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本編
生贄、誕生-1
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翌日、紗綾は嵐が回避できないと言った意味がよくわかった気がした。
噂というものは予測不能なものである。
どこからか生まれて、予想外の成長を見せる。そうかと思えば、いつの間にか消滅していたりもする。
最初は昨日教室に残っていた女子が十夜との関係を興味本位で問うものだったのだ。
もちろん、紗綾は知らないと答えたし、オカ研のことも話さなかった。
紗綾も香澄もきつく口止めされているからだ。
言ったところで誰も信じてくれるはずがないのだから、口にできるはずもない。
けれど、十夜を知る人間がいた。彼が魔王と呼ばれていることを上の学年にいる兄弟から聞いた人間がいてしまった。
彼の噂は決して良いものではない。実に悪名高き魔王である。
それを聞いて昨日十夜に憧れを抱いていたらしい女子も、すっかり失望し、それ以上紗綾に話しかけようともしなかった。
それでも、香澄だけはずっと側にいてくれた。
何を言われても、毅然とした態度で接していた。
その放課後、紗綾はまたオカ研の部室へと向かっていた。
嵐に言われたのだ。
そして、呼ばれていない香澄もついてきていた。嵐に今日は遠慮するようにと言われても強引に押し切ったのである。
その表情は険しい。まるで今から戦地に赴くようでもある。
「怖い顔だねぇ、田端。八千草じゃないけどさ、女の子は笑顔がいいと思うよ」
嵐は笑ってみせたが、香澄を笑わせることはできなかった。
それどころか、その表情は余計に厳しさを増したのである。
「先生、お願いですから殴らせて下さい」
拳を握り締め、香澄は言い放つ。
真っ直ぐと嵐を見据えるが、その唇は怒りに震え、本気であることが窺える。
それを察したのだろう。嵐は大慌てだ。
「いや、あのさ、それは黒羽、黒羽だって! 昨日言ったでしょ! いや、この際、八千草でもいい! あいつなら喜ぶから!」
「私は先生を殴りたい気分なんです」
「俺は可哀想な先生なの! 俺も犠牲者なの! 生贄教師なの!」
噂の中で、嵐は魔王に脅されていることになっていた。
しかし、紗綾も香澄もそれは違うと感じていた。人徳というものなのかもしれないが、女生徒達に囲まれ、同情されて喜んでいるようにも見えた。
少なくともオカ研での彼は可哀想なイケメン教師ではない。
何か事情はありそうだが、少なくとも十夜より立場が下という様子ではなかった。
「ああなるの、わかってたんですよね? 昨日の見る限り先生は全然可哀想じゃありません!」
香澄ははっきりきっぱり物を言う。
同じことを思ったとしても紗綾は同じようには言えない。
「そうかもしれないね」
「大体、先生は先生らしくないんですよ。何で先生になったんですか? 霊感商法で儲けようと思わなかったんですか?」
さすがに失礼ではないかと紗綾は思ってしまう。
そもそも、それを判断するには随分と早い気もする。
嵐も暗い表情で黙り込んでしまった。
「……就職するっていうことはさ、自分の心に嘘を吐くことだよ」
沈黙の後、嵐は言った。あまりに寂しい言葉だと紗綾は思う。
それに対して、香澄は眉を八の字にした。
「教師のくせに夢も希望もないことを言いますね。ここにどれだけ夢と希望に溢れた若者がいると思ってるんです?」
彼も決して軽々しく言っているわけではないようなのだが、進路指導には向かないだろう。
「自分の夢を叶えられる人間がどれだけいるか、知ってる? 本当に自分がなりたいものになれる人間がどれだけいるか……いや、まだわからないと思うし、わからない方が幸せなんだけど」
夢を目指す学生がいたなら、本当に失望するかもしれない。
大人としての経験談なのかもしれないが、教師という職業に就いた男が言うには不似合いだ。
「先生はなりたくて先生になったんじゃないですか?」
志すものがあったのではないかと香澄は問う。
「俺は……黒羽と一緒なんだよ。大学生の時、夢を追っていった友達がみんな夢に敗れたのを見たしね。まあ、それでも気が付いたらみんな結婚してたりして、本当の負け組はどっちかわからないけど。いや、俺は初めからそんな戦場にも立たせてもらえてないのかもね……」
なぜ、嵐がこれほどまでに悲観するのか、わからなかった。
「先生って悲しい男ですね」
「男って言うのは悲しい生き物なんだって言っておくことにするよ」
会話に入っていけないまま、紗綾は本当に生徒と教師の会話だろうかと思っていた。
きっと、嵐も、香澄もどちらも変わっているのだ。
それとも、本当におかしいのは自分の方なのか。
「本音が出るのはここでだけ。ただの恨み言だけど。まあ、矛盾してるんだよね。俺はここが好きじゃないけど、心にもないことを言わなくて済むから嫌いじゃない。別に黒羽も八千草も悪くないんだけどね……俺の心の問題だから」
オカ研の不気味な扉の前で嵐は言う。
この扉の向こうの一室にどれほどの意味があると言うのか。肝心なことはまだ話してもらっていない。
「哀れな羊なんて言ったら月舘は不安になるかな? でも、大丈夫。きっと、月舘だけは俺達と同じにはならないから」
きっと、嵐は安心させようと笑ったのだろう。
しかしながら、その笑みはあまりに寂しげだった。
それでは、きっと彼は、彼らは救われないのだ。
「さて、うちの魔王様がそろそろ苛立ってる頃かな?」
そして、魔界への扉はまた開かれた。
噂というものは予測不能なものである。
どこからか生まれて、予想外の成長を見せる。そうかと思えば、いつの間にか消滅していたりもする。
最初は昨日教室に残っていた女子が十夜との関係を興味本位で問うものだったのだ。
もちろん、紗綾は知らないと答えたし、オカ研のことも話さなかった。
紗綾も香澄もきつく口止めされているからだ。
言ったところで誰も信じてくれるはずがないのだから、口にできるはずもない。
けれど、十夜を知る人間がいた。彼が魔王と呼ばれていることを上の学年にいる兄弟から聞いた人間がいてしまった。
彼の噂は決して良いものではない。実に悪名高き魔王である。
それを聞いて昨日十夜に憧れを抱いていたらしい女子も、すっかり失望し、それ以上紗綾に話しかけようともしなかった。
それでも、香澄だけはずっと側にいてくれた。
何を言われても、毅然とした態度で接していた。
その放課後、紗綾はまたオカ研の部室へと向かっていた。
嵐に言われたのだ。
そして、呼ばれていない香澄もついてきていた。嵐に今日は遠慮するようにと言われても強引に押し切ったのである。
その表情は険しい。まるで今から戦地に赴くようでもある。
「怖い顔だねぇ、田端。八千草じゃないけどさ、女の子は笑顔がいいと思うよ」
嵐は笑ってみせたが、香澄を笑わせることはできなかった。
それどころか、その表情は余計に厳しさを増したのである。
「先生、お願いですから殴らせて下さい」
拳を握り締め、香澄は言い放つ。
真っ直ぐと嵐を見据えるが、その唇は怒りに震え、本気であることが窺える。
それを察したのだろう。嵐は大慌てだ。
「いや、あのさ、それは黒羽、黒羽だって! 昨日言ったでしょ! いや、この際、八千草でもいい! あいつなら喜ぶから!」
「私は先生を殴りたい気分なんです」
「俺は可哀想な先生なの! 俺も犠牲者なの! 生贄教師なの!」
噂の中で、嵐は魔王に脅されていることになっていた。
しかし、紗綾も香澄もそれは違うと感じていた。人徳というものなのかもしれないが、女生徒達に囲まれ、同情されて喜んでいるようにも見えた。
少なくともオカ研での彼は可哀想なイケメン教師ではない。
何か事情はありそうだが、少なくとも十夜より立場が下という様子ではなかった。
「ああなるの、わかってたんですよね? 昨日の見る限り先生は全然可哀想じゃありません!」
香澄ははっきりきっぱり物を言う。
同じことを思ったとしても紗綾は同じようには言えない。
「そうかもしれないね」
「大体、先生は先生らしくないんですよ。何で先生になったんですか? 霊感商法で儲けようと思わなかったんですか?」
さすがに失礼ではないかと紗綾は思ってしまう。
そもそも、それを判断するには随分と早い気もする。
嵐も暗い表情で黙り込んでしまった。
「……就職するっていうことはさ、自分の心に嘘を吐くことだよ」
沈黙の後、嵐は言った。あまりに寂しい言葉だと紗綾は思う。
それに対して、香澄は眉を八の字にした。
「教師のくせに夢も希望もないことを言いますね。ここにどれだけ夢と希望に溢れた若者がいると思ってるんです?」
彼も決して軽々しく言っているわけではないようなのだが、進路指導には向かないだろう。
「自分の夢を叶えられる人間がどれだけいるか、知ってる? 本当に自分がなりたいものになれる人間がどれだけいるか……いや、まだわからないと思うし、わからない方が幸せなんだけど」
夢を目指す学生がいたなら、本当に失望するかもしれない。
大人としての経験談なのかもしれないが、教師という職業に就いた男が言うには不似合いだ。
「先生はなりたくて先生になったんじゃないですか?」
志すものがあったのではないかと香澄は問う。
「俺は……黒羽と一緒なんだよ。大学生の時、夢を追っていった友達がみんな夢に敗れたのを見たしね。まあ、それでも気が付いたらみんな結婚してたりして、本当の負け組はどっちかわからないけど。いや、俺は初めからそんな戦場にも立たせてもらえてないのかもね……」
なぜ、嵐がこれほどまでに悲観するのか、わからなかった。
「先生って悲しい男ですね」
「男って言うのは悲しい生き物なんだって言っておくことにするよ」
会話に入っていけないまま、紗綾は本当に生徒と教師の会話だろうかと思っていた。
きっと、嵐も、香澄もどちらも変わっているのだ。
それとも、本当におかしいのは自分の方なのか。
「本音が出るのはここでだけ。ただの恨み言だけど。まあ、矛盾してるんだよね。俺はここが好きじゃないけど、心にもないことを言わなくて済むから嫌いじゃない。別に黒羽も八千草も悪くないんだけどね……俺の心の問題だから」
オカ研の不気味な扉の前で嵐は言う。
この扉の向こうの一室にどれほどの意味があると言うのか。肝心なことはまだ話してもらっていない。
「哀れな羊なんて言ったら月舘は不安になるかな? でも、大丈夫。きっと、月舘だけは俺達と同じにはならないから」
きっと、嵐は安心させようと笑ったのだろう。
しかしながら、その笑みはあまりに寂しげだった。
それでは、きっと彼は、彼らは救われないのだ。
「さて、うちの魔王様がそろそろ苛立ってる頃かな?」
そして、魔界への扉はまた開かれた。
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