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第25話 電車内の死闘

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 ヤンはゆっくりと前へ歩を進める。涼夜もまた一歩一歩進んでいく。車両の中央で、両者は対峙した。涼夜の背は一七〇センチほど、ヤンはそれよりもさらに十五センチほど高い。ヤンの放つ異様な殺気と圧迫感を前に、蓮実はその場から逃げられずにいる。

「無駄なことに手間をかけるな。そいつの利用価値を知らんわけでもあるまい」

 ヤンが口を開いた。顔は笑っているが、サングラスに隠されて、どんな目をしているのかまるで見えない。

「人のことを道具扱いするような人間にはなりたくない」
「だがこのままではお前の生きる場所はなくなる」
「人を不幸にして生きるよりは、あえて困難な道を選ぶ」
「無理だな」
「それでも僕は耐えるさ」
「出来ないことで強がるな。生きてそいつをよこすか、死んで奪われるか、二つにひとつ。お前に、お前の望むような選択肢があると思うな」

 車中に響く二人の会話を聞きながら、そろそろ乗客も不穏な空気を察知してきたらしい。距離を置いて、様子を見守り始める。

 電車は新宿駅に到着した。ドアが開き、乗客がぞろぞろと入ってくる。車両の真ん中で突っ立ているヤンと涼夜を邪魔そうに睨みながら、空いてる席へと座っていく。

「邪魔なんすけど」

 ニット帽をかぶった高校生くらいの少年が、ドン、とヤンにぶつかってきた。が、体格のいいヤンは微動だにしない。

「おい、オッサン」

 ニット帽の少年は目を剥いて、ヤンにメンチを切った。ヤンは少年を見ることもなく、涼夜に目を向けたまま、口の端を歪めた。

「日本鬼子《リーベンクイツ》」
「あ、なんて……?」

 ヤンの手が伸び、少年の首を掴む。「ぐぇ」と声を上げる少年。ヤンは手に力を込め始めた。少年の首がビキビキと鳴る。少年の顔がどす黒く膨れ上がってくる。

「やめろ!」

 涼夜は飛びかかろうとした。

 ゴキン、と骨の折れる音が車内に響く。

「きゃあああああ!」

 女性の乗客が悲鳴を上げた。

「死ね」

 ヤンは首の折れ曲がった少年を持ち上げ、周りの乗客をなぎ倒しながら、少年の死体を涼夜に叩きつける。ガードの体勢のまま吹っ飛ばされた涼夜は、窓ガラスへと叩きつけられた後、座っていた老人客の膝の上へと落ちた。

 すかさずヤンは蹴りを放つ。涼夜は本能で攻撃を避けたが、それがいけなかった。ヤンの蹴りは外れたが、そこにいた老人客の顔面に炸裂した。老人は叫ぶ暇もなかった。肉と頭蓋骨の潰れる音がし、頭部が粉砕された。窓に血肉が飛散する。

 乗客たちは絶叫を上げ、次々と電車から飛び出していく。あっという間に車内から誰もいなくなった。

「なんてことを……!」
「逃走方法に電車を選んだのが失敗だったな」

 ヤンは手すりを掴む。革のジャケットの上からでもわかるほど、上腕の筋肉が盛り上がる。金属の引きちぎれる音とともに、手すりが切り離された。

 甲高い気合を上げ、ヤンは鉄棒を振り回して、涼夜に襲いかかる。

 頭部を狙った鉄棒の一撃を、涼夜は身を低くしてかわす。と同時に、相手の懐目がけて飛び込んでいく。ヤンはすでに待ち構えており、無防備に突進してきた涼夜のみぞおちを狙って蹴りを放った。が、涼夜の姿が消えた。

「後ろか!」

 ヤンは振り返りざまに鉄棒を豪快に振り抜く。猛スピードでヤンの背後に回っていた涼夜は、なんとかガードの姿勢は取っていたが、避けるまでには至らない。防御の腕に、まともに鉄棒の一撃を喰らい、また窓まで吹き飛ばされた。

「……っ!?」

 苦悶の表情とともに崩れ落ちる涼夜に向かって、ヤンは鉄棒を突き刺そうとする。引きちぎられた突端はギザギザに尖っている。あんなもので貫かれたらひとたまりもない。

「やめて!」

 蓮実は悲鳴を上げた。

 ヤンは構わず、鉄棒によるひと突きを繰り出す。

 が、目前まで迫った鉄棒を、すんでのところで、涼夜は強引に掴んだ。胸部に突き刺さる寸前で、鉄棒は止まる。しかし、ヤンのほうがパワーがあるのか、徐々に涼夜は押されていく。

(このままだと、桐江君が、殺されちゃう)

 蓮実は勇気を出して、立ち上がった。力比べになっているいまの状況なら、自分でもヤンの動きを邪魔することくらいは出来る、と思った。

「あああああ!」

 叫びながら蓮実は駆け出した。それは無謀な突進だった。

 ヤンは目線を走らせると、すかさず足刀を突き出した。当たりこそしなかったが、蓮実の鼻先に、足の裏が迫った。蓮実はびっくりしてバランスを崩し、尻餅をついた。だが、ヤンに、一瞬の隙が生じた。

 涼夜はチャンスを見逃さなかった。ヤンの力が緩んだところを狙って、鉄棒を上手にいなして、自分の脇へと力の方向をそらしてやる。尖った先端は、座席の背もたれに突き刺さった。

「ぬ!」

 ヤンは鉄棒から手を離し、涼夜との距離を置こうとする。

 が、すでに涼夜は間合を詰めて、跳び上がっていた。ヤンの顎に、膝蹴りを叩き込む。ヤンは宙に浮いた。さらに涼夜は渾身の力で、相手の腹部に右ストレートを叩き込んだ。

「ぐ、むぅ!」

 さすがにヤンも耐えられず、吹っ飛ばされた体は窓ガラスを突き破って、ホームへと弾き出された。外で様子を見ていた野次馬達が、飛んできたヤンに驚き、悲鳴を上げて散っていく。

「やるな、涼夜! だが、まだこれからだ!」

 それでもヤンは楽しげに笑っている。身を起こし、再び電車の中へと戻ろうとした。

 不意に、その前に、白髪の男性が立った。蓮実の側からは後ろ姿しか見えないが、老人だとわかった。もしかしたら先日マンションを訪ねてきたあの老人かと思ったが、アマツイクサではなさそうだし、髪も長めなので、別人のようだ。

「霧島、邪魔をするな。ここからが本番なんだぞ」
「目立ちすぎだ、ヤン。アマツイクサだけではない、穏健派の連中もこちらへ向かっておる。いくらお前でも、全員を相手ではちと不利だろう」
「俺は問題ない」
「わしらに問題がある。撤収だ」

 しばらくヤンは霧島と呼んだ老人を睨んでいたが、やがて舌打ちをした。

「わかった。ここは退こう」

 言うやいなや、老人とともにホームを駆けて、どこかへ去っていってしまった。
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