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第五章 二人の日常4
旦那様のスランプ
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こちらはタイトル通りサフィールがスランプに陥るお話で、ちょっとダメダメな面が描かれておりますので、そういうサフィール見たくない!! って方はスルーしてください。万が一気分を害されても責任は負えませんので、あしからず。
********************************************
ブクブクと泡の立つ鍋を、サフィールはいつになく真剣な眼差しで見つめていた。鍋の中にはドロッとした緑色の薬が煮えており、かすかな異臭が鼻をつく。
「…………」
その鍋に、サフィールは薬包紙に包まれた粉状の薬をサラサラと入れ、匙で掻き回した。すると、緑色の薬はさあっと鮮やかな青に変わる。
「よし」
期待した通りの反応に、サフィールはすぐそばに置いていた羊皮紙に先程追加した粉薬の分量を記していく。だが……
「……あっ」
青色だった薬は、サフィールがちょっと目を離した隙にドロッとした赤錆色へと変わっていた。しかも、先ほどまでの異臭が綺麗さっぱり消えている。
「失敗だ……」
はあ……と、サフィールは重いため息を吐いた。これでいったい何度目だろう?
サフィールは一か月前から、ある新しい魔法薬の開発に挑戦していた。だが、最初は順調だったそれは、調合の段階になって暗礁に乗り上げている。
理論上はこの材料で目的の魔法薬ができるはず。だが、材料の分量と、それを追加する順番やタイミングでがらりと変わってしまうのだ。途中まで上手くいっていても、また一からやり直しとなる。新しい薬を開発する時には付きものの工程とはいえ、これほど苦戦するのは久しくなかったことだ。
さすがのサフィールも、これには堪えていた。
「量が問題なのか……? いや、でも最初の反応から考えると……」
ガシガシと頭を書きながら、分量を算出した計算式を思い返す。そして彼はその辺に積んであった魔法書を紐解き始め、ブツブツと小声で独り言を言い始めた。
「ご主人様、煮詰まってるにゃ~」
「にゃ」
そんなサフィールを影からこっそりと見守るのは、彼の使い魔である茶色猫のネリーと灰色猫のライトだった。こうなると、サフィールは他のことには目が行かなくなる。二匹はこっくりと頷いて、サフィールの店の鍵を閉めに行った。幸いにして今日は二匹で対応できるような、お守りやまじない物を買い求める客ばかりだったが、サフィールにしか対応できないような占いや相談事の客は二匹の手に余る。これは店仕舞いにした方がいいだろうとの判断だ。
使い魔猫達がそんな気を回していることも知らず、サフィールは新たに算出し直した分量になるよう、材料を計り直していた。少しの差も薬の成功に影響する。秤と向き合って慎重に粉薬を計るのは、それはそれは肩の凝る作業だった。
「はぁ……」
肩を軽く揉んで、伸びをする。するとぱきぽきと音がなった。それでも体が重い気がして、サフィールの口からはため息しか出て来ない。
疲れた。進展の無い調合作業にずっと掛りきりで、失敗を何度も繰り返すのは特に精神的疲労が大きくなる。もういっそ全てを投げ出して、今日は何もせずに寝てしまおうかとさえ思う。そうできたら、どんなにか気持ち良いだろうか。
(アニエスの膝枕で、寝たい)
だが、それは叶わないのだった。
何故なら、彼の最愛の妻は今……
(……今頃、王都に着いてるだろうな……)
友人の結婚式に参列するため、クレス島から遠く離れた王都に行っているから。
アニエスは一週間ほど、家を留守にする予定になっている。そのお供にと、サフィールは使い魔のうち黒猫カルと縞猫アクアを一緒に行かせた。
そのためアニエスのパン屋はしばらく休みだ。ただし、契約しているレストランや食堂の分だけは残った使い魔猫達が作って配達することにした。
一週間も家を空けることを申し訳なく思い、またサフィールを案じて「大丈夫?」と心配そうな顔をしていたアニエスを笑顔で「大丈夫だから、羽を伸ばしておいで」と快く見送ったのは一昨日のこと。
だがたった二日で、サフィールは「やっぱり俺も一緒に行けばよかった」と後悔し始めていた。
新薬作りは失敗ばかりで進展が無く完全に煮詰まっているし、これなら仕事から離れてアニエスと一緒に王都を観光でもしていた方がよっぽど有意義だったのではないかと思えてくる。
何より、ほっと疲れを癒してくれる……そんな愛する妻が傍にいないのが、寂しい。
「アニエス……」
恨めしく思えてきた薬の材料達を前に、サフィールはまた重いため息を吐くのだった。
「ご主人様~、夕飯の用意ができましたのにゃ。ちょっと休憩にしましょうにゃ~」
そう言って、ブチ猫のキースがサフィールの店の奥にひょいと顔を出す。だが、そこで鍋に向かって調合しているかと思われた彼の主は、床にクッションを敷いて仰向けに寝そべり、顔に開いた魔法書を乗せていた。
(……わぁ)
これは完全に煮詰まっているにゃ、とキースは思う。ネリーやライトから話には聞いていたが、さらに状況が悪化しているようだ。
「ご主人様、ごはん……」
「……いらない。お前達だけで食べてて」
「でも……」
キースは逡巡する。彼にとって主であるサフィールの言葉は絶対ではあるが、アニエスから出発前にしっかりと頼まれていたのだ。
サフィールがどんなに面倒くさがっても、三食しっかり食べさせてほしい、と。
その願いに、キースは応えたかった。
(ごはんを食べないと、力が出ませんのにゃ~)
でも、どうやって説得したものか。食事の大切さを説いたところで、この面倒くさがりの主は「一食くらい抜いても変わらないよ」と言うに決まっている。アニエスと再会する前は、そんな生活が当たり前だった。
「……キース、遅いにゃ」
そんなとき、困っていたキースに心強い助っ人が現れる。それは、使い魔猫達の中で一番口が達者な白猫のジェダだった。
「ジェダ~」
キースはこれ幸いとばかりに、ジェダに泣きついて事情を話した。
「ふむ……。ご主人様」
「………………」
状況はわかったと頷くジェダがサフィールを呼ぶ。が、答えはない。
気にせず、ジェダは言葉を続けた。
「夕飯の支度が整いましたにゃ。いらしてくださいにゃ」
「いらない」
「面倒なら、こちらに運びますにゃ。ちゃんと食べないと、駄目ですにゃ」
サフィールの言葉は素っ気ないが、ジェダは気にせずひるまず言い募る。
「お腹減ってない」
「減ってなくても食べないと……」
にやりと、ジェダの口の端が意地悪く吊り上る。
「奥方様に、告げ口しますにゃん」
「うっ」
サフィールが言葉に詰まる。ジェダは笑みを深めて、さらに言葉を続けた。
「奥方様、きっと怒りますにゃ~。出発前にあれほど、『三食きっちり食べること。あなたは放っておくと何でも面倒くさがっちゃうんだから』って言われて、『大丈夫だよアニエス』って答えてたのは誰でしたかにゃ~?」
「…………」
(……ジェダ、すげぇにゃ……)
白猫が優勢に立っている。そんなふたりのやり取りをハラハラと見守りながら、キースは心の中でそう呟いた。主の弱みを容赦なく突けるのは、使い魔の中ではこのジェダだけだろう。
「……食べる」
「すぐにお持ちしますにゃ」
白猫は優雅に一礼して、「ほら、行くにゃ」とキースの手を引く。キースはそんなジェダを尊敬の眼差しで見つめた。
そして改めて二匹が運んできた食事を、サフィールはしぶしぶ完食したのだった。
その後もサフィールの不調――スランプは続いた。
店はずっと休業中で、サフィールはずっと店の奥に籠ったまま。寝室にもろくに帰らず、ここで寝起きしている。だが、かといって作業を進めているわけでもなく、「今のままではまた失敗する」と、「理論の段階から見直す……」のだと言い訳して、ごろんとクッションに寝そべっては自分のメモや魔法書と睨めっこしている。夜の間中ずっと起きていて、その代わり午前中は死んだように眠っていて、アニエスが数日留守にしただけでひどく不規則な生活になってしまった。
唯一、食事だけは使い魔猫達が苦心して三食きっちり食べさせているけれど。
「奥方様、早く帰ってきてほしいにゃ~」
クッションの上で死んだように眠っている主を見て、ネリーが「はぁ」とため息を吐く。
「たった数日で、昔みたいな有様にゃ」
うんうんと頷くのは、灰色猫のライトだ。
「……あと二日ほどでお帰りになるだろう。それまでは、私達でなんとかせねば、にゃ」
三毛猫セラフィの言葉に、二匹の猫はこっくりと頷いた。
何もしたくない……
起き上がる気にもなれず、たくさん眠ったはずなのにまだ眠気を感じるぼうっとした頭で、サフィールはクッションの上に転がっていた。
結局、新薬作りの手は止まったまま。炉の火も落してしまった。起きている時には目を通している魔法書の中身も、ちっとも頭に入ってこない。
(アニエス……)
目を瞑ったまま考えるのは、妻のアニエスのことばかり。彼女の暖かな体を抱きしめたい。彼女の作る美味しい料理を食べたい。笑顔が見たい。声が聞きたい。会いたい。
使い魔猫達の作る料理も美味しいのだが、やはり……アニエスの作ってくれる料理は別格なのだ。
「……はぁ」
我ながら、そうとう参っているなとサフィールは思う。これまでにもスランプに陥ったことはあった。でも、そういう時は大抵、アニエスの作る料理を食べ、アニエスと一緒に寝台に入り一晩過ぎればけろっと元の調子に戻る。
そうだ、アニエスが傍にいないから……
こんなに長い間、アニエスと会わずに過ごすのは結婚して以来初めてのことだ。まさかこれほど堪えるとは……。新薬作りに行き詰っていたタイミングと合ってしまったのもあるのだろうが、結構辛い。
こんな所でうだうだと管を巻くくらいなら、一緒に行けば良かった。後悔ばかりが募る。いや、今からでも遅くない。いっそ迎えに行ってしまおうか……
「はぁ……」
そう思い至った自分に、サフィールは苦笑する。自分はどれほど、彼女に溺れているのだろうか。
(……こんな姿を見られたら、きっと呆れられるだろうな……)
そう、きっと。「もう、サフィールったら!」と声を怒らせて……
「もう、サフィールったら!」
(え……?)
その時、聞こえるはずの無い声が響いて、サフィールは恋しさのあまりついに幻聴が聞こえるようになってしまったのかと、瞑っていた目を見開いた。
「ジェダ達に聞いたわよ? 仕方のない人ね」
呆れているようでもあり、怒っているようでもあり。そして、少し甘やかすような声がサフィールの耳朶に響く。そして目の前には、自分の顔を覗き込むように傍らに座るアニエスがいた。
「アニエス……?」
「あなたのことが心配で、早めに帰って来たの。正解だったわ」
ゆっくりと起き上がったサフィールは、まだ信じられないものを見ているような目で、確かめるようにそっと、アニエスの頬に手を伸ばした。
ぺた……と触れる感触は、温かくて柔らかい。夢でも幻でも無い、本物のアニエスだ。
「アニエス……だ」
「もう……」
留守にしていた間のサフィールの不摂生を怒っていたはずなのに、真剣な顔で触れてくる夫に、そんな気も和らいでいく。
「ただいま、サフィール。王都に快く行かせてくれて、ありがとう」
アニエスはそっと、サフィールの手に自分の手を重ねた。
「結婚式は素敵だったし、久しぶりにお父さんとお母さん、それにね、マリーベルお姉さんにも会えたの! 嬉しかったわ」
「うん。良かったね、アニエス」
嬉しそうなアニエスにつられて、サフィールもふわりと微笑む。
こうしてアニエスの笑顔を見ていると、それだけで心がほっと温まる気がした。
「そうそう、魔法使い様にも会えたのよ。サフィールによろしくって」
「それはどうでもいいな」
アニエスの言う『魔法使い様』とは、サフィールの育ての親兼師匠であるクラウドのことだ。
「もう! サフィールったら!!」
「……おかえり、アニエス。俺は……」
ちょっぴり、寂しかったよ……と。サフィールは甘えるようにアニエスの膝に頭を乗せる。アニエスはまた「もう、仕方のない人……」と呆れたように、でもやっぱり少しだけ甘やかすように呟いて、その銀色の髪を撫でた。
「魔法薬作りが上手くいってないって聞いたわ」
「うん」
「それで、何も手が付けられなかったって」
「うん」
「大丈夫なの?」
「大丈夫」
……な、気がする。こうしてアニエスの声を聞いて、その手に優しく撫でられていると、凝り固まっていたものが優しくほぐれていく気がした。
「……もうしばらく、このままで……」
膝枕で寝かせて欲しいと、サフィールはねだった。
アニエスは「甘えん坊さんね」と優しく微笑んで、頷いてやる。
そうしてひと眠りした後、サフィールはそれまで行き詰っていたのが嘘のように頭がスッキリし、行き詰っていた新薬作りは順調に進んだ。
そんな主の様子に安堵しながら、使い魔猫達は思うのだった。
「やっぱり、ウチのご主人様には奥方様がついていないとダメにゃ~」
……と。
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ブクブクと泡の立つ鍋を、サフィールはいつになく真剣な眼差しで見つめていた。鍋の中にはドロッとした緑色の薬が煮えており、かすかな異臭が鼻をつく。
「…………」
その鍋に、サフィールは薬包紙に包まれた粉状の薬をサラサラと入れ、匙で掻き回した。すると、緑色の薬はさあっと鮮やかな青に変わる。
「よし」
期待した通りの反応に、サフィールはすぐそばに置いていた羊皮紙に先程追加した粉薬の分量を記していく。だが……
「……あっ」
青色だった薬は、サフィールがちょっと目を離した隙にドロッとした赤錆色へと変わっていた。しかも、先ほどまでの異臭が綺麗さっぱり消えている。
「失敗だ……」
はあ……と、サフィールは重いため息を吐いた。これでいったい何度目だろう?
サフィールは一か月前から、ある新しい魔法薬の開発に挑戦していた。だが、最初は順調だったそれは、調合の段階になって暗礁に乗り上げている。
理論上はこの材料で目的の魔法薬ができるはず。だが、材料の分量と、それを追加する順番やタイミングでがらりと変わってしまうのだ。途中まで上手くいっていても、また一からやり直しとなる。新しい薬を開発する時には付きものの工程とはいえ、これほど苦戦するのは久しくなかったことだ。
さすがのサフィールも、これには堪えていた。
「量が問題なのか……? いや、でも最初の反応から考えると……」
ガシガシと頭を書きながら、分量を算出した計算式を思い返す。そして彼はその辺に積んであった魔法書を紐解き始め、ブツブツと小声で独り言を言い始めた。
「ご主人様、煮詰まってるにゃ~」
「にゃ」
そんなサフィールを影からこっそりと見守るのは、彼の使い魔である茶色猫のネリーと灰色猫のライトだった。こうなると、サフィールは他のことには目が行かなくなる。二匹はこっくりと頷いて、サフィールの店の鍵を閉めに行った。幸いにして今日は二匹で対応できるような、お守りやまじない物を買い求める客ばかりだったが、サフィールにしか対応できないような占いや相談事の客は二匹の手に余る。これは店仕舞いにした方がいいだろうとの判断だ。
使い魔猫達がそんな気を回していることも知らず、サフィールは新たに算出し直した分量になるよう、材料を計り直していた。少しの差も薬の成功に影響する。秤と向き合って慎重に粉薬を計るのは、それはそれは肩の凝る作業だった。
「はぁ……」
肩を軽く揉んで、伸びをする。するとぱきぽきと音がなった。それでも体が重い気がして、サフィールの口からはため息しか出て来ない。
疲れた。進展の無い調合作業にずっと掛りきりで、失敗を何度も繰り返すのは特に精神的疲労が大きくなる。もういっそ全てを投げ出して、今日は何もせずに寝てしまおうかとさえ思う。そうできたら、どんなにか気持ち良いだろうか。
(アニエスの膝枕で、寝たい)
だが、それは叶わないのだった。
何故なら、彼の最愛の妻は今……
(……今頃、王都に着いてるだろうな……)
友人の結婚式に参列するため、クレス島から遠く離れた王都に行っているから。
アニエスは一週間ほど、家を留守にする予定になっている。そのお供にと、サフィールは使い魔のうち黒猫カルと縞猫アクアを一緒に行かせた。
そのためアニエスのパン屋はしばらく休みだ。ただし、契約しているレストランや食堂の分だけは残った使い魔猫達が作って配達することにした。
一週間も家を空けることを申し訳なく思い、またサフィールを案じて「大丈夫?」と心配そうな顔をしていたアニエスを笑顔で「大丈夫だから、羽を伸ばしておいで」と快く見送ったのは一昨日のこと。
だがたった二日で、サフィールは「やっぱり俺も一緒に行けばよかった」と後悔し始めていた。
新薬作りは失敗ばかりで進展が無く完全に煮詰まっているし、これなら仕事から離れてアニエスと一緒に王都を観光でもしていた方がよっぽど有意義だったのではないかと思えてくる。
何より、ほっと疲れを癒してくれる……そんな愛する妻が傍にいないのが、寂しい。
「アニエス……」
恨めしく思えてきた薬の材料達を前に、サフィールはまた重いため息を吐くのだった。
「ご主人様~、夕飯の用意ができましたのにゃ。ちょっと休憩にしましょうにゃ~」
そう言って、ブチ猫のキースがサフィールの店の奥にひょいと顔を出す。だが、そこで鍋に向かって調合しているかと思われた彼の主は、床にクッションを敷いて仰向けに寝そべり、顔に開いた魔法書を乗せていた。
(……わぁ)
これは完全に煮詰まっているにゃ、とキースは思う。ネリーやライトから話には聞いていたが、さらに状況が悪化しているようだ。
「ご主人様、ごはん……」
「……いらない。お前達だけで食べてて」
「でも……」
キースは逡巡する。彼にとって主であるサフィールの言葉は絶対ではあるが、アニエスから出発前にしっかりと頼まれていたのだ。
サフィールがどんなに面倒くさがっても、三食しっかり食べさせてほしい、と。
その願いに、キースは応えたかった。
(ごはんを食べないと、力が出ませんのにゃ~)
でも、どうやって説得したものか。食事の大切さを説いたところで、この面倒くさがりの主は「一食くらい抜いても変わらないよ」と言うに決まっている。アニエスと再会する前は、そんな生活が当たり前だった。
「……キース、遅いにゃ」
そんなとき、困っていたキースに心強い助っ人が現れる。それは、使い魔猫達の中で一番口が達者な白猫のジェダだった。
「ジェダ~」
キースはこれ幸いとばかりに、ジェダに泣きついて事情を話した。
「ふむ……。ご主人様」
「………………」
状況はわかったと頷くジェダがサフィールを呼ぶ。が、答えはない。
気にせず、ジェダは言葉を続けた。
「夕飯の支度が整いましたにゃ。いらしてくださいにゃ」
「いらない」
「面倒なら、こちらに運びますにゃ。ちゃんと食べないと、駄目ですにゃ」
サフィールの言葉は素っ気ないが、ジェダは気にせずひるまず言い募る。
「お腹減ってない」
「減ってなくても食べないと……」
にやりと、ジェダの口の端が意地悪く吊り上る。
「奥方様に、告げ口しますにゃん」
「うっ」
サフィールが言葉に詰まる。ジェダは笑みを深めて、さらに言葉を続けた。
「奥方様、きっと怒りますにゃ~。出発前にあれほど、『三食きっちり食べること。あなたは放っておくと何でも面倒くさがっちゃうんだから』って言われて、『大丈夫だよアニエス』って答えてたのは誰でしたかにゃ~?」
「…………」
(……ジェダ、すげぇにゃ……)
白猫が優勢に立っている。そんなふたりのやり取りをハラハラと見守りながら、キースは心の中でそう呟いた。主の弱みを容赦なく突けるのは、使い魔の中ではこのジェダだけだろう。
「……食べる」
「すぐにお持ちしますにゃ」
白猫は優雅に一礼して、「ほら、行くにゃ」とキースの手を引く。キースはそんなジェダを尊敬の眼差しで見つめた。
そして改めて二匹が運んできた食事を、サフィールはしぶしぶ完食したのだった。
その後もサフィールの不調――スランプは続いた。
店はずっと休業中で、サフィールはずっと店の奥に籠ったまま。寝室にもろくに帰らず、ここで寝起きしている。だが、かといって作業を進めているわけでもなく、「今のままではまた失敗する」と、「理論の段階から見直す……」のだと言い訳して、ごろんとクッションに寝そべっては自分のメモや魔法書と睨めっこしている。夜の間中ずっと起きていて、その代わり午前中は死んだように眠っていて、アニエスが数日留守にしただけでひどく不規則な生活になってしまった。
唯一、食事だけは使い魔猫達が苦心して三食きっちり食べさせているけれど。
「奥方様、早く帰ってきてほしいにゃ~」
クッションの上で死んだように眠っている主を見て、ネリーが「はぁ」とため息を吐く。
「たった数日で、昔みたいな有様にゃ」
うんうんと頷くのは、灰色猫のライトだ。
「……あと二日ほどでお帰りになるだろう。それまでは、私達でなんとかせねば、にゃ」
三毛猫セラフィの言葉に、二匹の猫はこっくりと頷いた。
何もしたくない……
起き上がる気にもなれず、たくさん眠ったはずなのにまだ眠気を感じるぼうっとした頭で、サフィールはクッションの上に転がっていた。
結局、新薬作りの手は止まったまま。炉の火も落してしまった。起きている時には目を通している魔法書の中身も、ちっとも頭に入ってこない。
(アニエス……)
目を瞑ったまま考えるのは、妻のアニエスのことばかり。彼女の暖かな体を抱きしめたい。彼女の作る美味しい料理を食べたい。笑顔が見たい。声が聞きたい。会いたい。
使い魔猫達の作る料理も美味しいのだが、やはり……アニエスの作ってくれる料理は別格なのだ。
「……はぁ」
我ながら、そうとう参っているなとサフィールは思う。これまでにもスランプに陥ったことはあった。でも、そういう時は大抵、アニエスの作る料理を食べ、アニエスと一緒に寝台に入り一晩過ぎればけろっと元の調子に戻る。
そうだ、アニエスが傍にいないから……
こんなに長い間、アニエスと会わずに過ごすのは結婚して以来初めてのことだ。まさかこれほど堪えるとは……。新薬作りに行き詰っていたタイミングと合ってしまったのもあるのだろうが、結構辛い。
こんな所でうだうだと管を巻くくらいなら、一緒に行けば良かった。後悔ばかりが募る。いや、今からでも遅くない。いっそ迎えに行ってしまおうか……
「はぁ……」
そう思い至った自分に、サフィールは苦笑する。自分はどれほど、彼女に溺れているのだろうか。
(……こんな姿を見られたら、きっと呆れられるだろうな……)
そう、きっと。「もう、サフィールったら!」と声を怒らせて……
「もう、サフィールったら!」
(え……?)
その時、聞こえるはずの無い声が響いて、サフィールは恋しさのあまりついに幻聴が聞こえるようになってしまったのかと、瞑っていた目を見開いた。
「ジェダ達に聞いたわよ? 仕方のない人ね」
呆れているようでもあり、怒っているようでもあり。そして、少し甘やかすような声がサフィールの耳朶に響く。そして目の前には、自分の顔を覗き込むように傍らに座るアニエスがいた。
「アニエス……?」
「あなたのことが心配で、早めに帰って来たの。正解だったわ」
ゆっくりと起き上がったサフィールは、まだ信じられないものを見ているような目で、確かめるようにそっと、アニエスの頬に手を伸ばした。
ぺた……と触れる感触は、温かくて柔らかい。夢でも幻でも無い、本物のアニエスだ。
「アニエス……だ」
「もう……」
留守にしていた間のサフィールの不摂生を怒っていたはずなのに、真剣な顔で触れてくる夫に、そんな気も和らいでいく。
「ただいま、サフィール。王都に快く行かせてくれて、ありがとう」
アニエスはそっと、サフィールの手に自分の手を重ねた。
「結婚式は素敵だったし、久しぶりにお父さんとお母さん、それにね、マリーベルお姉さんにも会えたの! 嬉しかったわ」
「うん。良かったね、アニエス」
嬉しそうなアニエスにつられて、サフィールもふわりと微笑む。
こうしてアニエスの笑顔を見ていると、それだけで心がほっと温まる気がした。
「そうそう、魔法使い様にも会えたのよ。サフィールによろしくって」
「それはどうでもいいな」
アニエスの言う『魔法使い様』とは、サフィールの育ての親兼師匠であるクラウドのことだ。
「もう! サフィールったら!!」
「……おかえり、アニエス。俺は……」
ちょっぴり、寂しかったよ……と。サフィールは甘えるようにアニエスの膝に頭を乗せる。アニエスはまた「もう、仕方のない人……」と呆れたように、でもやっぱり少しだけ甘やかすように呟いて、その銀色の髪を撫でた。
「魔法薬作りが上手くいってないって聞いたわ」
「うん」
「それで、何も手が付けられなかったって」
「うん」
「大丈夫なの?」
「大丈夫」
……な、気がする。こうしてアニエスの声を聞いて、その手に優しく撫でられていると、凝り固まっていたものが優しくほぐれていく気がした。
「……もうしばらく、このままで……」
膝枕で寝かせて欲しいと、サフィールはねだった。
アニエスは「甘えん坊さんね」と優しく微笑んで、頷いてやる。
そうしてひと眠りした後、サフィールはそれまで行き詰っていたのが嘘のように頭がスッキリし、行き詰っていた新薬作りは順調に進んだ。
そんな主の様子に安堵しながら、使い魔猫達は思うのだった。
「やっぱり、ウチのご主人様には奥方様がついていないとダメにゃ~」
……と。
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