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1巻

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   ◇プロローグ


「ここかなぁ」

 麻生玲奈あそうれな草履ぞうりを履いた足を止めると、目の前の建物を見上げた。京都きょうとの街の中心部、四条河原町しじょうかわらまちに近いところにある昔ながらの京町屋。
樫屋かしや」という屋号だけの看板があるにはあるけれど、小さすぎて見逃すところだった。
 ここが勝堂しょうどう会長が予約してくれた料亭で間違いないだろう。
 シンガポールでスリから守ったことで知り合った会長は、白の混じる髪でありながらもとても溌剌はつらつとした方だ。
 その時のお礼をしたいと言われ、行きたい店を聞かれて口から出たのがこの樫屋。
 玲奈が勇気を出して町屋の引き戸を開けると、カラカラと戸のすべる音がする。

「すみません」

 狭い間口の奥に入り、屋号だけ染抜きされた暖簾のれんくぐるとった数寄屋造すきやづくりの空間が広がっている。柿色の着物を着た仲居を見るに、どうやらここであっているようだ。
 楽しみにしていた料亭にようやくたどり着いて、ホッと胸を撫で下ろした。

「麻生様、よお、おこしやす」

 玄関に飾られた秋明菊しゅうめいぎくが目に入ってくる。秋を代表する白い花弁が可愛らしく、緊張している玲奈の心をふわりとやわらげた。
 紅葉の季節の京都であれば、きっと似合うと思って選んだ白地の訪問着の裾を少し上げて、上がりがまちの段差でつまずかないように慎重に草履ぞうりを脱ぐ。
 なんといっても、今日は憧れの「樫屋」での食事会。
 柔らかい栗色のショートボブの髪も朝早くから整え、べっ甲のくしをさしてある。
 黒く大きいくりっとした目にかかる長いまつ毛、雪のように白い肌にぷっくりと膨らんだ唇と、玲奈は一見すると可愛らしい外見をしている。
 おしとやかで、大人しい――というのが大抵の人が抱く玲奈の第一印象だ。
 けれど、大学を卒業してから働き始めて三年目。
 既にルポライターとして独立している玲奈は仕事中毒気味の女子だった。ライターという仕事柄、自分から進んで取材する必要がある。
 見た目に反して、玲奈はなかなか積極的な性格をしていた。特に夏の初め頃に彼氏と別れてからは、休日もこうして取材の下準備をしている。
 ――やっぱり樫屋にしてよかった。ここって、なかなか入れないのよね。本当は記事にして、たくさんの人に紹介したいけど……
 樫屋は一見いちげんさんお断りの料亭のため、紹介がなければ入れない。
 今日はプライベートなので取材はできないけれど、ルポライターの端くれとしてはこの機会を逃したくなかった。
 玲奈は山間の奥まったところで生まれ、閉鎖的な地域で育っている。小さな頃は町の図書館で旅行記を読んで、その場所に行った気分になるのが大好きな女の子だった。
 だから自分が経験したことを書いて、それを読んだ多くの人に仮体験してほしい。そんな思いでルポライターを目指してきた。
 いつか樫屋のような料亭も記事にしたい。しかし写真を撮ることはマナー違反になるから、できる限り記憶に残すために、玲奈は注意深く料亭を観察した。

「足元、気ぃつけておくれやす」
「はい、ありがとうございます」

 料亭の仲居が先だって案内してくれた。廊下に面した庭はもみじが朱と黄に色づいて、秋の風情ふぜいを楽しめる。
 どこかでカコン、と鹿威ししおとしが鳴る音が聞こえてきた。

「麻生様がご到着しはりましたえ」

 仲居が障子を開けると、清涼とした青畳の香りがする。
 十二畳を超える部屋には木目の美しい大きな座卓があり、床の間には水墨画の掛け軸と、ススキやリンドウを使った生け花が飾られていた。
 そして座椅子の一つに若くて姿のいい男性が座っている。
 彼は体形に合わせて作られた仕立てのいい三つ揃えのスーツを着て、胡坐あぐらをかくでもなく、きちんと正座をして待っていた。そのすずやかなたたずまいに空気がぴんと張りつめる。
 ――わっ、凄くカッコいい人! 
 勝堂会長からは息子さんが一緒だと聞いていたけれど、こんなにも美麗な男性だとは思っていなかった。座っていても背が高く、細身だけれど体格のいいことが一目でわかる。
 黒髪をきっちりと後ろに撫でつけ、さっと見ただけでも整った顔からは誠実そうな人柄が伺えた。
 胸がときめきそうになるけど、相手はなんといっても勝堂コーポレーションのCEOえらいひと
 失礼のないようにと思いながら身をすべらせるようにして部屋に入る。

「お待たせしました」
「いや、こちらも今到着したところです」

 緊張で声を震わせて挨拶をすると、どこかで聞き覚えのある低い声が耳に届く。
 ――んん? あれ? ……この声、どこかで聞いたことがある?
 まさか、と思いつつも仲居に座椅子を引いてもらい、着物の裾をはらいながら座る。そして顔を上げると正面にいる男性の顔をまっすぐ見た。
 その瞬間。玲奈の息が止まった。
 彼の顔を真正面から見て、呼吸することも忘れてしまうほどの衝撃に襲われる。
 低い声と精悍せいかんな顔つき、凛々りりしい目元に上品そうでいて黒豹のように隙のない彼は、封じ込めていた記憶の中のヒトにピッタリと当てはまる。
 着ている服も髪型も、あの日とは随分違うけれど、彼そのものだ。

「もしかして……!」
「こんにちは、ご無沙汰ぶさたしています」
「まさか!」
「よかった、お元気そうですね」
「テツさん?」

 玲奈が彼の名前を叫んだ瞬間に、鹿威ししおとしがカポーンと音を響かせた。
 男性は口元で弧を描くように微笑み、玲奈を見つめる目を猫のように細めている。
 一方、玲奈の顔からは血の気が引いてすうっと青くなる。彼は以前ニューヨークで出会ったテツだった。
 玲奈が記憶からほうむり去った、黒歴史でもある『ワンナイト』しちゃったカレがそこにいた。



   ◇第一章


 彼との出会いは四カ月前にさかのぼる。 
 玲奈は取材のためにニューヨークに来ていた。以前、英語を学ぶ目的で滞在した街だから土地勘もあって取材もはかどり、いい記事が書けそうだった。
 最後に訪れたショップの写真を撮り、ホテルに帰って文字にしようとノートパソコンを開く。
 メールチェックをしていると、ある女性誌のデジタル版の記事が気になった。雑誌を開くとそこには思いもしない内容がつづられている。
 先輩ライターであり、恋人の館内連たてうちれんの名入り記事が雑誌に掲載されていた。だが、その記事を書いたのは玲奈だった。

「うそっ、なにこれ?」

 何度見直しても自分の文章が使われている。日本全国のパワースポットと呼ばれるエリアを巡って書いた渾身こんしんの記事だ。
 修行僧しか行かないような滝壺で滝に打たれたことまで詳細に書かれている。でも、館内はその滝に行ったことなんてないはずだ。

「どういうこと?」

 見開き六ページも使った記事は、どう考えても玲奈の撮った写真と文章からなっている。
 ――もしかして、もしかすると盗まれた?
 館内は、初めて就職した出版会社の先輩だ。
 新人の指導を任された館内によって、右も左もわからなかった玲奈は水を吸収するスポンジのように仕事のコツをつかんでいった。
 新入社員の中では抜群に可愛い玲奈を狙った館内が、彼女を恋人にするのに時間はかからなかった。
 玲奈が仕事に慣れてきて、もっと自由に取材がしたいと独立してしばらくたったある日、館内は玲奈に言った。

「玲奈、その取材ノートと記事の下書き、見せてみろよ。俺がチェックしてやる」

 玲奈は何も疑わずにデータを館内に送信した。
 あの時の記事だ。
 咄嗟とっさにスマートフォンを持ち、アプリを立ち上げて館内に電話をかける。いつもならすぐに出るはずが、いつまでたっても返答がない。
 連絡が欲しいとメッセージを打つと、即座に既読になる。でも、返信はない。
 ――えっ、私、もしかして無視されているの?
 信じられない思いで画面を見ていると、ぴょこんと可愛らしいスタンプでメッセージが届いた。

『ごめん』

 手を合わせて頭を下げるスタンプを見て、玲奈はそれまであった驚きを怒りに変換した。
 スマートフォンを持つ手がふるふると震えてしまう。
 ――あのひと! 私の記事をったのね!
 スタンプを見る限り、館内はわかっていてやったに違いない。
 玲奈の電話に出ないのは後ろめたく思っているからだろう。思えば、彼はいつでも都合が悪くなると逃げる男だった。
 燃えるような怒りと共に、胸の奥がツキンと痛む。
 館内は一見すると粗暴な感じで、いかにもフリーライターらしい野性味のある男性だ。それなのに、困っていた玲奈を助ける優しいところに惹かれていた。
 ――けど、もう無理だ。
 頬を伝う涙が手にしていたスマートフォンの画面の上にポツリと落ちる。まさか、こんな風に裏切られるとは思いもしなかった。
 ――彼氏にだまされたなんて……どうしよう。
 記事を載せた出版社に問い合わせようかと考えたが、ニューヨークとは時差がある。
 それにライターとしてのキャリアは館内の方が圧倒的に上だ。この雑誌の編集部とも付き合いが長いと言っていた。
 今から玲奈が「この記事を書いたのは自分だ」と主張しても、出版社の担当が玲奈を信用するとは思えない。
 むしろ、言いがかりをつけるライターだと悪印象を持たれ、自分自身の首を絞めることになりかねない。
 どうにもできない現状に悔し涙が落ちていく。
 ――あんな、あんなクズ男を好きだったなんて……
 自分がどうしようもなく情けない。書いたものを丸ごと渡してしまった落ち度もある。
 これは手痛い手切れ金としよう……そう思いたくてもすぐに忘れられない。
 今はもう、悔しさと悲しさで胸が張り裂けそうになって――玲奈は柔らかいベッドに顔を突っ伏した。


 ひとしきり泣いた玲奈は、気持ちを切り替えようとブルックリン橋まで足を延ばすことにした。
 対岸に見える高層ビル群を眺めながら歩いていると、自分の悩みがちっぽけなものに思えてくる。水色のワンピースを着て、小さなかばんだけを持って橋の上を歩いていた。
 ――ショックだけど、早く気持ちを切り替えなくちゃ……
 恋人を失ったことより、記事を盗まれたことの方が痛い。
 それだけ館内への気持ちは冷めていたのだろう、玲奈は茫然ぼうぜんと大都会の景色を眺めていた。
 ――はぁ。辛い時とか、落ち込んでいる時って、景色が心に染みるのよね……
 本当なら、山とか海とか大自然を見たかったけれど、ここはニューヨーク。
 人工物の高層ビル群も、これだけ揃っていると圧巻だ。いつか、あのビルの中の一画に自分のデスクを持って働きたい。
 そんな無謀とも言える野心があるものの、今の玲奈にはそれこそ夢物語のように思えてしまう。
 彼氏にだまされたちっぽけな自分は、ここからどうやったら立ち直れるのだろうか。
 考え事をしながらふらふらと歩いていると、突然、後方から男性の声がした。

『あっ、危ない!』

 すぐ近くで聞こえた声に、ビクッと身体が強張る。
 男性は玲奈の腕を掴むと、サッと端の方に引き寄せた。その玲奈の横を、もの凄い勢いで自転車が走っていく。
 男性が腕を引いてくれなかったら、危うくぶつかるところだった。ぞくっと恐ろしさが背筋を駆け抜け、思わず呟いてしまう。

「びっくりしたぁ……」

 ボーッと景色を見すぎていた。
 ブルックリン橋は歩行者と自転車用の通路があるけど、時折スピードを出した自転車が通り過ぎていくから、歩く時は気をつけるようにとガイドブックに書かれていた。
 けれど、そんなことはすっぽりと頭の中から抜け落ちていた。
 玲奈はなかなか収まらない動悸どうきに動揺しつつも、腕を引いてくれた男性にお礼を言わなくては、と顔を上げた。
 見上げるほどに背の高い男性は、ジョギング用のサングラスをかけ青いスポーツウェアを着ている。
 いかにも走るための服装をした彼は、切り揃えられた黒髪に整った鼻梁びりょうをしていて、アジア人らしき肌はとてもなめらかだ。
 男らしい広い肩幅に長い手足。細身に見えて、半袖から出ている腕にはぴっちりと筋肉がついている。サングラスをとって胸のポケットにひっかけると、形のよい眉に黒曜石のような瞳が射るように玲奈を見つめた。
 ――えっ、ちょっと凄いイケメンが目の前にいる……
 仕事でインタビューをする相手は、その業界の中でも超一流と言われる人が多い。目の前の彼はこれまで出会ってきた極上の男性陣と比べても群を抜いてカッコいい。
 イケメン、なんて言葉では収まらない。なかなかお目にかかれないレベルの美丈夫だ。
 思わず言葉を失いそうになったけれど、助けてもらったお礼を伝えないと。
 玲奈は風で揺れるスカートを押さえながら男性の方に向き直った。すると、玲奈が口を開く前に優しく声をかけられる。

『大丈夫?』
『はい。ありがとうございました。助かりました』

 どうやらジョギング中だったらしい彼は、立ち止まったまま息を落ち着かせるように呼吸している。しばらく玲奈を見つめていた彼は、少し迷うような仕草をした後で尋ねてきた。

「君、もしかして日本人?」
「は、はいっ」

 突然流暢りゅうちょうな日本語で話しかけられ、目を丸くする。
 てっきり外国人だと思っていた男性は、玲奈と同じ日本人のようだ。彼は心配そうに顔を覗き込みながら再び話しかけた。

「どこかぶつかった? 避けたつもりだったけど」
「いえ、どこも痛くありません、大丈夫です」
「でも、君、涙が」

 ハッとして手をまなじりに当てると、確かに涙が流れている。気がつかないうちにまた泣いていた。
 困ったように眉根を寄せて玲奈を見つめる男性はタオルを取り出したけれど、自分の汗を拭いているものを差し出すのに躊躇ためらっている。

「ご、ごめん。これしかないけど、汗臭いよね」
「あの、大丈夫です。ハンカチなら持っています」

 ゴソゴソとかばんを開けてハンカチを取り出すと、目元を押さえ涙を拭きとる。
 簡単に泣いてしまうなんて、こんなにも自分は弱かったのかと思うと再び涙が溢れてきた。

「大丈夫? やっぱり痛かった?」
「い、いえ、違うんです」

 涙を止めないといけないのに、優しい日本語を聞くと不思議と心が緩んでいく。
「ごめんなさい」と言いつつも顔にハンカチを当てた玲奈を、男性は歩道の端へと誘導した。
 泣きやむことのできない玲奈の前に立ち、まるでいつくしむように静かに見守っている。
 ――どうしよう、ちょっとしか話してない人の前で、こんなにも泣いてしまうなんて。
 それでも彼が目の前に立ってくれたお陰で、玲奈の泣く姿は周囲の視線からさえぎられていた。動揺しながらも彼の行動がありがたかった。
 溢れてくる悲しい思いのままにひとしきり涙を流し終えると、玲奈は目元をハンカチで押さえながら男性を見上げた。

「ご心配をおかけしました。ちょっと個人的にいろいろあって、涙が出ただけなんです。ぶつかったとか、驚いたとかではありません」

 落ち着きを取り戻したところで、玲奈は男性に向かってペコリと頭を下げた。

「落ち着いたなら、よかった。ここは風に乗って自転車が凄い勢いで走ってくることもあるから、気をつけて」
「はい、ありがとうございます」

 顔を上げて男性を見ると、まだ何か言いたいような顔をして玲奈を見つめている。顔に何かついているのだろうか、と思うほどだけれど、不思議と嫌な感じがしない。

「あの、何か……」

 目の前で泣いてしまった申し訳なさもあり、玲奈は男性の前から動くことができなかった。すると、彼が思わぬことを口にする。

「君、よかったらその、あっと、僕でよかったら話を聞こうか?」
「えっ」
「いや、いきなり泣いてしまうなんて、よっぽど辛いことがあったのかな、と思うんだけど……」

 キョトンとした玲奈を見て、男性はあたふたしながら頭をかきつつ説明した。

「ほら、壁だと思ってくれればいいよ。辛いことって、誰かに聞いてもらうとスッキリすることがあるし、僕なら日本語で会話できるし」

 そこまで言われると、ちょっと話してみようかなと思わなくもない。
 男性はとても誠実そうに見えるし、なんの関係もない人だからこそ、悔しいことでも話せるような気がした。
 ――優しそうな人だし、一緒に話すくらいならいいかなぁ……
 きっと東京で同じことを言われたら、そういう気持ちにはならなかっただろう。
 でも、ここはニューヨーク。日本人で、週末にブルックリン橋でジョギングをする余裕のある成人男性とはどんな人なのか、ライターとしても関心が出てくる。
 旅先の気軽さが、玲奈の気持ちを大きくさせていた。

「その……いいんですか?」
「せっかくだから、ブルックリン橋を渡り切った先にピザショップがある。そこまで歩こうか」

 それでもフルネームを名乗る気にはなれなくて、「レナと呼んでください」と言うと、「じゃ、僕のことはテツでいいよ」と気軽な感じで話し始めた。
 心地よい風を受けながら、玲奈は自分がライターであることと、記事を盗まれたことを簡単に説明する。

「へぇ、その男はずいぶんと酷いことをしたね」
「そうなんです。私の努力と時間を奪われたことが、凄く悔しくて」
「君さえよければ、腕利きの弁護士を紹介するよ?」
「いえ、こういう業界って狭いから、下手に騒ぐと私の方がダメージ受けちゃう可能性があって。一番いいのは、仕事できちんと見返していくことなんです」
「そっか、レナさんは偉いね」

 ただ並んで歩くのも心地よかった。これが面と向かっての会話だったら、適当なところで切り上げていただろう。
 ゆっくりと歩く玲奈の歩幅に合わせてくれる気遣いも嬉しい。
 ――不思議な感じ。初めて会ったのに、こんなにも気安く話してしまうなんて……
 か弱く見られるのが嫌で、女の涙を使うのは卑怯だからと人前では泣かないようにしている。
 それなのに彼の雰囲気がそうさせるのか、テツの前では気負うことなく泣いてしまい、自然体でいられた。
 ――こんなこと、初めてかも。
 気がついたら、だました相手が信頼していた彼氏であることも喋っていた。新卒時から世話になっていたけれど、恋人だった期間もどこか利用されている感じがしたことも。

「なんであんな男に惹かれちゃったのかなぁ」
「それはレナさんが仕事に真面目に向き合っていたからだよ。師匠みたいな存在なら恋をしていると錯覚しても、おかしくないよね」
「……そう、ですね」

 ほんの少し前に出会ったばかりなのに、まるで玲奈の全てを受け入れてくれるようだ。トクリと胸が高鳴るけれど、旅先で会った人に惹かれても先はない。
 頭を左右に小さく振り、玲奈は話題を仕事の話に切り替えた。
 これまで取材に行った国の話で盛り上がると、テツは玲奈にどうしてライターという職業を選んだのかと聞いてきた。

「小さな頃は、町にある図書館にこもって旅行雑誌とか、旅行記を読んでいたんです。それで、いつか自分も旅をして書いてみたいなって」
「へぇ、小さな頃からライターになりたかったんだね」
「小学校の卒業文集に、もう『将来はルポライターになって世界中を巡りたい』と書いていたくらいです。凄い田舎いなかだったから、外の世界にあこがれていたのかな」
「偉いね、こうして夢を叶えて頑張っているのだから」

 夢を叶えたと言われるとそうだけど、あまり実感はない。
 がむしゃらに勉強して、仕事をして、気がついたらニューヨークにいる。
 けれど、クズ男にひっかかりだまされたばかりだから、褒められるとなんだか余計にみじめな気持ちになってしまう。
 思わずうつむいたところで、「レナさん、大丈夫?」と低い声が降ってきた。

「は、はい。大丈夫です」

 顎を上げて彼を見上げると、太陽の光が顔にかかり一瞬眩しくなる。
 陰になっていても美しい眼差しが、玲奈の見えない心の壁を撃ち抜いていた。


 二人でのんびりと歩き続けてしばらくすると、橋のたもとにあるピザショップにたどり着く。
 店の前には長い行列ができていた。待とうかどうしようかと一瞬迷うけれど、できればもう少し彼と一緒にいたい。
 玲奈がチラッと上目遣いになってテツを見上げると、切れ長の綺麗な目と視線が重なる。彼は形のよい口元で弧を描いて微笑んでいた。

「ちょっと待つみたいだけど、大丈夫?」
「テツさんの方こそ、ジョギングの途中だったのに、いいんですか?」
「今日はオフだし、レナさんの話ももう少し聞きたい。まだ、喋り足りないのでは?」

 玲奈を気負わせないためか、テツは目元を柔らかくして笑った。
 ――あ、素敵。
 彼の優しくて誠実な態度が玲奈の心の壁を溶かしてくれる。容姿だけではない、内面から溢れ出る人のよさが心地いい。
 さっきとは比べ物にならないほど、心臓の鼓動がうるさいくらいに鳴っている。
 テツと一緒に行列に並んで待つ時間は、少しも苦にならなかった。
 彼の低音で心地よく響く声を、このままずっと聞いていたい。そんな風に思ったところで、ようやく店内に入ることができた。
 白い壁にはモダンな絵がかけられ、木目調の二人掛けのテーブルが置かれている。その上には焼き立てのピザを置くためのスタンドもあり、本格的な店だった。
 店内は観光客らしき人たちで賑わっている。

「ここって石炭窯で焼くピザなんですね。楽しみ!」
「ハーフ・ハーフもあるみたいだよ。二人でミディアムサイズを頼んで、分けて食べようか」

 まるで以前からの知り合いのような気安さで、ホールピザをオーダーする。
 ディナーには少し早い時間だけれど、歩いていたからちょうどよくお腹もすいていた。ジンジャーエールを頼むと、二人の前にジョッキグラスになみなみと注がれたものが届けられる。
 炭酸も強く、生姜しょうがの匂いがしっかりあった。

「わぁ、本格的なジンジャーエール。……飲み切れるかな」
「はは、無理しないで」

 他愛ないお喋りをしつつも、玲奈はメモを取り出した。
 取材ではないけれどメニューや店内の様子など、何かあった時に思い出して書けるようにする。思わず夢中になって書き始めたところで、あっと思い顔を上げた。

「ごめんなさい、私、職業柄なんでもメモしておきたくて」
「レナさんは本当にライターなんだね」

 特に機嫌を悪くすることもなく、感心したふうにテツは玲奈を眺めている。
 館内は同じライターでありながらも、デート中にメモを取るとプライベート感がなくなるからやめてほしいと言っていた。
 テツの年齢を聞いていないけれど、館内と同じくらいに見える。それなのにテツの方がはるかに包容力があり、大人の男の余裕を感じる。
 今も長い足を組んでイスに腰かける姿は悠然ゆうぜんとしていて、モデルのようにカッコいい。
 店内にいる女性たちの視線をなんとなく感じるのは、テツの整った容姿のためだろう。玲奈はメモとペンをかばんの中にしまい込んだ。


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