやく理解した。長い前髪も、すぐに俺から目を逸らす、その意味も。
 とはいえ俺は興奮冷めやらずのまま、ラチカにまくし立てた。
「だから! 俺がずっと気になってたことがわかったんですよ! 食堂でラチカと話をしてる時から、ずっと引っ掛かってたんです! 絶対どこかで見たことがある顔だなって! それが誰か、やっとわかったんです!」
 そう、俺の最推しキャラの弟。それをこの世界でも通じるように言い直すと……。
「昔、俺が好きだった人の弟に、ラチカは似てるんですよ! そばかすとか、けだるい雰囲気とか! よかったーっ! すごいすっきりした! も~、本当にすみません! ずっともやもやしてて、ついラチカのほうをチラチラ見てしまって! 髪の色が全然違うから、なかなか思い出せなかったんですよね~っ! でもこれで万事解決です!」
 ぱあぁ……っと全開の笑顔を晒している俺に、ラチカが何とも言えない面持ちで呟いた。
「……何だそりゃ」
「……ん?」
「何だそりゃあぁあぁあ……っ!!! てめえ、ふざけてんのか? クソが!!! 舐めた真似してっとぶっ殺すぞ!!!」
 ぐわっと俺の胸倉をつかんで喚いたラチカの茶色い瞳にちょうど木漏れ日が当たるのが見え、俺は思わず目を見開いた。
「あ……すごい、綺麗。ラチカの瞳って、光が当たると金色に見えるんですね。すごく綺麗です」
 瞬間、ラチカは息を呑み、俺を見つめたまま動きを止めた。俺は申し訳なさそうに微笑むと、言った。
「えっと……本当にすみません。ふざけてたわけでも、誤魔化してたわけでもありません。ただ……ちょっと他のことに気を取られ過ぎていて、すぐには気づかなかったというか……すみません。全部、俺の言い訳です。でも、やっと気づいたので言いますね。あなたがずっと聞きたかった言葉を」
 僅かに怯えの走ったラチカの瞳を見つめながら、俺はそれを口にした。
「俺は綺麗だと思いますよ、ラチカの茶色い瞳。光が当たると金色に見えるし、何より見ていて落ち着きます。確かにあなたがさっき言ったように、年を取ればいろいろ変わります。瞳の色も、子供の頃はみんな同じ茶色から、十を過ぎてそれぞれの種族の色に変わる。炎の民は灰色に、闇の民は漆黒に、光の民は緑に、そして水の民は青に。ラチカは確か今、十五歳ですよね」
「……ああ」
「同じ年頃で瞳の色が変わってないのは、この館であなただけですか?」
「……そうだ」
「自分だけ瞳の色が変わらなくて不安になるのは当然だと思います。ラチカは背も高いし、十五歳より年上に見えるので、周りから余計なことを言われることも多いかもしれません。でも、ラチカが気にする必要はないと思います。だってラチカはとっくに能力を使えるようになってますよね?」
 俺の最後の言葉を耳にすると、ラチカはぎょっとしたようにつかんでいた俺の胸倉から手を離した。
「な、何を言って……」
 俺はきょとんとした顔で首を傾げた。
 あれ? 口にしたらまずかったか? でも……。
「さっきからずっと、俺の前で使ってましたよね? 俺もラチカと同じ水の民ですけど、何か俺とは違うやり方で。ラチカが空気中の水分をいろいろ動かしていたのは、俺にもわかります。ここに最初に着いたとき、少し湿度が上がって、それから風が吹いて涼しくなったのも、ラチカがやってくれたことですよね。他にも中庭に足を踏み入れたとき、空気中の水分を自分の周りに集めたりしてたでしょう? 何のためにやってるのかは、俺にはよくわかりませんでしたが」
 ラチカは目を見開いたまま俺から後ずさり、額を手で抑えると、大きく息を吐きだした。
「……なるほどな。そういやさっきからずっとそういう話を聞いていたのに、すっかり忘れてた。お前がとんでもなく大馬鹿で、得体の知れない奴だってことをな」
「……お褒めにあずかり光栄です?」
 俺が首を傾げながら言うと、ラチカにギッと睨まれた。
「疑問形で言うな! 自覚しろ! この大馬鹿野郎が! ずっと目の前にあったのに何も見えていないとか、お前の目は節穴か! せっかく色が変わってんのに、ほんっとクソほど役に立たねえな! お前のその目は!」
「いやぁ、面目ない。でも、ラチカも前髪で隠そうとしたり、話をしてるときも目を合わさなかったり、俺から逃げてばかりだったじゃないですか。おあいこですよ」
 あははっと笑って言った俺に、さすがのラチカも言葉に詰まり、うっと呻いた。しかしまだ気が収まらないのか、唸るように言い返した。
「大体なぁ、普通は俺の瞳が茶色のままだってことはすぐに気づいて馬鹿にするけど、その俺が能力を使えることにはいつまで経っても全然気づかないんだよ! それが普通なんだ!」
 ハッと鼻で笑い飛ばすと、俺は堂々とラチカに言い放った。
「そんなクソみたいな普通、知るか!!! ですよ」
「なっ…………」
 絶句しているラチカを前に、俺はチッと舌打ちした。何か、今までそんなくだらないことでラチカが馬鹿にされてきたのかと思うと、自分のことでもないのに心底腹が立つな。八つ当たり気味にラチカをギリギリ睨みつけ、俺はドスの利いた声で傲岸不遜に罵った。
「まったく、一体それのどこが普通なんですか。目の前のことに気を取られて、本当に大切なことに気づけないような馬鹿が普通ですか。俺ならそんなクソみたいな普通、要りませんよ。こっちから願い下げです。さっさとクソして死ね!!! ですよ」
 ラチカは静かに激怒している俺をまじまじと見つめていたが、やがてゆっくりと息を吐きだし、言った。
「……まあ、そうだな。けど、目の前のことが見えてないところはお前も問題だろ」
 まさにぐうの音も出ない正論に毒気を抜かれ、俺はゆるゆると怒りが静まるのを自覚した。
「あう……その通りです。本当にすみません。今度から気をつけます……」
 しゅんとして謝った俺を見ると、ラチカは気が抜けたように苦笑した。
「……ったく、勘弁しろよ。ホントお前は油断ならないな。ずっとお上品な顔してたくせに、いきなり裏通りでしか聞かないような汚い言葉で罵るとか、一体お前は何なんだ?」
 瞬きを一つすると、俺は胸を張ってそれを口にした。
「俺は俺ですよ。美少年たるもの、汚い言葉くらいお上品に使えなくてどうします?」
「いや……別に上品には使えてなかっただろ。つーか、お前のいた村ってそんなやばいとこなのか? 俺が言うのもナンだけど、この館で死ねとか口に出している奴、俺以外で初めて見た」
「……ああ、ねえ?」
「ねえ? じゃねえ! ったく……まあ、いいや。今のところはな。そういうことにしといてやる」
 恩着せがましく言ったラチカに、俺はすました顔で頷いた。
「そうですね。ところでラチカ、実はさっき友達になったばかりの人に、蝶が羽ばたく間もなく一方的に絶交を言い渡されたんですが、どうしましょう? もしかしてもう話しかけないほうがいいですかね。恐ろしいことに俺、殺すぞって脅されてるんですよぉ~」
 胸元できゅっと手を握り締め、俺はわざとらしく怯えてみせた。さすがにイラっとしたように目尻を吊り上げたものの、ラチカはぐっと堪え、降参したように両手を上げた。
「わぁかった! 俺が悪かった! だから、その……さっきのはなしだ!」
「さっきのって何ですか?」
 如何にも無邪気に俺が聞き返すと、ラチカは喉の奥で唸り、だがようやくそれを口にした。
「…………二度と俺に話しかけるなって言ったのはなしだ。俺とお前は友達……なんだろ?」
 俺はこれ以上ないほど破顔すると、言った。
「はい! これからもよろしくお願いします、ラチカ!」

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