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第31話 アムリタ

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「紀元前、遥か昔、古代インドにナーガと呼ばれる民族がいた」

 黒板に次々と文字が書き足されていく。

「彼らは当時でも最先端の技術力を持っており、物によっては、現代の科学をも凌ぐオーバーテクノロジーを有していた。空を飛ぶ兵器、一瞬で空間を飛び越える道具……様々な技術がある中で、特に画期的な発明が、『アムリタ』だった」
「アムリタ」
「霊酒。冷えたお酒のことじゃないわよ」

 と、巴は漢字二文字を黒板に写す。

「このアムリタは、人間の体の構成を作り変える。骨格から筋組織、果てはDNAまで。その結果出来上がるのは、不老の肉体。半永久的な生命」
「冗談、よね? おばさん」
「おばさん、じゃなくて、巴さん。ここへ来て冗談なんて言ってる余裕あると思う?」

 蓮実は首を左右に振った。

「でも、蓮実ちゃん。重要なのは不老長寿のことじゃない。それは結局、ナーガ族にとって想定していた効果であり、驚くようなことではなかった。一番予想外だったのは、肉体の強化」

 肉体の強化、と聞いて、蓮実は夜刀神達の闘い方を思い出した。あの人間離れした戦闘力は、まさか。

「実際に目の当たりにしたようね。なら、話は早いわ。アムリタを飲んだ人間は、想像を絶する激痛と共に、肉体の構造を作り変えられる。そうして出来上がるのが、常人の何倍もの力を持つ、超人」

 黒板にチョークを打ちつけるのを止め、巴は蓮実の方を振り返った。

「夜刀神の一族は、インドの地を追われたナーガ族が、南洋を経由して日本に渡ってきた――その末裔。だから、当然、アムリタも所持している。だから、自分達の身を守るため、飲んでいた。そうやって不老と強靭さを兼ね備えた肉体を手に入れていた」
「だけど、朝廷によって駆逐され、自分達の土地から追い出された……」
「なんてことはない。朝廷は土地が欲しかったわけじゃない。彼らが新天地で量産していた、アムリタを、奪いたかっただけ。そのアムリタを生産していたのが」
「夜刀神伝説に出てくる、椎井の池!?」
「最初に彼らと一戦を交えた麻多智は、一族の裏切り者から手に入れたアムリタを服用していた。おかげで互角の戦闘力を持っていた。その上に、彼は闘いの天才だった。だから彼らを山へと追い払った」
「その次に襲ってきた壬生連麿は……?」
「彼もまたアムリタを独占したいと画策していた。だけど、夜刀神との激戦の中で、椎井の池は焼き払われ、夜刀神を追放することには成功したけれど、結局望みの物は手に入らなかった」
「えっと、あの……ごめんなさい、おば――巴さん。頭が混乱して」

 どんどん時代が飛んでいく話に、頭がついてこない。ナーガのことですらピンと来ていないのに、この上アムリタがどうの、椎井の池がどうのと言われても、まるで実感が湧いてこない。

 ただひとつだけ、ここへ来る前から抱いていた疑問が、胸の内でまた大きく膨らんできた。

「それで……玉造の地から逃げ出した夜刀神達は、どこへ行ったの」
「北海道よ」

 巴は黒板に簡単な日本地図を描く。大雑把に線を引いただけの北海道、その最北部に点を打つ。

「カムイコタン。今すぐの失地回復は難しいと判断した女王は、占い師の言葉に従い、この地で長い眠りにつくことにした。能力と技術を結晶させてのコールドスリープ。目覚めるのが何百年後か、何千年後か、誰にもわからなかったけど、次に起きる時こそが占いで告げられた、自分達の土地を取り戻す好機。そう信じていた」

 と、東北地方の宮城県のあたりにも、点を打つ。

「一方で、北海道まで行かず、途中の地で安息を図った者達もいた。土着の民の信仰と混じり合いながら、いつしか彼らはアラハバキと呼ばれるようになっていった」

 そこで巴は小さく笑みを浮かべた。

「私は、アラハバキの女王の、血を引くの」
「!?」

 蓮実は言葉を失った。これで、今まで自分が信じてきた世界観を覆されるのは、何度目だろう。気さくで明るくて、母というよりは姉のように接してくれていた巴が、まさか夜刀神の歴史にとって重要かつイレギュラーな存在だったとは。

「私達アラハバキは、もう争いは嫌だった。それが現在の穏健派の源流。長い時間をかけていく中で、いつしか朝廷に対する憎しみも忘れていった。だけど、北海道まで行った一族は、自らが作り出した氷の中に閉じこもりながら、千四百年前と変わらない負の感情を現代へと持ち越してしまった」
「それが、今の、夜刀神の主戦派」
「彼らを目覚めさせたのは、ある一人の男」

 巴は一度言葉を切り、正面から蓮実の目を見据える。次に来るひと言が重要なものであると、なんとなく、蓮実は予感していた。

「長峯俊介。俊雄さんの兄であり――あなたのお父さん」

 そして、と巴は語を継ぐ。

「ナーガ族の末裔にして、夜刀神の女王、〝ヴィーナ〟と恋に落ち、妻とした男」

 黒板を向き、四桁の数字を書く。年号だ。一九六九年、と書かれている。

「全共闘による安田講堂占拠があった一月十八日、あなたのお父さんは、俊雄さんを連れて、ある目的のために北海道へ向かっていた――」
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