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一章
八話 ~頭痛を抱えて~
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ディアンヌ家の浴室は一階にある使用人のと二階にある主が使うのと二つある。設備や広さに差はないが、浴槽だけはこの大きすぎる体躯に合わせて大きめにしてある。体を沈めても、全身を覆う体毛が邪魔をして肌がお湯に浸りきらないからだ。
それでもいつもならばじわりじわりと肌を刺すほどよい温度は心地よく、疲れた肉体とすり減った精神を癒やしてくれるのだが、とんでもない事実が頭を占めていてそれどころではない。
(一体どうなってるんだ・・・・・・・・・)
シャルロット王女殿下が正体を隠し、我が家の女中として雇われにきた。自分でも言っていて受け入れることができない。半ば混乱していながらサムに伝えたが、笑いとばされた。
それもそのはずだ。俺とて信じられない。浴室から出れば彼女はいなくて幻であってほしいと願っている。
(そうも言っていられないか)
現実逃避をしていてもはじまらない。いつもより早めに湯船から出て手早く支度を整えながら出た。
「おい、マリー。シャルロッ、いや女中志望の者達は? いや、おいそんなことしなくていいっ。それより、おいっ」
こちらの手にしたタオルを奪うと、まだ濡れそぼった顔と頭をゴシゴシゴシ、と優しげな手つきで拭かれる。手で払おうとするが、女だということもあって力尽くにはできない。
「既に休んでおります。勤務は明日の朝からになるので」
「な、モガ、なんだと!? おい勤務って、フガ」
「契約書には既にサインしておりますし、もう前金も払っています。本人達も了承していますし、もう使用人の部屋に荷物を運び終えたでしょう」
「な、サインだと!?」
「ええ」
「なんでだよっっ!!」
「本人達も乗り気でしたし」
「くそっ」
あまりにも性急すぎる。俺が帰宅する前か、入浴しているときか。どちらにせよ、このままにしてはおけない。使用人達が普段寝起きしているところへと進もうとするが、マリーは阻むように立ち塞がる。
「おい、マリー」
「お屋敷中を水浸しにされるおつもりですか」
拭ききれなかった尻尾や衣服を伝って床に水の通り道を形成しているのを責められつい引き下がってしまいそうになる。
「なにをしに行かれるのですか? 寝ている女性の部屋に入るのはいくら主といえど控えてください。騎士道に背く振る舞いですよ」
「いや、そうじゃないっ。今すぐたしかめないといけないだけだっ」
「明日の朝になさってください」
「待てるか!」
「どうかなさったのですか? そのように興奮なさって。いつもの旦那様ではありませんよ」
「それは――――」
「兄さんが妙に張り切っておりました。旦那様にも春が・・・・・・・・・と。それとなにか関係が?」
「・・・・・・・・・それは関係ない」
「ではあの子がなんだというのですか?」
きっとサムと同じく、マリーに伝えたところで信じないだろう。逡巡、沈黙を経て、「もういい」と頭を振って夕食を取りたい旨を伝えた。
朝になってシャルロット王女と話をするしかないと納得させるが、さっきのやりとりを踏まえれば頑なに認めないだろう。傍からすれば嘘をついているのはバレバレだというのに。
しかし、シャルロット王女が俺の屋敷にいることは皆知っているのだろうか? 陛下や殿下、親衛隊は。そもそもどうやってここに来た? 知っていなかったとすれば今頃は大変な大騒ぎだろう。なにしろ離宮へ――――
(待てよ?)
まさか、刺客に襲われたことと関係があるのではないか。そんな思考に至った。
いくらシャルロット王女とはいえ、どんな理由があるにしろ、警戒態勢にある王宮を抜けだすなんて正気の沙汰じゃない。必ず身辺警護の騎士や見張りの兵の監視を掻い潜るなんてほぼ不可能に近い。そして離宮に身を移すというタイミングで屋敷にきたのだ。
(しかし、だとしたら何故?)
様々な不可解な点が、不意に鼻腔を擽る香りで断ち消えた。
マリーとサムが運んできた兎をワインで煮込んだソテー、豆と燻製した魚・サワークリームが入ったスープの香りだ。バスケットに入ったパンもわざわざ暖めたのかほんのりと湯気が立ち上っている。
今のままでは判断材料が少なすぎる。悩んでいても答えなんて出るはずもないし、なにより空腹と疲労困憊なのだ。もやもやとした燻りを誤魔化すように、食指を伸ばす。
「マリー、サム。女中のシャル・・・・・・だが、どんな仕事をさせるつもりだ?」
「特別なことはなにも。掃除や洗濯、調理を。最初は簡単なことをさせようかと」
(簡単なこと、か)
食べながら、一国の王女が下働きをしている光景を想像する。シャルロット王女がマリーや侍女達のようにせっせと働いている姿を。ワンピースにモスリンの白い前掛けと帽子を被って、応接室で話したときと同じくキラキラ輝く笑顔の彼女を。
「・・・・・・・・・」
ダメだ。
どうしても結びつかない。高貴な身分なのだから、働いたことなど一度もないに決まっている。そもそもする必要などなかったんだ。そんな王女が傅いて働く姿など、似合うはずもない。
仕えるべき王女にそんなことをさせる、もしくはさせているのを想像しただけで忠誠心と善意がチクチクと心を苛む。
「お味がなにか?」
「ん? いや、そうじゃない」
「しかし、先程から進んでおりませんが」
そんなことはない、と半ばムキになりながらがっつくように雑にソテーを切り分け、次々と口に頬張る。
「なんだか懐かしいですね。昔の旦那様のようです」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・明日は早く出る」
王宮に行くか親衛隊に赴く。なにか情報を得られるかもしれない。そんな期待を胸に抱いて、得心がいっていない風にお互い顔を見合わせているマリーとサムを尻目に、水で強引に料理を喉へと押しこみ続ける。
それでもいつもならばじわりじわりと肌を刺すほどよい温度は心地よく、疲れた肉体とすり減った精神を癒やしてくれるのだが、とんでもない事実が頭を占めていてそれどころではない。
(一体どうなってるんだ・・・・・・・・・)
シャルロット王女殿下が正体を隠し、我が家の女中として雇われにきた。自分でも言っていて受け入れることができない。半ば混乱していながらサムに伝えたが、笑いとばされた。
それもそのはずだ。俺とて信じられない。浴室から出れば彼女はいなくて幻であってほしいと願っている。
(そうも言っていられないか)
現実逃避をしていてもはじまらない。いつもより早めに湯船から出て手早く支度を整えながら出た。
「おい、マリー。シャルロッ、いや女中志望の者達は? いや、おいそんなことしなくていいっ。それより、おいっ」
こちらの手にしたタオルを奪うと、まだ濡れそぼった顔と頭をゴシゴシゴシ、と優しげな手つきで拭かれる。手で払おうとするが、女だということもあって力尽くにはできない。
「既に休んでおります。勤務は明日の朝からになるので」
「な、モガ、なんだと!? おい勤務って、フガ」
「契約書には既にサインしておりますし、もう前金も払っています。本人達も了承していますし、もう使用人の部屋に荷物を運び終えたでしょう」
「な、サインだと!?」
「ええ」
「なんでだよっっ!!」
「本人達も乗り気でしたし」
「くそっ」
あまりにも性急すぎる。俺が帰宅する前か、入浴しているときか。どちらにせよ、このままにしてはおけない。使用人達が普段寝起きしているところへと進もうとするが、マリーは阻むように立ち塞がる。
「おい、マリー」
「お屋敷中を水浸しにされるおつもりですか」
拭ききれなかった尻尾や衣服を伝って床に水の通り道を形成しているのを責められつい引き下がってしまいそうになる。
「なにをしに行かれるのですか? 寝ている女性の部屋に入るのはいくら主といえど控えてください。騎士道に背く振る舞いですよ」
「いや、そうじゃないっ。今すぐたしかめないといけないだけだっ」
「明日の朝になさってください」
「待てるか!」
「どうかなさったのですか? そのように興奮なさって。いつもの旦那様ではありませんよ」
「それは――――」
「兄さんが妙に張り切っておりました。旦那様にも春が・・・・・・・・・と。それとなにか関係が?」
「・・・・・・・・・それは関係ない」
「ではあの子がなんだというのですか?」
きっとサムと同じく、マリーに伝えたところで信じないだろう。逡巡、沈黙を経て、「もういい」と頭を振って夕食を取りたい旨を伝えた。
朝になってシャルロット王女と話をするしかないと納得させるが、さっきのやりとりを踏まえれば頑なに認めないだろう。傍からすれば嘘をついているのはバレバレだというのに。
しかし、シャルロット王女が俺の屋敷にいることは皆知っているのだろうか? 陛下や殿下、親衛隊は。そもそもどうやってここに来た? 知っていなかったとすれば今頃は大変な大騒ぎだろう。なにしろ離宮へ――――
(待てよ?)
まさか、刺客に襲われたことと関係があるのではないか。そんな思考に至った。
いくらシャルロット王女とはいえ、どんな理由があるにしろ、警戒態勢にある王宮を抜けだすなんて正気の沙汰じゃない。必ず身辺警護の騎士や見張りの兵の監視を掻い潜るなんてほぼ不可能に近い。そして離宮に身を移すというタイミングで屋敷にきたのだ。
(しかし、だとしたら何故?)
様々な不可解な点が、不意に鼻腔を擽る香りで断ち消えた。
マリーとサムが運んできた兎をワインで煮込んだソテー、豆と燻製した魚・サワークリームが入ったスープの香りだ。バスケットに入ったパンもわざわざ暖めたのかほんのりと湯気が立ち上っている。
今のままでは判断材料が少なすぎる。悩んでいても答えなんて出るはずもないし、なにより空腹と疲労困憊なのだ。もやもやとした燻りを誤魔化すように、食指を伸ばす。
「マリー、サム。女中のシャル・・・・・・だが、どんな仕事をさせるつもりだ?」
「特別なことはなにも。掃除や洗濯、調理を。最初は簡単なことをさせようかと」
(簡単なこと、か)
食べながら、一国の王女が下働きをしている光景を想像する。シャルロット王女がマリーや侍女達のようにせっせと働いている姿を。ワンピースにモスリンの白い前掛けと帽子を被って、応接室で話したときと同じくキラキラ輝く笑顔の彼女を。
「・・・・・・・・・」
ダメだ。
どうしても結びつかない。高貴な身分なのだから、働いたことなど一度もないに決まっている。そもそもする必要などなかったんだ。そんな王女が傅いて働く姿など、似合うはずもない。
仕えるべき王女にそんなことをさせる、もしくはさせているのを想像しただけで忠誠心と善意がチクチクと心を苛む。
「お味がなにか?」
「ん? いや、そうじゃない」
「しかし、先程から進んでおりませんが」
そんなことはない、と半ばムキになりながらがっつくように雑にソテーを切り分け、次々と口に頬張る。
「なんだか懐かしいですね。昔の旦那様のようです」
「・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・明日は早く出る」
王宮に行くか親衛隊に赴く。なにか情報を得られるかもしれない。そんな期待を胸に抱いて、得心がいっていない風にお互い顔を見合わせているマリーとサムを尻目に、水で強引に料理を喉へと押しこみ続ける。
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