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1巻
1-2
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自分は生みの親にとって『いらない』存在だったから、捨てられたんだ。
迷惑をかけたら、邪魔になったら、今の家族にも捨てられるんじゃないか。このころの私は、そんな恐れを漠然と抱いていた。
『うっ、ううっ……』
『うわー、こいつ泣いてやんの!』
『泣き虫~!』
たまらず泣き出した私を見て、いじめっ子達は笑う。
そこへ、ゆうちゃんが駆け寄ってきて――
『うちの小春をいじめてんじゃねー!』
って、一喝してくれたんだ。
『やべえ、六年の大神だ!』
『逃げろ!』
当時、ゆうちゃんは六年生の中でも一番背が高くて体格も良かったから、怒ると迫力があった。その剣幕に気圧され、いじめっ子達は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
『次また小春に変なこと言ったらぶっ飛ばすぞ!』
ゆうちゃんは、慌てて走っていくいじめっ子達の背中に拳を振り上げて怒鳴った。
『うえっ、えっ、ゆ、ゆうちゃ……』
『お前もお前だ。あんなやつらに泣かされてんじゃねーよ』
『だ、だって……』
『だってじゃねー。ほら、帰るぞ』
『うう~っ』
『……ったく、しょうがねぇなぁ。今日のおやつ、俺の分もちょっとお前にわけてやるから、いい加減泣きやめよ』
そう言って、私の手をぎゅっと握ってくれたゆうちゃんの掌の温もりを、私は今でも鮮明に覚えている。
彼はいつも、いじめられている私を助けてくれた。
周囲の心ない言葉に傷ついて泣いている私を、ぶっきらぼうな言葉で慰めてくれた。
ゆうちゃんは私の命の恩人で、頼もしい兄で、大切な家族で……
そして、私の大好きな人。
捨て子だ、養子だとあれこれ言われて、辛いことがないと言ったら嘘になるけれど、それでも「私は幸せだ」と、断言できる。
今、私がこうして生きて幸福を感じていられるのは、あの日私を見つけてくれたゆうちゃんのおかげなんだ。
私はその恩に報いたい。家族の――ゆうちゃんの役に立ちたい。
そう一心に思いながら、私は今日まで歩んできたのだった。
一
まだまだ夏の気配が色濃い、九月のある朝のこと。
アラームが鳴る寸前、ぱちっと目を覚ました私は、枕元のスマートフォンを手に取り目覚ましアプリを解除した。
早起きが習慣になっているので、いつもアラームが鳴るちょっと前に起きるんだよね。寝付きと寝起きがいいのは、密かな自慢だ。
(……また、昔の夢を見ちゃった……)
覚醒したばかりの頭に思い描くのは、昨夜見た夢のこと。小学生のころ、いじめっ子達に囲まれていたところをゆうちゃんに助けられた記憶だ。
あれから二十年近く経ち、私は再来月で二十六歳になる。
(子どものころのゆうちゃんも、格好良かったなぁ……)
私は布団の中で、ふふっと笑みを浮かべた。
それから、小学六年生のゆうちゃんと夢で会えた喜びに浸りつつ、スマホで天気予報をチェックする。起きたら真っ先に天気予報を確認するのは、社会人になってからの癖だった。
(ええと……)
本日、東京都の予報は晴れのち曇り、降水確率は十パーセント。これなら傘はいらないな。
予想最高気温は……うわ、高い。熱中症に気をつけよう。
九月に入ったというのに、関東地方はまだまだ暑い日が続いている。
「んんーっ」
上半身を起こして、思いっきり伸びをした。
「今日も頑張るぞ」と気合を入れ、ベッドを下りる。
乱れた布団を軽く直してからウォークインクローゼットに入り、通勤着に着替え、寝室を出る。
洗面所で顔を洗い、肩上で切り揃えた髪の寝癖をちょいちょいと直したら、エプロンを身につけて朝食作りだ。
実家で一緒に暮らしていた祖父が「一日の元気は朝食で作られる!」という考えの人だったため、朝ごはんは毎日しっかり、たっぷり食べるのが大神家の家訓だ。
メニューは同居人の好みで、和食が多い。昨夜炊飯器をセットしておいたので、今朝も和食だ。
おかずは週末に作り置きした常備菜のきんぴらごぼうと、小松菜のお浸し。それから塩鮭を焼いて、明太子入りの出汁巻き卵を作る。お味噌汁の具は大根と油揚げ。
(あ、納豆もあるんだった)
冷蔵庫から納豆のパックを取り出し、小鉢に移す。
出来上がった料理をダイニングテーブルに並べ、お茶の用意をして、準備完了!
(ん、時間もぴったり)
そろそろ同居人を起こす頃合いだと、私は彼の寝室へ向かう。
現在住んでいるこの家は、通勤に便利な都心の高層マンションである。大神家が所有する物件の一つで、間取りは2LDK。
東京郊外に大きな屋敷を構える実家もかなり広いけれど、この部屋も二十五歳の小娘が住むには分不相応なほど広くて立派だ。
私は七年前から、この部屋で三番目の兄――ゆうちゃんと一緒に暮らしている。
私の大学進学を機に、当時社会人二年目だった彼が「通勤にも通学にも便利だし、実家を出るぞ」と、私を連れてここに引っ越したのだ。
一人暮らしじゃなくていいの? 私も一緒でいいの?
そう思ったが、ゆうちゃんが「家政婦雇うの面倒だろ」と言ったので、「ああなるほど、家事要員が欲しかったのか」と納得した。
私は昔から家事――特に料理が好きで、実家ではよく通いの家政婦さんの手伝いをし、色々教えてもらっていたから。
私としても、ゆうちゃんと一緒にいられ、彼のお世話をさせてもらえるのは嬉しく、否やはなかった。
事情を知った友達には、「血の繋がらない兄妹が一つ屋根の下に二人きり!? それ、大丈夫なの?」なんて言われたりもしたけれど、それこそ赤ん坊の時からずっと一緒に暮らしてきたのだ。今更、ゆうちゃんを異性として意識することは……
……ないと言ったら嘘になる、かな。
命の恩人で、ずっと私を守ってくれて、誰よりも格好良くて頼りになる、ゆうちゃん。
彼に対する気持ちが、他の家族に向けるものとは違うものに変わってきていることに、私はかなり前から気づいていた。
私は、ゆうちゃんが好きだ。
そう、家族としても、異性としても。
つまり、私は血の繋がらない兄に恋愛感情を抱いてしまっている。
けれど、それを表に出してはいけない。
だってそんなことをしたら、きっと彼は困る。
私が中学生のころ、だったかな。ゆうちゃんが上の兄達に、「お前と小春って、本当に仲が良いよな」「将来は結婚するのか?」とからかわれている場面に出くわしたことがある。
ゆうちゃんはなんとも嫌そうな顔で、兄達に「そんなわけないだろ。あいつは妹だ。女として見てないし見れない」と答えていた。
私は、その時すでにゆうちゃんに淡い恋心を抱いていたから、ショックだったなぁ……
あと、心のどこかで「自分はゆうちゃんの『特別』なんだ」って、思い上がっていた気持ちに冷や水をかけられたような心地がした。
もしかしたらゆうちゃんと結婚できるかもしれないと、その可能性があるんじゃないかと驕っていた自分が恥ずかしくてたまらなかった。
でも、仕方ない。
私は彼にとって、妹であり、自分の所有物――子分みたいなもの。恋愛対象として見ていないからこそ、今もこうして一緒に暮らしていられるんだ。
その関係を、壊したくない。
「……ふう」
私は未練がましく心に燻る想いをため息と共に吐き出して、頭を切り替える。
そして目の前の扉をコンコンとノックし、声をかけた。
「ゆうちゃん、起きてる? 朝ごはんできたよ」
……返事はない。
私はいつものことだと気にせず扉を開けた。
分厚いカーテンに遮られた薄暗い室内の、奥にドンと置かれたクイーンサイズのベッドの上、こんもりと盛り上がった布団の山がわずかに身動ぎする。
「ゆうちゃん?」
動きはあるが、応えはない。たぶん、まだ寝惚けているのだろう。
私は中へ踏み入って、バルコニーに面した掃き出し窓のカーテンをシャッと開く。
「……眩しい」
部屋の中が明るくなると、布団の山から不満げな声が漏れた。
(あ、いつの間にか顔だけ出してる)
「おはよう、ゆうちゃん。今日は晴れのち曇りだって。朝からいいお天気だね」
「おはよ。……いい天気すぎて腹立つ。あー、今日も暑くなりそうだな。家から出たくない」
ゆうちゃんはぶつくさと文句を言いつつ、布団を押しのけた。
半袖のTシャツにゆったりとしたハーフパンツを寝間着にしている彼は、「くああっ」とあくびをする。
(……っ)
その寝起き姿を見て、私は毎朝ドキッとしてしまうのだ。
まだ寝足りないとばかりに眠たげな顔はどこか稚くて可愛いし、Tシャツの襟元から覗く鎖骨が妙に色っぽい。顎にうっすらと生えた髭さえセクシーに見えて、落ち着かない気持ちになる。
私は彼から目を逸らし、内心の動揺を誤魔化すように「今朝はゆうちゃんの好きな明太子入りの出汁巻き卵作ったよ。早く支度して一緒に食べよう」と言った。
「お、マジか。あれメシが進むんだよなぁ。味噌汁の具は?」
「大根と油揚げ」
「よし。今日もメシ大盛りで頼むわ」
そう言いつつ、ゆうちゃんはベッドから下りてウォークインクローゼットに向かう。その途中、すれ違いざまに私の頭をぐしゃぐしゃっと撫でた。
(わっ。もうっ、また……)
何かと私の頭を撫でるのは、ゆうちゃんの昔からの癖だ。
私的には、好きな人にかまってもらえるのが嬉しい反面、彼の中ではいつまでも子どものままなのかなあと思え、ちょっと複雑だったりする。髪もぐしゃぐしゃにされちゃうし。
私は乱れた髪を直し、ついでにゆうちゃんがいなくなったベッドをささっと整えてから、一足先にキッチンに戻った。
彼が着替えている間に、お味噌汁を軽く温め直す。
ほどなく、お味噌汁のいい匂いがふんわり広がっていった。
この、どこかホッとする匂い、大好き。
(朝はやっぱりご飯とお味噌汁だよねぇ)
私にとってお味噌汁の匂いは、家族みんなで食卓を囲む、幸福な思い出の象徴でもある。
だからか、この匂いを嗅ぐと胸がぽかぽか温かくなるんだ。
(ゆうちゃんの分は大盛り……っと)
二人暮らしを機にゆうちゃんが買ってくれた、お揃いのお茶碗とお椀にご飯とお味噌汁をよそって、ダイニングテーブルへ。
そして二人分の緑茶を湯呑に注ぎ終えたころ、身支度を済ませたゆうちゃんがやってきた。
大神家御用達のテーラーで仕立てたオーダーメイドのスーツに身を包み、まだネクタイを結んでないシャツの襟元をくつろげている。そんな彼は、さっきまでの気の抜けた姿とはまた違って、すごく格好良い。百八十センチ超えの高身長に加えて体格も良いため、スーツがよく似合うんだよね。
「お、納豆もある。でかした、小春」
「ふふっ。ご飯とお味噌汁のおかわりもあるから、いっぱい食べてね」
六人掛けのダイニングテーブルに向かい合わせで座った私達は、いつものように声を揃えて「いただきます」と手を合わせ、お箸を手に取った。
ゆうちゃんは私が作ったごはんを、今日も「美味い、美味い」と食べてくれる。
そんな彼を見ているだけで、気持ちがふわふわと浮き立った。
「……ん? どうした、小春」
「ううん、なんでもない」
朝からもりもりとごはんを食べるゆうちゃんの姿に見入っていたなんて言えるはずもなく、笑顔で誤魔化す。
彼はそんな私のお皿から、「それ食べないなら、俺がもらうぞ」と、明太子入り出汁巻き卵を一切れ奪っていった。
「ああっ、酷い!」
食べないなんて一言も言ってないのに!
「はっはっは」
ゆうちゃんは無情にも、私に見せつけるように出汁巻き卵を口にする。
けれど、私がむっすーと顰め面をしたら、「冗談だよ、冗談」と自分の分の出汁巻き卵を一切れ、私の口元に運んだ。
「……っ」
「ほら、食え」
(く、食えって。だってこれじゃ、いわゆる「はい、アーン」ってやつで……)
わざわざ身を乗り出してまでこんなことしないで、普通にお皿に戻してくれたらいいのに!
どうしたものかと思ったけれど、再度ゆうちゃんに「ほら」と促され、私はおずおずと出汁巻き卵を口にした。
思いがけず好きな人に「アーン」をされて、心拍数が上がる。
「美味いか?」
「……ん、美味しい」
そう答えたものの、本当はドキドキしすぎて、味わう余裕なんてなかった。
「だろう」
って、なんで作ってもいないゆうちゃんが自慢げに笑うかな。
(……でも)
そんな笑顔も可愛いとか、そういうところも好きだなぁって思ってしまうあたり、私はだいぶ、彼にまいっているのかもしれない。
一度フラれているも同然なのに、血の繋がらない兄への恋心を未だ捨てきれないなんて。
(だめだなぁ……、私)
朝食を終え、ゆうちゃんが食器を洗ってくれている間に、私は歯磨きをして、メイクを済ませる。
最初は、「洗い物も私が……」と申し出ていたのだが、彼が「これくらいやらせろ」と言って譲らなかったのだ。
家事要員として私を同居させている割に、ゆうちゃんは何くれとなく家事を分担している。水回りのお掃除とか、ゴミ出しとか。
ただ料理は苦手みたいなので、私は主に飯炊きとしての役割を求められているのだろう。
なんてことを改めて考えつつ、自室のドレッサー前に座って化粧をする。
大きめの鏡に映るのは、美形揃いの家族とは似ても似つかない、平凡な顔立ち。
たとえ周りにあれこれ言われなかったとしても、この顔を見れば家族と血の繋がりがないことくらい、いつか察しただろうな。
みにくいアヒルの子って、きっとこんな気分だったに違いないと思うことがしばしばだ。もっとも、あちらは最終的に美しい白鳥に育つけれど、私にそんな成長は望めない。
家族の中で私一人だけ垂れ目だし。髪の毛だって、黒髪ストレートの家族とは違って色素が薄い焦げ茶色な上、少し癖がある。雨の日は、湿気でぼわっと広がって厄介だ。
体格も、百五十五センチと小さいくせに胸だけは育ってしまって、バランスが悪い。友達からは羨ましがられるものの、胸元に布が引っ張られて服が綺麗に着られず、私にとってはコンプレックスだ。
「……はあ」
せめてもう少し綺麗な容姿だったなら、周りに色々言われずに済んだのだろうか。
そう思わずにはいられない凡庸な顔に、社会人として失礼にならない程度の化粧を施した。劇的なビフォーアフターを演出できるほどのテクニックは、私にはないのだ。
(……よし)
十五分ほどでメイクを済ませ、通勤用の鞄の中身をチェックして自室を出る。
リビングでは、洗い物を済ませたゆうちゃんがソファに腰かけて私を待っていた。
「小春、ネクタイ」
「はーい」
面倒くさがりな彼は、いつも私にネクタイを結ばせる。
ソファから立ち上がったゆうちゃんの前に行き、手渡されたネクタイをしゅるりと首に巻きつけた。途端、彼の身体から香る爽やかな香水の匂いに、胸がキュンとする。
この時期に彼が好んで使う香水は、清涼感の中にかすかな甘さと男の色気を感じさせる逸品で、ゆうちゃんの魅力をより引き立てていた。
こうしてネクタイを結んであげる度に、まるで奥さんみたいだなって……思ってしまう。
彼としてはなんてことない習慣なんだろうけれど、私は毎朝、胸から溢れそうになる恋情を隠すのに必死だ。
(私、顔赤くなったりしてないよね……? 大丈夫、だよね?)
「……はい、できたよ」
「ん。じゃ、そろそろ行くか」
「うん」
上司と部下でもある私達は、もちろん出勤場所も同じ。
ゆうちゃんは大学卒業後、大神家が大株主を務めるグループ企業の中核会社に入社した。そこは私達の祖父が立ち上げた会社で、パソコンを中心としたOA機器の販売や、企業向けの情報処理システム、通信システムの開発と販売を行っている。
入社後、彼は一族の期待に応えて順調に功績を重ね、現在は三十一歳という若さで常務取締役の重責を担っている。
本家の三男坊だから重役になれたのだと色眼鏡で見る人もいるが、ゆうちゃんは身内の贔屓目を抜きにしても優秀で、上の兄達と共にグループを背負って立つ人物だ。
そして私も、捨て子だった自分を引き取り、何不自由なく育ててくれた両親の恩に報いたい。大好きな家族や、ゆうちゃんの役に立ちたいと思い、大学卒業後、彼と同じ会社に入った。
入社してしばらくは研修としてあちこちの部署を回り、その後希望通り秘書課に配属され、今年の春から常務であるゆうちゃんの専属秘書として働いている。
「ゆうちゃん、忘れ物ない?」
「ああ」
部屋を出て、向かう先はマンション地下にある住人専用の駐車場だ。通勤には電車ではなく車を使っている。
私達はゆうちゃんの愛車に乗り込み、会社へ向かった。
本来なら秘書の私が運転手を務めるべきなんだろうけれど、彼が「俺が好きで運転するんだから、いいんだよ。お前は黙って隣に乗っとけ」と言って、ハンドルを渡してくれないのだ。
実際、ドライブ好きなゆうちゃんの運転はとても上手で、安心感がある。
「小春、今日の予定は?」
「ええと、十時から第三会議室で企画会議。十二時から営業部にてランチミーティング、昼食は月乃屋の仕出し弁当を注文しています。そのあと、午後一時から――」
移動中は、運転の妨げにならない程度にその日のスケジュールについて簡単に打ち合わせる。
通勤時間は二十分ほど。自社ビルの裏手にある社員用の駐車場に車を停めて、建物の中へ。
この時間、会社の一階にあるホールは出勤してきた社員達で大いに賑わっていた。
(うーん、今日も視線がすごいなぁ……)
毎度のことながら、ゆうちゃんと並んで歩くと周りの視線をビシバシ感じる。特に女性社員達からの眼差しが熱い。
何せ彼は大神グループ総帥の息子で、会社の重役。裕福で将来性ばっちりな上、独身のイケメンだから、女性社員からの人気がすこぶる高いのだ。
元々存在感があるというか、人目を引く人であるゆうちゃんが現れると、みんな彼に視線を奪われる。
そして、いつも彼にひっついている『血の繋がらない妹』の私に、厳しい目を向けるのだ。
小学校くらいまでは、主に男子達から捨て子であるということを理由にいじめられていた私だが、中学校に上がったころから、女子に攻撃されるようになった。
地元でも有名な大神家の美形三兄弟に可愛がられている血の繋がらない妹が気に入らないって女子が、とても多かったのだ。
中には、私を懐柔して兄達に近づこうとする女の子もいたけれど、ゆうちゃんがそういうのをめちゃくちゃ嫌がるため協力を断っていたら、私が兄達を狙っていると邪推されて、余計に敵視されもした。
私はそのころからゆうちゃんに対する恋愛感情を自覚していたものの、だからって彼を狙うとか、恋人になりたいとか、そういう気持ちはない。
故に昔も今も、協力はできないが邪魔もしないというスタンスでいるのだけれど、私がゆうちゃんの傍にいるだけでもう目障りなんだろうな。
それは社会人になった現在も変わらない。私、会社では兄を追ってコネ入社した金魚のフン扱いされているからね。
もちろんそんな人ばかりではないものの、大半の女性社員と一部の男性社員に白い目で見られている。
会社の人間には大神家の親戚も多く、どこの馬の骨ともわからない私が、本家の娘として遇されているのが気に入らないって気持ちは、わからないでもない。
コネ……しかも超強力なやつを持っていることは事実だしね。
ただ、私はちゃんと他の社員と同じ入社試験を受けてここに入ったし、相応の努力はしてきたつもりだ。なんら恥じるところはない。
そんなわけで今朝も社員達の視線を浴びつつ、ゆうちゃんと共に役員専用のエレベーターに乗り込む。彼の執務室と秘書課は同じフロアにあるので一緒に降りて、ゆうちゃんと共に常務室へ。
そこで朝一番のコーヒーを淹れてから退室し、秘書課に向かった。
始業までまだ余裕があるこの時間、秘書課のオフィスには早めに出勤している人の姿がちらほらある。
「おはようございます」
挨拶をすると、大半の人が「おはよう」と返してくれる。けれど、一部無視する人もいた。
まあいつものことだしとあまり気にせず、私は自分のデスクについて、パソコンを起動する。
迷惑をかけたら、邪魔になったら、今の家族にも捨てられるんじゃないか。このころの私は、そんな恐れを漠然と抱いていた。
『うっ、ううっ……』
『うわー、こいつ泣いてやんの!』
『泣き虫~!』
たまらず泣き出した私を見て、いじめっ子達は笑う。
そこへ、ゆうちゃんが駆け寄ってきて――
『うちの小春をいじめてんじゃねー!』
って、一喝してくれたんだ。
『やべえ、六年の大神だ!』
『逃げろ!』
当時、ゆうちゃんは六年生の中でも一番背が高くて体格も良かったから、怒ると迫力があった。その剣幕に気圧され、いじめっ子達は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
『次また小春に変なこと言ったらぶっ飛ばすぞ!』
ゆうちゃんは、慌てて走っていくいじめっ子達の背中に拳を振り上げて怒鳴った。
『うえっ、えっ、ゆ、ゆうちゃ……』
『お前もお前だ。あんなやつらに泣かされてんじゃねーよ』
『だ、だって……』
『だってじゃねー。ほら、帰るぞ』
『うう~っ』
『……ったく、しょうがねぇなぁ。今日のおやつ、俺の分もちょっとお前にわけてやるから、いい加減泣きやめよ』
そう言って、私の手をぎゅっと握ってくれたゆうちゃんの掌の温もりを、私は今でも鮮明に覚えている。
彼はいつも、いじめられている私を助けてくれた。
周囲の心ない言葉に傷ついて泣いている私を、ぶっきらぼうな言葉で慰めてくれた。
ゆうちゃんは私の命の恩人で、頼もしい兄で、大切な家族で……
そして、私の大好きな人。
捨て子だ、養子だとあれこれ言われて、辛いことがないと言ったら嘘になるけれど、それでも「私は幸せだ」と、断言できる。
今、私がこうして生きて幸福を感じていられるのは、あの日私を見つけてくれたゆうちゃんのおかげなんだ。
私はその恩に報いたい。家族の――ゆうちゃんの役に立ちたい。
そう一心に思いながら、私は今日まで歩んできたのだった。
一
まだまだ夏の気配が色濃い、九月のある朝のこと。
アラームが鳴る寸前、ぱちっと目を覚ました私は、枕元のスマートフォンを手に取り目覚ましアプリを解除した。
早起きが習慣になっているので、いつもアラームが鳴るちょっと前に起きるんだよね。寝付きと寝起きがいいのは、密かな自慢だ。
(……また、昔の夢を見ちゃった……)
覚醒したばかりの頭に思い描くのは、昨夜見た夢のこと。小学生のころ、いじめっ子達に囲まれていたところをゆうちゃんに助けられた記憶だ。
あれから二十年近く経ち、私は再来月で二十六歳になる。
(子どものころのゆうちゃんも、格好良かったなぁ……)
私は布団の中で、ふふっと笑みを浮かべた。
それから、小学六年生のゆうちゃんと夢で会えた喜びに浸りつつ、スマホで天気予報をチェックする。起きたら真っ先に天気予報を確認するのは、社会人になってからの癖だった。
(ええと……)
本日、東京都の予報は晴れのち曇り、降水確率は十パーセント。これなら傘はいらないな。
予想最高気温は……うわ、高い。熱中症に気をつけよう。
九月に入ったというのに、関東地方はまだまだ暑い日が続いている。
「んんーっ」
上半身を起こして、思いっきり伸びをした。
「今日も頑張るぞ」と気合を入れ、ベッドを下りる。
乱れた布団を軽く直してからウォークインクローゼットに入り、通勤着に着替え、寝室を出る。
洗面所で顔を洗い、肩上で切り揃えた髪の寝癖をちょいちょいと直したら、エプロンを身につけて朝食作りだ。
実家で一緒に暮らしていた祖父が「一日の元気は朝食で作られる!」という考えの人だったため、朝ごはんは毎日しっかり、たっぷり食べるのが大神家の家訓だ。
メニューは同居人の好みで、和食が多い。昨夜炊飯器をセットしておいたので、今朝も和食だ。
おかずは週末に作り置きした常備菜のきんぴらごぼうと、小松菜のお浸し。それから塩鮭を焼いて、明太子入りの出汁巻き卵を作る。お味噌汁の具は大根と油揚げ。
(あ、納豆もあるんだった)
冷蔵庫から納豆のパックを取り出し、小鉢に移す。
出来上がった料理をダイニングテーブルに並べ、お茶の用意をして、準備完了!
(ん、時間もぴったり)
そろそろ同居人を起こす頃合いだと、私は彼の寝室へ向かう。
現在住んでいるこの家は、通勤に便利な都心の高層マンションである。大神家が所有する物件の一つで、間取りは2LDK。
東京郊外に大きな屋敷を構える実家もかなり広いけれど、この部屋も二十五歳の小娘が住むには分不相応なほど広くて立派だ。
私は七年前から、この部屋で三番目の兄――ゆうちゃんと一緒に暮らしている。
私の大学進学を機に、当時社会人二年目だった彼が「通勤にも通学にも便利だし、実家を出るぞ」と、私を連れてここに引っ越したのだ。
一人暮らしじゃなくていいの? 私も一緒でいいの?
そう思ったが、ゆうちゃんが「家政婦雇うの面倒だろ」と言ったので、「ああなるほど、家事要員が欲しかったのか」と納得した。
私は昔から家事――特に料理が好きで、実家ではよく通いの家政婦さんの手伝いをし、色々教えてもらっていたから。
私としても、ゆうちゃんと一緒にいられ、彼のお世話をさせてもらえるのは嬉しく、否やはなかった。
事情を知った友達には、「血の繋がらない兄妹が一つ屋根の下に二人きり!? それ、大丈夫なの?」なんて言われたりもしたけれど、それこそ赤ん坊の時からずっと一緒に暮らしてきたのだ。今更、ゆうちゃんを異性として意識することは……
……ないと言ったら嘘になる、かな。
命の恩人で、ずっと私を守ってくれて、誰よりも格好良くて頼りになる、ゆうちゃん。
彼に対する気持ちが、他の家族に向けるものとは違うものに変わってきていることに、私はかなり前から気づいていた。
私は、ゆうちゃんが好きだ。
そう、家族としても、異性としても。
つまり、私は血の繋がらない兄に恋愛感情を抱いてしまっている。
けれど、それを表に出してはいけない。
だってそんなことをしたら、きっと彼は困る。
私が中学生のころ、だったかな。ゆうちゃんが上の兄達に、「お前と小春って、本当に仲が良いよな」「将来は結婚するのか?」とからかわれている場面に出くわしたことがある。
ゆうちゃんはなんとも嫌そうな顔で、兄達に「そんなわけないだろ。あいつは妹だ。女として見てないし見れない」と答えていた。
私は、その時すでにゆうちゃんに淡い恋心を抱いていたから、ショックだったなぁ……
あと、心のどこかで「自分はゆうちゃんの『特別』なんだ」って、思い上がっていた気持ちに冷や水をかけられたような心地がした。
もしかしたらゆうちゃんと結婚できるかもしれないと、その可能性があるんじゃないかと驕っていた自分が恥ずかしくてたまらなかった。
でも、仕方ない。
私は彼にとって、妹であり、自分の所有物――子分みたいなもの。恋愛対象として見ていないからこそ、今もこうして一緒に暮らしていられるんだ。
その関係を、壊したくない。
「……ふう」
私は未練がましく心に燻る想いをため息と共に吐き出して、頭を切り替える。
そして目の前の扉をコンコンとノックし、声をかけた。
「ゆうちゃん、起きてる? 朝ごはんできたよ」
……返事はない。
私はいつものことだと気にせず扉を開けた。
分厚いカーテンに遮られた薄暗い室内の、奥にドンと置かれたクイーンサイズのベッドの上、こんもりと盛り上がった布団の山がわずかに身動ぎする。
「ゆうちゃん?」
動きはあるが、応えはない。たぶん、まだ寝惚けているのだろう。
私は中へ踏み入って、バルコニーに面した掃き出し窓のカーテンをシャッと開く。
「……眩しい」
部屋の中が明るくなると、布団の山から不満げな声が漏れた。
(あ、いつの間にか顔だけ出してる)
「おはよう、ゆうちゃん。今日は晴れのち曇りだって。朝からいいお天気だね」
「おはよ。……いい天気すぎて腹立つ。あー、今日も暑くなりそうだな。家から出たくない」
ゆうちゃんはぶつくさと文句を言いつつ、布団を押しのけた。
半袖のTシャツにゆったりとしたハーフパンツを寝間着にしている彼は、「くああっ」とあくびをする。
(……っ)
その寝起き姿を見て、私は毎朝ドキッとしてしまうのだ。
まだ寝足りないとばかりに眠たげな顔はどこか稚くて可愛いし、Tシャツの襟元から覗く鎖骨が妙に色っぽい。顎にうっすらと生えた髭さえセクシーに見えて、落ち着かない気持ちになる。
私は彼から目を逸らし、内心の動揺を誤魔化すように「今朝はゆうちゃんの好きな明太子入りの出汁巻き卵作ったよ。早く支度して一緒に食べよう」と言った。
「お、マジか。あれメシが進むんだよなぁ。味噌汁の具は?」
「大根と油揚げ」
「よし。今日もメシ大盛りで頼むわ」
そう言いつつ、ゆうちゃんはベッドから下りてウォークインクローゼットに向かう。その途中、すれ違いざまに私の頭をぐしゃぐしゃっと撫でた。
(わっ。もうっ、また……)
何かと私の頭を撫でるのは、ゆうちゃんの昔からの癖だ。
私的には、好きな人にかまってもらえるのが嬉しい反面、彼の中ではいつまでも子どものままなのかなあと思え、ちょっと複雑だったりする。髪もぐしゃぐしゃにされちゃうし。
私は乱れた髪を直し、ついでにゆうちゃんがいなくなったベッドをささっと整えてから、一足先にキッチンに戻った。
彼が着替えている間に、お味噌汁を軽く温め直す。
ほどなく、お味噌汁のいい匂いがふんわり広がっていった。
この、どこかホッとする匂い、大好き。
(朝はやっぱりご飯とお味噌汁だよねぇ)
私にとってお味噌汁の匂いは、家族みんなで食卓を囲む、幸福な思い出の象徴でもある。
だからか、この匂いを嗅ぐと胸がぽかぽか温かくなるんだ。
(ゆうちゃんの分は大盛り……っと)
二人暮らしを機にゆうちゃんが買ってくれた、お揃いのお茶碗とお椀にご飯とお味噌汁をよそって、ダイニングテーブルへ。
そして二人分の緑茶を湯呑に注ぎ終えたころ、身支度を済ませたゆうちゃんがやってきた。
大神家御用達のテーラーで仕立てたオーダーメイドのスーツに身を包み、まだネクタイを結んでないシャツの襟元をくつろげている。そんな彼は、さっきまでの気の抜けた姿とはまた違って、すごく格好良い。百八十センチ超えの高身長に加えて体格も良いため、スーツがよく似合うんだよね。
「お、納豆もある。でかした、小春」
「ふふっ。ご飯とお味噌汁のおかわりもあるから、いっぱい食べてね」
六人掛けのダイニングテーブルに向かい合わせで座った私達は、いつものように声を揃えて「いただきます」と手を合わせ、お箸を手に取った。
ゆうちゃんは私が作ったごはんを、今日も「美味い、美味い」と食べてくれる。
そんな彼を見ているだけで、気持ちがふわふわと浮き立った。
「……ん? どうした、小春」
「ううん、なんでもない」
朝からもりもりとごはんを食べるゆうちゃんの姿に見入っていたなんて言えるはずもなく、笑顔で誤魔化す。
彼はそんな私のお皿から、「それ食べないなら、俺がもらうぞ」と、明太子入り出汁巻き卵を一切れ奪っていった。
「ああっ、酷い!」
食べないなんて一言も言ってないのに!
「はっはっは」
ゆうちゃんは無情にも、私に見せつけるように出汁巻き卵を口にする。
けれど、私がむっすーと顰め面をしたら、「冗談だよ、冗談」と自分の分の出汁巻き卵を一切れ、私の口元に運んだ。
「……っ」
「ほら、食え」
(く、食えって。だってこれじゃ、いわゆる「はい、アーン」ってやつで……)
わざわざ身を乗り出してまでこんなことしないで、普通にお皿に戻してくれたらいいのに!
どうしたものかと思ったけれど、再度ゆうちゃんに「ほら」と促され、私はおずおずと出汁巻き卵を口にした。
思いがけず好きな人に「アーン」をされて、心拍数が上がる。
「美味いか?」
「……ん、美味しい」
そう答えたものの、本当はドキドキしすぎて、味わう余裕なんてなかった。
「だろう」
って、なんで作ってもいないゆうちゃんが自慢げに笑うかな。
(……でも)
そんな笑顔も可愛いとか、そういうところも好きだなぁって思ってしまうあたり、私はだいぶ、彼にまいっているのかもしれない。
一度フラれているも同然なのに、血の繋がらない兄への恋心を未だ捨てきれないなんて。
(だめだなぁ……、私)
朝食を終え、ゆうちゃんが食器を洗ってくれている間に、私は歯磨きをして、メイクを済ませる。
最初は、「洗い物も私が……」と申し出ていたのだが、彼が「これくらいやらせろ」と言って譲らなかったのだ。
家事要員として私を同居させている割に、ゆうちゃんは何くれとなく家事を分担している。水回りのお掃除とか、ゴミ出しとか。
ただ料理は苦手みたいなので、私は主に飯炊きとしての役割を求められているのだろう。
なんてことを改めて考えつつ、自室のドレッサー前に座って化粧をする。
大きめの鏡に映るのは、美形揃いの家族とは似ても似つかない、平凡な顔立ち。
たとえ周りにあれこれ言われなかったとしても、この顔を見れば家族と血の繋がりがないことくらい、いつか察しただろうな。
みにくいアヒルの子って、きっとこんな気分だったに違いないと思うことがしばしばだ。もっとも、あちらは最終的に美しい白鳥に育つけれど、私にそんな成長は望めない。
家族の中で私一人だけ垂れ目だし。髪の毛だって、黒髪ストレートの家族とは違って色素が薄い焦げ茶色な上、少し癖がある。雨の日は、湿気でぼわっと広がって厄介だ。
体格も、百五十五センチと小さいくせに胸だけは育ってしまって、バランスが悪い。友達からは羨ましがられるものの、胸元に布が引っ張られて服が綺麗に着られず、私にとってはコンプレックスだ。
「……はあ」
せめてもう少し綺麗な容姿だったなら、周りに色々言われずに済んだのだろうか。
そう思わずにはいられない凡庸な顔に、社会人として失礼にならない程度の化粧を施した。劇的なビフォーアフターを演出できるほどのテクニックは、私にはないのだ。
(……よし)
十五分ほどでメイクを済ませ、通勤用の鞄の中身をチェックして自室を出る。
リビングでは、洗い物を済ませたゆうちゃんがソファに腰かけて私を待っていた。
「小春、ネクタイ」
「はーい」
面倒くさがりな彼は、いつも私にネクタイを結ばせる。
ソファから立ち上がったゆうちゃんの前に行き、手渡されたネクタイをしゅるりと首に巻きつけた。途端、彼の身体から香る爽やかな香水の匂いに、胸がキュンとする。
この時期に彼が好んで使う香水は、清涼感の中にかすかな甘さと男の色気を感じさせる逸品で、ゆうちゃんの魅力をより引き立てていた。
こうしてネクタイを結んであげる度に、まるで奥さんみたいだなって……思ってしまう。
彼としてはなんてことない習慣なんだろうけれど、私は毎朝、胸から溢れそうになる恋情を隠すのに必死だ。
(私、顔赤くなったりしてないよね……? 大丈夫、だよね?)
「……はい、できたよ」
「ん。じゃ、そろそろ行くか」
「うん」
上司と部下でもある私達は、もちろん出勤場所も同じ。
ゆうちゃんは大学卒業後、大神家が大株主を務めるグループ企業の中核会社に入社した。そこは私達の祖父が立ち上げた会社で、パソコンを中心としたOA機器の販売や、企業向けの情報処理システム、通信システムの開発と販売を行っている。
入社後、彼は一族の期待に応えて順調に功績を重ね、現在は三十一歳という若さで常務取締役の重責を担っている。
本家の三男坊だから重役になれたのだと色眼鏡で見る人もいるが、ゆうちゃんは身内の贔屓目を抜きにしても優秀で、上の兄達と共にグループを背負って立つ人物だ。
そして私も、捨て子だった自分を引き取り、何不自由なく育ててくれた両親の恩に報いたい。大好きな家族や、ゆうちゃんの役に立ちたいと思い、大学卒業後、彼と同じ会社に入った。
入社してしばらくは研修としてあちこちの部署を回り、その後希望通り秘書課に配属され、今年の春から常務であるゆうちゃんの専属秘書として働いている。
「ゆうちゃん、忘れ物ない?」
「ああ」
部屋を出て、向かう先はマンション地下にある住人専用の駐車場だ。通勤には電車ではなく車を使っている。
私達はゆうちゃんの愛車に乗り込み、会社へ向かった。
本来なら秘書の私が運転手を務めるべきなんだろうけれど、彼が「俺が好きで運転するんだから、いいんだよ。お前は黙って隣に乗っとけ」と言って、ハンドルを渡してくれないのだ。
実際、ドライブ好きなゆうちゃんの運転はとても上手で、安心感がある。
「小春、今日の予定は?」
「ええと、十時から第三会議室で企画会議。十二時から営業部にてランチミーティング、昼食は月乃屋の仕出し弁当を注文しています。そのあと、午後一時から――」
移動中は、運転の妨げにならない程度にその日のスケジュールについて簡単に打ち合わせる。
通勤時間は二十分ほど。自社ビルの裏手にある社員用の駐車場に車を停めて、建物の中へ。
この時間、会社の一階にあるホールは出勤してきた社員達で大いに賑わっていた。
(うーん、今日も視線がすごいなぁ……)
毎度のことながら、ゆうちゃんと並んで歩くと周りの視線をビシバシ感じる。特に女性社員達からの眼差しが熱い。
何せ彼は大神グループ総帥の息子で、会社の重役。裕福で将来性ばっちりな上、独身のイケメンだから、女性社員からの人気がすこぶる高いのだ。
元々存在感があるというか、人目を引く人であるゆうちゃんが現れると、みんな彼に視線を奪われる。
そして、いつも彼にひっついている『血の繋がらない妹』の私に、厳しい目を向けるのだ。
小学校くらいまでは、主に男子達から捨て子であるということを理由にいじめられていた私だが、中学校に上がったころから、女子に攻撃されるようになった。
地元でも有名な大神家の美形三兄弟に可愛がられている血の繋がらない妹が気に入らないって女子が、とても多かったのだ。
中には、私を懐柔して兄達に近づこうとする女の子もいたけれど、ゆうちゃんがそういうのをめちゃくちゃ嫌がるため協力を断っていたら、私が兄達を狙っていると邪推されて、余計に敵視されもした。
私はそのころからゆうちゃんに対する恋愛感情を自覚していたものの、だからって彼を狙うとか、恋人になりたいとか、そういう気持ちはない。
故に昔も今も、協力はできないが邪魔もしないというスタンスでいるのだけれど、私がゆうちゃんの傍にいるだけでもう目障りなんだろうな。
それは社会人になった現在も変わらない。私、会社では兄を追ってコネ入社した金魚のフン扱いされているからね。
もちろんそんな人ばかりではないものの、大半の女性社員と一部の男性社員に白い目で見られている。
会社の人間には大神家の親戚も多く、どこの馬の骨ともわからない私が、本家の娘として遇されているのが気に入らないって気持ちは、わからないでもない。
コネ……しかも超強力なやつを持っていることは事実だしね。
ただ、私はちゃんと他の社員と同じ入社試験を受けてここに入ったし、相応の努力はしてきたつもりだ。なんら恥じるところはない。
そんなわけで今朝も社員達の視線を浴びつつ、ゆうちゃんと共に役員専用のエレベーターに乗り込む。彼の執務室と秘書課は同じフロアにあるので一緒に降りて、ゆうちゃんと共に常務室へ。
そこで朝一番のコーヒーを淹れてから退室し、秘書課に向かった。
始業までまだ余裕があるこの時間、秘書課のオフィスには早めに出勤している人の姿がちらほらある。
「おはようございます」
挨拶をすると、大半の人が「おはよう」と返してくれる。けれど、一部無視する人もいた。
まあいつものことだしとあまり気にせず、私は自分のデスクについて、パソコンを起動する。
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