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1巻
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「大神さん、昨日頼んでいた資料はできているかしら」
まずはメールチェック……とソフトを立ち上げたところで、課長の宮崎紫乃さんに声をかけられた。
宮崎課長は御年四十八歳のベテラン秘書で、黒髪ショートカットがよく似合うキリッとしたキャリアウーマン。大神家の娘だからと私を贔屓することも敵視することもなく、公平に接してくれる。部下思いで頼りになる、憧れの上司だ。
「はい。ファイリングしてこちらに……」
(あれ?)
私は昨日退勤前に仕上げた資料を取り出そうと引き出しを開け、ふと違和感を覚える。
(ファイルの位置がずれてる?)
デスクの右袖にある一番下の深い引き出し。そこの奥側に差しておいたはずのファイルが、手前に移動していたのだ。
(誰かが一度取り出したのかな)
もしやと思い中身を確認してみると、資料はところどころコーヒーか何かの染みで汚れ、文字が滲んでいる。こんな状態で課長に渡すわけにはいかない。
(もしかして……)
私は斜め向かいのデスクを使っている三つ上の先輩――さっき私の挨拶を無視した永松千夏さんに視線を向けた。
セットに時間をかけていそうな巻き髪、勝気な顔に濃いめのメイクを施した彼女は、真っ赤な唇をニヤニヤと弛ませてこちらを見ている。
(……ああ、なるほど。はいはい。そういうことですね)
引き出しに入れておいた資料は、おそらく永松さんの手によって汚されたのだろう。
こういう嫌がらせは初めてではない。
永松さんはゆうちゃんを狙っている女性社員の一人で、私が秘書課に配属された当初は優しかったものの、彼との仲を取り持つよう頼まれたのを断って以来、すっかり目の敵にされていた。
おまけに彼女がずっと希望していたという大神常務専属秘書の座まで私が奪う形になったものだから、敵意は増す一方。「どうせあんたも大神常務狙いなんでしょ」「だから私の邪魔をするんでしょ!」って、ある意味お決まりパターンの悪態を吐かれたこともある。
しかし、永松さんに限ったことじゃないけれど、本当にゆうちゃんの恋人になりたいと思うなら、一応は彼の妹である私に嫌がらせをするのは悪手だと思うんだけどなぁ。私がゆうちゃんに告げ口するとは考えないんだろうか。
(もちろん、そんなことで彼を煩わせたくないからしないけど)
私はため息を吐きそうになるのを堪え、課長に謝罪した。
「申し訳ありません、課長。資料に汚れがあったので、印刷し直します。少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、かまわないわよ」
「ありがとうございます」
私はさっそく資料のデータを開いて、再印刷をかける。
結構な量があったが、最新式の複合機が高速でプリントしてくれた。
(一、二、三……)
ページや内容に抜けがないかを確認して、新たにファイリングしたそれを宮崎課長に手渡す。
「お待たせいたしました、課長。こちらをどうぞ」
「ありがとう。……うん、よくまとまっているわね。大神さんが作る資料はいつも見やすくて、助かるわ」
ファイルを受け取った彼女は資料をチェックすると、にっこり微笑んだ。実年齢よりうんと若く見える課長は、笑顔にも華がある。
「ありがとうございます」
尊敬する上司に褒められて、嬉しい。
去り際、宮崎課長はこっそり小声で「あんまり酷いようなら相談してね。私から言って聞かせるから」とも言ってくれた。永松さんと、その一派による嫌がらせのことだろう。
私は微苦笑を浮かべ、同じく小声で「ありがとうございます」と答える。
まあ今のところ、挨拶を無視されたり聞こえよがしに嫌味を言われたり睨まれたり、今朝みたいにちょっとした仕事の妨害をされるくらいで済んでいる。永松さんも大事にする気はないらしく、嫌がらせの一つ一つはささいなものだ。
こういうことには慣れているし、問題ない。というか、私を攻撃してくる分にはいいんだ。
一番こたえるのは、私のせいで家族が悪く言われること。家族に迷惑をかけることだ。
昔から、捨て子である過去や養子である事実を理由にあれこれ言われてきたけれど、私は自分が謗られるより、私を引き取ってくれた家族が非難の的になったり、害される方が何倍も辛い。
実際、私のせいでゆうちゃんに怪我を負わせてしまったこともある。
忘れもしない。あれは、私が小学三年生の夏だ。
ある日突然、私の親戚を名乗る人達が家にやってきて、私を引き取りたいと言い出した。その代わり、金銭的に援助をしてほしいと。
実を言うと、そういう連中はこれまでにもたくさんいた。
彼らは出自のはっきりしない私をダシにして、大神家から金銭を毟り取ろうとしていたのだ。
よく「宝くじに当たると、知らない親戚から電話がかかってくる」とか、「親戚が増える」と言うけれど、それと似たようなものだろう。
大抵は両親に追い返されてそれきり。
でもその中で一組だけ、諦めの悪い人達がいた。
彼らは援助を引き出せないことがわかると私を誘拐し、身代金を要求しようと考えたのだ。
なんでも、多額の借金を抱えた中年の夫婦だったらしい。彼らは大人達の目を盗んで私に接触、産みの親が会いたがっていると告げた。
『小春ちゃんを捨てたことを、今では心から悔やんでいる』
『せめて一目だけでも元気にしている姿が見たいと、いつも泣いている』
そう唆され、愚かにも私はその言葉を信じてしまった。
大人になった今でこそ「私の親は育ててくれた大神家の両親だけ」と割り切れているが、あのころは、実の両親に対する憧れ……というか、幻想をまだ捨てきれずにいたのだ。
彼らは何か止むに止まれぬ事情があって、私を捨てざるを得なかったんじゃないか、と。
大神家を離れ、実の親と暮らしたいと思ったわけじゃない。ただ、血の繋がった家族がどんな人達なのか知りたかった。
自分が捨てられた理由を、親の口から直接聞きたかった。
そして私は、大神家の両親に知られたらきっと反対されるからという相手の口車に乗り、こっそりと屋敷を抜け出す。
しかし、私の様子がおかしいことに気づいたゆうちゃんが後を追ってきて、中年夫婦の車に乗り込もうとしていたところ引き止める。
中年夫婦は慌てて、無理やり私を連れ去ろうとした。それをゆうちゃんに邪魔されて激昂し、隠し持っていたナイフを振り回す。
『小春、逃げろ!』
『ゆうちゃんっ!』
この時、ゆうちゃんは私を庇って右腕を切られた。
そのあとすぐ、騒ぎを聞いて駆けつけた大人達に取り押さえられて犯人が警察に捕まり、誘拐は未遂に終わる。結局、彼らは私の血縁でもなんでもなく、産みの親が誰なのかはわからずじまい。
事件後、家族は私の浅慮を叱り、けれど「小春が無事でよかった」と言ってくれた。特に母と祖母は泣きながら、「小春はうちの子だ。どこにもやらない」と言ってくれた。
怪我を負ったゆうちゃんでさえ、「あんな連中の言うことをホイホイ信じるやつがあるか!」と怒ったものの、それ以上私を責めることはない。
……でも、私は申し訳なくてたまらなかった。
私が馬鹿なことをしたせいで、ゆうちゃんが怪我をした。
そもそも私がいたから、こんな厄介事が起こったんだ。
誘拐未遂の件だけじゃない。私がいなければ、両親が親戚を名乗る連中から度々お金の無心をされることもなかっただろう。
自分のせいで家族に迷惑をかけたくない。
その思いは今も強く、私の胸に刻まれている。
(……といっても、未だに私のせいで色々言われちゃってるんだけど……)
ゆうちゃんが私を専属秘書に指名した時も、「公私混同しているんじゃないか」とか、「身内贔屓がすぎる」とか、陰口を叩かれていた。
だから私は家族がこれ以上悪く言われないよう、私を専属にしてくれたゆうちゃんの判断は間違っていなかったんだと思ってもらえるよう、仕事で応えなくちゃ、もっと頑張らなくちゃと思っているのだった。
午前中の仕事をこなしているうちに昼休みになり、私は秘書課に届いたゆうちゃん用の仕出し弁当と参加者分のお茶を営業部のミーティングルームに用意してから、昼休憩に入った。
(うーん、今日は社員食堂で済ませようかな)
専属秘書とはいえ、四六時中彼の傍についているわけではない。今回のランチミーティングも同席しなくていいとのことだったので、今日の昼はフリーなのだ。
すると折良く、同期の友人から「よかったら、今日は一緒に社食でランチしない?」とお誘いのメールが届く。
私は快諾し、社員食堂前で友人と落ち合った。
「急にごめんね、小春」
「ううん。誘ってもらえて嬉しかったよ~」
私にランチのお誘いメールを送ってくれたのは、人事部に所属している朝倉紗代。私は『紗代ちゃん』と呼んでいる。
彼女は綺麗な黒髪を一つに結い、赤いフレームの眼鏡をかけたモデル体型の美人さん。入社したばかりのころの研修で同じ班になって仲良くなった。
さっぱりとした気性の姉御肌で付き合いやすい彼女とは、予定が合う時にランチを一緒にしたり、飲みに行ったりもしている。
「小春、今日は何にする?」
「そうだなあ……。あっ、Aランチ美味しそう」
私達は社員食堂の入り口近くに掲示されたメニューを眺めながら、あれこれと相談し合う。
うちの会社の食堂は男性向けのがっつりメニューから女性向けのヘルシーメニューまで種類豊富でかつ美味しいので、こうして選ぶ時間も楽しい。
「うん、決めた。やっぱりAランチにする」
「そっか。んー、私もAランチにしようっと」
というわけで私と紗代ちゃんが揃って選んだのは、本日のAランチ。メインが大根おろしとツナのパスタで、トマトサラダ、フルーツゼリーが付いている。
自動券売機で食券を買い、カウンターに提示すると、ほどなく食堂のおばちゃんから料理が渡された。顔馴染みになっているおばちゃんは、「おまけだよ」と言ってサラダのトマトを一つ増やしてくれる。
トマト好きだから嬉しい! ありがとう、おばちゃん。
紗代ちゃんと二人、「得したね」「ね~」と笑い合い、食堂の奥にある二人掛けのテーブルに向かい合わせで座った。
(……ゆうちゃんは今ごろ、料亭の仕出し弁当を食べながらランチミーティング中かぁ)
手を合わせて「いただきます」と口にする。その瞬間、ふと浮かんだのは、昼休みにも仕事をしている彼のこと。
(そうだ。あとでゆうちゃんにお弁当のどのおかずが美味しかったか聞いて、家でも作ってみようかな)
プロの味には敵わないまでも、彼が喜んでくれる料理のレパートリーを増やしたい。
そんなことを考えつつパスタをフォークで巻いていると、トマトサラダをつついていた紗代ちゃんがニヤけた顔で「あんた、まーた大神常務のこと考えてるでしょ」と言い出した。
「うっ」
紗代ちゃん、鋭い。
「離れていても、あんたの頭の中は常務のことでいっぱいなのね。秘書の鑑だわ」
もっとも、仕事だからってだけじゃないんでしょうけど、と紗代ちゃんは含み笑いを浮かべる。
「そ、そんなことは……」
……なくもない、です。はい。
実は紗代ちゃんには、私の気持ちを知られている。
以前、二人きりの飲みの席で酔っ払い、ゆうちゃんに対する長年の恋心をうっかり打ち明けてしまったことがあるんだ。
それまで誰にも話せなかった想いを、彼女は親身になって聞いてくれた。
今日みたいに時々からかってくることもあるけれど、私にとって紗代ちゃんは数少ない心許せる友人であり、貴重な相談相手だ。
「もう、告白しちゃえばいいのに。あの人だって、まんざらでもないと思うわよ?」
周りの席が空いていて、聞き耳を立てている人がいないからだろうか、今日の紗代ちゃんはぐいぐい踏み込んでくる。
「……前にも言ったけど、そんなつもりはないの。今の関係を壊したくないし」
私達はあくまで兄妹。上司と部下にはなれても、恋人にはなれない。
そもそもゆうちゃんは私を女として見ていない、つまりは恋愛対象外なのだ。想いを告げたって困らせるだけ。
「そうは言うけどさぁ、この先どうするのよ。先月、二番目のお兄さん――雅斗さんだっけ? も結婚して、次は常務の番だって、彼狙いの肉食女子達が騒いでたわよ。親戚だってうるさいんでしょう? 常務だってもう三十超えてるし、縁談とか来てるんじゃないの?」
紗代ちゃんの言う通り、数年前に結婚して今は二人の子どもがいる長兄に続き、次兄のまさ兄も最愛の人と結ばれた。ちなみに長兄の晴斗――はる兄はグループ内の私達とは別の企業で副社長、まさ兄も長兄と同じ会社の専務取締役を務めている。
「縁談は、実家にたくさん来てるみたいだけど……」
まさ兄の結婚が決まって以来ゆうちゃん宛ての縁談が増加したって、実家の母がぼやいていたっけ。大神家、それも本家の子息と縁づきたいって人達のターゲットが、唯一の独身となったゆうちゃんに集中しているのだ。
先日出席したパーティーで彼がやたらと女性達に囲まれたのも、そのせい。
「ただ、うちは祖父母も両親も、子どもに政略結婚はさせたくない、結婚相手は本人に決めさせるって考えの人だから、断っているみたい。ゆうちゃ……大神常務も、今は仕事が忙しくて結婚どころじゃないって言ってる」
……でも、いずれはゆうちゃんも誰かと結婚することになる。
そうなった時、今までみたいには彼の傍にいられなくなると、紗代ちゃんは心配してくれているのだ。
わかっている。兄妹とはいえ、血の繋がっていない女が訳知り顔でゆうちゃんにひっついていたら、お相手の女性が気を悪くするものね。
当然、同居は解消となり、私が今やっている彼の身の回りのお世話は、妻になる人に委ねられる。
私達が今後も家族で、兄妹であることに変わりはないけれど、距離は今よりも確実に遠くなるだろう。
「…………っ」
想像しただけで胸がきゅうっと締め付けられる。でも、仕方のないことだ。
「小春……」
「……大丈夫。私も、この先のことはちゃんと考えているの」
まさ兄の縁談が決まったあたりから、私は将来のことを強く意識するようになっていた。
(もし、ゆうちゃんが誰かと結ばれたら……)
その時には、彼の傍を離れようと思っている。
だって、大好きな人が別の女性と幸せな家庭を築くところを間近で見続けるのは辛い。きっと、平静ではいられなくなる。
だから、ゆうちゃんの結婚を見届けたら地方の支社に異動願いを出して、東京を離れようかなと考えていた。
物理的に距離を置き、時が経てば、この不毛な恋心や彼への執着も、薄れてくれるのではないだろうか。
(もし私が女じゃなくて、男だったら……)
血の繋がらない兄に報われない想いを抱くこともなく、弟として、家族として、彼の傍に居続けられたのかなぁ……
ふと、詮無いことを考えてしまう。
二十五年前、森の中で拾われてからずっと一緒にいてくれたゆうちゃんと離れるのは寂しい、悲しい、辛い。本当は、離れたくない。
遠からず訪れるだろう別れを覚悟しなくちゃと思うのに、未練を断ち切れない。
(……ああ、だめだなぁ。こんなだから、紗代ちゃんにも心配をかけちゃうんだ)
決して告げることのできない想いの終着点は、自分の心の中にしかない。
自分で消化するしかないんだと言い聞かせて、私はフォークに巻きつけたパスタを口にする。ポン酢の染みた大根おろしの爽やかな酸味が、口いっぱいに広がった。
「おろしパスタ、美味しいね。夏にぴったり」
「……もう九月だけどね」
紗代ちゃんはそう苦笑して、自身もおろしパスタを食べる。私がこの話題を切り上げたがっているのを察してか、それ以上はもうゆうちゃんの件に触れることはなかった。
(ありがとう、紗代ちゃん)
昼食を終えた私は、紗代ちゃんと別れ秘書課に戻る。
すると、宮崎課長にちょいちょいと手招きをされた。
「大神さん、ちょっといいかしら」
なんでも専務が私を呼んでいるらしく、すぐ執務室へ向かうようにと伝えられる。
(専務が……?)
うちの会社の専務取締役――大神栄司は祖父の末弟で、私達兄妹にとっては大叔父にあたる人物だ。年齢は確か……祖父よりも父に近い六十四歳。
現在、我が社の社長と副社長のポストには一族の外の人間が就いている。そんな状況、大神家の血を引く自分の上に一族の外の人間が立っていることが気に入らないようで、大叔父は反社長・副社長の派閥を作り、何かと対立していた。
社長も副社長も父が信頼している、とても優秀な人達なんだけどね。
ちなみにゆうちゃんは社長・副社長派。専務派の陣営に与しているのは、主に大叔父のコネで入社した分家の人達だ。
まあ、とにかく大叔父はそういう考えの人で、どこの馬の骨ともわからない捨て子の私のことも昔から蛇蝎のごとく嫌っていた。
そんな大叔父からの呼び出しとか、正直とても気が重い。
なんだろう。勤務態度が悪いとか礼儀がなっていないとか、難癖をつけられ嫌味&お説教コースかな……。過去にも何度かやられたことがあるんだよね。
専務にも専属の秘書がいるし、呼び出される用件の心当たりなんてそれくらいしかない。
(気が重いなぁ……)
とはいえ、上役からのお召しを断るわけにはいかず、私は専務の執務室に向かった。
重厚な扉をノックして、「大神小春です」と声をかける。
すると一呼吸置いて「入りなさい」と応えがあった。私はいつも以上に所作に気を配りながら入室する。大叔父の前で下手な立ち居振る舞いを見せると、嫌味が倍になるからね。
「おお、小春。急に呼び出して悪かったな」
(えっ!)
ところが予想に反し、大叔父はにこやかに私を迎えた。
詫びの言葉をかけられるなんて初めてで、つい動揺が顔に出る。
「い、いえ、お気になさらず」
私は慌てて平静を装い、「それで、ご用件は?」と尋ねた。
「小春、フジヨシ・コーポレーションという会社は知っているな?」
「はい」
東京に本社を構えるフジヨシ・コーポレーションは、元は江戸時代創業の紙問屋で、現在は紙製品の製造と販売を行っている、業界大手の企業だ。昔からうちのOA機器を使ってくれているお得意様で、重要な取引先の一つでもある。
「先日、フジヨシの御曹司が我が社を訪れたことがあったろう」
「ええ」
OA機器部門は専務が担当していて、対応したのも大叔父なのだけれど、ゆうちゃんと私も挨拶させてもらった。
その時初めて対面したフジヨシの御曹司はゆうちゃんより三つ上の三十四歳で、優しげな顔立ちをした、感じのいい男性だった覚えがある。
しかし、その彼が今回の呼び出しにどう繋がるのか。
話の行方がわからず戸惑う私に、大叔父は予想外の言葉を放った。
「どうもな、その時に彼が、お前を見初めたらしい」
(……えっ、えええっ……!)
み、見初めた……? 私を……!?
驚きのあまり表情を取り繕うのも忘れて、私はぽかんと呆ける。
「あちらは、お前の生い立ちも全て承知で縁談を持ちかけてくださっている。なあ、小春。お前のような人間にはもったいないくらいの話だと思わないか?」
大叔父は言葉の端々に私への嘲りを滲ませ、ニヤニヤと上機嫌に笑った。
「藤吉家と縁を結べれば、会社にとっても大神家にとっても大きな益となる。血の繋がりのないお前を今日まで育ててくれた両親に、恩返しができるぞ」
(そんなこと、急に言われても……)
自分が結婚するなんて考えてもいなかった。まして、私と結婚したいという人が出てくるなんて、思いもしなかったのだ。
いずれゆうちゃんが結婚したら、距離を置かなくちゃと思い描くばかりで……
(……でも、そうか。私が先に結婚して、ゆうちゃんから離れる選択肢もあるのか……)
正直、一度会っただけの男性に愛情を持てるようになるかは、わからない。
ううん、たとえ相手が誰であっても、彼以上に好きになれる気がしない。
けれど会社や家のための結婚なら、家族やゆうちゃんの役に立てるなら、耐えられるのではないか。
「……っ」
(いや、でも、やっぱり急な話すぎて……)
「とにかく、来週の日曜日に見合いの席を設けたから、必ず来るように。詳細はあとで伝える」
黙りこくった私に焦れたのか、大叔父は苛立ちを滲ませてそう言い放った。
「えっ」
(来週の……って。もう日にちまで決まっているの?)
相手は取引先の人だし、そこまで話が進んでいては、とても断れそうにない。
「ああそうだ。この件はまだ内輪だけの話だからな、本決まりになるまで口外はしないように。家族にも、もちろん勇斗にもだ」
「……わかり、ました」
結局私はその場では頷くことしかできず、用は済んだとばかりにシッシと手を振る大叔父に一礼して、執務室を後にしたのだった。
まずはメールチェック……とソフトを立ち上げたところで、課長の宮崎紫乃さんに声をかけられた。
宮崎課長は御年四十八歳のベテラン秘書で、黒髪ショートカットがよく似合うキリッとしたキャリアウーマン。大神家の娘だからと私を贔屓することも敵視することもなく、公平に接してくれる。部下思いで頼りになる、憧れの上司だ。
「はい。ファイリングしてこちらに……」
(あれ?)
私は昨日退勤前に仕上げた資料を取り出そうと引き出しを開け、ふと違和感を覚える。
(ファイルの位置がずれてる?)
デスクの右袖にある一番下の深い引き出し。そこの奥側に差しておいたはずのファイルが、手前に移動していたのだ。
(誰かが一度取り出したのかな)
もしやと思い中身を確認してみると、資料はところどころコーヒーか何かの染みで汚れ、文字が滲んでいる。こんな状態で課長に渡すわけにはいかない。
(もしかして……)
私は斜め向かいのデスクを使っている三つ上の先輩――さっき私の挨拶を無視した永松千夏さんに視線を向けた。
セットに時間をかけていそうな巻き髪、勝気な顔に濃いめのメイクを施した彼女は、真っ赤な唇をニヤニヤと弛ませてこちらを見ている。
(……ああ、なるほど。はいはい。そういうことですね)
引き出しに入れておいた資料は、おそらく永松さんの手によって汚されたのだろう。
こういう嫌がらせは初めてではない。
永松さんはゆうちゃんを狙っている女性社員の一人で、私が秘書課に配属された当初は優しかったものの、彼との仲を取り持つよう頼まれたのを断って以来、すっかり目の敵にされていた。
おまけに彼女がずっと希望していたという大神常務専属秘書の座まで私が奪う形になったものだから、敵意は増す一方。「どうせあんたも大神常務狙いなんでしょ」「だから私の邪魔をするんでしょ!」って、ある意味お決まりパターンの悪態を吐かれたこともある。
しかし、永松さんに限ったことじゃないけれど、本当にゆうちゃんの恋人になりたいと思うなら、一応は彼の妹である私に嫌がらせをするのは悪手だと思うんだけどなぁ。私がゆうちゃんに告げ口するとは考えないんだろうか。
(もちろん、そんなことで彼を煩わせたくないからしないけど)
私はため息を吐きそうになるのを堪え、課長に謝罪した。
「申し訳ありません、課長。資料に汚れがあったので、印刷し直します。少々お待ちいただいてもよろしいでしょうか?」
「ええ、かまわないわよ」
「ありがとうございます」
私はさっそく資料のデータを開いて、再印刷をかける。
結構な量があったが、最新式の複合機が高速でプリントしてくれた。
(一、二、三……)
ページや内容に抜けがないかを確認して、新たにファイリングしたそれを宮崎課長に手渡す。
「お待たせいたしました、課長。こちらをどうぞ」
「ありがとう。……うん、よくまとまっているわね。大神さんが作る資料はいつも見やすくて、助かるわ」
ファイルを受け取った彼女は資料をチェックすると、にっこり微笑んだ。実年齢よりうんと若く見える課長は、笑顔にも華がある。
「ありがとうございます」
尊敬する上司に褒められて、嬉しい。
去り際、宮崎課長はこっそり小声で「あんまり酷いようなら相談してね。私から言って聞かせるから」とも言ってくれた。永松さんと、その一派による嫌がらせのことだろう。
私は微苦笑を浮かべ、同じく小声で「ありがとうございます」と答える。
まあ今のところ、挨拶を無視されたり聞こえよがしに嫌味を言われたり睨まれたり、今朝みたいにちょっとした仕事の妨害をされるくらいで済んでいる。永松さんも大事にする気はないらしく、嫌がらせの一つ一つはささいなものだ。
こういうことには慣れているし、問題ない。というか、私を攻撃してくる分にはいいんだ。
一番こたえるのは、私のせいで家族が悪く言われること。家族に迷惑をかけることだ。
昔から、捨て子である過去や養子である事実を理由にあれこれ言われてきたけれど、私は自分が謗られるより、私を引き取ってくれた家族が非難の的になったり、害される方が何倍も辛い。
実際、私のせいでゆうちゃんに怪我を負わせてしまったこともある。
忘れもしない。あれは、私が小学三年生の夏だ。
ある日突然、私の親戚を名乗る人達が家にやってきて、私を引き取りたいと言い出した。その代わり、金銭的に援助をしてほしいと。
実を言うと、そういう連中はこれまでにもたくさんいた。
彼らは出自のはっきりしない私をダシにして、大神家から金銭を毟り取ろうとしていたのだ。
よく「宝くじに当たると、知らない親戚から電話がかかってくる」とか、「親戚が増える」と言うけれど、それと似たようなものだろう。
大抵は両親に追い返されてそれきり。
でもその中で一組だけ、諦めの悪い人達がいた。
彼らは援助を引き出せないことがわかると私を誘拐し、身代金を要求しようと考えたのだ。
なんでも、多額の借金を抱えた中年の夫婦だったらしい。彼らは大人達の目を盗んで私に接触、産みの親が会いたがっていると告げた。
『小春ちゃんを捨てたことを、今では心から悔やんでいる』
『せめて一目だけでも元気にしている姿が見たいと、いつも泣いている』
そう唆され、愚かにも私はその言葉を信じてしまった。
大人になった今でこそ「私の親は育ててくれた大神家の両親だけ」と割り切れているが、あのころは、実の両親に対する憧れ……というか、幻想をまだ捨てきれずにいたのだ。
彼らは何か止むに止まれぬ事情があって、私を捨てざるを得なかったんじゃないか、と。
大神家を離れ、実の親と暮らしたいと思ったわけじゃない。ただ、血の繋がった家族がどんな人達なのか知りたかった。
自分が捨てられた理由を、親の口から直接聞きたかった。
そして私は、大神家の両親に知られたらきっと反対されるからという相手の口車に乗り、こっそりと屋敷を抜け出す。
しかし、私の様子がおかしいことに気づいたゆうちゃんが後を追ってきて、中年夫婦の車に乗り込もうとしていたところ引き止める。
中年夫婦は慌てて、無理やり私を連れ去ろうとした。それをゆうちゃんに邪魔されて激昂し、隠し持っていたナイフを振り回す。
『小春、逃げろ!』
『ゆうちゃんっ!』
この時、ゆうちゃんは私を庇って右腕を切られた。
そのあとすぐ、騒ぎを聞いて駆けつけた大人達に取り押さえられて犯人が警察に捕まり、誘拐は未遂に終わる。結局、彼らは私の血縁でもなんでもなく、産みの親が誰なのかはわからずじまい。
事件後、家族は私の浅慮を叱り、けれど「小春が無事でよかった」と言ってくれた。特に母と祖母は泣きながら、「小春はうちの子だ。どこにもやらない」と言ってくれた。
怪我を負ったゆうちゃんでさえ、「あんな連中の言うことをホイホイ信じるやつがあるか!」と怒ったものの、それ以上私を責めることはない。
……でも、私は申し訳なくてたまらなかった。
私が馬鹿なことをしたせいで、ゆうちゃんが怪我をした。
そもそも私がいたから、こんな厄介事が起こったんだ。
誘拐未遂の件だけじゃない。私がいなければ、両親が親戚を名乗る連中から度々お金の無心をされることもなかっただろう。
自分のせいで家族に迷惑をかけたくない。
その思いは今も強く、私の胸に刻まれている。
(……といっても、未だに私のせいで色々言われちゃってるんだけど……)
ゆうちゃんが私を専属秘書に指名した時も、「公私混同しているんじゃないか」とか、「身内贔屓がすぎる」とか、陰口を叩かれていた。
だから私は家族がこれ以上悪く言われないよう、私を専属にしてくれたゆうちゃんの判断は間違っていなかったんだと思ってもらえるよう、仕事で応えなくちゃ、もっと頑張らなくちゃと思っているのだった。
午前中の仕事をこなしているうちに昼休みになり、私は秘書課に届いたゆうちゃん用の仕出し弁当と参加者分のお茶を営業部のミーティングルームに用意してから、昼休憩に入った。
(うーん、今日は社員食堂で済ませようかな)
専属秘書とはいえ、四六時中彼の傍についているわけではない。今回のランチミーティングも同席しなくていいとのことだったので、今日の昼はフリーなのだ。
すると折良く、同期の友人から「よかったら、今日は一緒に社食でランチしない?」とお誘いのメールが届く。
私は快諾し、社員食堂前で友人と落ち合った。
「急にごめんね、小春」
「ううん。誘ってもらえて嬉しかったよ~」
私にランチのお誘いメールを送ってくれたのは、人事部に所属している朝倉紗代。私は『紗代ちゃん』と呼んでいる。
彼女は綺麗な黒髪を一つに結い、赤いフレームの眼鏡をかけたモデル体型の美人さん。入社したばかりのころの研修で同じ班になって仲良くなった。
さっぱりとした気性の姉御肌で付き合いやすい彼女とは、予定が合う時にランチを一緒にしたり、飲みに行ったりもしている。
「小春、今日は何にする?」
「そうだなあ……。あっ、Aランチ美味しそう」
私達は社員食堂の入り口近くに掲示されたメニューを眺めながら、あれこれと相談し合う。
うちの会社の食堂は男性向けのがっつりメニューから女性向けのヘルシーメニューまで種類豊富でかつ美味しいので、こうして選ぶ時間も楽しい。
「うん、決めた。やっぱりAランチにする」
「そっか。んー、私もAランチにしようっと」
というわけで私と紗代ちゃんが揃って選んだのは、本日のAランチ。メインが大根おろしとツナのパスタで、トマトサラダ、フルーツゼリーが付いている。
自動券売機で食券を買い、カウンターに提示すると、ほどなく食堂のおばちゃんから料理が渡された。顔馴染みになっているおばちゃんは、「おまけだよ」と言ってサラダのトマトを一つ増やしてくれる。
トマト好きだから嬉しい! ありがとう、おばちゃん。
紗代ちゃんと二人、「得したね」「ね~」と笑い合い、食堂の奥にある二人掛けのテーブルに向かい合わせで座った。
(……ゆうちゃんは今ごろ、料亭の仕出し弁当を食べながらランチミーティング中かぁ)
手を合わせて「いただきます」と口にする。その瞬間、ふと浮かんだのは、昼休みにも仕事をしている彼のこと。
(そうだ。あとでゆうちゃんにお弁当のどのおかずが美味しかったか聞いて、家でも作ってみようかな)
プロの味には敵わないまでも、彼が喜んでくれる料理のレパートリーを増やしたい。
そんなことを考えつつパスタをフォークで巻いていると、トマトサラダをつついていた紗代ちゃんがニヤけた顔で「あんた、まーた大神常務のこと考えてるでしょ」と言い出した。
「うっ」
紗代ちゃん、鋭い。
「離れていても、あんたの頭の中は常務のことでいっぱいなのね。秘書の鑑だわ」
もっとも、仕事だからってだけじゃないんでしょうけど、と紗代ちゃんは含み笑いを浮かべる。
「そ、そんなことは……」
……なくもない、です。はい。
実は紗代ちゃんには、私の気持ちを知られている。
以前、二人きりの飲みの席で酔っ払い、ゆうちゃんに対する長年の恋心をうっかり打ち明けてしまったことがあるんだ。
それまで誰にも話せなかった想いを、彼女は親身になって聞いてくれた。
今日みたいに時々からかってくることもあるけれど、私にとって紗代ちゃんは数少ない心許せる友人であり、貴重な相談相手だ。
「もう、告白しちゃえばいいのに。あの人だって、まんざらでもないと思うわよ?」
周りの席が空いていて、聞き耳を立てている人がいないからだろうか、今日の紗代ちゃんはぐいぐい踏み込んでくる。
「……前にも言ったけど、そんなつもりはないの。今の関係を壊したくないし」
私達はあくまで兄妹。上司と部下にはなれても、恋人にはなれない。
そもそもゆうちゃんは私を女として見ていない、つまりは恋愛対象外なのだ。想いを告げたって困らせるだけ。
「そうは言うけどさぁ、この先どうするのよ。先月、二番目のお兄さん――雅斗さんだっけ? も結婚して、次は常務の番だって、彼狙いの肉食女子達が騒いでたわよ。親戚だってうるさいんでしょう? 常務だってもう三十超えてるし、縁談とか来てるんじゃないの?」
紗代ちゃんの言う通り、数年前に結婚して今は二人の子どもがいる長兄に続き、次兄のまさ兄も最愛の人と結ばれた。ちなみに長兄の晴斗――はる兄はグループ内の私達とは別の企業で副社長、まさ兄も長兄と同じ会社の専務取締役を務めている。
「縁談は、実家にたくさん来てるみたいだけど……」
まさ兄の結婚が決まって以来ゆうちゃん宛ての縁談が増加したって、実家の母がぼやいていたっけ。大神家、それも本家の子息と縁づきたいって人達のターゲットが、唯一の独身となったゆうちゃんに集中しているのだ。
先日出席したパーティーで彼がやたらと女性達に囲まれたのも、そのせい。
「ただ、うちは祖父母も両親も、子どもに政略結婚はさせたくない、結婚相手は本人に決めさせるって考えの人だから、断っているみたい。ゆうちゃ……大神常務も、今は仕事が忙しくて結婚どころじゃないって言ってる」
……でも、いずれはゆうちゃんも誰かと結婚することになる。
そうなった時、今までみたいには彼の傍にいられなくなると、紗代ちゃんは心配してくれているのだ。
わかっている。兄妹とはいえ、血の繋がっていない女が訳知り顔でゆうちゃんにひっついていたら、お相手の女性が気を悪くするものね。
当然、同居は解消となり、私が今やっている彼の身の回りのお世話は、妻になる人に委ねられる。
私達が今後も家族で、兄妹であることに変わりはないけれど、距離は今よりも確実に遠くなるだろう。
「…………っ」
想像しただけで胸がきゅうっと締め付けられる。でも、仕方のないことだ。
「小春……」
「……大丈夫。私も、この先のことはちゃんと考えているの」
まさ兄の縁談が決まったあたりから、私は将来のことを強く意識するようになっていた。
(もし、ゆうちゃんが誰かと結ばれたら……)
その時には、彼の傍を離れようと思っている。
だって、大好きな人が別の女性と幸せな家庭を築くところを間近で見続けるのは辛い。きっと、平静ではいられなくなる。
だから、ゆうちゃんの結婚を見届けたら地方の支社に異動願いを出して、東京を離れようかなと考えていた。
物理的に距離を置き、時が経てば、この不毛な恋心や彼への執着も、薄れてくれるのではないだろうか。
(もし私が女じゃなくて、男だったら……)
血の繋がらない兄に報われない想いを抱くこともなく、弟として、家族として、彼の傍に居続けられたのかなぁ……
ふと、詮無いことを考えてしまう。
二十五年前、森の中で拾われてからずっと一緒にいてくれたゆうちゃんと離れるのは寂しい、悲しい、辛い。本当は、離れたくない。
遠からず訪れるだろう別れを覚悟しなくちゃと思うのに、未練を断ち切れない。
(……ああ、だめだなぁ。こんなだから、紗代ちゃんにも心配をかけちゃうんだ)
決して告げることのできない想いの終着点は、自分の心の中にしかない。
自分で消化するしかないんだと言い聞かせて、私はフォークに巻きつけたパスタを口にする。ポン酢の染みた大根おろしの爽やかな酸味が、口いっぱいに広がった。
「おろしパスタ、美味しいね。夏にぴったり」
「……もう九月だけどね」
紗代ちゃんはそう苦笑して、自身もおろしパスタを食べる。私がこの話題を切り上げたがっているのを察してか、それ以上はもうゆうちゃんの件に触れることはなかった。
(ありがとう、紗代ちゃん)
昼食を終えた私は、紗代ちゃんと別れ秘書課に戻る。
すると、宮崎課長にちょいちょいと手招きをされた。
「大神さん、ちょっといいかしら」
なんでも専務が私を呼んでいるらしく、すぐ執務室へ向かうようにと伝えられる。
(専務が……?)
うちの会社の専務取締役――大神栄司は祖父の末弟で、私達兄妹にとっては大叔父にあたる人物だ。年齢は確か……祖父よりも父に近い六十四歳。
現在、我が社の社長と副社長のポストには一族の外の人間が就いている。そんな状況、大神家の血を引く自分の上に一族の外の人間が立っていることが気に入らないようで、大叔父は反社長・副社長の派閥を作り、何かと対立していた。
社長も副社長も父が信頼している、とても優秀な人達なんだけどね。
ちなみにゆうちゃんは社長・副社長派。専務派の陣営に与しているのは、主に大叔父のコネで入社した分家の人達だ。
まあ、とにかく大叔父はそういう考えの人で、どこの馬の骨ともわからない捨て子の私のことも昔から蛇蝎のごとく嫌っていた。
そんな大叔父からの呼び出しとか、正直とても気が重い。
なんだろう。勤務態度が悪いとか礼儀がなっていないとか、難癖をつけられ嫌味&お説教コースかな……。過去にも何度かやられたことがあるんだよね。
専務にも専属の秘書がいるし、呼び出される用件の心当たりなんてそれくらいしかない。
(気が重いなぁ……)
とはいえ、上役からのお召しを断るわけにはいかず、私は専務の執務室に向かった。
重厚な扉をノックして、「大神小春です」と声をかける。
すると一呼吸置いて「入りなさい」と応えがあった。私はいつも以上に所作に気を配りながら入室する。大叔父の前で下手な立ち居振る舞いを見せると、嫌味が倍になるからね。
「おお、小春。急に呼び出して悪かったな」
(えっ!)
ところが予想に反し、大叔父はにこやかに私を迎えた。
詫びの言葉をかけられるなんて初めてで、つい動揺が顔に出る。
「い、いえ、お気になさらず」
私は慌てて平静を装い、「それで、ご用件は?」と尋ねた。
「小春、フジヨシ・コーポレーションという会社は知っているな?」
「はい」
東京に本社を構えるフジヨシ・コーポレーションは、元は江戸時代創業の紙問屋で、現在は紙製品の製造と販売を行っている、業界大手の企業だ。昔からうちのOA機器を使ってくれているお得意様で、重要な取引先の一つでもある。
「先日、フジヨシの御曹司が我が社を訪れたことがあったろう」
「ええ」
OA機器部門は専務が担当していて、対応したのも大叔父なのだけれど、ゆうちゃんと私も挨拶させてもらった。
その時初めて対面したフジヨシの御曹司はゆうちゃんより三つ上の三十四歳で、優しげな顔立ちをした、感じのいい男性だった覚えがある。
しかし、その彼が今回の呼び出しにどう繋がるのか。
話の行方がわからず戸惑う私に、大叔父は予想外の言葉を放った。
「どうもな、その時に彼が、お前を見初めたらしい」
(……えっ、えええっ……!)
み、見初めた……? 私を……!?
驚きのあまり表情を取り繕うのも忘れて、私はぽかんと呆ける。
「あちらは、お前の生い立ちも全て承知で縁談を持ちかけてくださっている。なあ、小春。お前のような人間にはもったいないくらいの話だと思わないか?」
大叔父は言葉の端々に私への嘲りを滲ませ、ニヤニヤと上機嫌に笑った。
「藤吉家と縁を結べれば、会社にとっても大神家にとっても大きな益となる。血の繋がりのないお前を今日まで育ててくれた両親に、恩返しができるぞ」
(そんなこと、急に言われても……)
自分が結婚するなんて考えてもいなかった。まして、私と結婚したいという人が出てくるなんて、思いもしなかったのだ。
いずれゆうちゃんが結婚したら、距離を置かなくちゃと思い描くばかりで……
(……でも、そうか。私が先に結婚して、ゆうちゃんから離れる選択肢もあるのか……)
正直、一度会っただけの男性に愛情を持てるようになるかは、わからない。
ううん、たとえ相手が誰であっても、彼以上に好きになれる気がしない。
けれど会社や家のための結婚なら、家族やゆうちゃんの役に立てるなら、耐えられるのではないか。
「……っ」
(いや、でも、やっぱり急な話すぎて……)
「とにかく、来週の日曜日に見合いの席を設けたから、必ず来るように。詳細はあとで伝える」
黙りこくった私に焦れたのか、大叔父は苛立ちを滲ませてそう言い放った。
「えっ」
(来週の……って。もう日にちまで決まっているの?)
相手は取引先の人だし、そこまで話が進んでいては、とても断れそうにない。
「ああそうだ。この件はまだ内輪だけの話だからな、本決まりになるまで口外はしないように。家族にも、もちろん勇斗にもだ」
「……わかり、ました」
結局私はその場では頷くことしかできず、用は済んだとばかりにシッシと手を振る大叔父に一礼して、執務室を後にしたのだった。
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