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春の章

2 G=肉球 × 新郎③

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「斎藤くんひどい! まだ私は言い足りないことがあるのに! 世界の食糧危機とか途上国の栄養の問題とかに昆虫食がどれほど寄与するかということも。生態系の保護、生物濃縮の問題、それから昆虫食の経済面における……」
「うるせえ! 飲み会で言え!」
「でもでも!」
「おまえは話が長い!」
 先輩は不服そうではあったが、すねたように「いいもん。ぜったい飲み会で話すから」と言って「会議は終わりです」と締めくくった。
 斎藤さん、うまく先輩をコントロールしてるというか、扱いに慣れているというか。そういえば斎藤さんはM2――修士二年だから教授の次に年長者だ。虫の輪の創設者の一人だと前回聞いた気もするし、先輩とは長い付き合いに違いない。二人はどんな関係なのだろう?
 その後、僕らは斎藤さんアパートに向かうことになった。『冬に採取しておいたカマキリ関連の処理』をするらしいが、ブツは斎藤さんちに保管されているとのことだ。階段を降りて坂をくだって一般道に出る。さらに歩くこと数分。細い道を入った奥まった場所に、その木造ボロアパートはあった。
「あいかわらずボロいねー」
 先輩が言った。メンバーたちは何度も来ているらしい。
 外階段を二階へ上がっていくと玄関になっていて、各部屋へ通じる廊下が伸びていた。靴を脱いで歩くと、フローリングがギシギシと悲鳴をあげる。
 斎藤さんは廊下の中ほどまで進んでドアのカギを開けた。
「鍋使って、湯、わかしてくれ。モノはこっちにあるから、一人か二人来てくれ」
「私そっち!」
 先輩が素早く名乗りを上げたので、僕も反射的に手をあげた。教授と凜ちゃんと石橋さんはお湯を沸かす係になった。斎藤さんはどこへ行くかと思いきや、隣の部屋のドアにカギを差しこむ。
 僕が不思議に思っていると、先輩が「両方とも斎藤くんの部屋なんだよ」と教えてくれた。
「一人で二部屋借りてるんですか」
「家賃一万五千だしな。二部屋借りてもその辺のより安いぞ」
 確かに僕は家賃四万円の部屋に住んでいるけど、自分のところはまあまあ安いと思っていた。
「でもどうして二部屋なんですか」
「まあ、中を見れば分かる」
 心なしか先輩が胸をときめかせているように見える。部屋の電気をつけると、妙な光景が広がっていた。水槽が整然と並んでいて、まるでペットショップみたいだ。無人の室内にはエアコンと空気清浄機のかすかな駆動音がしているだけで、動物の声や物音はしない。
「早く閉めてくれ。大家にばれるとマズい」
 言われて僕は慌てて身体を滑りこませた。斎藤さんは部屋の奥に進む。先輩は水槽を眺めて「ははー♡」とか「ほほー♡」とか感嘆の声を漏らしている。僕も水槽をのぞいてみた。
 黒と茶、ツートーンの小さな生物が何十匹も蠢(うごめ)いている。楕円形の胴体に、六本のガサガサと動く脚。辺りを探るように動く触覚。木くずや紙くずの隙間に潜りこみ、這い回り、ひしめくヤツら。
「これゴキブリですか!?」
 危うく叫び出しそうだった。
「こっちも! こっちも……!?」
 どの水槽も同じ。微妙に大きさや色や形が違うようだけど、ゴキブリと呼んで差しつかえないヤツらがうじゃうじゃいる。僕は吐きそうになるのをこらえた。ここはゴキブリの巣なのか? 正気だとは思えない。
「渡辺くん、こっち来て。これカワイイよ。私のイチオシ」
 先輩に手招きで呼ばれ、僕は一縷(いちる)の希望を抱いてよろよろと向かった。
「ほーら。マダガスカルゴキブリ!」
 どうせそうだと思ったよ!!
 ちなみに先輩が「カワイイ」と称賛するそいつは、他のどのゴキブリよりも巨大だった。寿司一個分くらいある。羽らしきものはなく、見た目は平べったくした巨大なダンゴムシだ。色は茶色っぽくて、脚は六本だけど。
「いいよね、マダゴキ。癒されるよね~。なんか一日中眺めてたくなるよね~」
 断じてならない。しかし先輩の目はとろんとしている。恋する乙女みたいな深いため息までついている!
 一般家庭に出没するGと比べれば、ずんぐりしていてやたらと動きが鈍く、あの本能的な恐怖心をかき立てられることはない。だからといって、いつまでも眺めていたいとも思わないが。
「ねえ斎藤くん、マダゴキ出していい? 触っていい?」
 僕は我が耳を疑った。出さないでくれ!
「今じゃなくていいだろ」
「今じゃないとダメ! ホントにダメ!」
 先輩はしつこい。何がどう「ダメ!」なのか全く不明であるが、その顔は切実そのものだ。斎藤さんはあきれたように許可を出した。
 先輩が飼育ケースのふたを開けて、マダゴキの群れに手を伸ばす。素手で! 木切れにへばりついている特大の一匹をすくいあげるようにして手のひらに移動させ、引き上げた。僕は三歩下がった。でも下がった先には別種のゴキブリがいるという四面楚歌である。
「渡辺くん、飛ばないし、のろいし、おとなしい性格だから大丈夫」
「大丈夫とか、そういう問題じゃないです!」
 先輩は少し残念そうだが、僕は近づきたくなかった。それにしてもこのマダゴキ、でかい。先輩の手のひらから零れ落ちんばかりだ。先輩はマダゴキをなでたりツンツンしたりする。ハムスター的な感覚なのか?
「んああぅ! もうっ! この背中のプニプニがぁん! いいっ……! 肉球みたいでぇ! いいっ! んはぁっ……! 癒されるぅ」
 じゃあ肉球でいいじゃないですか、と指摘したかったが、先輩が至高の幸福に包まれていたので邪魔するのはやめた。とろけそうな表情で、なんとも無防備だ。なぜか声もなまめかしくて、それが聞けたことだけはマダゴキに感謝である。
 先輩にプニプニされたマダゴキはキューキューと鳴いた。そう、こいつ鳴くのである。念のため言っておくが、鳴いても愛らしくはない。鳴けばいいと思うなよ。
「ほら、渡辺くんも触ってみない? 呼ばれてるよ」
「呼ばれてません!」
「何事も経験って言うじゃん? 私が見ててあげるから。デビューしちゃいなよ」
 なんのデビューだよ。と突っ込むけど、先輩に誘われると僕は弱い。本当に害はないようだし、何よりこうしていつまでもビビっているようでは印象も悪い。男として頼りがいのない、ダメなヤツと思われてしまいかねない。
 僕は「先輩とお近づきになるためだ」と自分に言い聞かせ、近寄った。先輩の手のひらの上でおとなしくしているマダゴキの背中に、そっと指で触れる。……滑らかで、柔らかい。けど癒されはしない! むしろゾゾッとして心拍数が上がる。
「よし。じゃあ、手、出して」
「い、いや、さすがにそれは」
「えー。人生損するよ? いいの? ねえちょっとだけ乗せとこ? ちょっとだけだから」
 マジで何がどう損するのか分からないし、絶対に何も損はしないと確信しているのだけど、先輩の手が僕の手にさりげなく触れた瞬間、「後は野となれ山となれ」と思ってしまった。僕は従順になったのだ。優しく包み込むように、僕を支えるきれいな白い手。先輩の体温が伝わってくる。距離も近くて、なんだか甘い香りも漂い、ドキドキする。体温が上昇していく。それを悟られてしまわないかとハラハラして、手が汗ばむ。
「ほーら、いくよ?」
 ついにマダゴキが僕の手のひらに降りてきた。探るように警戒しながら、ゆっくりと歩いてくる。身の毛もよだつ脚の感触。チクチクするような、かゆいような。
「やばいです……! やばい、やばい、やばい……! もう無理ですって! マジで無理です助けてくださいッ!!」
 僕はみっともなくわめいた。先輩がさっとマダゴキを回収した。もっと先輩の手に触れていたかったなどと思う余裕もなかった。精神を削り取られるようだ。
「ダメかー」
「ダメでした……」
「でもまあナイスチャレンジ」
 先輩が僕にウインクしたのが可愛くて全て許せた。ちなみに今日は寝ぐせが付いてない。寝ぐせが付いているのは研究のために徹夜したときだけらしい。
 僕は額に浮いた汗をぬぐい、先輩から離れた。早く手を洗いたい。しばらくマダゴキと戯れていた先輩は、斎藤さんに怒られて名残惜しそうに飼育ケースに戻した。「また会いに来るからね。きっと来るからね」と別れの言葉をかけているあたり、この人の愛情は相当だ。
「斎藤さんはどうしてこんなにゴキブリ飼ってるんですか」
「トカゲとか魚の生き餌として需要あるってのと、ペットとしてだな。欧米じゃカブトムシ並みに人気があるらしいぞ」
 ゴキブリにもそういう使い道があるとは知らなかった。世の中には変わった人もいるものだ。理解はできないけれど。
「渡辺、こいつを隣の部屋に持っていってくれ」
 斎藤さんからチャック付きのビニール袋を渡された。
「うわっ……これカマキリの赤ちゃんですね」
「去年の冬に河原で集めておいたんだ。今日の作業も含めて毎年の恒例行事みたいなもんだな」
 カマキリの卵が袋ごとに二つずつ入っていて、大半が孵化していた。指先ほどの大きさの、枯れ草色の子カマキリたちがわらわらと動いている。一つの袋に百匹くらいいるだろうか。ゴキブリと比べたらなんと微笑ましく可愛らしいことか。そんな袋が十個はある。
「猪俣もさっさと働け」
 斎藤さんの言葉に、僕は内心ドキリとした。今、確かに斎藤さんは猪俣先輩のことを呼び捨てで呼んだ。ごく自然に。
 別の水槽に見入っていた先輩は、呼び捨てにされたことはまったく気にする様子もなかった。斎藤さんのほうが年上だからおかしなことはない、といえばそうなのだが。先輩は元気な子カマキリたちを見て「おおー、今年も大量だね」と歓声をあげる。三人で袋を全て持ち、飼育部屋を後にした。
 このときの僕は猪俣先輩と斎藤さんの関係に気を取られていたせいで、重大な事実に思い至っていなかった。つまり虫の輪の活動において、食わないものは捕まえないし飼いもしないということである。なぜ隣の部屋で湯を用意しているかといえば、予想できたことだが、ちょっと可愛くも見え始めた子カマキリたちをゆでるためであった。
「木の枝とかゴミとか孵化してない卵嚢(らんのう)はこっちな。あと絶対逃がすなよ。注意しろよ」
「振りっすか?」
「振りじゃねえ! 石橋、特に気をつけろよ」
「ほどほど頑張りますよ」
 当然のごとく一同は作業を開始し、可愛らしい子カマキリたちを鍋の中に放り込んでいった。さっと湯通して、網目状になっているお玉ですくい上げ、水気を切って目の細かいザルの上へ。あの凜ちゃんまでも、生まれたばかりの小さな命を慣れた手つきで熱湯のうだる鍋にぶちこんでいく。僕はその光景を、多少の衝撃と、なんとも言えない複雑な心持ちで見守っていた。
「渡辺くんも、やれそうならやったほうがいいと思うけど、どうする?」
 僕もこのサークルのメンバーなのだから、当然手伝うべきだろう。だけど生まれたばかりの子カマキリたちはアシダカグモやゴキブリに比べたら、なんだか可哀そうな気がしてしまう。アシダカグモが意外にもおいしかったように、カマキリも実はおいしいのだろうか。わざわざ捕まえて食べるに値するものなのだろうか。分からないが……スーパーやコンビニにもおいしいものはいくらでもある。わざわざ赤ちゃんカマキリをこんなにたくさん殺す必要があるのだろうか。残酷というか、やるせないというか……。
 逡巡している僕を見て、先輩は優しく諭すように言った。
「無理はしなくていい。自分の手で命を奪うことに大事な意味があるけれど、それをどうしても嫌がる人も、いていいと思う。これを見て、渡辺くんが日々何かを食べるために手を汚した誰かがいるってことを、知ってもらえればそれだけで充分だよ。だから君の準備が整う日まで、見ているだけでもいいからね」
 結局、僕は部屋の隅で黙って見ているだけだった。千匹くらいはいたであろう子カマキリたちは全て湯通しされ、まるでシラスみたいな見た目になって小分けにされ、冷凍庫に安置された。一年かけて皆の胃袋におさまるのだという。そしてまた二月ごろ、次の一年分の卵嚢を採取する。それが繰り返されるサイクル。
 その後は雑談したり、斎藤さんの飼育室を見学したりして時間をつぶした。頃合いを見て僕らは歓迎会の会場である中華料理店『朱雀(すざく)』に向かった。
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