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7. 腐女子、友と親睦を深める
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こんにちは、腐女子です。おかげさまで念願ののんびり異世界生活も順風満帆、今は新たに手にしたスキルでガーデニングに励んでいます。労働で流す汗は爽やかで気持ちがいいものですね、キラッ。
…………ってー、これはそぉゆぅ話じゃないからっ!!! 庭仕事は俺とトリーが大惨事にした中庭を元通り修復するよう命じられた、ただの罰だから!!! 腐女子時代は曲がりなりにも優等生で通してきたこの俺が! 気が付いたら成績底辺の問題児とか! まあ、全部自分のせい……というか、納得ずくで始めたことではあるけれども。それに、代償として得たものもあるしな。
「シルヴァ、水を持ってきた!」
「どこに置いたらいい?」
クルスとギュスターの声に振り返ると、二人は水の入った桶を両手に持ち、中庭に入ってくるところだった。
「おお、すまん。こっちまで来てもらえるか?」
俺は二人に手を振ると、肥料と土を混ぜ込んでいた鍬を脇に置いた。それを見て、トリーが耕し終わったところに花の球根を一つ一つ丁寧に植え始める。少し離れたところで芝生を張り替えているリアムも、そろそろ仕事が終わりそうだ。
「水はこの辺に置いといてくれ」
クルスとギュスターに言うと、俺は正方形に切り取られた板状の芝生の塊をタイルのように敷き詰めているリアムのところに行き、残りの作業を一緒にやった。
「……よしっと! これで一応は完成かな。後は水をやれば終わりだ」
芝生を運んできた台車や、鍬などの道具をみんなで片付けると、俺はクルスとギュスターが運んでくれた桶の周りに仲間を集めた。リアム、クルス、ギュスター、そしてトリー。この二週間、繋ぎ手の島特有の炎天下の中、焼け焦げた中庭の修復に携わった仲間たちは皆、それぞれに日焼けをして汗と泥に塗れているが、どこか清々しい面持ちだ。
舎弟でいいと頑なに言い張っていたクルスとギュスターもようやく敬語をやめ、俺の友達になってくれるよう口説き落とすことに成功した。まあ実際のところ、舎弟なら罰の庭仕事を手伝うのは禁ずるが、友達なら是非ともお願いしたいと言い、半ば無理やり説得した。こんな詭弁に乗ってくれるとは、二人とも奇特な奴らだ。本当に感謝の念に堪えない。
そして実はもう一人、この場にいてほしかった者がいるのだが、最後まで実現しなかったのはこの俺の不徳の致すところだ。残念だが仕方あるまい。でも、彼はきっと気にしているだろう。今もどこかで俺たちの様子を見ているかもしれない。俺は天に輝く竜の息吹を軽く見上げ、それから目の前にいる大切な友達に向かって言った。
「この二週間、俺の罰に付き合ってくれて本当にありがとう。みんなが貴重な休み時間を潰して手伝ってくれなかったら、こんなに早く中庭の修復は終わらなかった。特にクルスとギュスター、お前らほんっと大馬鹿野郎だよな。俺の友達になってくれて最高に嬉しいよ」
クルス、それからギュスターを軽く抱きしめると、二人は少し照れたように口を開いた。
「いや、俺たちはただ、シルヴァと一緒にいたかっただけっていうか」
「そうそう! それに中庭が半壊したのは、俺たちも無関係じゃないっていうか」
トリーとの争いに先んじて、二人が中庭に水を撒いておいてくれたことは絶対に忘れない。俺は二人の手をぎゅっと握った。
「あの水がなかったら、俺はトリーとこんな風に仲良くなれなかったし、お前らともまだちゃんと友達になれていなかっただろうな。だから本当にありがとう!」
改めて礼を言うと、クルスとギュスターはちょっと困ったように顔を見合わせ、それから心を決めたように頷き合った。
「……シルヴァ。実はそのことで、ちょっと黙ってたことがあって」
「本当は秘密にするよう頼まれてたんだけど」
クルスとギュスターから話を聞いた俺は目を見開き、思わず口元を緩めたけれど、本当はちょっと涙が出そうだった。その俺を見て、クルスとギュスターは慌てて言った。
「すみま……ごめん、シルヴァ! 本当はもっと早く言えばよかったんだけど」
「ずっと迷ってて」
ずずっと盛大に鼻を啜り、瞬きで涙を飛ばしたあと、俺はクルスとギュスターに向かって大きく笑ってみせた。
「ありがとな、俺にちゃんと教えてくれて。大丈夫。おかげで元気が出た。後は俺が何とかする。けど、まだちょっと時間がかかるかもしれないから、それまではもう少しお前らに頼ってもいいか?」
「もちろん!」
「喜んで!」
と、それまで俺たちの様子を黙って見ていたトリーが盛大にため息をついてみせた。
「シルヴァ、お前たちの茶番はもう十分なの。さっさと水を撒いて仕事を終わらせるの」
クルスとギュスターはまだトリーに慣れないようで、そのツンツンした物言いにびくりと体を強張らせた。が、俺はこの場の湿っぽい空気を変えようとしたトリーの意図に気づき、微笑んだ。
「トリーは本当に優しいですよね」
「お前の頭の中は相変わらずお花畑なの。それに受講生や見習い候補のお前たちと違って、私は忙しいの」
そう、見た目はミニマムで七歳ほどの容姿を持つトリーだが、実年齢は二十一歳の合法ロリで、この伝導の館においては絵描きの見習いである。つまりトリーは伝導師の一歩手前の地位にいるわけだ。
そもそも見習い候補から見習いに昇格できるのは全体の三割程度らしいので、この時点でトリーの才能が素晴らしいことはお墨付きだとわかる。実際、トリーの絵はすでに市場でもそこそこの値段で取引されており、商業画家としての道は歩み出しているらしい。
もっとも、見習いが得た売り上げの一部は自動的に伝導の館に徴収されるが、その特典として担当の伝導師が付いて個人指導を受けられるようになる。さらに、徴収された売上金の累積が一定額を超えていれば、例え伝導師にはなれなくとも対価労働は免除されるので、無料コースの見習い候補にとっては見習いに昇格することが第一の目標といえる。ちなみに受講生というのは、リアムたちのようにお貴族様専用の有料コースでこの館に入った者の正式名称だ。
「よし! じゃあ、お忙しいトリーがいなくならないうちにやっちゃいましょうか!」
俺の言葉を聞いたトリーがすっと眉をひそめる。
「……シルヴァ。時々、当たり前のように嫌味を混ぜるのはやめてほしいの」
「……ん?」
「まさか、自覚なしとでも言うの?」
俺はにっこりとトリーに微笑んだ。
「自覚はあります。でも、大丈夫ですよ。俺はちゃんと時と人を選んで発動しているので」
「余計にタチが悪いじゃないの!」
トリーはプリプリと憤ったが、本気でないことは一目瞭然だ。クルスとギュスターはびくびくしているが、リアムは呆れたように肩を竦めてみせた。俺は悪戯がバレたことを誤魔化すように小さく苦笑を返したあと、桶の水に意識を集中した。
「今日は最後だから、ちょっと特別仕様にしてみました! これでどうだ!」
桶の水を全て霧状にし、ちょうど軽く吹いてきた風に乗せて程よく拡散すると、水分の反射角度を素早く調整した。瞬間、中庭に大きな虹が架かった。思っていたより大きな虹だ。
「……すごい、綺麗なの」
微かに聞こえたトリーの呟きに、俺は口元を緩めた。それから空気の流れに乗せて、ゆっくりと水分を地面へと落としていった。虹は消え、中庭の水撒きが終わり、俺の罰もこれにて完了した。
*
庭師のエクトルとトピアスに中庭の修復完了を報告し、細部までチェックして合格をもらったあと、俺はようやく庭仕事からの解放感に浸りながら、リアムと共に食堂に向かっていた。
ちなみにトリーは見習いの特権で一足早く風呂に入ってくるとのことで、さっさと一人で部屋に戻っていった。クルスとギュスターも部屋で少し仮眠をすると言って早々に立ち去ってしまったので、久しぶりにリアムと二人きりだ。
「あ~……腹減った。眠い。腰が痛い。手が疲れた。全身がバキバキ言ってる。日焼けで肌がヒリヒリするよぉ。ああ、俺のせっかくの白い美肌が……」
俺の嘆きを聞き流しながら、リアムが呆れたように嘆息した。
「……お前なぁ、あいつらがいなくなった途端、気を抜きすぎだろ。つーか、反対だな。お前、いつも格好つけすぎ」
「わかってる。わかってるけどさぁ、昔からの癖っていうか……つい自覚なしでやっちゃうんだよ。リアムといるときは、そこまで気を張らないでいられるんだけどさぁ……」
「それにしては緩みすぎじゃね?」
「まさかの人格全否定? 俺、泣くよ?」
「ハイハイ。大丈夫だよ。お前はよくやってる。俺はちゃんと見てるから安心しろ。ちょっとした愚痴くらいなら、俺が聞き流してやるからさ」
「リアム……」
感動しそうになったあと、俺は不意に我に返った。
「え……いやいや、ちょっと待て。聞き流しちゃうの? ちゃんと聞いてくれないの?」
「そうだよ、全部聞き流す。それならお前も安心して、いくらでもグダグダ俺に言えるだろ?」
「うっ、何だろう……俺に対する理解の深さに驚嘆すべきか、そこはかとない悪意に慄くべきなのか、いろいろと疲れすぎててよくわからない……」
「……ふっ……ハハッ」
本気で悩み始めた俺を見て笑うと、リアムは言った。
「ったく、大丈夫だよ。ちゃんとそう言っただろ? というか、お前はもう少し体力をつけたほうがいいんじゃないか? 護身術を教えるのは構わないけど、肝心の体力がなかったら意味がないだろ?」
「くっ、正論! だが断る!」
「うん。格好いい感じに言ってるけど、普通に格好悪いからな?」
「だってぇ……走るのとか好きじゃない。庭仕事ももう嫌だ。俺は永遠にゴロゴロしてたいんだよっ」
「あぁ……ハイハイ。まあ、今は好きなだけグズっとけ。どうせ誰か来るとすぐ格好つけだすし」
「うわあ、確かに否定できないが。それって何か俺、最悪じゃね?」
「俺の前でだけなら、別に気を抜いてもいいだろ。俺が許す」
俺は隣を歩くイケメンをまじまじと見つめた。
「おお……リアム、我が心の友よ」
「お前、本当に調子いいよな~」
「うんうん、リアムのおかげだ。何か言いたいことを言ったら、少しすっきりした。ちょっと頑張れそう」
「そりゃ、よかったな。俺に感謝しろよ」
ふと、気が付いたら俺は立ち止まり、目をぱちくりしてリアムを見ていた。数歩、俺の横を行き過ぎてから、リアムが立ち止まり、俺のほうを振り返った。
「……ん? どうかしたか?」
「……忘れてた」
「何を?」
「一番大事なこと、忘れてた! あ~、もうっ、ホント最悪だな! 俺は!」
ずっと言おうと思ってたのに、いろいろ忙しくて忘れてた。けど、それはただの言い訳だ。周りに人がいるときは恥ずかしいからと、後回しにしてたのも事実だ。しかし、誰もいない二人きりの今こそ絶好のチャンス!!!
俺はぐっと拳を握り締め、口を開いた。
「リアム、本当に今更なんだけど……」
「……お、おう」
「あう……えっと、つまりだな……」
改まって口にするのは照れ臭く、もにゃもにゃと俺が言いよどんでいると、緊張が移ったのかリアムの頬が淡く染まるのが目に入った。その途端、俺は逆にストンと気持ちが落ち着いたのがわかった。
ああ……、やっぱいいな。リアムと一緒にいると、ほっとする。俺は心からそれを口にした。
「リアム、本当にありがとうな。クルスとギュスターに水を撒いておくよう指示してくれたことも、俺に必要なトリーの情報をあの短時間で適切に教えてくれたことも、本当に感謝してる。俺の切り札だった塩水も、お前がいたから安心して任せられた。何よりこの二週間、お前が率先して力仕事を引き受けてくれたから、体力のない俺でも頑張れた。おまけに格好悪い俺の愚痴にまでちゃんと付き合ってくれるとか、お前はちょっと出来過ぎなくらいだよ。お前がいてくれて、本当によかった。ありがとう」
リアムは少し驚いたように目を見開いたあと、赤くなった顔を両手で覆った。
「……あ~っ、くそっ。お前、そういうとこ本当にずるいよな」
「は……はぁあっ? 心外! 心からの感謝だろ!」
「だから、そういうところがだよ! つーか、不意打ちとかマジあり得ない! ほんっと……ずるいだろ!」
「ええ~……」
何というか……これはアレか? 照れてるってことでいいのかな。まあ、いつも軽口を叩きあっている間柄で、いきなり真面目モードで感謝とか口にされたら、確かに照れる。実際それが恥ずかしくて、俺も後回しにしてたわけだし。
というか、改めて指摘されると羞恥が戻るな。俺は頬の温度が再び上昇するのを感じながら、もごもごと続けた。
「……あ~、う~……えっと、つまりだな。とにかく、これからもよろしくってことで、頼む」
おずおずと手を差し出すと、リアムはチッと舌打ちしてみせながらも、俺の手を強く握ってくれた。
「当たり前だ。放っておくと、お前は何をしでかすかわかんねーからな。危なっかしくて仕方ない」
「おお、さすがリアム。頼もしいな!」
素直に喜んでいたら、すかさずリアムにしっかりと睨まれた。
「そうは言っても、お前も少しは自重しろ。毎回こんな感じだと、さすがに身が持たないぞ」
「おう……重々承知。痛いほど身に染みておりますので、以後はできるだけ気を付ける所存」
「ったく……ホント、頼むぞ」
握っていた手を離すと、俺たちは再び食堂に向かって歩き出した。
「……あ~、腹減ったな。夕飯前だけど、何か出してもらえるかな?」
「取り敢えず聞いてみようぜ。残り物でも何でもいい。あと、喉が渇いた……」
日常を取り戻した証しにグダグダとどうでもいいことを話しながら食堂に入った俺たちは、無事に岩芋の素揚げと黒豆のミルクティーをゲットし、隅の席に陣取った。
ちなみに岩芋の素揚げはフライドポテトに極めてよく似ているが、口にしてみるとかなり違う食べ物だ。どうでもよいが岩芋はスティック状ではなく、一口サイズのサイコロ状に切って揚げるのが一般的である。揚げたては外がカリカリ、中はねっとりもちもちの触感で、非常にうまい。シンプルに塩をかけて食べるもよし、癒し手の島の特産である風味豊かなスパイスを振るもよし、そのままスープに入れるのもお勧めの一品だ。腹持ちもよく、俺の生家でも頻繁に食卓に出されていた。
それから黒豆は俺の知っているものとは見た目も味も全く異なり、それを煮だして作られたお茶はコーヒーのようなカカオのような、何より果物のような華やかな香りがするのが特徴だ。この世界ではお茶に乳を入れて飲むという文化はなかったが、人目を気にして好物を諦めるような俺ではない。用意されている飲み物コーナーで茶碗に入れた黒豆茶に乳を足し、さらに夕食用に一足早く出されていた木の実の甘煮を一匙いただくと、丁寧にかき回した。
いつものことではあるが、それを見たリアムが何とも言えない面持ちになった。
「シルヴァ。お前、相変わらず味覚がおかしいよな。水の民とか関係ないだろ? そんなことやってるのお前だけだし。つーか、お茶に乳を入れて、しかも木の実の甘煮をぶち込むとか、はっきり言って正気の沙汰じゃない」
「ええ~っ、美味しいのに。一口でいいから飲んでみろって。うまいから」
「いや、いい。断固拒絶する。というか、そもそも俺は甘いものはあまり好きじゃないんだよ」
「リアムは辛いの好きだよね。あと肉」
「まあな。取り敢えず肉があれば何でもいい。あと、この岩芋の素揚げもあれば完璧」
「ああ、それは同意。でも、糖分は必要でしょ。俺のこのお茶だって、カノンは美味しいって言ってくれた、し……」
その名前を口にした途端、俺はしおしおと自分の元気がなくなっていくのを実感した。その俺を見て、リアムがため息をつく。
「お前ら、相部屋だろ? いい加減、何とか仲直りできないのか?」
俺はべしゃりとテーブルに突っ伏した。
「カノン、俺の話を全然聞いてくれないんだよ……」
「一応確認するけど、あいつがどうしてヘソを曲げているか、お前はちゃんとわかってるんだよな?」
「わかってる……はず」
「念のため、言ってみ?」
「トリーのことを、俺が可愛いって言ったからだよな? そのすぐ前に、女の子には興味ないって言ってたのに。で、嘘つき、だろ? もともとカノンは俺に独占欲がある感じはしてたから、やきもちを拗らせたのかな……ってのは想像してる。俺、間違ってた?」
「大体それであってるだろ、多分。で、そこまでわかってて、何でどうにもできないわけ? 言っちゃなんだけど、この俺とあのトリーをほとんど口先だけで自分の思い通りにしたそのお前が、どうしてカノンを丸め込めないんだよ? 一度はうまくやったんだろ?」
「うぅ……言い方ぁ。……っていうか、押しても駄目なら引いてみろって感じで、いろいろ試してはみたんだよ。けど全く効果がないどころか、ある意味さっきお前が言った俺の実績のせいで警戒しまくってて。少し時間を置いたくらいじゃ俺の話なんか聞いてくれないんだよ。そうするともう押しても引いても悪循環で、ほぼほぼ何もできない状態っていうか……」
「ああ……なるほど」
岩芋の素揚げを口にポイポイ放り込みながら、リアムは頷いた。俺も負けじと自分の皿の中身を減らしつつ、深々と嘆息した。
「カノン、ああ見えて結構頑固なんだよな。今は取り敢えず、クルスとギュスターにカノンのことをいろいろ気にかけてもらえるよう、頼んでるんだけどさ……。リアムも時々はカノンと話してるだろ? 俺のこと何か聞いてない?」
「聞いてない。というか、極力お前のことは無視してる感じかな。もはや存在してない、くらいに。まあ、俺からしたら逆にそれが意識しまくってるのがバレバレというか。あの年頃だと仕方ないんだけど」
「そうなんだよなぁ……」
しおしおと溶けている俺を見ながら、リアムは自分の皿にある最後の岩芋の素揚げを口に入れた。乳の入ってないシンプルな黒豆茶を飲み、ハンカチで口元を拭う。普段はあまり気にしていないが、リアムの食事の様子などを見ていると、何気ない一つ一つの所作が綺麗で育ちの良さが感じられる。さすがお貴族様だ。
まだ皿に少し残っている岩芋の素揚げを俺がのろのろ食べていると、リアムは首を傾げて言った。
「というか話はちょっと変わるけど、それこそあのクルスとギュスターをよく友達にできたな。あいつらの思い込みが激しいのは半端じゃない。何しろあのろくでもない俺と一緒に剣士の館をやめて、ここに入るくらいだからな。あの二人がいつの間にかお前の舎弟を卒業してて、すげーびっくりしたんだけど」
傷心の話題から逸れて少し気が楽になったこともあり、俺は軽く笑ってミルクティーの中から木の実を取り出すと、貴重な甘味を口に放り込んだ。
「まあ、リアムもいまだに何だかんだあの二人に慕われてるよね。っていうか、これは純粋に質問なんだけど。クルスとギュスターが頑なに俺の友達じゃなく、舎弟という立場でいたがってたのって、お前は何も関与してないのか?」
リアムは肩を竦めてみせた。
「してないし、俺はむしろ友達でいいだろって思ってたし、あいつらにもちゃんとそう言ってた。ただ、俺の友達であるお前と、自分たちが対等な立場なのは気が引ける……みたいな、謎ルールが存在してたのは何となく知ってた。だからって、俺が言っても覆らないんだが。そういうところが厄介なんだよな」
「ああ……従順なようで、実質は異なるという……」
「そうそう、そんな感じ」
「だけど、あいつらの一番は今でもリアムなんだよな。……いや、これは別に嫉妬とかじゃないぞ」
「わかってるって。つーか、お前にとっては別に羨ましくもないだろ」
「うん? ……まあ、そうだな。俺は舎弟とかいらないし。対等な友達のほうがずっといい。現状、できるだけ対等な友達って感じだけどな。少なくとも敬語じゃなくなっただけでも進歩だろ」
「確かに」
気が付くと皿に山盛りになっていた岩芋の素揚げはなくなり、腹が満たされたことで眠気を催しつつあった。俺は欠伸をすると、同じく眠そうな顔をしているリアムに言った。
「明日から照の月か……。いよいよ光の季節真っ只中だな。繋ぎ手の島ってホント暑い。俺、耐えられるかな……」
「ホントそれな。お前がいた夢見人の島ほどじゃないだろうけど、俺のいた守り人の島も年間通して割と涼しい気候だからな……この暑さは結構堪える」
この世界には五つの季節があるが、炎の季節と光の季節はいわゆる夏のようなものだ。そして闇の季節と水の季節は冬である。それが交互にやって来て、一年の最後にやって来る風の季節は春と秋が混じったような一番過ごしやすい気候になる。
だが、もともと島ごとに環境が異なるので、同じ季節でもどこの島に滞在しているかで全く違う。以前、俺が村の学び舎で得た一般的な知識によると、癒し手の島は熱帯、守り人の島は湿潤、繋ぎ手の島は乾燥、夢見人の島は寒冷だ。今まで俺がいた夢見人の島では、光の季節でもこんなに暑くはならなかった。
俺は黒豆のミルクティーを飲み干し、リアムに言った。
「けど、光の週の光の日には、光の降臨祭があるじゃん。この館は光の宮殿のすぐ隣にあるし、都は毎年すごいお祭り騒ぎだって聞いてるから、実はずっと前から楽しみにしてるんだよね。降臨祭の日は授業もないし、星雨祭の時みたいに出店なんかもあったりするんだろ?」
「そうらしいな。俺もまだここに来て一年経ってないからよくは知らないが、やっぱ地元の都で行う精霊祭は特別だからな。今まで何度か闇の都で闇の降臨祭を過ごしたことがあるけど、いつも盛大な祭りだった。ここでもそれは変わらないだろ。というか、むしろ光の都は普段から観光業に力を入れてるし、派手さではどこの都にも引けを取らない催し物を計画しているはずだ」
「そうなんだよなぁ……」
数週間前にあった星雨祭では、夜になると大きな花火が打ち上げられた。火薬だの何だの、詳しく語れるような知識は持ち合わせていないが、夜空を彩る色の鮮やかさやデザイン、大きさなど、俺の知っている花火に勝るとも劣らない、本当に素晴らしい代物だった。
ちなみに星雨祭というのは、この世界の中心で絶え間なく降っている星の雨を祝う祭りだ。星の雨は創世の時代に光と闇が互いを求めあい、結果、炎と水が生まれた衝撃と共に産まれたとされている。つまりそれが本当なら、星の雨は精霊発生以前より存在する、まさに世界の始まりといっても過言ではない歴史的産物なのだ。そして例によって詳細は不明だが、星の雨はこの世界を守る要としての役目を担っているらしい。
それはともかく、この星の雨を祝う祭りの際には、自分ではない誰かのための願い事を紙に書き、手持ち花火に巻き付けて火を灯すのが習わしだ。火花を星の雨に見立て、他者のために祈る美しい祭事である。
伝導の館では花火代と称し、見習い候補たちに一律の小遣いが配られ、街に出ることが許された。まだトリーと出会う前だったので、俺はリアムやカノンと一緒に星雨祭を楽しんだものだ。あの時、俺は村にいる家族と二人の新たな友人の幸せを願ったけれど、カノンは何を願っていたんだろう……。
カノンを想って俺が再び消沈していると、リアムが元気づけるように口を開いた。
「とにかく、光の降臨祭までには何とかしないとな。俺もまたカノンと一緒に祭りを見て回りたいし」
「おう、そうだな!」
「今日の打ち上げ、カノンも誘ってみるんだろ?」
「そのつもりだけど、俺だと話を聞いてもらえない可能性があるから、クルスとギュスターにも頼んである。最近カノンはあの二人と一緒にいることが多いし。リアムも見かけたら誘ってみてくれ」
「それは構わないけど……」
ふわぁ……と大きな欠伸をし、リアムは徐々に人が増えてきた食堂を見回した。
「俺、もう腹いっぱいだわ。今日の夕飯はこれで終わりかな。今から風呂入って仮眠して……それから談話室に行くから、カノンに会えるかわかんないけど。まあ、会えたらもちろん誘っておくよ」
「頼む。っていうか、俺も同じこと考えてた。風呂のあと、寝過ごさないようにしないとな……」
「時間になっても来なかったら、誰か部屋に呼びに来るだろ」
「一応、俺が主催なのにそれはまずいって。中庭修復完了祝いという名目の親睦会だし」
「まあな。お前がいないと締まらないことは確かだ。何のために集まったのかわからないしな」
俺とリアムは席を立ち、それぞれ自分の使った食器を片付けると、食堂を後にした。結局、廊下の途中でリアムと別れて部屋に戻ったものの、再び風呂場で一緒になり、また各々自分の部屋に帰って仮眠をし、約束の時間に間に合うよう談話室に向かった。
伝えの塔にある見習い候補たちの居住区は専攻や技量レベルで分かれており、各階ごとにちょっとした憩いの場である談話室も用意されている。リアムたち受講生は、見習い候補でも一番下の俺やカノンと同じ階層だが、見習いであるトリーは当然ながら異なる階に部屋がある。余程の用事がない限り、最下層の俺たちは上の階には行けないので、この親睦会はトリーに下の階に降りてきてもらうことになっていた。
俺は時間ギリギリまでカノンを探していたので、すでにリアムたち三人とトリーは談話室に集まっており、到着したのは俺が最後だった。一人で現れた俺の様子を見ると、みな事情を察したように微苦笑し、だがそこには触れないよう明るく挨拶を交わした。親睦会の下準備はクルスとギュスターが引き受けてくれていたので、もう席は整っている。魚の刻を告げる鐘の音を遠くに聞きながら、俺たちは緩やかに親睦会を始めた。
まあ、親睦会といっても夕飯後にみんなで集まり、ちょっとしたお菓子をつまみながら、この二週間の中庭修復の大変さなどについて互いに語り合う、ただのお疲れさん会である。煎り豆や干し肉、ほんのり甘いアラレなど、食堂にいつも置いてある安価な干菓子を少しいただき、飲み物は談話室に常備されている香草水ですませることにしたので、内容的には普段の歓談と変わらない。
だが、互いに話したいことはたくさんあったので、俺たちのいる談話室の一角はすぐに盛り上がった。
「それにしても、トリーはよく俺たちの手話を知っていましたね。一瞬、見間違えたのかと思いましたよ」
俺の言葉に、リアムが深く頷いた。
「ああ、あれには俺も驚いた。確か……≪お前・倒れる・嘘≫……だったっけ。俺たちしか知らないはずの手話を突然やってみせたから、意味があってるのか不安でしたけど」
実際に手を動かして見せながら、リアムが言った。
そう、あれは確かトリーと決闘する直前、食堂から中庭に移動している途中でのやり取りだった。リアムが俺の軽率な発言を弁護してくれたものの、トリーは高飛車に一蹴し、俺に向かって謝罪と降伏を要求していた。けれどトリーが不意にしてみせた手話のおかげで、その優しさと真意が伝わった。要するにトリーは俺に、やられたふりをしてさっさと謝れと進言してくれたのだ。
しかしそれを理解して尚、俺はトリーの言葉を突っぱねた。それでも恐らくトリーは俺に炎まで使うつもりはなかったに違いない。実際、体内水分のコントロールで冷静さを取り戻すことができなかったら、俺はやられるふりをするまでもなく、中庭に充満した静電気の餌食でゲームオーバーだっただろう。俺はトリーの思惑通り謝るしかないが、それでは今のような友人関係は望めなかったはずだ。
けれど、水は電気を通す。伝導率……だったか? 理科はあまり興味がなかったので、そこらへんの有用な知識をよく覚えていないのが今更ながら悔やまれる。とはいえ、俺は諦めなかった。光の民であるカノンの協力のもと、遊びも兼ねていろいろと試行錯誤をし、水の民の能力の使い方を改めて確かめていたのが功を奏した。トリーと出会う前にカノンと様々な実験をしていなかったら、空気中に水分の膜を作り、そこに静電気を流して退けるなんてことは咄嗟にできなかっただろう。
何より、塩水が俺の切り札になるという発想は生まれもしなかったに違いない。その原点はかつて小学校……いや、中学? で習った水の電気分解である。何かこう……水に電気を通すと、いろいろ分解する……的なアレだよ。電極? のプラスとマイナスにこう……イオンの何か……アレがアレで、分かれるんだよね? 水はほら、確か化学記号的に……酸素と水素? が、くっついて出来てる……から、多分そんな感じに分かれるはず!!!
そして水に電気を流しているカノンの両手を電極に見立て、火を近づけてみたけれど、特に変化が起きることはなかった。あれ? 酸素も水素も火が燃えやすくなるんじゃなかったっけ?
ということで、実験はなかなか成功しなかったのだが、俺はある日ふと思い出したのだ。理科の実験といえば、そう! 食塩水であるということに!
そして俺は塩水に電気を通してもらうようカノンに頼み、どちらの手に近づけても火が大きくなることを確認した。左右で多少違いはあるが、何と何が発生しているのかまでは、残念ながら思い出すことができなかった。
……という、極めて曖昧な実験の数々を経て、俺はあの無謀な戦いの切り札として塩水を使用したわけだ。今、改めて冷静に考えると、我ながら正気の沙汰ではない。
ちなみに中庭の修復を仰せつかったあと、大惨事の状態であるのをいいことに、トリーに協力してもらって小規模ながらあの時の再現をしようと試みたのだが、何度やってもうまくいかなかった。俺が作った塩水の濃い霧に、トリーの帯電した炎を同じように投入しても、爆発することなく炎が拡散してしまうのだ。
つまり炎は帯電しているが、電気分解ではなく、静電気を退けたときのような状況を引き起こしていると推測される。水滴の一つ一つの大きさ、霧の密度のせいなのか、はたまた塩水の濃度が悪いのか、あるいは水分量と炎の帯電量の比率が違うのか。とにかく中庭の修復を始めないわけにはいかなかったので、短時間の実験では満足のいく結果を得ることはできなかった。が、いきなり実戦に使うのがとんでもない大博打であったことだけは間違いない。
その事実を知ったトリーは大いに呆れていたが、今現在、本来なら知らないはずの手話を使った事実を俺とリアムに言及されると、慌てたように瞬きして頬を赤く染めた。
「そ……れは、何かこう……たまたま、たまたま! お前たちが大声で話しながら、手の合図を決めているところを、ちょっと……ちょっとだけ見かけたことがあるというか……本当にそれだけなの! 別に、お前たちのことなんか気にしてないの! 見習いで、何よりお前たちよりずっと年上であるこの私が、受講生や格下の見習い候補たちのことなど、気にするはずがないの! ただ、食堂でお前たちがいつもぎゃあぎゃあ騒いでいるから、自然と耳に入ってきただけなの! うるさいし、余計なことまで聞かされて、本当にいい迷惑なの!」
「な……なるほど。それは……すみません、いつも」
何とか……何とか口元の緩みを堪えながら、俺はトリーに謝罪した。
実際のところ、俺たちは確かによく食堂で手信号や手話のサインについて相談していたが、むしろ声は意図して普段より落としていた。仲間内で使う秘密の合図を決めていたのだから、そんな大声で話すわけがない。まあ、それでもお遊びの範疇ではあったので、食堂という公共の場でやり取りはしていたが、何度も近くで耳を澄ましていない限り、俺たちと同じように使いこなすのは普通に無理だ。
つまりトリーは、俺がその存在に気づくよりずっと前から秘かにそばにいて、俺たちのことを気にしていたことになる。受講生であるリアムが問題児だったことは、通常あまり接点のない見習いのトリーも知っていたようだし、俺たちの謝罪行脚についても多少の噂は流れていただろう。
これは想像でしかないが、最初は本当にたまたま近くで俺たちの会話を聞き、そのうち娯楽感覚で俺たちの様子を眺めるようになったのかもしれない。常に一人で、周囲に恐れられ、友人と会話することもできないトリーならばあり得ることだ。
さらに付け加えるならば、食堂の使用時間は大雑把に分かれているが、最下層の俺たちと違って見習いのトリーは時間の制約も少ない。ミニマムな背丈は見習い候補たちの時間帯のほうがかえって紛れやすいし、そもそもカノンとぶつかったのも、いつも俺たちの近くで食事をしていたからだろう。
謎は全て解けた! と言いたいところだが、トリーから発せられる凄まじいまでの殺意の波動をひしひしと感じる今、口にするわけにはいかないようだ。ゆるゆるに緩んだ唇を必死に引き締めようとするが、あまりの可愛さに息をするのも辛い。合法ロリのツンデレとか……最高かよ!!!
「……シルヴァ。中庭の修復費用は誰が負担したのか、知っているはずなの」
不意に、その愛らしい容姿から発せられたとは思えないほど恐ろしい声が耳に入り、俺は背筋が凍るのを感じた。何より、その内容の恐ろしさは言うまでもない。
俺は打って変わって顔を引きつらせた。
「もちろんです、トリー! 本当に感謝しています」
「そのうえ、お前たちの修復作業も手伝ったの。暑いし、疲れるし、汚れるし……」
「そ~うだ! トリー、実はあなたに贈り物があるんです! 気に入ってもらえるかわからないですが、是非受け取ってください!」
トリーの攻撃を強引に遮ると、俺は部屋から持参したものをいそいそと取り出した。
そう、新しく張り替えることになった芝生も、無残に消し炭となった植木や花の代わりも、無料では決して手に入らない。中庭の大惨事にトリーが関わっていたことは一目瞭然だったし、目撃者も大勢いた。あの場では逃げおおせていたが、伝導の館に住んでいる以上、全くお咎めなしということはあり得ない。結局、罰として修復費用はトリーが支払うことになり、修復作業は俺が請け負うことに決定した。立場の違いや資金の有無、作業効率、怪我などの安全面を考慮しても、妥当な裁決であろう。
だがトリーは修復費用を払っただけでなく、何だかんだ理由をつけては修復作業の様子を見に来て、いろいろと手伝ってもくれた。まあ、焼け焦げた塔の壁の掃除とか、芝生や植木の残骸撤去、土を耕し、水を運び、その他もろもろの力仕事はほぼ俺とリアムたちが従事したわけだが、それでもトリーのおかげで細かい作業などははかどったし、何よりその心遣いが嬉しかった。トリーにしても俺たちと仲良くなるいい口実ではあっただろうが、そんな健気な一面もトリーのいいところだ。
そんなわけで諸々の感謝も込め、俺としては仲良くなれた証しの代わりに、ちょっとした贈り物をトリーに用意していた。実は俺が生家から旅立つ際、姉さんが荷物に黙って入れておいてくれたものだ。一緒に入っていた手紙には『女の子に贈り物をしたくなったら使いなさい』と書かれていたが、今がまさにその時であろう。正規品の十一歳男子だったら、余計なお世話だし意味がわからないとさえ思ったかもしれない代物だが、元腐女子の俺としては気の利いた姉さんだと感心した一品だ。
手軽で可愛いラッピング用品などはないので、俺は小さな木の箱をそのままトリーに差し出した。トリーは驚いたように目を見開いたあと、恐る恐るそれを受け取った。いつもの憎まれ口すら忘れるほど、びっくりしているようだ。
「……これを、私に?」
「はい。トリーによく似合うと思って。開けてみてください」
もっとも、蓋に手をかけて箱を開けようとした瞬間、トリーは警戒心を取り戻したように躊躇した。キッと鋭い眼差しを俺に向け、念を押すように言う。
「……変な悪戯だったら、絶対に許さないの」
不憫な思考回路に内心同情を覚えながら、俺はにこやかに微笑んだ。トリーの今までを考えると、何か可哀そうなトラウマがありそうで切ない。
「そんな子供っぽいこと、俺はしませんよ。何なら俺が開けてみせます」
俺が手を差し出すと、トリーは我に返ったようにハッと息を呑んだ。それから疑った自分を恥じるように目を伏せ、すぐに顔を上げて言った。
「い……今のはただの冗談なの。お前のことは、信用しているの」
それでも少し緊張しているように、トリーはそっと木の箱を開けた。そして中身が何かわかると、嬉しそうに頬を上気させた。
「これ……本当にもらっていいの? 都でもなかなか手に入らないはずなの」
「俺のいた村ではそんなに珍しくもないものですよ。まあ、さすがに普段使いしているものとはかなり違いますけど。これは売り物仕様になっているので」
「こんな高級品を普段使いとか……お前の村は何をしているの?」
驚きを隠せないトリーに、俺は肩を竦めてみせた。
「俺の村は主にガラス製品を作ってるんですが、織物や染物も結構有名なんですよ。父と兄はガラス職人ですが、姉は染物をやっているので。これは糸の染色に使う材料を加工したものです。俺がいつも腕に着けているこの撚り紐も、姉が染めた糸の余りを妹が編んでくれたものなんですよ」
俺が生家から旅立つ際に妹からつけてもらった撚り紐を見せると、トリーは納得したように頷いた。
「そういうことなら、お前がこんな高級品を持っている理由はわかったの。でも、本当に私がもらってもいいの? もっと……こう、いつか大事な人ができたときのために取っておくとか……」
「俺は今、トリーにもらってほしいと思ったので。よかったら、俺がつけてあげますよ」
単に渡しただけだと、トリーは大事に仕舞い込んでなかなか使わないような気もしたので、俺は一応提案してみせた。が、適切な情報開示の一環として、このことも付け加えねばなるまい。
「ただ……俺は残念ながらあまり手先が器用ではないので、本当はトリーが自分でやったほうが綺麗に仕上がる気もするんですけど。何しろ絵描きの見習いですから。こういう筆を使った細かい作業は、俺よりずっと得意でしょう?」
「それは当然なの。でも……い、一回くらい、お前がどれだけ不器用か、確かめてみるのも悪くないの」
いつもの素直じゃないトリーが戻ってきたことに気づき、俺が思わず口元を緩めていると、さっきから蚊帳の外に追い出されていたリアムたちが話に加わってきた。
「っていうか、結局それは何なんだ?」
「小さな筆と匙、ガラスの小皿、それから……黒い粉の入った小瓶?」
トリーの手元を覗き込んで首を傾げているリアムとギュスターに、珍しくクルスが得意げに説明した。
「これは爪染だよ。爪を赤く染めるんだ。姉上が宴に出るときに使ってた。確かにかなりの高級品だ。姉上も誕生日にどうしてもとねだって、ようやく父上から買ってもらえたくらいだし」
リアムは苦手そうに天を仰いだ。
「あ~、そういう感じのヤツか。俺は男兄弟しかいないし、そういうのはよくわからないんだよな」
「俺もだ。母上が何かやってたとしても、あんまり気にしてないしな……」
そういうとこだぞ、男性諸君! と言いたいところだが、女のほうも別に男のためにお洒落しているわけではないからな……。人にもよるだろうが、基本、女は自分のために好きな服を着て、好きなメイクをして、好きなネイルをしている。少なくとも腐女子時代の俺はそうだった。まあ、人にもよるだろうが。
それにお貴族様にはお貴族様の事情もあるだろうし、一概には言えないが、トリーの嬉しそうな顔を見ていると、お洒落の理由は自分のためだけで十分だと確信する。
「はい、じゃあ今から俺がやってみせるので、周りはしばらく静かにするように! 貴重な染料が鼻息で飛ぶと困る」
「了解!」
とはいえ、実は俺の鼻息が一番危ない。まず木の箱から小さな道具を全て出すと、俺は水の民の特権で、空気中にある水分をガラスの小皿の中央にほんの少し集めた。それから息を止め、小瓶の黒い粉を素早く小さな匙ですくい、小皿の水に入れた。匙を置き、小瓶の栓をし、小さな筆で水と染料をよく混ぜる。
ここでようやく呼吸を再開し、俺はトリーに手を差し出した。
「ではトリー、お手をどうぞ。お前らも、もう喋っていいぞ」
ほっとした空気を出しながらも、リアムたちは黙って俺の手元を見学することにしたようだ。穏やかな沈黙の中、トリーは膝の上できゅっと右手を握り締めると、左手を俺に差し出した。
「こっちの爪にお願いするの」
「どの指にしますか? 染める指によって、いろいろ意味が違うみたいですが」
俺の村では別に珍しいものではなかったから皆好きなように爪を染めていたが、ここでは貴重品だ。そこで貴族たちは己がケチではないことを示すため、爪を染める指によって違う意味をつけた。
例えば右手の親指の爪を染めるのは、年長者の健康を願う祈りが込められている。そして左手の人差し指は、遠くに旅立った者の無事を祈っている。とか、とにかく自分ではない誰かの幸せを祈る意味合いが込められている。そして多くを望むより、最も大切なことを一つだけ、心から祈ることこそ美徳であろう……。
だから一つの爪しか染めないのはケチではない。断じて、ケチだからではないのだ!!! という、貴族の夫や父親たちの切実な財政戦略により、高級品を無駄遣いしたがる妻や娘たちに向けて情報操作したのだと、俺は勝手に解釈している。その想像はあながち的外れではないはずだ。
もっとも昨今は商人たちのたゆまぬ努力により、港町や都などではできるだけ安価に抑えた屋台の爪染が登場した。そもそも貴族の間で広まっていたのは、俺が水で溶いたように長期保存のきく粉状の染料だ。これは原料の花を長時間ゆっくり煮詰めて作るので多くは出荷できず、本当に高級品なのだ。手間暇かけて作られただけのことはあり、これで染めた爪は色が長持ちし、発色も綺麗だ。
しかし村で染物に使っている染料を短時間で濃い目に煮詰め、液体のまま瓶に詰めるだけなら、保存はあまりきかないが価格は相当抑えられる。おまけに一人一つの爪しか染めないのであれば、屋台の店主が客の爪に素早く塗るだけでいい。染料を水で溶く手間も、長期保存の必要もなく、庶民が気軽に手を出せる値段でも十二分に利益は出るのだ。使い方としては、俺の村で女性たちが普段使いしているのと変わらない。
そんなわけで十の指につけられた意味は庶民の間にも広まっており、俺はトリーに一つだけ染める指を尋ねたのだ。
トリーはほんの一瞬躊躇ったあと、俺を真っすぐ見つめながら、きっぱりとそれを口にした。
「……薬指に、お願いするの」
左手の薬指か。それの意味するところは確か……。
「世界の安寧、ですか。さすがトリー、心が広いです」
俺がにこにこして答えると、トリーは瞬きを一つし、それから咳払いをして言った。
「……と、当然なの。この世界の安寧こそ、私が最も願うことなの」
「そうですよね。世界の安寧は大事です」
クルスが物言いたげな眼差しになったのは気づいたが、俺は敢えてそれを無視した。そしてその意味さえも悟ったように瞬きを一つし、クルスは沈黙を守った。さらにその俺とクルスの無言のやり取りに気づきながら言及せず、見守ることに徹したリアムとギュスター、さすが俺の友人はみな優秀だ。
もっとも、どの指にも他者への祈りが込められているので悪い意味などないし、制約もない。世界への安寧の祈りが込められた左手の薬指は、その最たるものだろう。特定の他者が想起されることもなく、ある意味、一番当たり障りのない祈りでもある。
似たようなものだと、例えば左手の中指には光の精霊に対する祈りが込められており、あらゆるものへの繋がりや出会いなどの感謝を意味している。もちろん染めるのは光の民でなくても問題ない。確かに己が種族の精霊は特別だが、俺がかつていた世界における宗教とは異なり、どの種族に生まれても同じように五つの精霊に祈りを捧げる。この世界の成り立ちからして一つとして欠けていいものはなく、五つの精霊に優劣はないのだ。
俺は附属の筆に染料を含ませ、慎重にトリーの左手の薬指を赤く染めた。爪からはみ出さないように、そして色が均一に長持ちするように重ね塗りをし、貴重な染料を使い切る。
「……はい、できました! しばらく何も触らないでしっかり乾かしてくださいね。最初のころは手を洗ったりすると少し色が落ちるのが見えますけど、そのあとは徐々に薄くなっていく感じです。完全に色がなくなってから他の爪を染めてもいいですし、同じ爪なら定期的に重ねて塗れば少ない量でいつも綺麗な色を保てますよ」
「……すごい、綺麗なの」
自分の爪を眺めてうっとりと呟いたあと、トリーは我に返ったように頬を染め、ツンツンと言い直した。
「ま、まあ! 思ったよりも綺麗に塗れているの! お前がそこまで不器用じゃなくて安心したの!」
「いやぁ、失敗しなくてよかったです。ホント、こういう作業は苦手なんですよ」
俺が笑って言うと、トリーは少しバツが悪くなったように付け加えた。
「で……でも、お前に塗ってもらってよかったの。使い方とか、知ってはいたけど、実際に染めるのは初めてなの。きっと、もらっただけだといつ使っていいか決められなくて、大事に眺めているだけだったかもしれないの」
居心地が悪そうに視線を泳がせたあと、トリーは意を決したようにそれを口にした。
「だから、その……あ、ありが、とう! いろいろ……本当に……その……」
言葉を探すように尻すぼみになっていくトリーに微笑み、俺は言った。
「俺のほうこそ、本当にありがとうございます。だから、これからも俺たちと仲良くしてくださいね。都で今度開催される光の降臨祭も、トリーと一緒に行けたらいいなって思ってるんですよ」
俺の言葉にトリーは顔を輝かせ、それから慌てて自重するように渋面を作ってみせた。
「ま……まあ、考えておくの。もしかしたら、暑さと気の迷いでお前たちと一緒に行くかもしれないの」
「是非、お願いします」
あまり笑顔になりすぎないように言い、俺は爪染の道具を片づけた。
「それからこれは、あとで簡単に洗ってください。大勢が使う水場だと失くしてしまうかもしれないので、濡らした布でそっと拭うだけで大丈夫ですよ。筆はよく乾かしてからしまってくださいね」
「わかったの。……あ、ちょっと待つの!」
一息つこうと、空になった椀を手に俺が香草水を注ぎに行こうとすると、トリーに呼び止められた。
「何ですか? 欲しいものがあれば、俺が小皿に取り分けてあげますよ」
「そうじゃ、ないの!」
トリーは赤い顔で言うと、左手の薬指がどこかに触れないよう気にしながらも、右手だけで何か取り出した。筒状に巻いた紙をぶっきらぼうに俺に差し出す。
「お前にこれをやるの。以前、暇なときに描いた落書きの中からたまたま見つけたの。いらなかったら捨ててもいいの」
俺は椀をテーブルに置き、トリーが差し出している筒状の紙を受け取った。紐をほどき、丸まった紙をゆっくり広げると、そこには繊細なタッチで描かれた五人の少年が現れた。炭で描かれたデッサンに、淡い色が彩られている。モデルを知っている者ならば、すぐにわかる。これは俺たちだ。俺とリアム、クルスとギュスター、そしてカノン。俺たちの真ん中で笑っている金色の髪の少年は、間違いなくカノンだ。トリーが実物を見て描いたのだとしたら、これは少し前の出来事だろう。
ふと、涙がこぼれそうになっていることに気づき、俺は慌てて瞬きをした。
「あ……ありがとうございます、トリー。すごく、嬉しいです。部屋に飾らせてもらいますね」
「好きにするの。それから……あの子」
「はい?」
「……カノンとかいう、お前と同室の光の民のことなの」
「ああ……はい」
何だろう? カノンがぶつかった件は、最初から怒ってないということで解決していたはずだが。
疑問に思いつつ俺が頷くと、トリーは視線を逸らしながら言った。
「光の降臨祭、もし一緒に行くなら、何か甘いものでも買ってあげるかもしれないの」
「……トリー……!」
俺が感動していると、トリーは頬を染めたままぷいっと横を向いた。
「気……気が向いたら、っていうだけの話なの! だから……お前もさっさと仲直りするの」
「ありがとうございます、トリー。俺、全力で頑張ります!」
「それだけなの。さっさと香草水でも何でも取りに行くの」
五人の少年が描かれた紙をそっと胸に抱きしめ、俺は心からトリーに微笑んだ。それから数日後に起きることなど、何一つ知りもせずに……。
…………ってー、これはそぉゆぅ話じゃないからっ!!! 庭仕事は俺とトリーが大惨事にした中庭を元通り修復するよう命じられた、ただの罰だから!!! 腐女子時代は曲がりなりにも優等生で通してきたこの俺が! 気が付いたら成績底辺の問題児とか! まあ、全部自分のせい……というか、納得ずくで始めたことではあるけれども。それに、代償として得たものもあるしな。
「シルヴァ、水を持ってきた!」
「どこに置いたらいい?」
クルスとギュスターの声に振り返ると、二人は水の入った桶を両手に持ち、中庭に入ってくるところだった。
「おお、すまん。こっちまで来てもらえるか?」
俺は二人に手を振ると、肥料と土を混ぜ込んでいた鍬を脇に置いた。それを見て、トリーが耕し終わったところに花の球根を一つ一つ丁寧に植え始める。少し離れたところで芝生を張り替えているリアムも、そろそろ仕事が終わりそうだ。
「水はこの辺に置いといてくれ」
クルスとギュスターに言うと、俺は正方形に切り取られた板状の芝生の塊をタイルのように敷き詰めているリアムのところに行き、残りの作業を一緒にやった。
「……よしっと! これで一応は完成かな。後は水をやれば終わりだ」
芝生を運んできた台車や、鍬などの道具をみんなで片付けると、俺はクルスとギュスターが運んでくれた桶の周りに仲間を集めた。リアム、クルス、ギュスター、そしてトリー。この二週間、繋ぎ手の島特有の炎天下の中、焼け焦げた中庭の修復に携わった仲間たちは皆、それぞれに日焼けをして汗と泥に塗れているが、どこか清々しい面持ちだ。
舎弟でいいと頑なに言い張っていたクルスとギュスターもようやく敬語をやめ、俺の友達になってくれるよう口説き落とすことに成功した。まあ実際のところ、舎弟なら罰の庭仕事を手伝うのは禁ずるが、友達なら是非ともお願いしたいと言い、半ば無理やり説得した。こんな詭弁に乗ってくれるとは、二人とも奇特な奴らだ。本当に感謝の念に堪えない。
そして実はもう一人、この場にいてほしかった者がいるのだが、最後まで実現しなかったのはこの俺の不徳の致すところだ。残念だが仕方あるまい。でも、彼はきっと気にしているだろう。今もどこかで俺たちの様子を見ているかもしれない。俺は天に輝く竜の息吹を軽く見上げ、それから目の前にいる大切な友達に向かって言った。
「この二週間、俺の罰に付き合ってくれて本当にありがとう。みんなが貴重な休み時間を潰して手伝ってくれなかったら、こんなに早く中庭の修復は終わらなかった。特にクルスとギュスター、お前らほんっと大馬鹿野郎だよな。俺の友達になってくれて最高に嬉しいよ」
クルス、それからギュスターを軽く抱きしめると、二人は少し照れたように口を開いた。
「いや、俺たちはただ、シルヴァと一緒にいたかっただけっていうか」
「そうそう! それに中庭が半壊したのは、俺たちも無関係じゃないっていうか」
トリーとの争いに先んじて、二人が中庭に水を撒いておいてくれたことは絶対に忘れない。俺は二人の手をぎゅっと握った。
「あの水がなかったら、俺はトリーとこんな風に仲良くなれなかったし、お前らともまだちゃんと友達になれていなかっただろうな。だから本当にありがとう!」
改めて礼を言うと、クルスとギュスターはちょっと困ったように顔を見合わせ、それから心を決めたように頷き合った。
「……シルヴァ。実はそのことで、ちょっと黙ってたことがあって」
「本当は秘密にするよう頼まれてたんだけど」
クルスとギュスターから話を聞いた俺は目を見開き、思わず口元を緩めたけれど、本当はちょっと涙が出そうだった。その俺を見て、クルスとギュスターは慌てて言った。
「すみま……ごめん、シルヴァ! 本当はもっと早く言えばよかったんだけど」
「ずっと迷ってて」
ずずっと盛大に鼻を啜り、瞬きで涙を飛ばしたあと、俺はクルスとギュスターに向かって大きく笑ってみせた。
「ありがとな、俺にちゃんと教えてくれて。大丈夫。おかげで元気が出た。後は俺が何とかする。けど、まだちょっと時間がかかるかもしれないから、それまではもう少しお前らに頼ってもいいか?」
「もちろん!」
「喜んで!」
と、それまで俺たちの様子を黙って見ていたトリーが盛大にため息をついてみせた。
「シルヴァ、お前たちの茶番はもう十分なの。さっさと水を撒いて仕事を終わらせるの」
クルスとギュスターはまだトリーに慣れないようで、そのツンツンした物言いにびくりと体を強張らせた。が、俺はこの場の湿っぽい空気を変えようとしたトリーの意図に気づき、微笑んだ。
「トリーは本当に優しいですよね」
「お前の頭の中は相変わらずお花畑なの。それに受講生や見習い候補のお前たちと違って、私は忙しいの」
そう、見た目はミニマムで七歳ほどの容姿を持つトリーだが、実年齢は二十一歳の合法ロリで、この伝導の館においては絵描きの見習いである。つまりトリーは伝導師の一歩手前の地位にいるわけだ。
そもそも見習い候補から見習いに昇格できるのは全体の三割程度らしいので、この時点でトリーの才能が素晴らしいことはお墨付きだとわかる。実際、トリーの絵はすでに市場でもそこそこの値段で取引されており、商業画家としての道は歩み出しているらしい。
もっとも、見習いが得た売り上げの一部は自動的に伝導の館に徴収されるが、その特典として担当の伝導師が付いて個人指導を受けられるようになる。さらに、徴収された売上金の累積が一定額を超えていれば、例え伝導師にはなれなくとも対価労働は免除されるので、無料コースの見習い候補にとっては見習いに昇格することが第一の目標といえる。ちなみに受講生というのは、リアムたちのようにお貴族様専用の有料コースでこの館に入った者の正式名称だ。
「よし! じゃあ、お忙しいトリーがいなくならないうちにやっちゃいましょうか!」
俺の言葉を聞いたトリーがすっと眉をひそめる。
「……シルヴァ。時々、当たり前のように嫌味を混ぜるのはやめてほしいの」
「……ん?」
「まさか、自覚なしとでも言うの?」
俺はにっこりとトリーに微笑んだ。
「自覚はあります。でも、大丈夫ですよ。俺はちゃんと時と人を選んで発動しているので」
「余計にタチが悪いじゃないの!」
トリーはプリプリと憤ったが、本気でないことは一目瞭然だ。クルスとギュスターはびくびくしているが、リアムは呆れたように肩を竦めてみせた。俺は悪戯がバレたことを誤魔化すように小さく苦笑を返したあと、桶の水に意識を集中した。
「今日は最後だから、ちょっと特別仕様にしてみました! これでどうだ!」
桶の水を全て霧状にし、ちょうど軽く吹いてきた風に乗せて程よく拡散すると、水分の反射角度を素早く調整した。瞬間、中庭に大きな虹が架かった。思っていたより大きな虹だ。
「……すごい、綺麗なの」
微かに聞こえたトリーの呟きに、俺は口元を緩めた。それから空気の流れに乗せて、ゆっくりと水分を地面へと落としていった。虹は消え、中庭の水撒きが終わり、俺の罰もこれにて完了した。
*
庭師のエクトルとトピアスに中庭の修復完了を報告し、細部までチェックして合格をもらったあと、俺はようやく庭仕事からの解放感に浸りながら、リアムと共に食堂に向かっていた。
ちなみにトリーは見習いの特権で一足早く風呂に入ってくるとのことで、さっさと一人で部屋に戻っていった。クルスとギュスターも部屋で少し仮眠をすると言って早々に立ち去ってしまったので、久しぶりにリアムと二人きりだ。
「あ~……腹減った。眠い。腰が痛い。手が疲れた。全身がバキバキ言ってる。日焼けで肌がヒリヒリするよぉ。ああ、俺のせっかくの白い美肌が……」
俺の嘆きを聞き流しながら、リアムが呆れたように嘆息した。
「……お前なぁ、あいつらがいなくなった途端、気を抜きすぎだろ。つーか、反対だな。お前、いつも格好つけすぎ」
「わかってる。わかってるけどさぁ、昔からの癖っていうか……つい自覚なしでやっちゃうんだよ。リアムといるときは、そこまで気を張らないでいられるんだけどさぁ……」
「それにしては緩みすぎじゃね?」
「まさかの人格全否定? 俺、泣くよ?」
「ハイハイ。大丈夫だよ。お前はよくやってる。俺はちゃんと見てるから安心しろ。ちょっとした愚痴くらいなら、俺が聞き流してやるからさ」
「リアム……」
感動しそうになったあと、俺は不意に我に返った。
「え……いやいや、ちょっと待て。聞き流しちゃうの? ちゃんと聞いてくれないの?」
「そうだよ、全部聞き流す。それならお前も安心して、いくらでもグダグダ俺に言えるだろ?」
「うっ、何だろう……俺に対する理解の深さに驚嘆すべきか、そこはかとない悪意に慄くべきなのか、いろいろと疲れすぎててよくわからない……」
「……ふっ……ハハッ」
本気で悩み始めた俺を見て笑うと、リアムは言った。
「ったく、大丈夫だよ。ちゃんとそう言っただろ? というか、お前はもう少し体力をつけたほうがいいんじゃないか? 護身術を教えるのは構わないけど、肝心の体力がなかったら意味がないだろ?」
「くっ、正論! だが断る!」
「うん。格好いい感じに言ってるけど、普通に格好悪いからな?」
「だってぇ……走るのとか好きじゃない。庭仕事ももう嫌だ。俺は永遠にゴロゴロしてたいんだよっ」
「あぁ……ハイハイ。まあ、今は好きなだけグズっとけ。どうせ誰か来るとすぐ格好つけだすし」
「うわあ、確かに否定できないが。それって何か俺、最悪じゃね?」
「俺の前でだけなら、別に気を抜いてもいいだろ。俺が許す」
俺は隣を歩くイケメンをまじまじと見つめた。
「おお……リアム、我が心の友よ」
「お前、本当に調子いいよな~」
「うんうん、リアムのおかげだ。何か言いたいことを言ったら、少しすっきりした。ちょっと頑張れそう」
「そりゃ、よかったな。俺に感謝しろよ」
ふと、気が付いたら俺は立ち止まり、目をぱちくりしてリアムを見ていた。数歩、俺の横を行き過ぎてから、リアムが立ち止まり、俺のほうを振り返った。
「……ん? どうかしたか?」
「……忘れてた」
「何を?」
「一番大事なこと、忘れてた! あ~、もうっ、ホント最悪だな! 俺は!」
ずっと言おうと思ってたのに、いろいろ忙しくて忘れてた。けど、それはただの言い訳だ。周りに人がいるときは恥ずかしいからと、後回しにしてたのも事実だ。しかし、誰もいない二人きりの今こそ絶好のチャンス!!!
俺はぐっと拳を握り締め、口を開いた。
「リアム、本当に今更なんだけど……」
「……お、おう」
「あう……えっと、つまりだな……」
改まって口にするのは照れ臭く、もにゃもにゃと俺が言いよどんでいると、緊張が移ったのかリアムの頬が淡く染まるのが目に入った。その途端、俺は逆にストンと気持ちが落ち着いたのがわかった。
ああ……、やっぱいいな。リアムと一緒にいると、ほっとする。俺は心からそれを口にした。
「リアム、本当にありがとうな。クルスとギュスターに水を撒いておくよう指示してくれたことも、俺に必要なトリーの情報をあの短時間で適切に教えてくれたことも、本当に感謝してる。俺の切り札だった塩水も、お前がいたから安心して任せられた。何よりこの二週間、お前が率先して力仕事を引き受けてくれたから、体力のない俺でも頑張れた。おまけに格好悪い俺の愚痴にまでちゃんと付き合ってくれるとか、お前はちょっと出来過ぎなくらいだよ。お前がいてくれて、本当によかった。ありがとう」
リアムは少し驚いたように目を見開いたあと、赤くなった顔を両手で覆った。
「……あ~っ、くそっ。お前、そういうとこ本当にずるいよな」
「は……はぁあっ? 心外! 心からの感謝だろ!」
「だから、そういうところがだよ! つーか、不意打ちとかマジあり得ない! ほんっと……ずるいだろ!」
「ええ~……」
何というか……これはアレか? 照れてるってことでいいのかな。まあ、いつも軽口を叩きあっている間柄で、いきなり真面目モードで感謝とか口にされたら、確かに照れる。実際それが恥ずかしくて、俺も後回しにしてたわけだし。
というか、改めて指摘されると羞恥が戻るな。俺は頬の温度が再び上昇するのを感じながら、もごもごと続けた。
「……あ~、う~……えっと、つまりだな。とにかく、これからもよろしくってことで、頼む」
おずおずと手を差し出すと、リアムはチッと舌打ちしてみせながらも、俺の手を強く握ってくれた。
「当たり前だ。放っておくと、お前は何をしでかすかわかんねーからな。危なっかしくて仕方ない」
「おお、さすがリアム。頼もしいな!」
素直に喜んでいたら、すかさずリアムにしっかりと睨まれた。
「そうは言っても、お前も少しは自重しろ。毎回こんな感じだと、さすがに身が持たないぞ」
「おう……重々承知。痛いほど身に染みておりますので、以後はできるだけ気を付ける所存」
「ったく……ホント、頼むぞ」
握っていた手を離すと、俺たちは再び食堂に向かって歩き出した。
「……あ~、腹減ったな。夕飯前だけど、何か出してもらえるかな?」
「取り敢えず聞いてみようぜ。残り物でも何でもいい。あと、喉が渇いた……」
日常を取り戻した証しにグダグダとどうでもいいことを話しながら食堂に入った俺たちは、無事に岩芋の素揚げと黒豆のミルクティーをゲットし、隅の席に陣取った。
ちなみに岩芋の素揚げはフライドポテトに極めてよく似ているが、口にしてみるとかなり違う食べ物だ。どうでもよいが岩芋はスティック状ではなく、一口サイズのサイコロ状に切って揚げるのが一般的である。揚げたては外がカリカリ、中はねっとりもちもちの触感で、非常にうまい。シンプルに塩をかけて食べるもよし、癒し手の島の特産である風味豊かなスパイスを振るもよし、そのままスープに入れるのもお勧めの一品だ。腹持ちもよく、俺の生家でも頻繁に食卓に出されていた。
それから黒豆は俺の知っているものとは見た目も味も全く異なり、それを煮だして作られたお茶はコーヒーのようなカカオのような、何より果物のような華やかな香りがするのが特徴だ。この世界ではお茶に乳を入れて飲むという文化はなかったが、人目を気にして好物を諦めるような俺ではない。用意されている飲み物コーナーで茶碗に入れた黒豆茶に乳を足し、さらに夕食用に一足早く出されていた木の実の甘煮を一匙いただくと、丁寧にかき回した。
いつものことではあるが、それを見たリアムが何とも言えない面持ちになった。
「シルヴァ。お前、相変わらず味覚がおかしいよな。水の民とか関係ないだろ? そんなことやってるのお前だけだし。つーか、お茶に乳を入れて、しかも木の実の甘煮をぶち込むとか、はっきり言って正気の沙汰じゃない」
「ええ~っ、美味しいのに。一口でいいから飲んでみろって。うまいから」
「いや、いい。断固拒絶する。というか、そもそも俺は甘いものはあまり好きじゃないんだよ」
「リアムは辛いの好きだよね。あと肉」
「まあな。取り敢えず肉があれば何でもいい。あと、この岩芋の素揚げもあれば完璧」
「ああ、それは同意。でも、糖分は必要でしょ。俺のこのお茶だって、カノンは美味しいって言ってくれた、し……」
その名前を口にした途端、俺はしおしおと自分の元気がなくなっていくのを実感した。その俺を見て、リアムがため息をつく。
「お前ら、相部屋だろ? いい加減、何とか仲直りできないのか?」
俺はべしゃりとテーブルに突っ伏した。
「カノン、俺の話を全然聞いてくれないんだよ……」
「一応確認するけど、あいつがどうしてヘソを曲げているか、お前はちゃんとわかってるんだよな?」
「わかってる……はず」
「念のため、言ってみ?」
「トリーのことを、俺が可愛いって言ったからだよな? そのすぐ前に、女の子には興味ないって言ってたのに。で、嘘つき、だろ? もともとカノンは俺に独占欲がある感じはしてたから、やきもちを拗らせたのかな……ってのは想像してる。俺、間違ってた?」
「大体それであってるだろ、多分。で、そこまでわかってて、何でどうにもできないわけ? 言っちゃなんだけど、この俺とあのトリーをほとんど口先だけで自分の思い通りにしたそのお前が、どうしてカノンを丸め込めないんだよ? 一度はうまくやったんだろ?」
「うぅ……言い方ぁ。……っていうか、押しても駄目なら引いてみろって感じで、いろいろ試してはみたんだよ。けど全く効果がないどころか、ある意味さっきお前が言った俺の実績のせいで警戒しまくってて。少し時間を置いたくらいじゃ俺の話なんか聞いてくれないんだよ。そうするともう押しても引いても悪循環で、ほぼほぼ何もできない状態っていうか……」
「ああ……なるほど」
岩芋の素揚げを口にポイポイ放り込みながら、リアムは頷いた。俺も負けじと自分の皿の中身を減らしつつ、深々と嘆息した。
「カノン、ああ見えて結構頑固なんだよな。今は取り敢えず、クルスとギュスターにカノンのことをいろいろ気にかけてもらえるよう、頼んでるんだけどさ……。リアムも時々はカノンと話してるだろ? 俺のこと何か聞いてない?」
「聞いてない。というか、極力お前のことは無視してる感じかな。もはや存在してない、くらいに。まあ、俺からしたら逆にそれが意識しまくってるのがバレバレというか。あの年頃だと仕方ないんだけど」
「そうなんだよなぁ……」
しおしおと溶けている俺を見ながら、リアムは自分の皿にある最後の岩芋の素揚げを口に入れた。乳の入ってないシンプルな黒豆茶を飲み、ハンカチで口元を拭う。普段はあまり気にしていないが、リアムの食事の様子などを見ていると、何気ない一つ一つの所作が綺麗で育ちの良さが感じられる。さすがお貴族様だ。
まだ皿に少し残っている岩芋の素揚げを俺がのろのろ食べていると、リアムは首を傾げて言った。
「というか話はちょっと変わるけど、それこそあのクルスとギュスターをよく友達にできたな。あいつらの思い込みが激しいのは半端じゃない。何しろあのろくでもない俺と一緒に剣士の館をやめて、ここに入るくらいだからな。あの二人がいつの間にかお前の舎弟を卒業してて、すげーびっくりしたんだけど」
傷心の話題から逸れて少し気が楽になったこともあり、俺は軽く笑ってミルクティーの中から木の実を取り出すと、貴重な甘味を口に放り込んだ。
「まあ、リアムもいまだに何だかんだあの二人に慕われてるよね。っていうか、これは純粋に質問なんだけど。クルスとギュスターが頑なに俺の友達じゃなく、舎弟という立場でいたがってたのって、お前は何も関与してないのか?」
リアムは肩を竦めてみせた。
「してないし、俺はむしろ友達でいいだろって思ってたし、あいつらにもちゃんとそう言ってた。ただ、俺の友達であるお前と、自分たちが対等な立場なのは気が引ける……みたいな、謎ルールが存在してたのは何となく知ってた。だからって、俺が言っても覆らないんだが。そういうところが厄介なんだよな」
「ああ……従順なようで、実質は異なるという……」
「そうそう、そんな感じ」
「だけど、あいつらの一番は今でもリアムなんだよな。……いや、これは別に嫉妬とかじゃないぞ」
「わかってるって。つーか、お前にとっては別に羨ましくもないだろ」
「うん? ……まあ、そうだな。俺は舎弟とかいらないし。対等な友達のほうがずっといい。現状、できるだけ対等な友達って感じだけどな。少なくとも敬語じゃなくなっただけでも進歩だろ」
「確かに」
気が付くと皿に山盛りになっていた岩芋の素揚げはなくなり、腹が満たされたことで眠気を催しつつあった。俺は欠伸をすると、同じく眠そうな顔をしているリアムに言った。
「明日から照の月か……。いよいよ光の季節真っ只中だな。繋ぎ手の島ってホント暑い。俺、耐えられるかな……」
「ホントそれな。お前がいた夢見人の島ほどじゃないだろうけど、俺のいた守り人の島も年間通して割と涼しい気候だからな……この暑さは結構堪える」
この世界には五つの季節があるが、炎の季節と光の季節はいわゆる夏のようなものだ。そして闇の季節と水の季節は冬である。それが交互にやって来て、一年の最後にやって来る風の季節は春と秋が混じったような一番過ごしやすい気候になる。
だが、もともと島ごとに環境が異なるので、同じ季節でもどこの島に滞在しているかで全く違う。以前、俺が村の学び舎で得た一般的な知識によると、癒し手の島は熱帯、守り人の島は湿潤、繋ぎ手の島は乾燥、夢見人の島は寒冷だ。今まで俺がいた夢見人の島では、光の季節でもこんなに暑くはならなかった。
俺は黒豆のミルクティーを飲み干し、リアムに言った。
「けど、光の週の光の日には、光の降臨祭があるじゃん。この館は光の宮殿のすぐ隣にあるし、都は毎年すごいお祭り騒ぎだって聞いてるから、実はずっと前から楽しみにしてるんだよね。降臨祭の日は授業もないし、星雨祭の時みたいに出店なんかもあったりするんだろ?」
「そうらしいな。俺もまだここに来て一年経ってないからよくは知らないが、やっぱ地元の都で行う精霊祭は特別だからな。今まで何度か闇の都で闇の降臨祭を過ごしたことがあるけど、いつも盛大な祭りだった。ここでもそれは変わらないだろ。というか、むしろ光の都は普段から観光業に力を入れてるし、派手さではどこの都にも引けを取らない催し物を計画しているはずだ」
「そうなんだよなぁ……」
数週間前にあった星雨祭では、夜になると大きな花火が打ち上げられた。火薬だの何だの、詳しく語れるような知識は持ち合わせていないが、夜空を彩る色の鮮やかさやデザイン、大きさなど、俺の知っている花火に勝るとも劣らない、本当に素晴らしい代物だった。
ちなみに星雨祭というのは、この世界の中心で絶え間なく降っている星の雨を祝う祭りだ。星の雨は創世の時代に光と闇が互いを求めあい、結果、炎と水が生まれた衝撃と共に産まれたとされている。つまりそれが本当なら、星の雨は精霊発生以前より存在する、まさに世界の始まりといっても過言ではない歴史的産物なのだ。そして例によって詳細は不明だが、星の雨はこの世界を守る要としての役目を担っているらしい。
それはともかく、この星の雨を祝う祭りの際には、自分ではない誰かのための願い事を紙に書き、手持ち花火に巻き付けて火を灯すのが習わしだ。火花を星の雨に見立て、他者のために祈る美しい祭事である。
伝導の館では花火代と称し、見習い候補たちに一律の小遣いが配られ、街に出ることが許された。まだトリーと出会う前だったので、俺はリアムやカノンと一緒に星雨祭を楽しんだものだ。あの時、俺は村にいる家族と二人の新たな友人の幸せを願ったけれど、カノンは何を願っていたんだろう……。
カノンを想って俺が再び消沈していると、リアムが元気づけるように口を開いた。
「とにかく、光の降臨祭までには何とかしないとな。俺もまたカノンと一緒に祭りを見て回りたいし」
「おう、そうだな!」
「今日の打ち上げ、カノンも誘ってみるんだろ?」
「そのつもりだけど、俺だと話を聞いてもらえない可能性があるから、クルスとギュスターにも頼んである。最近カノンはあの二人と一緒にいることが多いし。リアムも見かけたら誘ってみてくれ」
「それは構わないけど……」
ふわぁ……と大きな欠伸をし、リアムは徐々に人が増えてきた食堂を見回した。
「俺、もう腹いっぱいだわ。今日の夕飯はこれで終わりかな。今から風呂入って仮眠して……それから談話室に行くから、カノンに会えるかわかんないけど。まあ、会えたらもちろん誘っておくよ」
「頼む。っていうか、俺も同じこと考えてた。風呂のあと、寝過ごさないようにしないとな……」
「時間になっても来なかったら、誰か部屋に呼びに来るだろ」
「一応、俺が主催なのにそれはまずいって。中庭修復完了祝いという名目の親睦会だし」
「まあな。お前がいないと締まらないことは確かだ。何のために集まったのかわからないしな」
俺とリアムは席を立ち、それぞれ自分の使った食器を片付けると、食堂を後にした。結局、廊下の途中でリアムと別れて部屋に戻ったものの、再び風呂場で一緒になり、また各々自分の部屋に帰って仮眠をし、約束の時間に間に合うよう談話室に向かった。
伝えの塔にある見習い候補たちの居住区は専攻や技量レベルで分かれており、各階ごとにちょっとした憩いの場である談話室も用意されている。リアムたち受講生は、見習い候補でも一番下の俺やカノンと同じ階層だが、見習いであるトリーは当然ながら異なる階に部屋がある。余程の用事がない限り、最下層の俺たちは上の階には行けないので、この親睦会はトリーに下の階に降りてきてもらうことになっていた。
俺は時間ギリギリまでカノンを探していたので、すでにリアムたち三人とトリーは談話室に集まっており、到着したのは俺が最後だった。一人で現れた俺の様子を見ると、みな事情を察したように微苦笑し、だがそこには触れないよう明るく挨拶を交わした。親睦会の下準備はクルスとギュスターが引き受けてくれていたので、もう席は整っている。魚の刻を告げる鐘の音を遠くに聞きながら、俺たちは緩やかに親睦会を始めた。
まあ、親睦会といっても夕飯後にみんなで集まり、ちょっとしたお菓子をつまみながら、この二週間の中庭修復の大変さなどについて互いに語り合う、ただのお疲れさん会である。煎り豆や干し肉、ほんのり甘いアラレなど、食堂にいつも置いてある安価な干菓子を少しいただき、飲み物は談話室に常備されている香草水ですませることにしたので、内容的には普段の歓談と変わらない。
だが、互いに話したいことはたくさんあったので、俺たちのいる談話室の一角はすぐに盛り上がった。
「それにしても、トリーはよく俺たちの手話を知っていましたね。一瞬、見間違えたのかと思いましたよ」
俺の言葉に、リアムが深く頷いた。
「ああ、あれには俺も驚いた。確か……≪お前・倒れる・嘘≫……だったっけ。俺たちしか知らないはずの手話を突然やってみせたから、意味があってるのか不安でしたけど」
実際に手を動かして見せながら、リアムが言った。
そう、あれは確かトリーと決闘する直前、食堂から中庭に移動している途中でのやり取りだった。リアムが俺の軽率な発言を弁護してくれたものの、トリーは高飛車に一蹴し、俺に向かって謝罪と降伏を要求していた。けれどトリーが不意にしてみせた手話のおかげで、その優しさと真意が伝わった。要するにトリーは俺に、やられたふりをしてさっさと謝れと進言してくれたのだ。
しかしそれを理解して尚、俺はトリーの言葉を突っぱねた。それでも恐らくトリーは俺に炎まで使うつもりはなかったに違いない。実際、体内水分のコントロールで冷静さを取り戻すことができなかったら、俺はやられるふりをするまでもなく、中庭に充満した静電気の餌食でゲームオーバーだっただろう。俺はトリーの思惑通り謝るしかないが、それでは今のような友人関係は望めなかったはずだ。
けれど、水は電気を通す。伝導率……だったか? 理科はあまり興味がなかったので、そこらへんの有用な知識をよく覚えていないのが今更ながら悔やまれる。とはいえ、俺は諦めなかった。光の民であるカノンの協力のもと、遊びも兼ねていろいろと試行錯誤をし、水の民の能力の使い方を改めて確かめていたのが功を奏した。トリーと出会う前にカノンと様々な実験をしていなかったら、空気中に水分の膜を作り、そこに静電気を流して退けるなんてことは咄嗟にできなかっただろう。
何より、塩水が俺の切り札になるという発想は生まれもしなかったに違いない。その原点はかつて小学校……いや、中学? で習った水の電気分解である。何かこう……水に電気を通すと、いろいろ分解する……的なアレだよ。電極? のプラスとマイナスにこう……イオンの何か……アレがアレで、分かれるんだよね? 水はほら、確か化学記号的に……酸素と水素? が、くっついて出来てる……から、多分そんな感じに分かれるはず!!!
そして水に電気を流しているカノンの両手を電極に見立て、火を近づけてみたけれど、特に変化が起きることはなかった。あれ? 酸素も水素も火が燃えやすくなるんじゃなかったっけ?
ということで、実験はなかなか成功しなかったのだが、俺はある日ふと思い出したのだ。理科の実験といえば、そう! 食塩水であるということに!
そして俺は塩水に電気を通してもらうようカノンに頼み、どちらの手に近づけても火が大きくなることを確認した。左右で多少違いはあるが、何と何が発生しているのかまでは、残念ながら思い出すことができなかった。
……という、極めて曖昧な実験の数々を経て、俺はあの無謀な戦いの切り札として塩水を使用したわけだ。今、改めて冷静に考えると、我ながら正気の沙汰ではない。
ちなみに中庭の修復を仰せつかったあと、大惨事の状態であるのをいいことに、トリーに協力してもらって小規模ながらあの時の再現をしようと試みたのだが、何度やってもうまくいかなかった。俺が作った塩水の濃い霧に、トリーの帯電した炎を同じように投入しても、爆発することなく炎が拡散してしまうのだ。
つまり炎は帯電しているが、電気分解ではなく、静電気を退けたときのような状況を引き起こしていると推測される。水滴の一つ一つの大きさ、霧の密度のせいなのか、はたまた塩水の濃度が悪いのか、あるいは水分量と炎の帯電量の比率が違うのか。とにかく中庭の修復を始めないわけにはいかなかったので、短時間の実験では満足のいく結果を得ることはできなかった。が、いきなり実戦に使うのがとんでもない大博打であったことだけは間違いない。
その事実を知ったトリーは大いに呆れていたが、今現在、本来なら知らないはずの手話を使った事実を俺とリアムに言及されると、慌てたように瞬きして頬を赤く染めた。
「そ……れは、何かこう……たまたま、たまたま! お前たちが大声で話しながら、手の合図を決めているところを、ちょっと……ちょっとだけ見かけたことがあるというか……本当にそれだけなの! 別に、お前たちのことなんか気にしてないの! 見習いで、何よりお前たちよりずっと年上であるこの私が、受講生や格下の見習い候補たちのことなど、気にするはずがないの! ただ、食堂でお前たちがいつもぎゃあぎゃあ騒いでいるから、自然と耳に入ってきただけなの! うるさいし、余計なことまで聞かされて、本当にいい迷惑なの!」
「な……なるほど。それは……すみません、いつも」
何とか……何とか口元の緩みを堪えながら、俺はトリーに謝罪した。
実際のところ、俺たちは確かによく食堂で手信号や手話のサインについて相談していたが、むしろ声は意図して普段より落としていた。仲間内で使う秘密の合図を決めていたのだから、そんな大声で話すわけがない。まあ、それでもお遊びの範疇ではあったので、食堂という公共の場でやり取りはしていたが、何度も近くで耳を澄ましていない限り、俺たちと同じように使いこなすのは普通に無理だ。
つまりトリーは、俺がその存在に気づくよりずっと前から秘かにそばにいて、俺たちのことを気にしていたことになる。受講生であるリアムが問題児だったことは、通常あまり接点のない見習いのトリーも知っていたようだし、俺たちの謝罪行脚についても多少の噂は流れていただろう。
これは想像でしかないが、最初は本当にたまたま近くで俺たちの会話を聞き、そのうち娯楽感覚で俺たちの様子を眺めるようになったのかもしれない。常に一人で、周囲に恐れられ、友人と会話することもできないトリーならばあり得ることだ。
さらに付け加えるならば、食堂の使用時間は大雑把に分かれているが、最下層の俺たちと違って見習いのトリーは時間の制約も少ない。ミニマムな背丈は見習い候補たちの時間帯のほうがかえって紛れやすいし、そもそもカノンとぶつかったのも、いつも俺たちの近くで食事をしていたからだろう。
謎は全て解けた! と言いたいところだが、トリーから発せられる凄まじいまでの殺意の波動をひしひしと感じる今、口にするわけにはいかないようだ。ゆるゆるに緩んだ唇を必死に引き締めようとするが、あまりの可愛さに息をするのも辛い。合法ロリのツンデレとか……最高かよ!!!
「……シルヴァ。中庭の修復費用は誰が負担したのか、知っているはずなの」
不意に、その愛らしい容姿から発せられたとは思えないほど恐ろしい声が耳に入り、俺は背筋が凍るのを感じた。何より、その内容の恐ろしさは言うまでもない。
俺は打って変わって顔を引きつらせた。
「もちろんです、トリー! 本当に感謝しています」
「そのうえ、お前たちの修復作業も手伝ったの。暑いし、疲れるし、汚れるし……」
「そ~うだ! トリー、実はあなたに贈り物があるんです! 気に入ってもらえるかわからないですが、是非受け取ってください!」
トリーの攻撃を強引に遮ると、俺は部屋から持参したものをいそいそと取り出した。
そう、新しく張り替えることになった芝生も、無残に消し炭となった植木や花の代わりも、無料では決して手に入らない。中庭の大惨事にトリーが関わっていたことは一目瞭然だったし、目撃者も大勢いた。あの場では逃げおおせていたが、伝導の館に住んでいる以上、全くお咎めなしということはあり得ない。結局、罰として修復費用はトリーが支払うことになり、修復作業は俺が請け負うことに決定した。立場の違いや資金の有無、作業効率、怪我などの安全面を考慮しても、妥当な裁決であろう。
だがトリーは修復費用を払っただけでなく、何だかんだ理由をつけては修復作業の様子を見に来て、いろいろと手伝ってもくれた。まあ、焼け焦げた塔の壁の掃除とか、芝生や植木の残骸撤去、土を耕し、水を運び、その他もろもろの力仕事はほぼ俺とリアムたちが従事したわけだが、それでもトリーのおかげで細かい作業などははかどったし、何よりその心遣いが嬉しかった。トリーにしても俺たちと仲良くなるいい口実ではあっただろうが、そんな健気な一面もトリーのいいところだ。
そんなわけで諸々の感謝も込め、俺としては仲良くなれた証しの代わりに、ちょっとした贈り物をトリーに用意していた。実は俺が生家から旅立つ際、姉さんが荷物に黙って入れておいてくれたものだ。一緒に入っていた手紙には『女の子に贈り物をしたくなったら使いなさい』と書かれていたが、今がまさにその時であろう。正規品の十一歳男子だったら、余計なお世話だし意味がわからないとさえ思ったかもしれない代物だが、元腐女子の俺としては気の利いた姉さんだと感心した一品だ。
手軽で可愛いラッピング用品などはないので、俺は小さな木の箱をそのままトリーに差し出した。トリーは驚いたように目を見開いたあと、恐る恐るそれを受け取った。いつもの憎まれ口すら忘れるほど、びっくりしているようだ。
「……これを、私に?」
「はい。トリーによく似合うと思って。開けてみてください」
もっとも、蓋に手をかけて箱を開けようとした瞬間、トリーは警戒心を取り戻したように躊躇した。キッと鋭い眼差しを俺に向け、念を押すように言う。
「……変な悪戯だったら、絶対に許さないの」
不憫な思考回路に内心同情を覚えながら、俺はにこやかに微笑んだ。トリーの今までを考えると、何か可哀そうなトラウマがありそうで切ない。
「そんな子供っぽいこと、俺はしませんよ。何なら俺が開けてみせます」
俺が手を差し出すと、トリーは我に返ったようにハッと息を呑んだ。それから疑った自分を恥じるように目を伏せ、すぐに顔を上げて言った。
「い……今のはただの冗談なの。お前のことは、信用しているの」
それでも少し緊張しているように、トリーはそっと木の箱を開けた。そして中身が何かわかると、嬉しそうに頬を上気させた。
「これ……本当にもらっていいの? 都でもなかなか手に入らないはずなの」
「俺のいた村ではそんなに珍しくもないものですよ。まあ、さすがに普段使いしているものとはかなり違いますけど。これは売り物仕様になっているので」
「こんな高級品を普段使いとか……お前の村は何をしているの?」
驚きを隠せないトリーに、俺は肩を竦めてみせた。
「俺の村は主にガラス製品を作ってるんですが、織物や染物も結構有名なんですよ。父と兄はガラス職人ですが、姉は染物をやっているので。これは糸の染色に使う材料を加工したものです。俺がいつも腕に着けているこの撚り紐も、姉が染めた糸の余りを妹が編んでくれたものなんですよ」
俺が生家から旅立つ際に妹からつけてもらった撚り紐を見せると、トリーは納得したように頷いた。
「そういうことなら、お前がこんな高級品を持っている理由はわかったの。でも、本当に私がもらってもいいの? もっと……こう、いつか大事な人ができたときのために取っておくとか……」
「俺は今、トリーにもらってほしいと思ったので。よかったら、俺がつけてあげますよ」
単に渡しただけだと、トリーは大事に仕舞い込んでなかなか使わないような気もしたので、俺は一応提案してみせた。が、適切な情報開示の一環として、このことも付け加えねばなるまい。
「ただ……俺は残念ながらあまり手先が器用ではないので、本当はトリーが自分でやったほうが綺麗に仕上がる気もするんですけど。何しろ絵描きの見習いですから。こういう筆を使った細かい作業は、俺よりずっと得意でしょう?」
「それは当然なの。でも……い、一回くらい、お前がどれだけ不器用か、確かめてみるのも悪くないの」
いつもの素直じゃないトリーが戻ってきたことに気づき、俺が思わず口元を緩めていると、さっきから蚊帳の外に追い出されていたリアムたちが話に加わってきた。
「っていうか、結局それは何なんだ?」
「小さな筆と匙、ガラスの小皿、それから……黒い粉の入った小瓶?」
トリーの手元を覗き込んで首を傾げているリアムとギュスターに、珍しくクルスが得意げに説明した。
「これは爪染だよ。爪を赤く染めるんだ。姉上が宴に出るときに使ってた。確かにかなりの高級品だ。姉上も誕生日にどうしてもとねだって、ようやく父上から買ってもらえたくらいだし」
リアムは苦手そうに天を仰いだ。
「あ~、そういう感じのヤツか。俺は男兄弟しかいないし、そういうのはよくわからないんだよな」
「俺もだ。母上が何かやってたとしても、あんまり気にしてないしな……」
そういうとこだぞ、男性諸君! と言いたいところだが、女のほうも別に男のためにお洒落しているわけではないからな……。人にもよるだろうが、基本、女は自分のために好きな服を着て、好きなメイクをして、好きなネイルをしている。少なくとも腐女子時代の俺はそうだった。まあ、人にもよるだろうが。
それにお貴族様にはお貴族様の事情もあるだろうし、一概には言えないが、トリーの嬉しそうな顔を見ていると、お洒落の理由は自分のためだけで十分だと確信する。
「はい、じゃあ今から俺がやってみせるので、周りはしばらく静かにするように! 貴重な染料が鼻息で飛ぶと困る」
「了解!」
とはいえ、実は俺の鼻息が一番危ない。まず木の箱から小さな道具を全て出すと、俺は水の民の特権で、空気中にある水分をガラスの小皿の中央にほんの少し集めた。それから息を止め、小瓶の黒い粉を素早く小さな匙ですくい、小皿の水に入れた。匙を置き、小瓶の栓をし、小さな筆で水と染料をよく混ぜる。
ここでようやく呼吸を再開し、俺はトリーに手を差し出した。
「ではトリー、お手をどうぞ。お前らも、もう喋っていいぞ」
ほっとした空気を出しながらも、リアムたちは黙って俺の手元を見学することにしたようだ。穏やかな沈黙の中、トリーは膝の上できゅっと右手を握り締めると、左手を俺に差し出した。
「こっちの爪にお願いするの」
「どの指にしますか? 染める指によって、いろいろ意味が違うみたいですが」
俺の村では別に珍しいものではなかったから皆好きなように爪を染めていたが、ここでは貴重品だ。そこで貴族たちは己がケチではないことを示すため、爪を染める指によって違う意味をつけた。
例えば右手の親指の爪を染めるのは、年長者の健康を願う祈りが込められている。そして左手の人差し指は、遠くに旅立った者の無事を祈っている。とか、とにかく自分ではない誰かの幸せを祈る意味合いが込められている。そして多くを望むより、最も大切なことを一つだけ、心から祈ることこそ美徳であろう……。
だから一つの爪しか染めないのはケチではない。断じて、ケチだからではないのだ!!! という、貴族の夫や父親たちの切実な財政戦略により、高級品を無駄遣いしたがる妻や娘たちに向けて情報操作したのだと、俺は勝手に解釈している。その想像はあながち的外れではないはずだ。
もっとも昨今は商人たちのたゆまぬ努力により、港町や都などではできるだけ安価に抑えた屋台の爪染が登場した。そもそも貴族の間で広まっていたのは、俺が水で溶いたように長期保存のきく粉状の染料だ。これは原料の花を長時間ゆっくり煮詰めて作るので多くは出荷できず、本当に高級品なのだ。手間暇かけて作られただけのことはあり、これで染めた爪は色が長持ちし、発色も綺麗だ。
しかし村で染物に使っている染料を短時間で濃い目に煮詰め、液体のまま瓶に詰めるだけなら、保存はあまりきかないが価格は相当抑えられる。おまけに一人一つの爪しか染めないのであれば、屋台の店主が客の爪に素早く塗るだけでいい。染料を水で溶く手間も、長期保存の必要もなく、庶民が気軽に手を出せる値段でも十二分に利益は出るのだ。使い方としては、俺の村で女性たちが普段使いしているのと変わらない。
そんなわけで十の指につけられた意味は庶民の間にも広まっており、俺はトリーに一つだけ染める指を尋ねたのだ。
トリーはほんの一瞬躊躇ったあと、俺を真っすぐ見つめながら、きっぱりとそれを口にした。
「……薬指に、お願いするの」
左手の薬指か。それの意味するところは確か……。
「世界の安寧、ですか。さすがトリー、心が広いです」
俺がにこにこして答えると、トリーは瞬きを一つし、それから咳払いをして言った。
「……と、当然なの。この世界の安寧こそ、私が最も願うことなの」
「そうですよね。世界の安寧は大事です」
クルスが物言いたげな眼差しになったのは気づいたが、俺は敢えてそれを無視した。そしてその意味さえも悟ったように瞬きを一つし、クルスは沈黙を守った。さらにその俺とクルスの無言のやり取りに気づきながら言及せず、見守ることに徹したリアムとギュスター、さすが俺の友人はみな優秀だ。
もっとも、どの指にも他者への祈りが込められているので悪い意味などないし、制約もない。世界への安寧の祈りが込められた左手の薬指は、その最たるものだろう。特定の他者が想起されることもなく、ある意味、一番当たり障りのない祈りでもある。
似たようなものだと、例えば左手の中指には光の精霊に対する祈りが込められており、あらゆるものへの繋がりや出会いなどの感謝を意味している。もちろん染めるのは光の民でなくても問題ない。確かに己が種族の精霊は特別だが、俺がかつていた世界における宗教とは異なり、どの種族に生まれても同じように五つの精霊に祈りを捧げる。この世界の成り立ちからして一つとして欠けていいものはなく、五つの精霊に優劣はないのだ。
俺は附属の筆に染料を含ませ、慎重にトリーの左手の薬指を赤く染めた。爪からはみ出さないように、そして色が均一に長持ちするように重ね塗りをし、貴重な染料を使い切る。
「……はい、できました! しばらく何も触らないでしっかり乾かしてくださいね。最初のころは手を洗ったりすると少し色が落ちるのが見えますけど、そのあとは徐々に薄くなっていく感じです。完全に色がなくなってから他の爪を染めてもいいですし、同じ爪なら定期的に重ねて塗れば少ない量でいつも綺麗な色を保てますよ」
「……すごい、綺麗なの」
自分の爪を眺めてうっとりと呟いたあと、トリーは我に返ったように頬を染め、ツンツンと言い直した。
「ま、まあ! 思ったよりも綺麗に塗れているの! お前がそこまで不器用じゃなくて安心したの!」
「いやぁ、失敗しなくてよかったです。ホント、こういう作業は苦手なんですよ」
俺が笑って言うと、トリーは少しバツが悪くなったように付け加えた。
「で……でも、お前に塗ってもらってよかったの。使い方とか、知ってはいたけど、実際に染めるのは初めてなの。きっと、もらっただけだといつ使っていいか決められなくて、大事に眺めているだけだったかもしれないの」
居心地が悪そうに視線を泳がせたあと、トリーは意を決したようにそれを口にした。
「だから、その……あ、ありが、とう! いろいろ……本当に……その……」
言葉を探すように尻すぼみになっていくトリーに微笑み、俺は言った。
「俺のほうこそ、本当にありがとうございます。だから、これからも俺たちと仲良くしてくださいね。都で今度開催される光の降臨祭も、トリーと一緒に行けたらいいなって思ってるんですよ」
俺の言葉にトリーは顔を輝かせ、それから慌てて自重するように渋面を作ってみせた。
「ま……まあ、考えておくの。もしかしたら、暑さと気の迷いでお前たちと一緒に行くかもしれないの」
「是非、お願いします」
あまり笑顔になりすぎないように言い、俺は爪染の道具を片づけた。
「それからこれは、あとで簡単に洗ってください。大勢が使う水場だと失くしてしまうかもしれないので、濡らした布でそっと拭うだけで大丈夫ですよ。筆はよく乾かしてからしまってくださいね」
「わかったの。……あ、ちょっと待つの!」
一息つこうと、空になった椀を手に俺が香草水を注ぎに行こうとすると、トリーに呼び止められた。
「何ですか? 欲しいものがあれば、俺が小皿に取り分けてあげますよ」
「そうじゃ、ないの!」
トリーは赤い顔で言うと、左手の薬指がどこかに触れないよう気にしながらも、右手だけで何か取り出した。筒状に巻いた紙をぶっきらぼうに俺に差し出す。
「お前にこれをやるの。以前、暇なときに描いた落書きの中からたまたま見つけたの。いらなかったら捨ててもいいの」
俺は椀をテーブルに置き、トリーが差し出している筒状の紙を受け取った。紐をほどき、丸まった紙をゆっくり広げると、そこには繊細なタッチで描かれた五人の少年が現れた。炭で描かれたデッサンに、淡い色が彩られている。モデルを知っている者ならば、すぐにわかる。これは俺たちだ。俺とリアム、クルスとギュスター、そしてカノン。俺たちの真ん中で笑っている金色の髪の少年は、間違いなくカノンだ。トリーが実物を見て描いたのだとしたら、これは少し前の出来事だろう。
ふと、涙がこぼれそうになっていることに気づき、俺は慌てて瞬きをした。
「あ……ありがとうございます、トリー。すごく、嬉しいです。部屋に飾らせてもらいますね」
「好きにするの。それから……あの子」
「はい?」
「……カノンとかいう、お前と同室の光の民のことなの」
「ああ……はい」
何だろう? カノンがぶつかった件は、最初から怒ってないということで解決していたはずだが。
疑問に思いつつ俺が頷くと、トリーは視線を逸らしながら言った。
「光の降臨祭、もし一緒に行くなら、何か甘いものでも買ってあげるかもしれないの」
「……トリー……!」
俺が感動していると、トリーは頬を染めたままぷいっと横を向いた。
「気……気が向いたら、っていうだけの話なの! だから……お前もさっさと仲直りするの」
「ありがとうございます、トリー。俺、全力で頑張ります!」
「それだけなの。さっさと香草水でも何でも取りに行くの」
五人の少年が描かれた紙をそっと胸に抱きしめ、俺は心からトリーに微笑んだ。それから数日後に起きることなど、何一つ知りもせずに……。
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