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幼馴染は魔法使いの弟子
黄色い薔薇の物語編 21
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アニエス視点で、キスのその後。
********************************************
魔法使いの店から駆け足で戻ってきたアニエスは、そのまま自分が使っている部屋に駆けこんで、寝台の上にばふっと倒れ込んだ。
じわじわと、涙がシーツに染みていく。
唇と唇で交わすキスは、特別なものだと信じていた。
想い合う相手とだけ、交わすものだと。
それが、こんな形で。よりにもよって恋する男に、なんの感情も無く奪われるとは。
(サフィールの馬鹿! もう知らない!!)
心の中でめいいっぱい悪態を吐き。
泣いて、じたばたともがいていると。
「うぅ……」
やがて涙が引くのと同じように、心も落ち着きを取り戻していく。
(…私…、馬鹿みたい)
思えばサフィールは、ただ寝惚けていただけだ。
悪意をもってやったわけではない。
サフィールは、悪くない。
「馬鹿みたいだわ…」
こんな、ことで。
サフィールが絡むと、アニエスは平静でいられなくなる。
些細なことで一喜一憂して、落ち着かなくて。
いつも不安で、切なくて。
「………はぁ」
しっかりしなさいと、アニエスは奮い立たせるように自分の両頬を叩く。
(私は何のためにクレス島に帰って来たの? 夢を叶えるため、でしょう?)
間違っても、恋に惑うために帰って来たのではない。
(落ち着いて、顔を洗って)
泣いた顔を綺麗にして、甘い物でも食べて。
元の自分に戻ったなら、忙しい昼の食堂を手伝わなければ。そうしたら、
「私は…、大丈夫」
(…ある意味、良かったと思えばいいわ。最初のキスは、好きな人とできたんだから…)
顔を洗って、買っておいたチョコレート菓子を頬張り。
下の厨房に降りて行ったアニエスは、すぐに悩みなど吹き飛ぶような忙しさに身を投じることになった。次から次へと料理を作って、次から次へと訪れる客の対応をするので精一杯。
気付けばあっという間に、遅い昼食の時間になった。
「今日も良く働いてくれたわねー。助かるわ、アニエス」
「いえ、私こそ…」
「?」
(おかげで悩まなくって済んだなんて、言えないわよね)
「勉強になりますから」
にっこり笑って言うアニエスに、宿屋の主人夫妻は微笑んで「ありがとう」と言う。
彼女のおかげで、この所宿屋の売り上げはすこぶる良い。できればずっと、働いてもらいたいくらいだ。
夫妻ととる昼食の後は、部屋に籠って図面と睨めっこだ。
店を改装するにあたり、現在の店舗の図面を見ながらどこをどうしたいかなどを書き連ねていく。オーブンの場所、作業台の位置。カウンターの場所、店の雰囲気のイメージ。
次の大工達との打ち合わせまでに、イメージを固めておくことになっているのだ。とりあえず予算などは後から調整するから、どんな店にしたいのかを考えて来いとアニエスは言われていた。
(通りに面した壁は、大きなガラス窓にしたいわ。外から、お店の中の様子が見えるような…)
ガラス越しに焼き立てのパンが並んでいるのを見る、あのわくわく感。
(カウンターは、落ち着いた…でも少し明るい色味のマホガニー製で…)
それはパン屋を開こうと思った時から、ずっと決めていたこだわりでもある。
修業させてもらった王都のパン屋のカウンターも、マホガニー製のカウンターだった。
これだけは、多少予算をオーバーしても譲らないと、アニエスはペンを走らせる。
そうして店の構想を練っている内に、時はあっというまに夕方になり。
「よし。今日はここまで…」
アニエスは図面を丁寧にしまうと、エプロンを付けて再び階下に降りて行った。
最初は厨房で、夫妻を手伝って調理を。
客足が増えてきた所で、食堂で接客を担当する。この日も盛況で、テーブルはあっという間に埋まってしまった。
朝や昼と違うのは、夜の客の多くが酒も注文すること、だ。朝や昼から酒を飲む者もいないではないが、やはり夜では圧倒的に量が違う。客達の注文する料理や酒を運ぶだけで、目も回るような忙しさだ。
さらに、酒の入った客の中にはタチの悪い者もいて…。
「きゃっ」
さわりと、アニエスのお尻に何かが触れた気がした。
慌てて振り返ると、そこには酒精に顔を赤らめてにやにやと笑う男が。
(もう…っ)
夜の客の中には、こういう輩もいる。
下手に反応すると、面白がってつけあがるだけだとわかっているので。
アニエスはぐっと我慢し、何事も無かったかのように他の客の注文を取りに向かった。
が、
「こっちにも、新しい酒だ!」
例の男は、何かと細かく注文を言っては、アニエスを近付けようとする。
一応警戒して注文を受けたり酒を運んだりするのだが。
アニエスが酒の入ったコップをテーブルに置くたびに、さわりとその手に触れてくる。
「…っ!」
ぎょっとして手を引くと、男は決まってにやにやとアニエスを見ているのだ。
湧き上がる嫌悪感に、アニエスは思わず厨房の夫妻に助けを求めるよう視線をやるが。
アニエス以上に忙しそうな二人に、彼女は何も言えなかった。
すぐにそのテーブルを離れて、距離を置こうとするが結局は同じことの繰り返し。
注文を無視するわけにもいかず、アニエスは嫌々その男のテーブルに行くことになる。
これほどしつこい男は、初めてだった。
酒場では良くあることなのかもしれないと、アニエスは我慢しようとする。
彼女は気付いていなかった。この食堂で美しい娘が働いているという噂が、島の住民みならずこの島を訪れる船乗り達の間にまで広まっていると。そうした噂が、このような輩を呼び込んでしまったということも。
「御注文の品をお持ちしました」
目の前の男に感じている嫌悪感を表に出さないように、けれど愛想良くし過ぎないように、努めて冷静な声色でアニエスは新しい酒を男のテーブルに置く。
そして、今度は触られないようすぐに手を引いたのだが。
「ンだよ、つれねぇなぁ姉ちゃん」
グイと手を掴まれて、
「っ、離して…っ」
間近に、酒臭い息を吐かれる。
「ちょいと俺に付き合わねえか? なぁに、悪い話じゃねぇよ。ちょうど航海の帰りで金はたんまり持ってんだ」
男の汗ばんだ手が、ぎゅっとアニエスの手を握り締めて離さない。
酔っ払いとは思えない力。いや、酔っているからこそ加減を知らないのか。
「嫌っ、離して!!」
アニエスがそう、叫んだ時。
「その汚い手を離せ」
この場の喧騒に似合わない、やけに静かな声が響いたかと思うと。
褐色の手が、アニエスの腕から男の手を離し、
「ぐああっ」
ぎりぎりと、掴み上げて締め付ける。
「サフィール…?」
アニエスは驚きに目を見張った。
一体いつからここに来ていたのか。
黒いローブを纏うサフィールが、今にも射殺しそうな目で男を睨んでいるではないか。
「てめっ…! 離せっ」
「うるさい」
サフィールは男の手を掴んでいた右手を離すと、そのまま拳を握って男の頬に殴りかかる。
がっしゃーんと派手な音を立てて、男はテーブルに倒れ込んだ。
「この野郎っ!」
頭に血が上ったか、男はただでさえ赤くなっていた顔をさらに真っ赤にさせて、サフィールに飛びかかる。
男の一撃がサフィールの頬に当たり、口の中を切ったのか、唇から血が滲んでいた。
「サフィール!!」
しかしサフィールは気にもせず、容赦の無い一撃を男の腹にブチ込むと、
「ぐあっ」
さらに倒れ込んだ男に杖をつき付け、低音で囁く。
「ここは場末の酒場じゃない。そうだろう?」
「…わ、悪かった…」
相手が魔法使いでは分が悪いと悟ったのか。
男はようやく、大人しくなった。
「………」
男に冷たい一瞥をくれて、サフィールは事の成り行きを茫然と見つめていたアニエスの手をとる。
「…サフィール? あの、助けてくれて…」
ありがとうと、彼女が言うよりも早く。
「えっ」
サフィールは無言でアニエスの手を引き、食堂の外へと連れ出した。
他の客や宿屋の主人夫妻は茫然と、
突然現れた魔法使いと、彼に連れ去られた看板娘の姿を見送ったと言う。
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魔法使いの店から駆け足で戻ってきたアニエスは、そのまま自分が使っている部屋に駆けこんで、寝台の上にばふっと倒れ込んだ。
じわじわと、涙がシーツに染みていく。
唇と唇で交わすキスは、特別なものだと信じていた。
想い合う相手とだけ、交わすものだと。
それが、こんな形で。よりにもよって恋する男に、なんの感情も無く奪われるとは。
(サフィールの馬鹿! もう知らない!!)
心の中でめいいっぱい悪態を吐き。
泣いて、じたばたともがいていると。
「うぅ……」
やがて涙が引くのと同じように、心も落ち着きを取り戻していく。
(…私…、馬鹿みたい)
思えばサフィールは、ただ寝惚けていただけだ。
悪意をもってやったわけではない。
サフィールは、悪くない。
「馬鹿みたいだわ…」
こんな、ことで。
サフィールが絡むと、アニエスは平静でいられなくなる。
些細なことで一喜一憂して、落ち着かなくて。
いつも不安で、切なくて。
「………はぁ」
しっかりしなさいと、アニエスは奮い立たせるように自分の両頬を叩く。
(私は何のためにクレス島に帰って来たの? 夢を叶えるため、でしょう?)
間違っても、恋に惑うために帰って来たのではない。
(落ち着いて、顔を洗って)
泣いた顔を綺麗にして、甘い物でも食べて。
元の自分に戻ったなら、忙しい昼の食堂を手伝わなければ。そうしたら、
「私は…、大丈夫」
(…ある意味、良かったと思えばいいわ。最初のキスは、好きな人とできたんだから…)
顔を洗って、買っておいたチョコレート菓子を頬張り。
下の厨房に降りて行ったアニエスは、すぐに悩みなど吹き飛ぶような忙しさに身を投じることになった。次から次へと料理を作って、次から次へと訪れる客の対応をするので精一杯。
気付けばあっという間に、遅い昼食の時間になった。
「今日も良く働いてくれたわねー。助かるわ、アニエス」
「いえ、私こそ…」
「?」
(おかげで悩まなくって済んだなんて、言えないわよね)
「勉強になりますから」
にっこり笑って言うアニエスに、宿屋の主人夫妻は微笑んで「ありがとう」と言う。
彼女のおかげで、この所宿屋の売り上げはすこぶる良い。できればずっと、働いてもらいたいくらいだ。
夫妻ととる昼食の後は、部屋に籠って図面と睨めっこだ。
店を改装するにあたり、現在の店舗の図面を見ながらどこをどうしたいかなどを書き連ねていく。オーブンの場所、作業台の位置。カウンターの場所、店の雰囲気のイメージ。
次の大工達との打ち合わせまでに、イメージを固めておくことになっているのだ。とりあえず予算などは後から調整するから、どんな店にしたいのかを考えて来いとアニエスは言われていた。
(通りに面した壁は、大きなガラス窓にしたいわ。外から、お店の中の様子が見えるような…)
ガラス越しに焼き立てのパンが並んでいるのを見る、あのわくわく感。
(カウンターは、落ち着いた…でも少し明るい色味のマホガニー製で…)
それはパン屋を開こうと思った時から、ずっと決めていたこだわりでもある。
修業させてもらった王都のパン屋のカウンターも、マホガニー製のカウンターだった。
これだけは、多少予算をオーバーしても譲らないと、アニエスはペンを走らせる。
そうして店の構想を練っている内に、時はあっというまに夕方になり。
「よし。今日はここまで…」
アニエスは図面を丁寧にしまうと、エプロンを付けて再び階下に降りて行った。
最初は厨房で、夫妻を手伝って調理を。
客足が増えてきた所で、食堂で接客を担当する。この日も盛況で、テーブルはあっという間に埋まってしまった。
朝や昼と違うのは、夜の客の多くが酒も注文すること、だ。朝や昼から酒を飲む者もいないではないが、やはり夜では圧倒的に量が違う。客達の注文する料理や酒を運ぶだけで、目も回るような忙しさだ。
さらに、酒の入った客の中にはタチの悪い者もいて…。
「きゃっ」
さわりと、アニエスのお尻に何かが触れた気がした。
慌てて振り返ると、そこには酒精に顔を赤らめてにやにやと笑う男が。
(もう…っ)
夜の客の中には、こういう輩もいる。
下手に反応すると、面白がってつけあがるだけだとわかっているので。
アニエスはぐっと我慢し、何事も無かったかのように他の客の注文を取りに向かった。
が、
「こっちにも、新しい酒だ!」
例の男は、何かと細かく注文を言っては、アニエスを近付けようとする。
一応警戒して注文を受けたり酒を運んだりするのだが。
アニエスが酒の入ったコップをテーブルに置くたびに、さわりとその手に触れてくる。
「…っ!」
ぎょっとして手を引くと、男は決まってにやにやとアニエスを見ているのだ。
湧き上がる嫌悪感に、アニエスは思わず厨房の夫妻に助けを求めるよう視線をやるが。
アニエス以上に忙しそうな二人に、彼女は何も言えなかった。
すぐにそのテーブルを離れて、距離を置こうとするが結局は同じことの繰り返し。
注文を無視するわけにもいかず、アニエスは嫌々その男のテーブルに行くことになる。
これほどしつこい男は、初めてだった。
酒場では良くあることなのかもしれないと、アニエスは我慢しようとする。
彼女は気付いていなかった。この食堂で美しい娘が働いているという噂が、島の住民みならずこの島を訪れる船乗り達の間にまで広まっていると。そうした噂が、このような輩を呼び込んでしまったということも。
「御注文の品をお持ちしました」
目の前の男に感じている嫌悪感を表に出さないように、けれど愛想良くし過ぎないように、努めて冷静な声色でアニエスは新しい酒を男のテーブルに置く。
そして、今度は触られないようすぐに手を引いたのだが。
「ンだよ、つれねぇなぁ姉ちゃん」
グイと手を掴まれて、
「っ、離して…っ」
間近に、酒臭い息を吐かれる。
「ちょいと俺に付き合わねえか? なぁに、悪い話じゃねぇよ。ちょうど航海の帰りで金はたんまり持ってんだ」
男の汗ばんだ手が、ぎゅっとアニエスの手を握り締めて離さない。
酔っ払いとは思えない力。いや、酔っているからこそ加減を知らないのか。
「嫌っ、離して!!」
アニエスがそう、叫んだ時。
「その汚い手を離せ」
この場の喧騒に似合わない、やけに静かな声が響いたかと思うと。
褐色の手が、アニエスの腕から男の手を離し、
「ぐああっ」
ぎりぎりと、掴み上げて締め付ける。
「サフィール…?」
アニエスは驚きに目を見張った。
一体いつからここに来ていたのか。
黒いローブを纏うサフィールが、今にも射殺しそうな目で男を睨んでいるではないか。
「てめっ…! 離せっ」
「うるさい」
サフィールは男の手を掴んでいた右手を離すと、そのまま拳を握って男の頬に殴りかかる。
がっしゃーんと派手な音を立てて、男はテーブルに倒れ込んだ。
「この野郎っ!」
頭に血が上ったか、男はただでさえ赤くなっていた顔をさらに真っ赤にさせて、サフィールに飛びかかる。
男の一撃がサフィールの頬に当たり、口の中を切ったのか、唇から血が滲んでいた。
「サフィール!!」
しかしサフィールは気にもせず、容赦の無い一撃を男の腹にブチ込むと、
「ぐあっ」
さらに倒れ込んだ男に杖をつき付け、低音で囁く。
「ここは場末の酒場じゃない。そうだろう?」
「…わ、悪かった…」
相手が魔法使いでは分が悪いと悟ったのか。
男はようやく、大人しくなった。
「………」
男に冷たい一瞥をくれて、サフィールは事の成り行きを茫然と見つめていたアニエスの手をとる。
「…サフィール? あの、助けてくれて…」
ありがとうと、彼女が言うよりも早く。
「えっ」
サフィールは無言でアニエスの手を引き、食堂の外へと連れ出した。
他の客や宿屋の主人夫妻は茫然と、
突然現れた魔法使いと、彼に連れ去られた看板娘の姿を見送ったと言う。
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