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「カケル、入るよ」
 母の声がしたとき、カケルは自分の部屋のベッドの上であぐらをかいてサッカーの動画を見ていた。世界中で行なわれている最新の試合を毎日チェックするのが、カケルの趣味だ。お気に入りのゴールシーンは、空中ディスプレイに映し出される立体映像を拡大縮小したり回転させたりして、何度も視聴している。
「どうぞ」
 カケルは空中の映像を見つめたまま答えた。
 母は部屋に入り、小学四年生のあどけない横顔に尋ねる。
「また見てたの? 何の試合?」
「ブンデス。日本人が出てるやつ」
「最近はドイツだと誰が活躍してる?」
「岩崎かな。神の左足って言われてて、マジかっこいいの」
「練習の時間まで一緒に見てもいい?」
「うん、岩崎のシュート、見せてあげる」
 カケルが念じると試合リストから、岩崎がシュートを決めた最新の試合が選択され、畳ほどの大画面に引き伸ばされた。
 母は部屋の隅にあった椅子を引き寄せて腰かける。
 カケルと母は、毎日ここでサッカーの話をしている。仕事が休みの日には、父もやってきて三人で話すこともある。サッカーのこと、勉強のこと、将来のこと。
「もう時間か」
 しばらくして、カケルは頭に直接流れ込んでくるアラームの音を聞き、動画を一時停止した。
 母がゆっくりと腰を上げる。
「練習、頑張ってね」
「うん、またあとで」
 母が退室すると、カケルはベッドにごろんと寝転がり、目を閉じた。頭にいつもの練習場を思い浮かべ、「入場」と宣言する。目を開けると、視界には青空が広がっていた。カケルはブルーのユニフォーム姿で、一面の緑の芝生の上に立っていた。
 真っ直ぐに引かれた白線、サッカーのゴール、奥ほど高くなっていく観客席。練習用のスタジアムだ。
 カケルが念じると、自分のステータスとスキルセットを表わす半透明の画面が目の前に出現した。画面を操作し、走力や体力といったステータスにポイントを振り分けて調整する。まるで育成ゲームのようだが、この世界では誰もがやっていることだ。
 その間にも、次々と少年少女たちが入場してきた。みなユニフォーム姿で、芝生の上にパッと現われては、周りの友達と言葉を交わす。
「カケル、またステータスいじってんの?」
 声に気づいて顔をあげると、友人のタクヤが近づいてくるところだった。
「やっぱ岩崎みたいに左足でキメたいじゃん?」
 カケルは左足でシュートをする動作をしてみせた。
「コーチが左と右でバランス変えるなって言ってたぞ?」
「大丈夫だって。今日、試してみてダメなら戻すから」
「俺、知らねえぞ」
 プレーヤーは自身の走力や体力といったステータスを自由に調整し、さらにスキルと呼ばれる得意技を装備して、それぞれの個性を出す。そうやって作られた個性は無限大であり、調整次第で現実の身体以上の能力を発揮したり、高度な技をきめたりすることも可能だ。
「お、コーチ来た。行こうぜ」
 ジャージ姿の大人のプレーヤーが入場すると、散らばっていた子供たちが一斉に集まっていく。
 カケルも芝を踏む感覚を確かめながら、コーチのもとへ駆けていった。


 カケルの身体は現実には一歩も移動していないし、指先もぴくりとも動いていない。だがここでは、身体的な制約から解放され、広い芝生の上を自由に走り回り、存分にサッカーを楽しむことができる。
 今やスポーツは、現実の体を動かさずとも、思考するだけで仮想の肉体をダイナミックに、思い通りに操って楽しめるようになった。VRサッカーは、カケルにとって生き甲斐であり、希望なのだ。


 コーチは、来週の試合に備えてこれから紅白戦をすると説明した。
 メンバーがコートの左右に散っていくと、カケルがいる左側の選手たちのユニフォームは瞬時に赤に、相手側は白に変わった。
 ホイッスルの音が響き、紅白戦が始まった。
 味方がボールを持った。カケルは素早く右サイドを駆け上がっていく。確かに伝わってくる、風を切る感覚。足の裏で地面を蹴る反動。まるで自分の身体のように錯覚する。思い描いた通りのスピード感。
 ボールをキープしている味方と、自分とを繋ぐコート上に、グリーンのラインが浮かび上がる。グリーンは危険度の低いパスコースだ。
 味方がカケルにパスを出した。カケルは右足の内側でボールをトラップ。距離を詰めてきた相手ディフェンダーが、最適な間合いに入ったと同時に、スキル――シザーズを発動。左足、右足と素早く連続でボールを跨ぎ、フェイントをかける。相手の重心が右に傾くのを見て、一気に左へドリブル突破。一人かわした。
 だがすぐにもう一人のディフェンダーが進路をふさぐ。もう一度シザーズ――いや、ダメだ。立て続けに同じスキルを使用すると失敗する確率が上がる。相手もそれが分かっているから、このタイミングでカバーに入ってきたのだ。
「カケル」
 タクヤの声と同時にグリーンのラインが視界の端をかすめた。カケルはタクヤへほぼ真横のパスを出し、自分はディフェンダーの背後へ飛び出していった。
 タクヤなら、きっと最高のパスを折り返してくる。
 目指すゴールに向かって後方から赤いラインが伸びた。タクヤはやはりカケルの狙い――ワンツーパスに気付いたのだ。ひと呼吸溜めて、ラインが黄色に変わった一瞬に、縦のパスが出た。絶妙のタイミング。相手のディフェンダーが滑り込んで足を伸ばしたが、ギリギリで届かない。加速したカケルは完全にディフェンダーの裏へ抜け出し、ボールに追い付いた。残るはキーパーのみ。
 カケルの体からボールが離れたタイミングを見計らって、キーパーが飛び出してきた。だがこれはカケルの思惑通り。ステータスを調整して、ドリブルの際、前回よりも少しだけ細かくボールにタッチできるように設定してあるのだ。だから飛び出してきたキーパーがボールに触れるより早く、カケルはスキルを発動することができた。ループシュートだ。
 左足のつま先で、ボールの下を優しくすくい上げる。ふわりと浮き上がったボールは、低い姿勢のキーパーの頭上を抜けて、ゴールネットに抱きとめられた。
 得点を告げるホイッスル。
「やったな、カケル。岩崎みたいだったぜ」
「タクヤこそ、ナイスパス」
 ばっちりだ。これなら来週の試合でも通用するに違いない、とカケルは確信した。
 練習が終わった後も、カケルとタクヤはしばらくコートに残り、興奮気味にしゃべっていた。
「俺、そろそろリアルに戻らなきゃ」
 十七時を過ぎた頃、タクヤがそう切り出した。
「晩ご飯と、そのあと、リハビリもあるし」
「そろそろ歩けそうか?」
「ああ。でもまだ、杖がいるけどな」
「そうか。大変だな」
 カケルは喜ぶべきだと分かっていても、素直に喜べない自分がいることに気付いている。
 その複雑な心境を察して、タクヤが口を開く。
「俺、リアルで動けるようになっても、絶対こっちにも来るから。リアルもバーチャルも両方やるから。見捨てたりしないって。とりあえず来週の試合、勝とうぜ」
 カケルはタクヤに肩を叩かれたら、自然と笑顔になった。
「うん、サンキュー」
「じゃあ、またな」
「うん、また」
 タクヤがログアウトし、カケルの目の前に残像を残して消えた。
「俺も戻ろう」
 カケルは元居た部屋を頭に浮かべ、「退場」と言った。
 部屋には母が残っていた。
「おかえり」
「ただいま」
「見てたけど、調子良さそうね」
「まあね。ステータス調整がうまくいった」
 そんな会話をして、ふとタクヤについて話したくなった。
「タクヤがもうすぐ歩けそうだって」
「そうなんだ、タクヤくん、頑張ってるね」
「うん、あいつ、すごく頑張ってるんだ」
 カケルはなんだか惨めな気持ちになる。タクヤを応援したい気持ちは確かにあるが、応援すればするほど、ダメな自分を突きつけられているように感じるのだ。
 そんな気持ちを母にも勘づかれていた。
「他人は他人、自分は自分。焦らなくていいよ」
「うん、大丈夫」
 しばらくすると、母も「そろそろうちへ帰るね」と言った。
「うん、じゃあ」
「また明日」


***


 病室のベッドには、カケルのやせ細った身体が横たわっている。もう一年以上、目を覚ましていない。
 交通事故に遭い、病院へ搬送されたカケルは、一命を取り留めたが、意識が戻ることはなかった。だが死んだわけでもなかった。いわゆる植物人間状態で生き永らえている。
 身体には生命維持装置のチューブや検査機器のコードがつながれ、頭には仮想現実に意識を投影するヘッドセットが装着されている。なんとかしてカケル本人と意思疎通できないか考えた末、この方法が考案され、成功をおさめた。それ以来、両親はVR世界でカケルとの対話を続けている。
「先生、カケルに何か変わったところはありませんか」
 担当の医師が様子を見に回ってきたとき、母はそう尋ねた。
「いえ、データ上では変わり無しですね。いつ目覚めるのか、何とも言えません」
 医師はヘッドセットで半分隠れた、少年のこけた頬に目を落とす。
「仮想空間でのカケルくんは、お母様から見て、何か変わったことはありますか」
「そうですね、現実の身体が動かないことについて、焦っているように見えました。歩けなかった友達が、もうすぐ歩けるようになりそうだ、と……」
「そうなれば、その友達と仮想空間で会う機会も減るでしょうね」
「ええ。やっぱり本当はこの身体でサッカーがしたいのだと感じました」
 母はカケルの左足があるはずの場所へ視線を移す。膝から先は事故で失われたのだ。
「カケルくんは再びこの身体でサッカーができる日を、あきらめてはいないということですね。その気持ちが、いつかカケルくんを目覚めさせるかもしれません」
「ええ、そんな気がします」
 母が病院を去った後も、カケルは仮想のフィールドで、「いつか」を思ってボールを追いかけている。


<了>
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