【完結】美人の先輩と虫を食う

赤崎火凛(吉田定理)

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夏の章

3 学内の嫌われ者②

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「このへん適当に座ってね」
 僕は言われるままマットレスに尻をおろした。
 先輩の部屋は僕の想像するメルヘンチックでファンシーな空間とはかなり違っていたし、ましてやジャングルでもなかった。掃除や整理整頓が行き届いているのに加えて、物件自体が比較的新しいらしく、清潔でさっぱりとした印象だ。カーテンや寝具などはオレンジ色で統一され、ちょっと子供じみた花のイラストが入っており、若い女性らしさを感じる。一方でぬいぐるみの一つもなく、立派な本棚には哲学やら偉人やらの本、生物や植物に関する専門書、海外の古い小説などが並ぶ。さすが理系女子……!
 先輩が「どこだっけな」とか独り言を言いながら動きまわり、材料と道具を集めていく。1リットルの空きペットボトル、ビニールのひも、カッター、布テープ、油性マジックペン。一式が四角いテーブルの上にそろうと、先輩が隣に腰をおろした。
 へ? 隣!?
「オーケー。まず私が一個作るからね」
 僕の緊張は早くも頂点に達し、心臓は怒り狂うハチのように暴れた。先輩はさらさらと流れる髪――寝ぐせ無し――をかきあげて耳にかける。その指先と、すらりとした腕の白さ。先輩の香り……。全てが近い。作業を見ることに集中できない!
 先輩がカッターを持ち、ペットボトルの上のほうにHの形に切り込みを入れる。迷いなく大胆な手つきだ。切りこみを入れた部分を外に向かって開くと、両開きのドアを縦にして開け放ったような状態になった。
「ここがスズメバチの入り口ね。んで、ボトルの底にたまるわけ」
 続いて先輩は布テープを千切って先ほどのペットボトルの下半分の位置に貼った。
「ここに注意書きを書くんだけど、どうしようか」
 僕に尋ねたわけではなく、独り言だ。先輩はさほど長く考えることもなく、『スズメバチ捕獲中』『さわらないで』と書いた。それからもう一枚テープを貼って、『責任者 いのまた 080-XXXX-XXXX』と書き加え、最後にビニールひもを適当な長さに切ってボトルの首に結びつけた。
「はい完成」
「これでスズメバチが捕まるんですか」
 簡単すぎやしないかというのが、僕の正直な感想だ。
「わんさか捕まるよ。あと中にスズメバチ用ジュースを入れるんだけど、そっちは私が今から作るから、渡辺くんは捕獲器の量産をお願いします」
「分かりました」
「気をつけてね。指切るくらいならテーブルに傷がついてもいいから」
 先輩からカッターを受け取るとき、ほんの少しだけ手が触れ合う。だが何事もなかったかのように先輩はキッチンに立つ。ちょっと残念でもあり、ちょっとほっとした。さて、真面目に仕事をするとしよう。僕は一つ目のペットボトルに刃を刺し込んだ。意外と力がいるな……。
 僕は手を止めて、チラッと先輩のほうを見やった。料理? をする先輩と、仕事? をしながら待つ僕。まるで新婚夫婦だ。身体がふわふわしてくる。ニヤけてしまいそうになり、必死で顔の筋肉に力を込めた。
「渡辺くんは器用なほう?」
 しゃがみこんでコンロの下のスペースで何かを探しながら、先輩が尋ねてきた。
「器用ではないと、思います」
「そうなんだ。こういうこと好き?」
 工作のことだろうか。
「すごく好きというわけではないですけど、いいかなって思います。頼まれれば、全然イヤじゃないです」
「へー。斎藤くんが、渡辺くんはしっかりしてて頼りになるって言ってたけど、ホントみたいだね」
「そ、そんなこと、ないと思いますけど」
 斎藤さんはたぶん、僕の株をあげるために口添えしてくれたんだろう。ありがたすぎる。先輩をがっかりさせないためにも、デキる男にならなければ!
 ようやく一つ目のHを切ることができた。指で折り曲げて小窓を作る。
「本棚、すごいですね。難しそうな本がいっぱいで」
「難しくて私もよく分かってないけど、おもしろいよ。本は絶対に読んだほうがいい」
 先輩はキッチンから離れ、本棚の前へ移動した。
「この偉人のシリーズ、すっごくオススメ。入門だから分かりやすいの。あっ、あとこれ!」
 先輩の手が理系専門書のゾーンに伸びる。声のトーンが変わった。
「これ超オススメ! 粘菌(ねんきん)って聞いたことある? 粘菌はマジやばいよ、かわいいよ。これ、ちょっと見て」
 先輩がいつの間にか僕の隣に移動してきて、大判の本を開いた。タイトル『粘菌』。赤、青、黄色などのカラフルで奇怪な形をしたものが、ずらりと表紙を埋め尽くす。キノコのようなアメーバのような虫の卵のようなもの。生き物なのかどうかさえ、僕には判然としない。まるで宇宙人と宇宙船の写真集みたいだ。
「これって生き物なんですか?」
「粘菌ちゃんはれっきとした地球の生物だよ。カビみたいなもの」
 粘菌『ちゃん』? カビみたいなもの? 先輩の瞳が「しゃべりたくてたまらない」というふうに輝いている。ページをめくる手にもどこか力が入っているようだ。先輩の肩が僕の肩に接触している。
「ほら見て! 私のお気に入り! これ! あとこれ! これも! 待って! これも見て!」
 いったいお気に入りいくつあんねん! とつっこみたくなったが、その本に収録されている写真はどれも不思議で神秘的で、思わず魅入ってしまった。
「キュートじゃない? やばくない? 渡辺くん、分かる? 私のこの興奮が伝わる?」
 近い近い近い……!
「な、なんとなく分かります。なんか、わくわくしますね。地球にこんなのがいるなんて」
「でしょー? 私もわくわくするよ!」
「あと、妙に癒されるというか。気持ち悪さと紙一重なんですけど……」
「だよね! 粘菌は癒しなんだよ! よかった渡辺くんが分かる人で。君はホントに逸材だよ、ありがとう!」
 わけが分からぬまま先輩に両手を握られている僕。どうしてこの人、泣きそうな顔してるのだろう?
 その後、僕は先輩の粘菌に対する愛をとうとうと聞かされることになったが、ふとした瞬間に先輩が本来の目的を思い出したため、話は終わった。斎藤さんや石橋さんが先輩を「美人だがあえて選びたくはない」と評する理由は理解できる。だけどこうやって、僕の知らない世界――先輩の世界を少しずつ知っていくことは、素敵なことだと思う。きっと粘菌はまだ氷山の一角にすぎない。
 僕らは無駄話をしすぎた分、真面目に作業に取り組んだ。先輩のほうは――スズメバチ用のジュース作りはあまり時間がかからずに終わったため、やっぱり二人で並んで座って――向かいが空いてるんだけど――工作をした。
 先輩の趣味やその話についていくのは難しい。理解することも恐らく簡単ではないだろう。すでに暦は七月であり、僕は通算五、六回は虫を食べた。だが未だに嫌悪感はきれいさっぱりなくなったわけではないし、あえて虫を食べたいと思っているわけでもない。
 それでも先輩のそばにいるのは楽しい。もっと長くいたい。
 僕が最後のボトルにひもを結び終わると、先輩が拍手をした。作ったのはたったの六本だったけれど、結局一時間以上かかってしまった。
「さて出かけよう。これを設置したら任務完了」
 僕らは先輩のアパートを出た。大学の正門を抜け、歩き慣れた坂をのぼり、グラウンドを右手に見ながら丘の上の体育館へと向かう。スズメバチ被害が報告されているのは、この体育館周辺らしい。
「この藪(やぶ)のそばって聞いたんだよね」
 僕らは体育館の入り口を素通りして、建物を囲むように茂っている林に沿って歩いた。樹木の幹に『ハチ、ヘビに注意』と書かれた看板がくくり付けられている。周りを見まわしてみたけれど、ハチもヘビも見当たらない。
「まあいいよね、ここらへんで」
「そんな適当でいいんですか」
「いいのいいの。まずはやってみないと分かんないから」
 被害拡大を防ぐという正義感と使命感はどこへ行ったのだろうか。
 体育館から椅子を借りてきて僕が上に乗り、木々の高い位置にスズメバチトラップを仕掛けていった。高い場所に設置した理由は、トラップにいたずらされるのを防ぐためと、トラップに入ったけれど死ななかったハチが人に危険をおよぼさないようにするためだ。もちろんボトルはカラではなく、先輩が調合したスズメバチ用ジュースを入れてある。透明で甘い香りをただよわせるそれは、酒やら砂糖やらでできているらしい。
「スズメバチ砂糖漬け自動作成器とも言う」
「やっぱり食べるんですよね?」
「聞くまでもないことだね」
 先輩は不敵に笑っている。ハチはまだ未体験だから不安だ。だいたいスズメバチには毒があるのではないか。
「今日の任務はこれにてすべて完了。渡辺くん、おつかれさま。来週の集まりのとき、みんなで回収しに来よう」
「楽しみですね」
「次回のメニューを今から考えておくよ」
 先輩は張り切っている。そのはにかんだ笑みが僕の胸をわしづかみにする。
「私は自分の研究室に戻るけど、渡辺くんは帰るよね?」
「はい、そうします」
「じゃ、そこまで」
 僕らは来た道を引き返す。坂をくだり、十字路のところで、先輩は左へ。僕の帰り道は真っ直ぐ。
「じゃ、ここで。今日はありがとね」
「はい、僕のほうこそ、ありがとうございました。って、あれ? 先輩、理学部棟はあっちですけど」
「私は農学部だからね」
「あ、なるほど」いつも理学部周辺で会うから理学部かと錯覚していたけど、先輩は農学部。僕の理学部とは数百メートル離れた建物である。
「先輩」
 言おうか言うまいか迷ったけれど。農学部棟のほうへ歩き出した先輩を、呼んでみた。
 青いスカートがふわりと空気をはらんで、先輩が振り向く。
「今日、先輩といられて、すごく楽しかったです」
「私もー!」先輩は笑顔で手を振った。
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