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1巻
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そして運転席にお父様、助手席にお母様が乗り込み、最後に楓馬さんが後部座席に乗り込もうとする。
その間際、彼の視線が私を捉えた。
(あ……っ)
ただ目が合っただけで、凪いでいたはずの心にさざなみが立つ。
「…………」
楓馬さんは物言いたげな表情で、そして実際に口を開き何かを言おうとして……でも結局何も言わないまま、車に乗り込んでしまった。
あの時、彼は何を言おうとしていたのだろう。
いや、きっとそれは私にではなく、美穂に向けて告げようとした言葉だったのだ。
視線が合ったと感じたのも、私に何かを言おうとしていたと思ったのも錯覚……ううん、そうだったらよかったのにという願望だったのだろう。
もしかしたら楓馬さんは後日と言わず、その日の内に美穂へ婚約の意思を伝えたかったのかもしれない。だって二人はそれくらい、打ち解けているように見えたから。
そして後日、三柳家から正式な返答があり、楓馬さんと美穂は婚約を結ぶことになった。といっても二人はまだ学生ということで、正式な結納は美穂が大学を卒業してからという話だった。
やっぱり、楓馬さんは美穂を伴侶に選んだのだ。わかっていたはずなのに、その知らせを聞いた時には胸が痛んだ。最初から、私は彼にとっては縁談相手の妹に過ぎないというのに、失恋した気になるなんて、変だよね。
一方うちの両親は、大企業の経営者一族と縁を結べるとあって大喜びしていたっけ。二人の婚約を足がかりに、父の会社と三柳建設とで共同プロジェクトも始動するという話だった。
そんな両親の期待を一身に受けた美穂は、楓馬さんの婚約者として、結婚を前提にした交際をスタートさせる。
二人の仲は順調で、彼はよく美穂に会いにうちを訪ねてきたため、学校から帰ると楓馬さんとばったり顔を合わせる、なんてことも多かった。
あれは、二人が婚約を結んだ年の冬――だっただろうか。
授業を終えて帰宅した私は、家の玄関に見慣れない靴を見つけた。カジュアルなデザインの、男物のレザーブーツだ。
(もしかして、楓馬さんが来てるのかな……)
そわそわと落ち着かない気持ちのまま、私はローファーを脱ぎ、家に上がった。
すると廊下の奥――美穂のグランドピアノが置いてある部屋から、微かに音が聞こえてくる。
ポーン、ポーンと、跳ねるような高い音。それはやがて、一つの旋律を描き始める。
ピアノの音だ。この家でピアノを弾くのは美穂だけだから、たぶん、楓馬さんと一緒にピアノ室にいるのだろう。
(一応、挨拶した方がいいよね……)
美穂の妹として、将来義兄になる人に失礼のないように。
そう自分に言い聞かせ、ピアノ室へと向かう。
でも本当は、ただ楓馬さんの顔が見たかっただけなのかもしれない。
(あ、もう一つ、音が……)
最初はピアノの音だけだった旋律に、艶のある弦楽器の音色が重なる。
(これは、楓馬さん……?)
近づいてみると、ピアノ室の扉が開いていて、廊下から中の様子が窺えた。
制服姿の美穂が、口元に笑みを浮かべ、楽しそうにピアノを鳴らしている。
その傍らには、バイオリンを奏でる楓馬さんが立っていた。
(……綺麗……)
二人が奏でる音も、その光景も、とても綺麗だった。
冬の淡い光が差す部屋で、軽やかに音楽を奏で合う恋人達。
薄暗い廊下からそれを羨ましげに見つめる私からは、別の世界の住人に思える。
(いいなあ……)
私は、美穂みたいにピアノを弾けない。他の楽器だって何も弾けない。
だから、こんな風に楓馬さんと音を重ねることもできないのだ。
「…………」
疎外感が胸に込み上げてくる。
たった数歩の距離が、ひどく遠く感じられた。
同時に、これ以上近づいてはいけないとも思った。
私なんかが、二人の世界を邪魔してはいけないのだと。
「……あ、今間違えただろ、美穂」
「いいの。コンクールに出るわけじゃないんだし、楽しく弾けたらそれでいいのよ」
「はいはい」
「そういう楓馬くんだって、さっき音外してた」
「ばれていたか」
「ばれないと思ったか」
楓馬さんと美穂は楽器を弾きながら軽口を叩き、笑い合う。
最初こそ家の思惑で引き合わされた二人だったけれど、今ではすっかり仲睦まじい恋人同士になっていた。
そんな二人の親しげな空気がまざまざと感じられ、胸が苦しい。
(……私、馬鹿みたい)
楓馬さんの顔が見られる、なんて。何を期待していたんだろう。
彼は美穂の婚約者。美穂に会いに来たのであって、私に会いに来てくれたわけじゃない。
「…………」
美穂達が気づいていないのをいいことに、私は音を立てないようそっとその場をあとにした。一瞬でも浮かれた自分が、恥ずかしくて仕方ない。
足音を忍ばせて二階へ上がり、自室に入る。
扉を閉めても二人の奏でる旋律が微かに聞こえてきて、私はそれから逃げるみたいにベッドへダイブし、布団を被って音を遮ろうとした。
そうして、どれくらいじっとしていただろう。
ようやく階下が静かになり、もぞ……と布団から顔を出す。
「あ……」
制服のまま潜り込んだから、スカートが皺になっていた。
(そういえば、美穂も制服のままだったな……)
私と美穂は別の高校に通っている。私が通う公立高校の制服はなんの変哲もない紺のブレザーとチェックスカートだけれど、美穂が通う私立女子高の制服は有名デザイナーがデザインしたセーラーカラーのワンピースタイプで、とても可愛い。
(……とりあえず、着替えよう)
のろのろと起き上がり、制服に手をかける。
するとその時、コンコンと扉をノックする音が響いた。
「志穂、帰ってるんでしょ? 開けていい?」
「う、うん」
制服を脱ぐのをやめ、私は了承の返事をする。
ほどなく扉が開き、制服姿のままの美穂が顔を覗かせた。
「あのね、今から楓馬くんに勉強を見てもらうんだけど、志穂も一緒にどう?」
「勉強? ピアノはもういいの?」
「あ、やっぱり聞こえてた? あれは志穂が帰ってくるまでの暇潰しみたいなものだったから、もういいの。ほら、うちの学校も志穂の学校も、そろそろテスト期間でしょ? だから楓馬くんに家庭教師をお願いしたの」
「そう、なんだ」
こういうことは、これまでにもよくあった。
有名国立大に現役で合格していた楓馬さんは、とても頼りになる先生だ。彼に勉強を見てもらえるようになって、私も美穂も成績が上がった。
(でも……)
「……ううん、私はいいよ」
楓馬さんがうちに来る時、何故か美穂は必ずと言っていいほど私を同席させたがる。時には、外で会う場合にさえ私を誘うことがあった。おかげで母からは、二人の邪魔をするなと叱られることもしばしばだ。
(邪魔しようなんて、考えたこともないのにな……)
どうして美穂は私を誘うんだろう。
楓馬さんと二人っきりで会いたいと思わないのだろうか?
疑問を覚えて一度尋ねたことがあったが、美穂はにっこりと花のように笑って、「二人きりで過ごす時間もちゃんととってあるから、大丈夫」と言った。
その表情には楓馬さんの婚約者として揺るがない自信が溢れていて、とても眩しく、そして羨ましく思えたっけ。
「私は行かない。お邪魔しちゃ、悪いし」
とにもかくにも、二人の仲の良さをこれ以上見せつけられるのが辛かったので、私は改めて誘いを断った。
だが美穂は引かない。
「志穂は邪魔なんかじゃないよ! むしろいてくれなきゃ困る」
「……?」
それは、どういう意味なんだろう?
ああでも、私を気遣ってそう言ってくれているだけかもしれない。
「サンルームで待ってるから志穂も来て。あと、お茶もお願い。楓馬くん、志穂の淹れるお茶がお気に入りだから、よろしくね」
美穂は「来ないと、楓馬くんと一緒に迎えに来るから!」と念を押し、バタン! と扉を閉じて去っていった。
美穂は一度言い出したら聞かないところがある。たぶん、無視したら本当に楓馬さんを連れて襲撃してくるだろう。
ちょっと我儘で、でもそんなところも可愛い我が家のお姫様。それが美穂だ。
幼稚園のころは、そんなお姫様気質の美穂に数少ない玩具をとられたり、意地悪されたりしたこともあった。美穂はあんなにも両親――特に母親に愛され、欲しいものはなんでも買ってもらえたのに、大人しくて暗い性格の私が気に入らなかったのか、何かとちょっかいをかけてきたのだ。
でも年を重ねるにつれ、美穂は私に敵意を向けなくなっていった。それどころか私を気にかけ、面倒を見てくれるようになったくらいだ。
今回みたいに振り回されることもあるけれど、私はそんな美穂が好きだし、今では姉妹仲も悪くない……というか、良い方だと思う。
もし小さいころのまま私達の仲が悪かったなら、楓馬さんに恋心を抱くことへの罪悪感も、もっと薄くて済んだのかもしれないな……
美穂が好きだからこそ、美穂の好きな人を想うのが後ろめたくてならない。
「はあ……」
私はため息を一つ吐き、ベッドから下りた。
とりあえず、襲撃される前に下へ行こう。
幸いなことに、母は先日から学生時代の友人数人と旅行に出かけている。二人の邪魔をするなと文句を言われることはない。いや、この場合は幸いではないのかな。
婚約者同士の逢瀬を邪魔するようで、やはり気乗りはしない。二人の仲の良さを見せつけられ、落ち込んでいたから、尚更だ。
けれどそう思う一方で、楓馬さんに会えることを喜ぶ自分もいた。
彼は姉の婚約者だ。しかも、二人はとても仲睦まじく、傍から見ていてもお互いを想い合っているのがよくわかる。
そんな相手に恋心を抱いてはいけない。どんなに想ったところで報われるわけもなく、ただ辛いだけだとわかっている。
なのに……
(どうして、かな……)
わかっているのに、一度芽生えた想いはなかなか消えてくれなかった。
それどころか、楓馬さんと顔を合わせる度にその想いは存在感を増していく。
初恋は叶わないと言う。叶わないなら叶わないで、こんな気持ちは早く消えてくれればいいのに、それすら叶わない。ままならない自分の心が、厭わしくて仕方なかった。
いっそ告白でもして玉砕すればスッキリするだろうか。そう考えたこともあったけれど、結局想いを告げる勇気を持てず、今に至る。だって二人が結婚すれば、これから先も親戚付き合いが続くのだ。そんな相手に告白して、ふられて気まずい思いをするのは嫌だ。もしそんな状況になったら、楓馬さんだって気まずく感じるだろう。
好きだから、会いたい。
一方で、好きだからこそ会いたくない。
そんな複雑な胸中のまま、私は制服から私服に着替え、勉強道具一式を持って一階に下りた。
まずはキッチンに寄り、三人分の紅茶を用意してサンルームへ向かう。勉強道具もあるので、ティーセットはトレイごとワゴンに載せて運ぶことにした。
「あはははは、楓馬くん、そんなことやったの? 馬鹿だなあ~」
「上手くいくと思ったんだよ。結果、大失敗だったけど」
サンルームの前に来ると、扉越しに美穂の軽やかな笑い声と楓馬さんの苦笑混じりの声が響く。
その声を聞き、私は扉を開けようとしていた手をはっと止めた。
なんだか、とても楽しそう。そんなところに、私なんかが入っていっていいのだろうか。
二人の世界が壊れるのではと、尻込みしてしまう。
先ほどピアノ室に入れなかった時と同じだ。切ない思いをしたくないと、臆病な私がまた逃げたがっている。
(やっぱり、誘いを断って部屋に引き籠ろうかな……)
そんな考えが頭をもたげたが、私の訪れに気づいたらしい美穂から扉越しに「志穂?」と声をかけられ、逃げることは諦めざるをえなかった。ここまで来て部屋に帰ったら、きっと変に思われる。
私はふうっと息を吐いたあと、躊躇いがちにサンルームの扉を開けた。
我が家の一階、南側に位置するサンルームは、母の自慢の一つだ。壁や柱は白く塗られ、板張りの床の上にはアンティークのテーブルセットが置かれている。部屋のそこかしこに観葉植物のグリーンがあり、ガラス窓から見える庭の風景と相まって、とても居心地の良い空間に仕上がっていた。
でも今の私には、自分一人が場違いに思えてひどく落ち着かない。
「もう、遅いよ志穂。待ちくたびれた」
「こんにちは、志穂」
大きな円形のテーブルに隣り合って座る美穂と楓馬さんが、笑顔で私を迎える。
いつからか、楓馬さんは婚約者を『美穂』と、名前で呼ぶのと同様に、私のことも『志穂』と呼ぶようになっていた。
「こんにちは、楓馬さん。待たせてごめんね、美穂」
「そこまで待ってないから、美穂の言うことは気にしなくていいよ」
楓馬さんに挨拶を返し、美穂へ謝ると、彼がすかさずフォローしてくれる。
「なによそれ。もう、楓馬くんはほんっとうに志穂に甘いんだから」
美穂はくすくすと笑って、私が運んできたワゴンから自分と彼の分のティーカップをとり、優雅な仕草で紅茶を口に運んだ。我が姉ながら、そんな姿すら一幅の絵のように品がある。
「そうかな?」
「そうだよ。それで、私には全然優しくない」
(そんなこと、ないと思うけど……)
私は二人の向かいの席に腰かけ、心の中で美穂の言葉を否定する。
だって、楓馬さんはとても優しい。まめに婚約者に会いに来てくれるし、よく美穂にプレゼントを贈っているのも知っている。しかも、婚約者へ贈るついでにその妹である私の分まで用意してくれるのだ。
勉強だって懇切丁寧に教えてくれるし、美穂と一緒に映画や食事に連れていってくれることだって……
婚約者の妹である私にさえそこまで気を遣ってくれているのだから、本命の美穂にはより心を配っているのだろう。
もっとも、美穂も本心から文句を言ったわけではないようだ。たぶん、可愛く拗ねてみせただけなのだと思う。美穂はそういう態度もよく似合った。
そんな甘え方、私にはできない。たとえしてみたところで、周りの顰蹙を買うだけだろう。
楓馬さんは、拗ねる美穂に仕方ないなあと言わんばかりの微苦笑を浮かべつつも、優しい眼差しを向けていた。ちょっと我儘なところさえ、可愛くてならないと思っていそうな顔だ。
(……本当に、絵に描いたようにお似合いの二人だなぁ……)
二人の仲の良さを見せつけられる度、胸がちくんと痛む。
いつになったら、この痛みを感じなくなるだろうか。
いつまで待てば、この想いを諦めることができるだろうか。
私の初めての恋は、そんな風に消えてなくなる日を待つばかりのものだった。
楓馬さんに、好きな人に会えるのは嬉しい。
でもやっぱり、美穂と愛し合う彼の姿を見るのは辛い。
彼に愛されている美穂が羨ましくて、妬ましくて仕方なかった。
そんな醜い感情なんて抱きたくないのに、二人を見ていると、どうしても嫉妬してしまう。
「志穂、どうしたの?」
美穂と談笑していた楓馬さんが、ふいに声をかけてくる。
暗い顔で押し黙っていたから、不審に思われたのだろう。
私は慌てて笑顔を取り繕い、「なんでもないです」と言って、自分の前にもティーカップを置いた。
「そうだ、お茶、ありがとうね。志穂の淹れてくれる紅茶はとても美味しいから、いつも楽しみにしているんだ」
楓馬さんは微笑を浮かべ、ティーカップに口をつける。
そして一口飲んでから、「うん、美味しい」と褒めてくれた。
「ほら、言ったでしょう? 楓馬くんは志穂の紅茶がお気に入りなの。もちろん私も好き」
「美穂はお茶を淹れるの下手だもんな」
「ほっといて! 私には志穂がいるからいいの!」
からかうように言う楓馬さんに、美穂はふんっと顔を背ける。
親しげな二人のやりとりにちくちくと痛む胸を誤魔化し、私は曖昧に笑って問題集を開いた。
こうなったらもう勉強に集中してしまおう。早く終わらせて、この場から逃げ出そう。
だってやっぱり、これ以上この二人と一緒にいるのは苦しいもの……
そんな風に、楓馬さんと出会ってからの日々は、叶わぬ恋に身を焦がした記憶ばかりだったように思う。三人で会うのは楽しかったけれど、同じくらい切なかった。
そういえば一度だけ、楓馬さんと二人きりの時があったっけ。
あれは私達が高校三年に進級する前、まだ肌寒い三月の始めごろのことだった。
彼とデートの約束をしていた美穂が急に体調を崩してしまい、代わりに行ってくれと頼まれたのだ。その日のデートは二人が好きなクラシックのコンサートで、せっかくとれたチケットを無駄にしたくないからと。
美穂の代わりに待ち合わせ場所に現れた私に、楓馬さんはがっかりした風も見せず、「志穂が付き合ってくれて嬉しい」と言ってくれた。
本当は美穂と来たかったろうに、彼はクラシックに不慣れな私を気遣い、解説を交えながら、初心者でも楽しめるよう気を配ってくれたのだ。
楓馬さんと一緒に素晴らしいオーケストラの演奏を鑑賞できるなんて、まるで夢みたいな時間だった。けれど、コンサートを終えて会場から出たとたん、私のお腹がぐうううっと鳴ってしまう。
「あ……」
今回のコンサートは十九時開演の二十一時終演とやや遅い時間で、夕食はこのあとに予定していたから、私はとてもお腹が空いていた。でもだからって、好きな人の前でこんな大きく鳴らなくてもいいのにと、泣きそうになる。
「ごめん、夕食を先にしておけばよかったね」
「ご、ごめんなさい」
楓馬さんが謝ってくれるのがかえって申し訳なく、恥ずかしかった。
すると彼は、突然「あっ」と声を上げて、会場近くの公園へ走っていく。
慌てて追いかけたところ、楓馬さんはそこに来ていた石焼き芋の屋台で、焼き芋を一本買っていた。
「レストランまでは少し時間がかかるからね。一緒に食べよう」
彼は熱々の焼き芋を半分に割り、片方を私に差し出す。
そうして自らも焼き芋を頬張り、笑ってこう言った。
「実は俺もお腹が空いててさ、演奏中もこっそりぐうぐう鳴らしてたんだ。気づいてた?」
「い、いえ……」
そんなこと、全然気づかなかった。
ううん。今にして思えば、あれは私の気持ちを軽くするための優しいうそだったのだろう。
高級レストランのディナー前には不似合いな、屋台の焼き芋。寒空の下、二人で半分こして頬張った温かいそれは、とても美味しかった。
未だに石焼き芋の屋台を見ると、あの夜のことを思い出す。
初めて楓馬さんを独り占めできて、嬉しかったなあ……
もしあの時、勇気を出して自分の想いを伝えていたら、もう少し違う未来になっていただろうか。
でも私は告白する勇気を持てず、さりとて想いを捨てることもできず、顔を合わせるごとに楓馬さんへの想いを募らせ、姉の婚約者に未練がましく恋心を抱き続けた。
そんな自分が嫌でたまらなかったし、これ以上美穂に嫉妬心を抱くのも苦しかったので、私は大学進学を機に実家を出て、美穂と楓馬さんの二人から距離を置くことにした。
元々、高校を卒業したら家を出ようとは思っていたのだ。私は美穂と違って、家族と上手くいっていなかったから。両親が関心を抱くのは美穂だけで、私はそのおまけみたいなもの。いてもいなくても、どうでもいい存在だった。
幼いころはそのことが悲しくて、なんとか両親の気を引こうとあがいたけれど、中学、高校時代にはそれさえ諦め、ただただ家族と離れ、一人で生きていくことばかりを考えていた。
金銭的には、恵まれていた家庭だったと思う。
暴力を振るわれたり、育児放棄をされたりしたわけでもない。
だけど、あからさまに美穂と差をつけられるのは辛かった。どうして私だけ愛されないんだろうって傷つくことに、疲れていたのだ。
双子なのに、同じ両親の娘なのに、何故こんなにも扱いが違うんだろう。そう思わない日はなかった。
そんな冷たい家の中、姉は、美穂だけは、私に優しかった。時折ある母のヒステリックな罵倒から庇ってくれたし、自分と妹の扱いに差をつける両親に文句を言ってくれたし、自分にだけ贈られるプレゼントの中から、一番素敵なものを私に譲ろうとしてくれた。
『志穂は、私の可愛い妹だよ』
何度そう言って、私を慰めてくれただろう。
家の外に親しい人――少ないながらも友達と呼べる人はできたけれど、もし美穂がいなかったら、私はあの家で強い孤独感に苛まれ、おかしくなっていたかもしれない。
でもそうやって美穂に庇われる度、両親に文句を言っても責められない姉の姿を見る度、苦しくもあった。自分がよりみじめに思えてたまらなかったのだ。姉との違いを、まざまざと見せつけられたような気になった。
そんな優しい姉にさえ醜い嫉妬心を抱いてしまう私と違って、美穂は心まで綺麗な人だった。楓馬さんが美穂を愛するのも当然だ。
その間際、彼の視線が私を捉えた。
(あ……っ)
ただ目が合っただけで、凪いでいたはずの心にさざなみが立つ。
「…………」
楓馬さんは物言いたげな表情で、そして実際に口を開き何かを言おうとして……でも結局何も言わないまま、車に乗り込んでしまった。
あの時、彼は何を言おうとしていたのだろう。
いや、きっとそれは私にではなく、美穂に向けて告げようとした言葉だったのだ。
視線が合ったと感じたのも、私に何かを言おうとしていたと思ったのも錯覚……ううん、そうだったらよかったのにという願望だったのだろう。
もしかしたら楓馬さんは後日と言わず、その日の内に美穂へ婚約の意思を伝えたかったのかもしれない。だって二人はそれくらい、打ち解けているように見えたから。
そして後日、三柳家から正式な返答があり、楓馬さんと美穂は婚約を結ぶことになった。といっても二人はまだ学生ということで、正式な結納は美穂が大学を卒業してからという話だった。
やっぱり、楓馬さんは美穂を伴侶に選んだのだ。わかっていたはずなのに、その知らせを聞いた時には胸が痛んだ。最初から、私は彼にとっては縁談相手の妹に過ぎないというのに、失恋した気になるなんて、変だよね。
一方うちの両親は、大企業の経営者一族と縁を結べるとあって大喜びしていたっけ。二人の婚約を足がかりに、父の会社と三柳建設とで共同プロジェクトも始動するという話だった。
そんな両親の期待を一身に受けた美穂は、楓馬さんの婚約者として、結婚を前提にした交際をスタートさせる。
二人の仲は順調で、彼はよく美穂に会いにうちを訪ねてきたため、学校から帰ると楓馬さんとばったり顔を合わせる、なんてことも多かった。
あれは、二人が婚約を結んだ年の冬――だっただろうか。
授業を終えて帰宅した私は、家の玄関に見慣れない靴を見つけた。カジュアルなデザインの、男物のレザーブーツだ。
(もしかして、楓馬さんが来てるのかな……)
そわそわと落ち着かない気持ちのまま、私はローファーを脱ぎ、家に上がった。
すると廊下の奥――美穂のグランドピアノが置いてある部屋から、微かに音が聞こえてくる。
ポーン、ポーンと、跳ねるような高い音。それはやがて、一つの旋律を描き始める。
ピアノの音だ。この家でピアノを弾くのは美穂だけだから、たぶん、楓馬さんと一緒にピアノ室にいるのだろう。
(一応、挨拶した方がいいよね……)
美穂の妹として、将来義兄になる人に失礼のないように。
そう自分に言い聞かせ、ピアノ室へと向かう。
でも本当は、ただ楓馬さんの顔が見たかっただけなのかもしれない。
(あ、もう一つ、音が……)
最初はピアノの音だけだった旋律に、艶のある弦楽器の音色が重なる。
(これは、楓馬さん……?)
近づいてみると、ピアノ室の扉が開いていて、廊下から中の様子が窺えた。
制服姿の美穂が、口元に笑みを浮かべ、楽しそうにピアノを鳴らしている。
その傍らには、バイオリンを奏でる楓馬さんが立っていた。
(……綺麗……)
二人が奏でる音も、その光景も、とても綺麗だった。
冬の淡い光が差す部屋で、軽やかに音楽を奏で合う恋人達。
薄暗い廊下からそれを羨ましげに見つめる私からは、別の世界の住人に思える。
(いいなあ……)
私は、美穂みたいにピアノを弾けない。他の楽器だって何も弾けない。
だから、こんな風に楓馬さんと音を重ねることもできないのだ。
「…………」
疎外感が胸に込み上げてくる。
たった数歩の距離が、ひどく遠く感じられた。
同時に、これ以上近づいてはいけないとも思った。
私なんかが、二人の世界を邪魔してはいけないのだと。
「……あ、今間違えただろ、美穂」
「いいの。コンクールに出るわけじゃないんだし、楽しく弾けたらそれでいいのよ」
「はいはい」
「そういう楓馬くんだって、さっき音外してた」
「ばれていたか」
「ばれないと思ったか」
楓馬さんと美穂は楽器を弾きながら軽口を叩き、笑い合う。
最初こそ家の思惑で引き合わされた二人だったけれど、今ではすっかり仲睦まじい恋人同士になっていた。
そんな二人の親しげな空気がまざまざと感じられ、胸が苦しい。
(……私、馬鹿みたい)
楓馬さんの顔が見られる、なんて。何を期待していたんだろう。
彼は美穂の婚約者。美穂に会いに来たのであって、私に会いに来てくれたわけじゃない。
「…………」
美穂達が気づいていないのをいいことに、私は音を立てないようそっとその場をあとにした。一瞬でも浮かれた自分が、恥ずかしくて仕方ない。
足音を忍ばせて二階へ上がり、自室に入る。
扉を閉めても二人の奏でる旋律が微かに聞こえてきて、私はそれから逃げるみたいにベッドへダイブし、布団を被って音を遮ろうとした。
そうして、どれくらいじっとしていただろう。
ようやく階下が静かになり、もぞ……と布団から顔を出す。
「あ……」
制服のまま潜り込んだから、スカートが皺になっていた。
(そういえば、美穂も制服のままだったな……)
私と美穂は別の高校に通っている。私が通う公立高校の制服はなんの変哲もない紺のブレザーとチェックスカートだけれど、美穂が通う私立女子高の制服は有名デザイナーがデザインしたセーラーカラーのワンピースタイプで、とても可愛い。
(……とりあえず、着替えよう)
のろのろと起き上がり、制服に手をかける。
するとその時、コンコンと扉をノックする音が響いた。
「志穂、帰ってるんでしょ? 開けていい?」
「う、うん」
制服を脱ぐのをやめ、私は了承の返事をする。
ほどなく扉が開き、制服姿のままの美穂が顔を覗かせた。
「あのね、今から楓馬くんに勉強を見てもらうんだけど、志穂も一緒にどう?」
「勉強? ピアノはもういいの?」
「あ、やっぱり聞こえてた? あれは志穂が帰ってくるまでの暇潰しみたいなものだったから、もういいの。ほら、うちの学校も志穂の学校も、そろそろテスト期間でしょ? だから楓馬くんに家庭教師をお願いしたの」
「そう、なんだ」
こういうことは、これまでにもよくあった。
有名国立大に現役で合格していた楓馬さんは、とても頼りになる先生だ。彼に勉強を見てもらえるようになって、私も美穂も成績が上がった。
(でも……)
「……ううん、私はいいよ」
楓馬さんがうちに来る時、何故か美穂は必ずと言っていいほど私を同席させたがる。時には、外で会う場合にさえ私を誘うことがあった。おかげで母からは、二人の邪魔をするなと叱られることもしばしばだ。
(邪魔しようなんて、考えたこともないのにな……)
どうして美穂は私を誘うんだろう。
楓馬さんと二人っきりで会いたいと思わないのだろうか?
疑問を覚えて一度尋ねたことがあったが、美穂はにっこりと花のように笑って、「二人きりで過ごす時間もちゃんととってあるから、大丈夫」と言った。
その表情には楓馬さんの婚約者として揺るがない自信が溢れていて、とても眩しく、そして羨ましく思えたっけ。
「私は行かない。お邪魔しちゃ、悪いし」
とにもかくにも、二人の仲の良さをこれ以上見せつけられるのが辛かったので、私は改めて誘いを断った。
だが美穂は引かない。
「志穂は邪魔なんかじゃないよ! むしろいてくれなきゃ困る」
「……?」
それは、どういう意味なんだろう?
ああでも、私を気遣ってそう言ってくれているだけかもしれない。
「サンルームで待ってるから志穂も来て。あと、お茶もお願い。楓馬くん、志穂の淹れるお茶がお気に入りだから、よろしくね」
美穂は「来ないと、楓馬くんと一緒に迎えに来るから!」と念を押し、バタン! と扉を閉じて去っていった。
美穂は一度言い出したら聞かないところがある。たぶん、無視したら本当に楓馬さんを連れて襲撃してくるだろう。
ちょっと我儘で、でもそんなところも可愛い我が家のお姫様。それが美穂だ。
幼稚園のころは、そんなお姫様気質の美穂に数少ない玩具をとられたり、意地悪されたりしたこともあった。美穂はあんなにも両親――特に母親に愛され、欲しいものはなんでも買ってもらえたのに、大人しくて暗い性格の私が気に入らなかったのか、何かとちょっかいをかけてきたのだ。
でも年を重ねるにつれ、美穂は私に敵意を向けなくなっていった。それどころか私を気にかけ、面倒を見てくれるようになったくらいだ。
今回みたいに振り回されることもあるけれど、私はそんな美穂が好きだし、今では姉妹仲も悪くない……というか、良い方だと思う。
もし小さいころのまま私達の仲が悪かったなら、楓馬さんに恋心を抱くことへの罪悪感も、もっと薄くて済んだのかもしれないな……
美穂が好きだからこそ、美穂の好きな人を想うのが後ろめたくてならない。
「はあ……」
私はため息を一つ吐き、ベッドから下りた。
とりあえず、襲撃される前に下へ行こう。
幸いなことに、母は先日から学生時代の友人数人と旅行に出かけている。二人の邪魔をするなと文句を言われることはない。いや、この場合は幸いではないのかな。
婚約者同士の逢瀬を邪魔するようで、やはり気乗りはしない。二人の仲の良さを見せつけられ、落ち込んでいたから、尚更だ。
けれどそう思う一方で、楓馬さんに会えることを喜ぶ自分もいた。
彼は姉の婚約者だ。しかも、二人はとても仲睦まじく、傍から見ていてもお互いを想い合っているのがよくわかる。
そんな相手に恋心を抱いてはいけない。どんなに想ったところで報われるわけもなく、ただ辛いだけだとわかっている。
なのに……
(どうして、かな……)
わかっているのに、一度芽生えた想いはなかなか消えてくれなかった。
それどころか、楓馬さんと顔を合わせる度にその想いは存在感を増していく。
初恋は叶わないと言う。叶わないなら叶わないで、こんな気持ちは早く消えてくれればいいのに、それすら叶わない。ままならない自分の心が、厭わしくて仕方なかった。
いっそ告白でもして玉砕すればスッキリするだろうか。そう考えたこともあったけれど、結局想いを告げる勇気を持てず、今に至る。だって二人が結婚すれば、これから先も親戚付き合いが続くのだ。そんな相手に告白して、ふられて気まずい思いをするのは嫌だ。もしそんな状況になったら、楓馬さんだって気まずく感じるだろう。
好きだから、会いたい。
一方で、好きだからこそ会いたくない。
そんな複雑な胸中のまま、私は制服から私服に着替え、勉強道具一式を持って一階に下りた。
まずはキッチンに寄り、三人分の紅茶を用意してサンルームへ向かう。勉強道具もあるので、ティーセットはトレイごとワゴンに載せて運ぶことにした。
「あはははは、楓馬くん、そんなことやったの? 馬鹿だなあ~」
「上手くいくと思ったんだよ。結果、大失敗だったけど」
サンルームの前に来ると、扉越しに美穂の軽やかな笑い声と楓馬さんの苦笑混じりの声が響く。
その声を聞き、私は扉を開けようとしていた手をはっと止めた。
なんだか、とても楽しそう。そんなところに、私なんかが入っていっていいのだろうか。
二人の世界が壊れるのではと、尻込みしてしまう。
先ほどピアノ室に入れなかった時と同じだ。切ない思いをしたくないと、臆病な私がまた逃げたがっている。
(やっぱり、誘いを断って部屋に引き籠ろうかな……)
そんな考えが頭をもたげたが、私の訪れに気づいたらしい美穂から扉越しに「志穂?」と声をかけられ、逃げることは諦めざるをえなかった。ここまで来て部屋に帰ったら、きっと変に思われる。
私はふうっと息を吐いたあと、躊躇いがちにサンルームの扉を開けた。
我が家の一階、南側に位置するサンルームは、母の自慢の一つだ。壁や柱は白く塗られ、板張りの床の上にはアンティークのテーブルセットが置かれている。部屋のそこかしこに観葉植物のグリーンがあり、ガラス窓から見える庭の風景と相まって、とても居心地の良い空間に仕上がっていた。
でも今の私には、自分一人が場違いに思えてひどく落ち着かない。
「もう、遅いよ志穂。待ちくたびれた」
「こんにちは、志穂」
大きな円形のテーブルに隣り合って座る美穂と楓馬さんが、笑顔で私を迎える。
いつからか、楓馬さんは婚約者を『美穂』と、名前で呼ぶのと同様に、私のことも『志穂』と呼ぶようになっていた。
「こんにちは、楓馬さん。待たせてごめんね、美穂」
「そこまで待ってないから、美穂の言うことは気にしなくていいよ」
楓馬さんに挨拶を返し、美穂へ謝ると、彼がすかさずフォローしてくれる。
「なによそれ。もう、楓馬くんはほんっとうに志穂に甘いんだから」
美穂はくすくすと笑って、私が運んできたワゴンから自分と彼の分のティーカップをとり、優雅な仕草で紅茶を口に運んだ。我が姉ながら、そんな姿すら一幅の絵のように品がある。
「そうかな?」
「そうだよ。それで、私には全然優しくない」
(そんなこと、ないと思うけど……)
私は二人の向かいの席に腰かけ、心の中で美穂の言葉を否定する。
だって、楓馬さんはとても優しい。まめに婚約者に会いに来てくれるし、よく美穂にプレゼントを贈っているのも知っている。しかも、婚約者へ贈るついでにその妹である私の分まで用意してくれるのだ。
勉強だって懇切丁寧に教えてくれるし、美穂と一緒に映画や食事に連れていってくれることだって……
婚約者の妹である私にさえそこまで気を遣ってくれているのだから、本命の美穂にはより心を配っているのだろう。
もっとも、美穂も本心から文句を言ったわけではないようだ。たぶん、可愛く拗ねてみせただけなのだと思う。美穂はそういう態度もよく似合った。
そんな甘え方、私にはできない。たとえしてみたところで、周りの顰蹙を買うだけだろう。
楓馬さんは、拗ねる美穂に仕方ないなあと言わんばかりの微苦笑を浮かべつつも、優しい眼差しを向けていた。ちょっと我儘なところさえ、可愛くてならないと思っていそうな顔だ。
(……本当に、絵に描いたようにお似合いの二人だなぁ……)
二人の仲の良さを見せつけられる度、胸がちくんと痛む。
いつになったら、この痛みを感じなくなるだろうか。
いつまで待てば、この想いを諦めることができるだろうか。
私の初めての恋は、そんな風に消えてなくなる日を待つばかりのものだった。
楓馬さんに、好きな人に会えるのは嬉しい。
でもやっぱり、美穂と愛し合う彼の姿を見るのは辛い。
彼に愛されている美穂が羨ましくて、妬ましくて仕方なかった。
そんな醜い感情なんて抱きたくないのに、二人を見ていると、どうしても嫉妬してしまう。
「志穂、どうしたの?」
美穂と談笑していた楓馬さんが、ふいに声をかけてくる。
暗い顔で押し黙っていたから、不審に思われたのだろう。
私は慌てて笑顔を取り繕い、「なんでもないです」と言って、自分の前にもティーカップを置いた。
「そうだ、お茶、ありがとうね。志穂の淹れてくれる紅茶はとても美味しいから、いつも楽しみにしているんだ」
楓馬さんは微笑を浮かべ、ティーカップに口をつける。
そして一口飲んでから、「うん、美味しい」と褒めてくれた。
「ほら、言ったでしょう? 楓馬くんは志穂の紅茶がお気に入りなの。もちろん私も好き」
「美穂はお茶を淹れるの下手だもんな」
「ほっといて! 私には志穂がいるからいいの!」
からかうように言う楓馬さんに、美穂はふんっと顔を背ける。
親しげな二人のやりとりにちくちくと痛む胸を誤魔化し、私は曖昧に笑って問題集を開いた。
こうなったらもう勉強に集中してしまおう。早く終わらせて、この場から逃げ出そう。
だってやっぱり、これ以上この二人と一緒にいるのは苦しいもの……
そんな風に、楓馬さんと出会ってからの日々は、叶わぬ恋に身を焦がした記憶ばかりだったように思う。三人で会うのは楽しかったけれど、同じくらい切なかった。
そういえば一度だけ、楓馬さんと二人きりの時があったっけ。
あれは私達が高校三年に進級する前、まだ肌寒い三月の始めごろのことだった。
彼とデートの約束をしていた美穂が急に体調を崩してしまい、代わりに行ってくれと頼まれたのだ。その日のデートは二人が好きなクラシックのコンサートで、せっかくとれたチケットを無駄にしたくないからと。
美穂の代わりに待ち合わせ場所に現れた私に、楓馬さんはがっかりした風も見せず、「志穂が付き合ってくれて嬉しい」と言ってくれた。
本当は美穂と来たかったろうに、彼はクラシックに不慣れな私を気遣い、解説を交えながら、初心者でも楽しめるよう気を配ってくれたのだ。
楓馬さんと一緒に素晴らしいオーケストラの演奏を鑑賞できるなんて、まるで夢みたいな時間だった。けれど、コンサートを終えて会場から出たとたん、私のお腹がぐうううっと鳴ってしまう。
「あ……」
今回のコンサートは十九時開演の二十一時終演とやや遅い時間で、夕食はこのあとに予定していたから、私はとてもお腹が空いていた。でもだからって、好きな人の前でこんな大きく鳴らなくてもいいのにと、泣きそうになる。
「ごめん、夕食を先にしておけばよかったね」
「ご、ごめんなさい」
楓馬さんが謝ってくれるのがかえって申し訳なく、恥ずかしかった。
すると彼は、突然「あっ」と声を上げて、会場近くの公園へ走っていく。
慌てて追いかけたところ、楓馬さんはそこに来ていた石焼き芋の屋台で、焼き芋を一本買っていた。
「レストランまでは少し時間がかかるからね。一緒に食べよう」
彼は熱々の焼き芋を半分に割り、片方を私に差し出す。
そうして自らも焼き芋を頬張り、笑ってこう言った。
「実は俺もお腹が空いててさ、演奏中もこっそりぐうぐう鳴らしてたんだ。気づいてた?」
「い、いえ……」
そんなこと、全然気づかなかった。
ううん。今にして思えば、あれは私の気持ちを軽くするための優しいうそだったのだろう。
高級レストランのディナー前には不似合いな、屋台の焼き芋。寒空の下、二人で半分こして頬張った温かいそれは、とても美味しかった。
未だに石焼き芋の屋台を見ると、あの夜のことを思い出す。
初めて楓馬さんを独り占めできて、嬉しかったなあ……
もしあの時、勇気を出して自分の想いを伝えていたら、もう少し違う未来になっていただろうか。
でも私は告白する勇気を持てず、さりとて想いを捨てることもできず、顔を合わせるごとに楓馬さんへの想いを募らせ、姉の婚約者に未練がましく恋心を抱き続けた。
そんな自分が嫌でたまらなかったし、これ以上美穂に嫉妬心を抱くのも苦しかったので、私は大学進学を機に実家を出て、美穂と楓馬さんの二人から距離を置くことにした。
元々、高校を卒業したら家を出ようとは思っていたのだ。私は美穂と違って、家族と上手くいっていなかったから。両親が関心を抱くのは美穂だけで、私はそのおまけみたいなもの。いてもいなくても、どうでもいい存在だった。
幼いころはそのことが悲しくて、なんとか両親の気を引こうとあがいたけれど、中学、高校時代にはそれさえ諦め、ただただ家族と離れ、一人で生きていくことばかりを考えていた。
金銭的には、恵まれていた家庭だったと思う。
暴力を振るわれたり、育児放棄をされたりしたわけでもない。
だけど、あからさまに美穂と差をつけられるのは辛かった。どうして私だけ愛されないんだろうって傷つくことに、疲れていたのだ。
双子なのに、同じ両親の娘なのに、何故こんなにも扱いが違うんだろう。そう思わない日はなかった。
そんな冷たい家の中、姉は、美穂だけは、私に優しかった。時折ある母のヒステリックな罵倒から庇ってくれたし、自分と妹の扱いに差をつける両親に文句を言ってくれたし、自分にだけ贈られるプレゼントの中から、一番素敵なものを私に譲ろうとしてくれた。
『志穂は、私の可愛い妹だよ』
何度そう言って、私を慰めてくれただろう。
家の外に親しい人――少ないながらも友達と呼べる人はできたけれど、もし美穂がいなかったら、私はあの家で強い孤独感に苛まれ、おかしくなっていたかもしれない。
でもそうやって美穂に庇われる度、両親に文句を言っても責められない姉の姿を見る度、苦しくもあった。自分がよりみじめに思えてたまらなかったのだ。姉との違いを、まざまざと見せつけられたような気になった。
そんな優しい姉にさえ醜い嫉妬心を抱いてしまう私と違って、美穂は心まで綺麗な人だった。楓馬さんが美穂を愛するのも当然だ。
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