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第16話 死地

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「叔父……さ……」

 歯の根が合わない。

 腰が砕けるとはこういう状態なのかと、早くこの場から離れないとと焦っているのに、体が全く反応しない状態に、ますますパニックが激しくなってくる。

 一方で、すぐに動けないことが、かえって自分の身を救ったのでは、と蓮実は考えた。車が爆発し、叔父はバラバラに吹き飛んで、死んだ。自分の車も同じように仕掛けが施されている可能性がある。さっきはあと少しでドアを開けるところだったが、もしかしたら間一髪だったのかもしれない。

 とにかく同じ所に留まっているわけにはいかない。

 腹這いになり、匍匐前進で自分の車から離れていく。無防備に全身を晒すことを恐れて、山のほうへと寄り、なるべく死角を無くす。かがんだ状態のまま、山肌に背中をもたれかけた。遮蔽物となりそうな草むらや林は、反対側、神社のある小山のほうにしかないが、そこへ行くまで道を横断しなければならない。何が起きるかわからないこの状況で、その行動を取る勇気は、蓮実にはなかった。

 首を横に向ける。叔父の車はまだ燃えている。千切れ飛んだ叔父の頭部も見える。地面に広がる血溜まりが、否応無しにこれが現実の光景であることを思い知らせる。

 正面に向き直る。草むらまで走って二秒ほど。さらに進めば、小山の中へと逃げ込める。自分がいま寄っている山肌は崖のように急斜面で、とても登れない。

 二秒。たった二秒で安全圏に入れる。だけど、その二秒は長過ぎる。

 叔父は戦争が始まったと言っていた。冗談か比喩だと思っていた。だけど叔父の爆死した様は、まさしく戦争と呼ぶ以外に言い表せる言葉が見当たらない。

 ほんのちょっと車から離れている間に、爆弾のようなものを仕掛けられた。ということは、下手人は、いまだ近くに潜んでいる可能性が高い。

 山を背にしてから十秒ほど経過した。攻撃される気配はない。あるいは思い過ごしで、爆弾を仕掛けた犯人はどこかへ去っていったのか。

「なんだね、これは!」

 誰かが叫んだ。叔父の車の近くからだ。見ると、腹の出た中年男性が、目を丸くして呆然と突っ立っている。頭にタオルを巻き、土で汚れた白いシャツにジーンズという格好からして、地元の農家の人だろう。爆発音を聞きつけて、寄ってきたに違いない。

 中年男性は、蓮実に目を向けると、ハッとした顔になった。

「あ、あんた、大丈夫か!?」

 声をかけ、近付こうとする。

 銃声が響く。

 中年男性の頭部が弾け、破れたタオルと血肉が、飛び散った。

 頭の三分の一を失った男性は、自分が死んだことも理解する間もなかったであろう、ぎょろんと白目を剥き、力を失って、膝から崩れ落ちた。

「う……うう」

 こみ上げる吐き気と嗚咽を、懸命に堪える。ここでもどしたり、泣いたりしている暇はない。ただの農家の人が殺された。その一事をもってしても、いま異常な事態に巻き込まれていることがわかる。

 恐れから来る妄想ではなかった。考え過ぎということはない。ここは戦場だ。僅かな油断が命取りとなる。

 当面の問題は、ここからどうやって逃げるか、だ。

 さっきから狙い撃ちにされていないところを考慮に入れると、自分がいまいる位置は、ちょうど相手からは死角になっているらしい。でなければ、あの農家の人のようにすでに殺されているはずだ。となると、ここで待機しているのが最も安全、ということになる。

 しかし、相手も移動をするに違いない。刻一刻と、セーフティゾーンは変化していく。誰かが助けに来るまで待ち続けるのも愚かな話だ。

 深呼吸する。とにかくパニックを抑えないことには何も出来ない。

 震える手でポケットから携帯電話を取り出す。自分の現在位置を調べれば、何か手立てを講じることが出来るかもしれない、と考えた。

 電波強度のせいか、動作が重い。なかなか地図が出てこない。もどかしい思いをしつつも、少しずつ画面に表示される衛星写真を凝視する。

 やっと地図が出てきた。写真なので、地形までよくわかる。

 叔父の車がある方へ行けば、元来た道へと戻れる。が、そちらは狙撃されてしまう。一方で、谷のさらに奥へ行けば、T字路にぶつかる。そこから右へ曲がれば農地へ、左へ曲がれば市街地へ出られる。実際に見る限り、森に囲まれた鬱蒼とした道に入るようで、何が潜んでいるかわからない以上気は引けるものの、裏を返せば遮蔽物が多いということにもなるので、いざとなればなんとかなるかもしれない。と蓮実は踏んだ。

 賭けだった。けれども、叔父の車の方向へ逃げるのは選択肢としてありえないから、必然的に道はひとつに絞られる。

 唯一選ばなければいけないのは、T字路に辿り着いてからどちらへ逃げるか、ということだが、それも考えるまでもない。右に曲がると長い森の道を通過しなければならない上に、森を抜け出ると田んぼが広がっている。いくらでも狙ってくださいと言っているようなものだ。それに対して左の道は、右の道と比べて半分ほどの距離で森を抜け出ることが出来、さらに民家が密集している所へと出られる。もっと進めば国道もある。

 呼吸を整え、覚悟を決める。

 立ち上がる。膝が震えているが、なんとか足は動かせそうだ。

「――!」

 蓮実はグッと歯を噛み締め、地面を力いっぱい蹴り、走り始めた。
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