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1巻
1-2
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――そんなの、絶対に嫌っ!
自分がビッチになるのも怖いけれど、何よりそのきっかけとなるアーヴィンから犯されることが恐ろしい。
できれば婚約を解消したいが、彼との婚姻は政略的なものに他ならない。一旦取り決められた婚約を覆すことは、王族からでなければ難しい。
――もしかしてもしかすると、私、かなり詰んでいるかも?
と思うけれどティーリアはまだ十歳でしかない。意地悪なアーヴィンはヤンデレの片鱗を見せているけれど、彼だって十二歳の少年だ。
今から矯正すれば、病み具合も変わるかもしれない。
「うん……そうよ、きっとまだ間に合うはず」
前世でも、困難なことがあっても乗り越えてきた。まだゲームのシナリオ通りに進むとは限らない……と思いたい。
子どもの手を伸ばして開く。可愛らしくて、小さな指をしている。これまではただのか弱い公爵令嬢だったけれど、前世の知識があればきっと変えられる。
ティーリアは決意も新たにぐっと手を握りしめた。
以前のティーリアは俯きがちで弱気な少女だった。それがどうして淫乱な悪役令嬢になるのか不思議だけれど、きっと魅惑的な身体つきが災いしたのだろう。
将来の破滅回避を目的として、まずは――体力をつけよう。
なぜならアーヴィンは、ティーリアが涙目になって許しを請う姿を楽しんでいた。きっとそこから性癖が開花してヤンデレになるに違いない。
――でも体力があれば、弱った姿を見せることもないわ!
ティーリアは朝起きると共にストレッチをして、走り込みを始めた。
これまで碌な運動をしていなかった身体は、すぐに音を上げるけれど、社畜だった記憶と根性がそれを凌駕する。
「ティーリア……あなた、そんなに身体を動かすことが好きだったの?」
「ええ、お母様! お母様も一緒に走りましょう! もっと太陽を浴びる方が気持ちいいですよ」
淑女の鑑のような母は呆れた顔をして嘆息する。
娘の変化が信じられない様子だったけれど、アーヴィンと追いかけっこをするためだと言われると納得していた。
ティーリアが破滅すると共に、エヴァンス公爵一家も没落するに違いない。
その辺りは詳しく描かれてなかったけれど、令嬢が捕まって実家がお咎めなしとは思えない。
優しい母も、厳しいけれど愛情深い父も、まだ生まれたばかりの小さな弟も守りたい。ティーリアは公爵令嬢としての嗜みを身に着けながらも、運動を怠らなかった。
――健康な生活は、丈夫な身体から!
明るくなったティーリアは、周囲を知らず知らずのうちに巻き込んでいた。
「……ティーリア、大丈夫か?」
「はいっ、もうすっかり元気になりました!」
「でも、この前倒れたばかりだよね」
「大丈夫です!」
ぱぁっと花が咲いたように笑顔を返すティーリアを見て、アーヴィンは一瞬うっと唸ると目を逸らした。
前回のお茶会の時に倒れたティーリアの見舞いに来た彼は、公爵家の応接室に座る彼女を見てボソッと呟く。
「可愛いな……」
「どうしましたか?」
「ううん、なんでもない」
照れたように頭をかいたアーヴィンは、持ってきた薔薇の花束をティーリアに差し出した。
「これ、ただの花だけど……受け取ってほしい」
「わぁ、嬉しいです! 早速私の部屋に飾っておきますね」
「……本当に、ティーリアなのか?」
「はい?」
努めて明るく振る舞う彼女を見て、アーヴィンは首を傾げた。
確かに以前のティーリアは、はにかんだ笑顔しかしなかったから、別人のように見えるのだろう。
「どこか、頭を打っておかしくなったとか」
まさか、前世を思い出したからこうなっています、なんて言えない。
言ったらそれこそ、頭を打っておかしくなった令嬢と見なされるだろう。それはそれで悲しい。
「違います」
はっきりと否定すると、アーヴィンはさらに眉をひそめた。
これまでのティーリアは、アーヴィンが何を言っても「はい」としか答えないお人形のような――貞淑な少女だった。
今までとは違うティーリアの態度に、アーヴィンは戸惑っている。
「倒れてわかったんです。もっと身体を丈夫にしないといけないなって。アーヴィン様も言ってたではないですか。そんなことでは王子妃なんて務まらないって」
「いや、それは単にティーリアを困らせ……いや、うん」
ティーリアは言いよどんだアーヴィンに近寄ると、彼の手を両手で握りしめた。
「アーヴィン様。一緒に走りましょう!」
「は?」
「これからは、追いかけっこをしても捕まらないように頑張ります!」
「いや、そこまでしなくても」
「今から運動しやすい服に着替えてきますので、お待ちください!」
では、失礼しますと言って部屋を出ていくティーリアを見るアーヴィンは、口をポカンと開けていた。
アーヴィン・ケインズワースは将来、希代の魔道騎士になる。攻撃魔法だけでなく騎士としても優秀な彼の身体能力はもちろん高い。
少年であっても護衛騎士に教えを乞い、毎朝の訓練を欠かすことはない。
これまで運動に縁のなかったティーリアがどれだけ頑張っても、追いつけるものではなかった。
「はぁ、はぁ……アーヴィン様、待って」
「なんだ、もう音を上げたのか?」
「いえ……ちょっと、水を飲みたくて」
「わかった、休憩しよう」
広い公爵家の庭園を走っただけで息が上がっている。気合はあっても身体は追いつかなかった。
屋根のあるガゼボに手を引かれて歩いていく。
ティーリアが座るとアーヴィンは手を上げて侍女を呼び、水を持ってくるように頼んだ。
「あ、ついでに塩と砂糖もお願いします」
「塩と砂糖?」
「はい、水に混ぜて一緒に取る方が熱中症の予防になるので」
「……熱中症?」
――しまった。つい漏らしてしまったけれど、この世界では使われていない言葉だ。
ティーリアは目を泳がせて、「あわわ」と慌てて口を押さえた。
訝しむアーヴィンにこれ以上疑われないように、「本で読みました」と答えておく。
――前世で読んだ知識だから、嘘にはならないよね……
ちらりと上目遣いになって説明する。
「急に運動をして、水分が足りなくなり倒れてしまうのことを指す言葉のようです。その予防に、水にちょこっとだけ塩と砂糖を入れるといいって読みました」
「なるほど。ティーリアがこの前倒れたのはその……熱中症だったのか?」
「そうかもしれません」
違うけど、そういうことにしておこう。
侍女が急いで持ってきた水差しに目分量で塩と砂糖を入れて混ぜる。正しい割合があったけれど、さすがにそこまで覚えていなかったので、適当に摘まんだ。
「こんな感じかな」
水に溶けきったところで器に入れて口をつけた。甘じょっぱい水は美味しいものではないけれど、身体が必要としているのか喉に心地いい。
飲み終えたところでアーヴィンを見ると、彼もそれを口に含んでいた。
「不思議な味だが、身体が喜んでいるようだ。ティーリアは珍しいことを知っているんだな」
「いえ、ちょっと……興味深い本だったから」
どんな本だと聞かれると厄介だなぁと思いつつも、アーヴィンはそれ以上問い詰めることはなかった。
休んだらまた運動しましょう! と誘うと彼は目を丸くしてティーリアを見つめる。
「ティーリアは……身体を動かすことが好きになったのか?」
「はいっ、やっぱり健康な身体には、健康な魂が宿りますから!」
「ははっ、そうか……健康な魂、ねぇ」
「ええ、アーヴィン様も運動を好きになって、爽やかな人になってください!」
彼はもう十分鍛えているけれど、ティーリアが目指してほしいのはヤンデレ王子ではない。
清廉潔白で生真面目な王子様とは言わずとも、いわゆる一般的な嗜好を持つ人物になってほしい。
とにかく婚約者であるティーリアを、その意に反して犯すような人物には育ってほしくない。
「爽やかな人……か」
「はいっ!」
ティーリアは漆黒の目を輝かせると、アーヴィンの紺碧の瞳を見上げた。
期待の眼差しを受けた彼は、少しだけ唇をひくりとさせたけれど――何かを覚悟したようにキュッと口を引き締める。
「わかった、努力してみるよ」
目を細めて微笑む彼を見て――ティーリアの胸はひと際高く鼓動する。
爽やかな風が二人の間に吹き、さぁっと通り過ぎていった。髪を高い位置でひとくくりにしていたティーリアの髪が揺れ、顔に張りついてしまう。
「髪、ついているよ」
手を伸ばしたアーヴィンはその髪を顔からはがす。
彼の射貫くような瞳は、ティーリアの胸を確実に撃ち抜いた。
――やっぱり、かっこいい!
彼は絶大な人気のあった攻略対象だ。もちろん前世のティーリアにとっても、一番の『推し』は彼だった。
とにかく顔も身体も声も匂いも全てが好みだ。そんな彼を間近に見ることができて――ティーリアは恋をせずにはいられなかった。
それからは二人で会う時は必ずと言っていいほど、運動をするようになった。
アーヴィンが一方的に追いかけるのではなく、体力差に合わせて工夫をした追いかけっこを提案した。
毎日の運動のおかげで体力がついたティーリアは、時には彼に追いつき、さらに筋力トレーニングを一緒にする。
二年も経つと、まるで専属トレーナーになった気持ちでアーヴィンを励ました。
「はいっ! あとちょっと! 頑張って」
「はっ、はっ……はっ」
「そうです! 凄い! 新記録だよ!」
片手腕立て伏せにスクワット、時間を測って集中的に筋肉を鍛え、高たんぱく質の食事にビタミンたっぷりの特製ジュースを渡す。
アーヴィンはティーリアの予想以上に身体を鍛えるようになっていた。
――私、前世でもこんなことしていたのかなぁ……
はっきりと思い出せないけれど、学生の頃は運動部のマネージャーをしていたような気がする。スコアを記録して、部員の筋トレを励ますのが好きだったのかもしれない。
それにアーヴィンは褒めれば褒めるほど、ティーリアの期待に添って記録を伸ばしていく。さらに比例するように、彼の性格は明るくなっていた。
意地悪な顔を見せなくなり、周囲からは『爽やか王子』と呼ばれるほど朗らかに笑って受け答えをする。
――このままいけば、病むことはないのかも!
とにかく彼がヤンデレ化することだけは避けたい。
ティーリアは彼が闇に呑まれそうな要因を徹底的に洗い出していた。
まず、母親からの愛情不足が考えられる。彼の母親は現王妃だけれど、彼女はいい意味でも悪い意味でも、王妃らしい方だ。
第二王子には特別に目をかけることもなく、子育ては乳母や侍女達に任せきりにしていた。そして王太子であるジュストーを格別に可愛がっている。
そのせいなのか、アーヴィンは兄である彼とそれほど交流をしていない。
この前もたまたま王宮ですれ違ったけれど、ジュストーは挨拶もせず通り過ぎていった。
さらに残念なことに、親代わりをしていたアーヴィンの乳母はもう既に王宮にいない。彼が幼少時に辞めてしまっていた。
――やっぱり、王妃様よねぇ……
アーヴィンに笑いかけることもなく、淡々とした会話しかしていない。かといって全く愛情がないわけではなく、単に彼の中の何かを恐れている様子だった。
ティーリアはいつものようにトレーニングをしている時に、それとなく聞いてみた。
「ねぇねぇ、アーヴィン様は王妃様にお会いにならないの?」
「母上か? 用があれば会うけれど……それがどうかしたか?」
「う、ううん。ただ、あまりお会いしていない気がして」
アーヴィンは腕立て伏せをしているが、負荷をかけるためにティーリアを背中に横座りさせていた。
十二歳になり背も伸びた彼女をのせても、平気な顔で肘を曲げては伸ばしている。
「母上は忙しい方だからな」
「でも、慰問に行く時間があるなら、アーヴィン様と話をしてもいいんじゃないかなって」
「……今さら、必要ないよ」
「そんなことないよ!」
勢い良く彼の顔の方を見ると、反動がついたのか「うぐっ」と呻いたアーヴィンはぺしゃりと肘を伸ばし、腹ばいになってしまう。
「あっ、ご、ごめん」
「……いや、いい。大丈夫だ」
潰れたヒキガエルのような姿をしているのに、平気だと強がっている。
前世の人生を含めると年上になるティーリアは、いきがっている彼を見るとつい、可愛らしいと思ってしまう。
そっと背中から降りたティーリアは、アーヴィンの黄金のように輝く髪を手で梳きながら、頭を撫でる。
――そういえば、もうすぐ誕生日だったよね……
いいことを思いついたとばかりに、ティーリアは手をぽんと叩く。いきなり目をキラキラとさせた彼女を見て、アーヴィンは胸に一抹の不安を覚え眉根を寄せた。
「君がそうした顔をする時は、大抵とんでもないことをするんだよな……」
「え? 何か言った?」
「……いや、なんでもない」
頭を左右に振った彼は、再び腕立て伏せをする姿勢となる。
「今度は片手でやるから、背中に乗って数えて」
「はいっ!」
ティーリアは元気良く返事をすると、さっきと同じように彼の背中に座る。「一……二……」と声を出しながら時折「がんばって!」と声援を送る。
その日も筋肉を鍛えたアーヴィンは、水を頭からかぶる。髪に残る水滴が太陽の光に反射してキラキラと輝く中、白い歯を出して笑顔を見せた。
――うん、やっぱり病んでいない!
今日も彼の輝くように爽やかな笑顔を見たティーリアは、満足そうに頷いた。
その顔を見たアーヴィンがポツリと「ま、俺のことしか考えてないなら、いいんだけどね」と呟いた声を、ティーリアが拾うことはなかった。
今日もアーヴィンは腹筋を鍛えるために、上体起こしをしている。ティーリアは足が動かないように押さえていた。
「ね、アーヴィン様。今日はこの後で良かったら、お茶しませんか?」
「あ、ああ」
「今日は私、アーヴィン様のお誕生日だから頑張ってクッキーを焼いてきたんです!」
「ああ……って、あぁ?」
貴族が台所に立つのは避けるべきとされていた。使用人達の仕事を奪うような真似をしてはいけない、というのがその理由だったが、形骸化した今でも常識として残っている。
なぜなら高位貴族になればなるほど、家事労働をしないことが品位を示すものだと思われていた。
そのためティーリアは台所に立つことを控えていたけれど、アーヴィンの誕生日には何かプレゼントをしたい。
そこで前世での趣味だったお菓子作りを思い出してクッキーを焼いてみたところ、屋敷の使用人達を驚かせる出来栄えとなった。
アーヴィンも思わず目を丸くして身体の動きを止める。
「焼いたって、ティーリアが焼いたのか?」
「ええ、そうよ」
「……どうして?」
「どうしてって。一度焼いてみたかったし、アーヴィン様にプレゼントしたくって」
キョトンと首を傾げたティーリアを見た彼は、ぶわっと顔を赤らめた。ずっと上体を起こしていたためか、「もうダメだ。可愛すぎる」と呟いた途端、ばたりと仰向けに倒れてしまう。
「あれ、今日はもう終わりなの?」
「……そうする。今すぐクッキーが食べたい」
「そんなに急がなくても、着替えてからにしてね。王宮の薔薇園にあるガゼボに準備してあるの」
くすりと笑ったティーリアは、アーヴィンの腹部に手を伸ばした。
最近、彼の腹筋が割れてきてくっきりと筋がついている。服の上からでも、厚い筋肉がついていることがわかった。
「随分硬くなってきたね」
「ああ」
目を腕で覆いながらぶっきらぼうに返事をした彼は、腹に力を入れたのかピクピクと筋肉が動いている。
「直接見たいなら、ここで脱ごうか?」
「だっ、ダメだよ! ……男の人なんだから」
未婚の男女が裸を見せるのは、はしたない行為になる。これも貴族の常識の一つだった。
「なんだ、残念だな。ティーリアならいつでも見ていいのに」
「もうっ、そんなこと言って!」
今度はティーリアが顔を赤くする番だった。ぱしっと腹部を叩くティーリアの手を取ったアーヴィンは、にやっと笑うと彼女の手の甲にちゅっと柔らかい唇を落とす。
「なっ!」
「こら、逃げない」
手を引っ込めようとしても、アーヴィンは離してくれない。
そのまま引き寄せられると、彼の腕の中にすっぽりと包まれてしまう。
「プレゼント、楽しみにしている」
「う、うん」
肩口に頭を乗せたアーヴィンがそっと囁いた。
声変わりをして、急に大人びた彼の声を聞くとドキッとする。動けなくなったティーリアの後頭部を、ゆっくりとした仕草で彼が撫でる。
身体つきがぐっと男らしくなったアーヴィンに触れられると、それだけでドキドキする。
色気のある眼差しで見つめられると、身体の中が炭を入れたように熱くなった。
おかしい、彼は爽やかな王子様のはずなのに、捕らわれたように離れることができなくなる。
――き、気のせいよね……アーヴィン様は病んでないんだから、執着とか……ないよね?
全ては彼がヤンデレになるのを回避するためだ。今日もそのために準備をしてきた。
ティーリアは温めてきた計画を実行しようと、顔を上げる。
「ね、そろそろ行きましょうか」
「そうだな」
起き上がったアーヴィンはティーリアの手を取るとガゼボに向かう。
歩いていくと、ガゼボに先客がいたのを見てアーヴィンが声を上げた。
「母上! あなたも同席するのですか?」
「ええ、私もティーリア嬢に招かれましたの。悪かったかしら?」
「いえ、そんなことはありませんが、お忙しいのでは?」
「……年に一度の、息子の誕生日を祝うのはおかしいかしら」
「いえ」
ガゼボにはアーヴィンとティーリア、そして王妃の三人がテーブルを挟んで座る。
堅苦しい雰囲気で始まった午後のお茶会で、ティーリアはクッキーを皿に並べて運び始めた。
侍女のような真似をするティーリアを見て、王妃は片方の眉をくいっと上げる。
「アーヴィン様、王妃様、お待たせしました。私が焼いた特別なクッキーです!」
「これをあなたが焼いたの?」
「はいっ!」
満面の笑みを返すティーリアを、王妃は呆れ返った顔をして眺めた。
テーブルの前に皿を置くと、ティーリアは期待の目で二人の動向を見る。
「ありがとうティーリア。では早速いただこう」
アーヴィンは丸くて平べったい形をして、周囲に砂糖をまぶしたカントリータイプのクッキーを一つ摘まむと、それをぽいっと口に入れた。
噛み終えてゴクンと呑み込んだ彼は、一瞬動きを止めると不思議そうな顔をしてお腹に手を当てる。
「凄く美味しい。ありがとう、ティーリア。……でも、これ。何か特別なものを入れたのか?」
「はい、このクッキーを食べる人が幸せになりますように、ってお祈りしました」
「へぇ、だからなのか。身体の奥がまるで浄化されたように軽くなったよ」
「え、そうなの? 本当に?」
目を瞬かせたティーリアに、アーヴィンは魔術のことを優しく説明し始めた。
「時々いるんだよ、祈ることで魔毒を浄化できる人が」
「そうなの? だったら私がアーヴィン様を浄化しちゃったのかな。まるで幸せ配達人みたいね」
「みたい、じゃなくて……十分そうなっているよ」
アーヴィンが蕩けた目をして柔らかく微笑むと、その顔を見た王妃が驚いたように口を挟む。
「まぁ……あなたでもそんな表情ができるのね」
「はい。ティーリアは特別ですから」
「そ、そう」
二人が会話を始めたところで、ティーリアは「失礼します」と立ち上がった。
「アーヴィン様。せっかくですから、今日は王妃様と一緒に親子水入らずでお過ごしください。私はクッキーを皆様のところへ配りに行ってまいります」
「なに? ここを離れるのか?」
「はい。王宮で働く皆様のためにも焼いてきましたので」
明るく返事をしたティーリアは、二人に背を向けると「上手くいった」とぐっと拳を握った。
◆
アーヴィンはその場を走り去っていく後ろ姿を、熱のこもった瞳でじっと見つめていた。
「……あなたも、変わらないようね」
「そうですか? ティーリアに付き合っていると筋力トレーニングばかりで、だんだんと腕が太くなってきました」
「魔術師のあなたなら、筋肉なんて必要ないでしょうに」
「……ティーリアが望んでいることですから。母上、まさか彼女とのことを反対するとか……ないですよね?」
アーヴィンが王妃と視線を合わせると、彼女は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
「そんなに怖がらないでください。……ティーリアが気にしますので。どうやら彼女は俺の闇に気がついているのか、何度も『病まないで』って言うんですよ。……可愛いですよね」
「そ、そうなの。あなたの言うことには、も、もちろん逆らわないわ」
怯えて声を震わせる王妃を前にして、アーヴィンは腕を組むと顎を上げた。
「これからは、ティーリアの前では普通の親子のように接してください。俺も気をつけますから」
「そ、そうね……。あなたは、今はティーリア嬢に夢中なのよね?」
「母上に答える必要がありますか?」
「い、いえ、いいの。あなたがよければそれで……」
カタカタと手を震わせてティーカップを持った王妃に、アーヴィンはクッキーの入った皿を取ると彼女の前に差し出した。
「一つだけでも食べてください。ティーリアの手作りですからね。……食べないと、彼女が悲しむので」
「え、ええ。もちろん、いただくわ」
皿からクッキーを一つ摘まみ上げた王妃を見て、アーヴィンは口角をくっと上げて微笑んだ。王妃は食べ終わるとすぐに席を立つ。
「彼女にお礼を伝えてくださいよ。それから、今日のことは兄には言わないように。知られてティーリアに執着されても厄介なので」
自分がビッチになるのも怖いけれど、何よりそのきっかけとなるアーヴィンから犯されることが恐ろしい。
できれば婚約を解消したいが、彼との婚姻は政略的なものに他ならない。一旦取り決められた婚約を覆すことは、王族からでなければ難しい。
――もしかしてもしかすると、私、かなり詰んでいるかも?
と思うけれどティーリアはまだ十歳でしかない。意地悪なアーヴィンはヤンデレの片鱗を見せているけれど、彼だって十二歳の少年だ。
今から矯正すれば、病み具合も変わるかもしれない。
「うん……そうよ、きっとまだ間に合うはず」
前世でも、困難なことがあっても乗り越えてきた。まだゲームのシナリオ通りに進むとは限らない……と思いたい。
子どもの手を伸ばして開く。可愛らしくて、小さな指をしている。これまではただのか弱い公爵令嬢だったけれど、前世の知識があればきっと変えられる。
ティーリアは決意も新たにぐっと手を握りしめた。
以前のティーリアは俯きがちで弱気な少女だった。それがどうして淫乱な悪役令嬢になるのか不思議だけれど、きっと魅惑的な身体つきが災いしたのだろう。
将来の破滅回避を目的として、まずは――体力をつけよう。
なぜならアーヴィンは、ティーリアが涙目になって許しを請う姿を楽しんでいた。きっとそこから性癖が開花してヤンデレになるに違いない。
――でも体力があれば、弱った姿を見せることもないわ!
ティーリアは朝起きると共にストレッチをして、走り込みを始めた。
これまで碌な運動をしていなかった身体は、すぐに音を上げるけれど、社畜だった記憶と根性がそれを凌駕する。
「ティーリア……あなた、そんなに身体を動かすことが好きだったの?」
「ええ、お母様! お母様も一緒に走りましょう! もっと太陽を浴びる方が気持ちいいですよ」
淑女の鑑のような母は呆れた顔をして嘆息する。
娘の変化が信じられない様子だったけれど、アーヴィンと追いかけっこをするためだと言われると納得していた。
ティーリアが破滅すると共に、エヴァンス公爵一家も没落するに違いない。
その辺りは詳しく描かれてなかったけれど、令嬢が捕まって実家がお咎めなしとは思えない。
優しい母も、厳しいけれど愛情深い父も、まだ生まれたばかりの小さな弟も守りたい。ティーリアは公爵令嬢としての嗜みを身に着けながらも、運動を怠らなかった。
――健康な生活は、丈夫な身体から!
明るくなったティーリアは、周囲を知らず知らずのうちに巻き込んでいた。
「……ティーリア、大丈夫か?」
「はいっ、もうすっかり元気になりました!」
「でも、この前倒れたばかりだよね」
「大丈夫です!」
ぱぁっと花が咲いたように笑顔を返すティーリアを見て、アーヴィンは一瞬うっと唸ると目を逸らした。
前回のお茶会の時に倒れたティーリアの見舞いに来た彼は、公爵家の応接室に座る彼女を見てボソッと呟く。
「可愛いな……」
「どうしましたか?」
「ううん、なんでもない」
照れたように頭をかいたアーヴィンは、持ってきた薔薇の花束をティーリアに差し出した。
「これ、ただの花だけど……受け取ってほしい」
「わぁ、嬉しいです! 早速私の部屋に飾っておきますね」
「……本当に、ティーリアなのか?」
「はい?」
努めて明るく振る舞う彼女を見て、アーヴィンは首を傾げた。
確かに以前のティーリアは、はにかんだ笑顔しかしなかったから、別人のように見えるのだろう。
「どこか、頭を打っておかしくなったとか」
まさか、前世を思い出したからこうなっています、なんて言えない。
言ったらそれこそ、頭を打っておかしくなった令嬢と見なされるだろう。それはそれで悲しい。
「違います」
はっきりと否定すると、アーヴィンはさらに眉をひそめた。
これまでのティーリアは、アーヴィンが何を言っても「はい」としか答えないお人形のような――貞淑な少女だった。
今までとは違うティーリアの態度に、アーヴィンは戸惑っている。
「倒れてわかったんです。もっと身体を丈夫にしないといけないなって。アーヴィン様も言ってたではないですか。そんなことでは王子妃なんて務まらないって」
「いや、それは単にティーリアを困らせ……いや、うん」
ティーリアは言いよどんだアーヴィンに近寄ると、彼の手を両手で握りしめた。
「アーヴィン様。一緒に走りましょう!」
「は?」
「これからは、追いかけっこをしても捕まらないように頑張ります!」
「いや、そこまでしなくても」
「今から運動しやすい服に着替えてきますので、お待ちください!」
では、失礼しますと言って部屋を出ていくティーリアを見るアーヴィンは、口をポカンと開けていた。
アーヴィン・ケインズワースは将来、希代の魔道騎士になる。攻撃魔法だけでなく騎士としても優秀な彼の身体能力はもちろん高い。
少年であっても護衛騎士に教えを乞い、毎朝の訓練を欠かすことはない。
これまで運動に縁のなかったティーリアがどれだけ頑張っても、追いつけるものではなかった。
「はぁ、はぁ……アーヴィン様、待って」
「なんだ、もう音を上げたのか?」
「いえ……ちょっと、水を飲みたくて」
「わかった、休憩しよう」
広い公爵家の庭園を走っただけで息が上がっている。気合はあっても身体は追いつかなかった。
屋根のあるガゼボに手を引かれて歩いていく。
ティーリアが座るとアーヴィンは手を上げて侍女を呼び、水を持ってくるように頼んだ。
「あ、ついでに塩と砂糖もお願いします」
「塩と砂糖?」
「はい、水に混ぜて一緒に取る方が熱中症の予防になるので」
「……熱中症?」
――しまった。つい漏らしてしまったけれど、この世界では使われていない言葉だ。
ティーリアは目を泳がせて、「あわわ」と慌てて口を押さえた。
訝しむアーヴィンにこれ以上疑われないように、「本で読みました」と答えておく。
――前世で読んだ知識だから、嘘にはならないよね……
ちらりと上目遣いになって説明する。
「急に運動をして、水分が足りなくなり倒れてしまうのことを指す言葉のようです。その予防に、水にちょこっとだけ塩と砂糖を入れるといいって読みました」
「なるほど。ティーリアがこの前倒れたのはその……熱中症だったのか?」
「そうかもしれません」
違うけど、そういうことにしておこう。
侍女が急いで持ってきた水差しに目分量で塩と砂糖を入れて混ぜる。正しい割合があったけれど、さすがにそこまで覚えていなかったので、適当に摘まんだ。
「こんな感じかな」
水に溶けきったところで器に入れて口をつけた。甘じょっぱい水は美味しいものではないけれど、身体が必要としているのか喉に心地いい。
飲み終えたところでアーヴィンを見ると、彼もそれを口に含んでいた。
「不思議な味だが、身体が喜んでいるようだ。ティーリアは珍しいことを知っているんだな」
「いえ、ちょっと……興味深い本だったから」
どんな本だと聞かれると厄介だなぁと思いつつも、アーヴィンはそれ以上問い詰めることはなかった。
休んだらまた運動しましょう! と誘うと彼は目を丸くしてティーリアを見つめる。
「ティーリアは……身体を動かすことが好きになったのか?」
「はいっ、やっぱり健康な身体には、健康な魂が宿りますから!」
「ははっ、そうか……健康な魂、ねぇ」
「ええ、アーヴィン様も運動を好きになって、爽やかな人になってください!」
彼はもう十分鍛えているけれど、ティーリアが目指してほしいのはヤンデレ王子ではない。
清廉潔白で生真面目な王子様とは言わずとも、いわゆる一般的な嗜好を持つ人物になってほしい。
とにかく婚約者であるティーリアを、その意に反して犯すような人物には育ってほしくない。
「爽やかな人……か」
「はいっ!」
ティーリアは漆黒の目を輝かせると、アーヴィンの紺碧の瞳を見上げた。
期待の眼差しを受けた彼は、少しだけ唇をひくりとさせたけれど――何かを覚悟したようにキュッと口を引き締める。
「わかった、努力してみるよ」
目を細めて微笑む彼を見て――ティーリアの胸はひと際高く鼓動する。
爽やかな風が二人の間に吹き、さぁっと通り過ぎていった。髪を高い位置でひとくくりにしていたティーリアの髪が揺れ、顔に張りついてしまう。
「髪、ついているよ」
手を伸ばしたアーヴィンはその髪を顔からはがす。
彼の射貫くような瞳は、ティーリアの胸を確実に撃ち抜いた。
――やっぱり、かっこいい!
彼は絶大な人気のあった攻略対象だ。もちろん前世のティーリアにとっても、一番の『推し』は彼だった。
とにかく顔も身体も声も匂いも全てが好みだ。そんな彼を間近に見ることができて――ティーリアは恋をせずにはいられなかった。
それからは二人で会う時は必ずと言っていいほど、運動をするようになった。
アーヴィンが一方的に追いかけるのではなく、体力差に合わせて工夫をした追いかけっこを提案した。
毎日の運動のおかげで体力がついたティーリアは、時には彼に追いつき、さらに筋力トレーニングを一緒にする。
二年も経つと、まるで専属トレーナーになった気持ちでアーヴィンを励ました。
「はいっ! あとちょっと! 頑張って」
「はっ、はっ……はっ」
「そうです! 凄い! 新記録だよ!」
片手腕立て伏せにスクワット、時間を測って集中的に筋肉を鍛え、高たんぱく質の食事にビタミンたっぷりの特製ジュースを渡す。
アーヴィンはティーリアの予想以上に身体を鍛えるようになっていた。
――私、前世でもこんなことしていたのかなぁ……
はっきりと思い出せないけれど、学生の頃は運動部のマネージャーをしていたような気がする。スコアを記録して、部員の筋トレを励ますのが好きだったのかもしれない。
それにアーヴィンは褒めれば褒めるほど、ティーリアの期待に添って記録を伸ばしていく。さらに比例するように、彼の性格は明るくなっていた。
意地悪な顔を見せなくなり、周囲からは『爽やか王子』と呼ばれるほど朗らかに笑って受け答えをする。
――このままいけば、病むことはないのかも!
とにかく彼がヤンデレ化することだけは避けたい。
ティーリアは彼が闇に呑まれそうな要因を徹底的に洗い出していた。
まず、母親からの愛情不足が考えられる。彼の母親は現王妃だけれど、彼女はいい意味でも悪い意味でも、王妃らしい方だ。
第二王子には特別に目をかけることもなく、子育ては乳母や侍女達に任せきりにしていた。そして王太子であるジュストーを格別に可愛がっている。
そのせいなのか、アーヴィンは兄である彼とそれほど交流をしていない。
この前もたまたま王宮ですれ違ったけれど、ジュストーは挨拶もせず通り過ぎていった。
さらに残念なことに、親代わりをしていたアーヴィンの乳母はもう既に王宮にいない。彼が幼少時に辞めてしまっていた。
――やっぱり、王妃様よねぇ……
アーヴィンに笑いかけることもなく、淡々とした会話しかしていない。かといって全く愛情がないわけではなく、単に彼の中の何かを恐れている様子だった。
ティーリアはいつものようにトレーニングをしている時に、それとなく聞いてみた。
「ねぇねぇ、アーヴィン様は王妃様にお会いにならないの?」
「母上か? 用があれば会うけれど……それがどうかしたか?」
「う、ううん。ただ、あまりお会いしていない気がして」
アーヴィンは腕立て伏せをしているが、負荷をかけるためにティーリアを背中に横座りさせていた。
十二歳になり背も伸びた彼女をのせても、平気な顔で肘を曲げては伸ばしている。
「母上は忙しい方だからな」
「でも、慰問に行く時間があるなら、アーヴィン様と話をしてもいいんじゃないかなって」
「……今さら、必要ないよ」
「そんなことないよ!」
勢い良く彼の顔の方を見ると、反動がついたのか「うぐっ」と呻いたアーヴィンはぺしゃりと肘を伸ばし、腹ばいになってしまう。
「あっ、ご、ごめん」
「……いや、いい。大丈夫だ」
潰れたヒキガエルのような姿をしているのに、平気だと強がっている。
前世の人生を含めると年上になるティーリアは、いきがっている彼を見るとつい、可愛らしいと思ってしまう。
そっと背中から降りたティーリアは、アーヴィンの黄金のように輝く髪を手で梳きながら、頭を撫でる。
――そういえば、もうすぐ誕生日だったよね……
いいことを思いついたとばかりに、ティーリアは手をぽんと叩く。いきなり目をキラキラとさせた彼女を見て、アーヴィンは胸に一抹の不安を覚え眉根を寄せた。
「君がそうした顔をする時は、大抵とんでもないことをするんだよな……」
「え? 何か言った?」
「……いや、なんでもない」
頭を左右に振った彼は、再び腕立て伏せをする姿勢となる。
「今度は片手でやるから、背中に乗って数えて」
「はいっ!」
ティーリアは元気良く返事をすると、さっきと同じように彼の背中に座る。「一……二……」と声を出しながら時折「がんばって!」と声援を送る。
その日も筋肉を鍛えたアーヴィンは、水を頭からかぶる。髪に残る水滴が太陽の光に反射してキラキラと輝く中、白い歯を出して笑顔を見せた。
――うん、やっぱり病んでいない!
今日も彼の輝くように爽やかな笑顔を見たティーリアは、満足そうに頷いた。
その顔を見たアーヴィンがポツリと「ま、俺のことしか考えてないなら、いいんだけどね」と呟いた声を、ティーリアが拾うことはなかった。
今日もアーヴィンは腹筋を鍛えるために、上体起こしをしている。ティーリアは足が動かないように押さえていた。
「ね、アーヴィン様。今日はこの後で良かったら、お茶しませんか?」
「あ、ああ」
「今日は私、アーヴィン様のお誕生日だから頑張ってクッキーを焼いてきたんです!」
「ああ……って、あぁ?」
貴族が台所に立つのは避けるべきとされていた。使用人達の仕事を奪うような真似をしてはいけない、というのがその理由だったが、形骸化した今でも常識として残っている。
なぜなら高位貴族になればなるほど、家事労働をしないことが品位を示すものだと思われていた。
そのためティーリアは台所に立つことを控えていたけれど、アーヴィンの誕生日には何かプレゼントをしたい。
そこで前世での趣味だったお菓子作りを思い出してクッキーを焼いてみたところ、屋敷の使用人達を驚かせる出来栄えとなった。
アーヴィンも思わず目を丸くして身体の動きを止める。
「焼いたって、ティーリアが焼いたのか?」
「ええ、そうよ」
「……どうして?」
「どうしてって。一度焼いてみたかったし、アーヴィン様にプレゼントしたくって」
キョトンと首を傾げたティーリアを見た彼は、ぶわっと顔を赤らめた。ずっと上体を起こしていたためか、「もうダメだ。可愛すぎる」と呟いた途端、ばたりと仰向けに倒れてしまう。
「あれ、今日はもう終わりなの?」
「……そうする。今すぐクッキーが食べたい」
「そんなに急がなくても、着替えてからにしてね。王宮の薔薇園にあるガゼボに準備してあるの」
くすりと笑ったティーリアは、アーヴィンの腹部に手を伸ばした。
最近、彼の腹筋が割れてきてくっきりと筋がついている。服の上からでも、厚い筋肉がついていることがわかった。
「随分硬くなってきたね」
「ああ」
目を腕で覆いながらぶっきらぼうに返事をした彼は、腹に力を入れたのかピクピクと筋肉が動いている。
「直接見たいなら、ここで脱ごうか?」
「だっ、ダメだよ! ……男の人なんだから」
未婚の男女が裸を見せるのは、はしたない行為になる。これも貴族の常識の一つだった。
「なんだ、残念だな。ティーリアならいつでも見ていいのに」
「もうっ、そんなこと言って!」
今度はティーリアが顔を赤くする番だった。ぱしっと腹部を叩くティーリアの手を取ったアーヴィンは、にやっと笑うと彼女の手の甲にちゅっと柔らかい唇を落とす。
「なっ!」
「こら、逃げない」
手を引っ込めようとしても、アーヴィンは離してくれない。
そのまま引き寄せられると、彼の腕の中にすっぽりと包まれてしまう。
「プレゼント、楽しみにしている」
「う、うん」
肩口に頭を乗せたアーヴィンがそっと囁いた。
声変わりをして、急に大人びた彼の声を聞くとドキッとする。動けなくなったティーリアの後頭部を、ゆっくりとした仕草で彼が撫でる。
身体つきがぐっと男らしくなったアーヴィンに触れられると、それだけでドキドキする。
色気のある眼差しで見つめられると、身体の中が炭を入れたように熱くなった。
おかしい、彼は爽やかな王子様のはずなのに、捕らわれたように離れることができなくなる。
――き、気のせいよね……アーヴィン様は病んでないんだから、執着とか……ないよね?
全ては彼がヤンデレになるのを回避するためだ。今日もそのために準備をしてきた。
ティーリアは温めてきた計画を実行しようと、顔を上げる。
「ね、そろそろ行きましょうか」
「そうだな」
起き上がったアーヴィンはティーリアの手を取るとガゼボに向かう。
歩いていくと、ガゼボに先客がいたのを見てアーヴィンが声を上げた。
「母上! あなたも同席するのですか?」
「ええ、私もティーリア嬢に招かれましたの。悪かったかしら?」
「いえ、そんなことはありませんが、お忙しいのでは?」
「……年に一度の、息子の誕生日を祝うのはおかしいかしら」
「いえ」
ガゼボにはアーヴィンとティーリア、そして王妃の三人がテーブルを挟んで座る。
堅苦しい雰囲気で始まった午後のお茶会で、ティーリアはクッキーを皿に並べて運び始めた。
侍女のような真似をするティーリアを見て、王妃は片方の眉をくいっと上げる。
「アーヴィン様、王妃様、お待たせしました。私が焼いた特別なクッキーです!」
「これをあなたが焼いたの?」
「はいっ!」
満面の笑みを返すティーリアを、王妃は呆れ返った顔をして眺めた。
テーブルの前に皿を置くと、ティーリアは期待の目で二人の動向を見る。
「ありがとうティーリア。では早速いただこう」
アーヴィンは丸くて平べったい形をして、周囲に砂糖をまぶしたカントリータイプのクッキーを一つ摘まむと、それをぽいっと口に入れた。
噛み終えてゴクンと呑み込んだ彼は、一瞬動きを止めると不思議そうな顔をしてお腹に手を当てる。
「凄く美味しい。ありがとう、ティーリア。……でも、これ。何か特別なものを入れたのか?」
「はい、このクッキーを食べる人が幸せになりますように、ってお祈りしました」
「へぇ、だからなのか。身体の奥がまるで浄化されたように軽くなったよ」
「え、そうなの? 本当に?」
目を瞬かせたティーリアに、アーヴィンは魔術のことを優しく説明し始めた。
「時々いるんだよ、祈ることで魔毒を浄化できる人が」
「そうなの? だったら私がアーヴィン様を浄化しちゃったのかな。まるで幸せ配達人みたいね」
「みたい、じゃなくて……十分そうなっているよ」
アーヴィンが蕩けた目をして柔らかく微笑むと、その顔を見た王妃が驚いたように口を挟む。
「まぁ……あなたでもそんな表情ができるのね」
「はい。ティーリアは特別ですから」
「そ、そう」
二人が会話を始めたところで、ティーリアは「失礼します」と立ち上がった。
「アーヴィン様。せっかくですから、今日は王妃様と一緒に親子水入らずでお過ごしください。私はクッキーを皆様のところへ配りに行ってまいります」
「なに? ここを離れるのか?」
「はい。王宮で働く皆様のためにも焼いてきましたので」
明るく返事をしたティーリアは、二人に背を向けると「上手くいった」とぐっと拳を握った。
◆
アーヴィンはその場を走り去っていく後ろ姿を、熱のこもった瞳でじっと見つめていた。
「……あなたも、変わらないようね」
「そうですか? ティーリアに付き合っていると筋力トレーニングばかりで、だんだんと腕が太くなってきました」
「魔術師のあなたなら、筋肉なんて必要ないでしょうに」
「……ティーリアが望んでいることですから。母上、まさか彼女とのことを反対するとか……ないですよね?」
アーヴィンが王妃と視線を合わせると、彼女は「ひっ」と小さく悲鳴を上げた。
「そんなに怖がらないでください。……ティーリアが気にしますので。どうやら彼女は俺の闇に気がついているのか、何度も『病まないで』って言うんですよ。……可愛いですよね」
「そ、そうなの。あなたの言うことには、も、もちろん逆らわないわ」
怯えて声を震わせる王妃を前にして、アーヴィンは腕を組むと顎を上げた。
「これからは、ティーリアの前では普通の親子のように接してください。俺も気をつけますから」
「そ、そうね……。あなたは、今はティーリア嬢に夢中なのよね?」
「母上に答える必要がありますか?」
「い、いえ、いいの。あなたがよければそれで……」
カタカタと手を震わせてティーカップを持った王妃に、アーヴィンはクッキーの入った皿を取ると彼女の前に差し出した。
「一つだけでも食べてください。ティーリアの手作りですからね。……食べないと、彼女が悲しむので」
「え、ええ。もちろん、いただくわ」
皿からクッキーを一つ摘まみ上げた王妃を見て、アーヴィンは口角をくっと上げて微笑んだ。王妃は食べ終わるとすぐに席を立つ。
「彼女にお礼を伝えてくださいよ。それから、今日のことは兄には言わないように。知られてティーリアに執着されても厄介なので」
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