38 / 61
第二章
2-7
しおりを挟む気分転換にお菓子を焼いた私は、いつものようにディリスお兄様の休憩時間を狙って鍛錬場に来た。そこにはウィルティム様はいなくて、お兄様しかいなかった。
「ディリスお兄様、知っていたんですよね、ウィルティム様がウィルストン殿下だって」
今日のお菓子はミニアップルパイ。時間をかけてパイ生地も丁寧に作った。
「あぁ、うん、今日のパイは絶品だな」
もぎゅもぎゅと一つ食べると、もう一つと手を出してくる。
「お兄様。どうして教えてくれなかったのですか、そうであれば、あんな無謀なことしなかったのに」
純潔を捧げた夜のことを思い出す。あの夜、ディリスお兄様は殿下の部下から何か話を聞いているはずだ。でなければ、お父様の直筆の婚約を許可する手紙を得ることはできなかっただろう。
「リアリム。お前、後悔しているのか? 俺は、てっきり二人とも両想いだから、だから宣誓書も署名したと思って父上に依頼したのだが。もしかして、騙されて書かされたのか?」
「あ、お兄様、その、あの夜のことは大丈夫です。私が勝手に、いえ、ウィルティム様と夜を過ごせて、私はとても幸せでした。でも、そのことでウィルストン殿下と婚約することになるとは、思っていなくて」
お兄様は、美味しそうに食べていたパイを一息でゴクンと飲み込んだ。
「あの野郎、俺は、お前が納得しているとばかり思って」
私の桃色の髪よりも赤みが強いお兄様の髪。その赤い髪が燃えているかの如く、ディリスお兄様は怒気をもった目で遠くを睨んでいる。
「お、お兄様。怒らないで、本当に私が、私が望んだことだから、そのことは後悔していないの。ただ、ちょっと驚いてしまって。だって、私、本当に平凡に過ごしたかっただけで、まさか王子妃になるなんて、気持ちが追いつかないの」
ディリスお兄様は、それでも「アイツ、今度来たら叩きのめす」と恐ろしいことを言っているけれど。
「リアリム、すまない。俺はお前がウィルティムのことを好きなことを知っていたから、てっきり、殿下だとしても問題ないと思っていた」
「お兄様、問題大ありだけど、」
「そうか、そうだよな」
シュンと頭を垂れたお兄様。ちょっと情熱的過ぎるお兄様は、きっと私の恋が成就するのがいいと単純に思ったのだろう。だからこそ、ウィルティム様に協力してきた。
その気持ちは素直に嬉しいけれど。
「だから、婚約話は少し待ってもらうことにしたの。私の気持ちの整理がつくまで」
それがいつまで、とは、はっきりしていない。
「そうか、お前がそうしたいのなら、俺は反対しないよ。とにかく、お前の気持ちが一番大切なんだ」
「ありがとう、お兄様」
吹き抜けていく風が、二人の間を通り過ぎていく。王子妃としての道が始まれば、こうして気軽にここに来ることも出来なくなる。
お兄様と過ごしてきた時間も、もう終わるのかもしれない。そんなことを思いながら、私は残っていたパイを口に入れた。ホロっと崩れるパイの味は、よくわからなかった。
意識しないまま、私は涙を流していた。頬を伝う涙が口に入り、ようやく私は自分が泣いていることに気が付いた。
「リアリム、すまない、そんなにもショックだったか」
私の涙を見て、ディリスお兄様は私をそっと引き寄せて私の頭を胸にくっつけた。
優しいお兄様の腕の中で、私は次第に嗚咽交じりに泣き始める。うぐっ、うぐっと止まらない涙を、お兄様は黙って受け止めてくれた。
それは、お兄様との時間が終わることが悲しいのか、それとも憧れて好きだった人が王子とわかったショックなのか、よくわからなかった。
けれど、泣きながら私の髪を優しく撫でてくれるディリスお兄様という存在を、私はただ嬉しく思うのであった。
社交界シーズンの今、時折王宮においても夜会が開かれる。今夜は社交界デビューの令嬢が多く参加しているから、ウィルストン殿下は第一王子として彼女達と踊るのに忙しい。
彼が約束通り送って来たのは、一見シンプルだけれど使われている素材は高級なドレスだ。淡い桃色のプリンセスラインのドレスは、銀色の糸で蔦模様が刺繍されていた。
まるで、私に絡みつく殿下の想いを表しているようだ。もう離さない、と主張するような。
一瞬、ぞわりとした悪寒を背中に感じる。
普段は、こんなにも華やかな色のドレスは選ばない。イザベラ様の腰ぎんちゃく要員としては、彼女より目立つような色のドレスを着るわけにはいかない。
でも本当は、こういうガーリーな色のドレスが着たかった。
「似合うかなぁ、初めてだけど」
桃色の髪をふわりと下す。今日は髪を巻いて、ふわふわとさせている。殿下はドレスだけでなく、私の髪色に合わせたカチューシャとアメジストのネックレスも贈ってくれた。
全て纏うと、まるウィルストン殿下に抱かれているような気がする。少し気恥しい。
イザベラ様と会うことを考えると気が重いが、遅かれ早かれ会わなければいけない。
今日はディリスお兄様のエスコートで会場に入る。お兄様は「今日も綺麗だよ、自信をもって」と言ってくれるけど、夜会では極力目立たずにいたい。
けれど、大広間に一歩足を踏み入れた途端、絡みつくような視線で注目された。
どこからともなく、ひそひそと私のことを噂する声が聞こえてくる。殿下、とか、アトリエで、など、やはりユウ君のことだろうか。
その噂話に気が付いたのか、お兄様はサッと顔色を変えて辺り一帯を睨みつけるようにみている。何かと見目の良いお兄様は、それはそれで注目される人だ。
いつもなら、すぐに次期伯爵の妻の座を狙う令嬢達に囲まれるけど、今日は私が傍にいるせいか、だれも声をかけてこない。
「お兄様、ちょっと気疲れしました。飲み物をとってきますね」
そう言ってドリンクを配る給仕のところに行こうとする私を、サッと引き留める方がいた。
普段は真面目な顔をしているチャーリー様が、その蒼色の髪をさらりと流し優し気な目で私を見つめていた。
「ミンストン伯爵令嬢、いや、リアリム様。私と1曲、いかがですか?」
気が付くとホールではダンスが始まっている。この広い会場のどこかで、ウィルストン殿下も踊っているのだろう、探そうとしても簡単にはいかない。
差し出された手を見ていると、ディリスお兄様が「リアリム、踊っておいで」と合図をしてくれた。
「っはい、ありがとうございます」
まさか、チャーリー様と踊ることになるとは思ってもいなかった。いつも、殿下の傍にいて仕事を進めるイメージしかない。でも、思えば何度もチャーリー様は私を助けてくれる、気配りの方だ。
1
お気に入りに追加
689
あなたにおすすめの小説
ある王国の王室の物語
朝山みどり
恋愛
平和が続くある王国の一室で婚約者破棄を宣言された少女がいた。カップを持ったまま下を向いて無言の彼女を国王夫妻、侯爵夫妻、王太子、異母妹がじっと見つめた。
顔をあげた彼女はカップを皿に置くと、レモンパイに手を伸ばすと皿に取った。
それから
「承知しました」とだけ言った。
ゆっくりレモンパイを食べるとお茶のおかわりを注ぐように侍女に合図をした。
それからバウンドケーキに手を伸ばした。
カクヨムで公開したものに手を入れたものです。
誰からも愛されない悪役令嬢に転生したので、自由気ままに生きていきたいと思います。
木山楽斗
恋愛
乙女ゲームの悪役令嬢であるエルファリナに転生した私は、彼女のその境遇に対して深い悲しみを覚えていた。
彼女は、家族からも婚約者からも愛されていない。それどころか、その存在を疎まれているのだ。
こんな環境なら歪んでも仕方ない。そう思う程に、彼女の境遇は悲惨だったのである。
だが、彼女のように歪んでしまえば、ゲームと同じように罪を暴かれて牢屋に行くだけだ。
そのため、私は心を強く持つしかなかった。悲惨な結末を迎えないためにも、どんなに不当な扱いをされても、耐え抜くしかなかったのである。
そんな私に、解放される日がやって来た。
それは、ゲームの始まりである魔法学園入学の日だ。
全寮制の学園には、歪な家族は存在しない。
私は、自由を得たのである。
その自由を謳歌しながら、私は思っていた。
悲惨な境遇から必ず抜け出し、自由気ままに生きるのだと。
闇黒の悪役令嬢は溺愛される
葵川真衣
恋愛
公爵令嬢リアは十歳のときに、転生していることを知る。
今は二度目の人生だ。
十六歳の舞踏会、皇太子ジークハルトから、婚約破棄を突き付けられる。
記憶を得たリアは前世同様、世界を旅する決意をする。
前世の仲間と、冒険の日々を送ろう!
婚約破棄された後、すぐ帝都を出られるように、リアは旅の支度をし、舞踏会に向かった。
だが、その夜、前世と異なる出来事が起きて──!?
悪役令嬢、溺愛物語。
☆本編完結しました。ありがとうございました。番外編等、不定期更新です。
毒を盛られて生死を彷徨い前世の記憶を取り戻しました。小説の悪役令嬢などやってられません。
克全
ファンタジー
公爵令嬢エマは、アバコーン王国の王太子チャーリーの婚約者だった。だがステュワート教団の孤児院で性技を仕込まれたイザベラに籠絡されていた。王太子達に無実の罪をなすりつけられエマは、修道院に送られた。王太子達は執拗で、本来なら侯爵一族とは認められない妾腹の叔父を操り、父親と母嫌を殺させ公爵家を乗っ取ってしまった。母の父親であるブラウン侯爵が最後まで護ろうとしてくれるも、王国とステュワート教団が協力し、イザベラが直接新種の空気感染する毒薬まで使った事で、毒殺されそうになった。だがこれをきっかけに、異世界で暴漢に腹を刺された女性、美咲の魂が憑依同居する事になった。その女性の話しでは、自分の住んでいる世界の話が、異世界では小説になって多くの人が知っているという。エマと美咲は協力して王国と教団に復讐する事にした。
まだ20歳の未亡人なので、この後は好きに生きてもいいですか?
せいめ
恋愛
政略結婚で愛することもなかった旦那様が魔物討伐中の事故で亡くなったのが1年前。
喪が明け、子供がいない私はこの家を出て行くことに決めました。
そんな時でした。高額報酬の良い仕事があると声を掛けて頂いたのです。
その仕事内容とは高貴な身分の方の閨指導のようでした。非常に悩みましたが、家を出るのにお金が必要な私は、その仕事を受けることに決めたのです。
閨指導って、そんなに何度も会う必要ないですよね?しかも、指導が必要には見えませんでしたが…。
でも、高額な報酬なので文句は言いませんわ。
家を出る資金を得た私は、今度こそ自由に好きなことをして生きていきたいと考えて旅立つことに決めました。
その後、新しい生活を楽しんでいる私の所に現れたのは……。
まずは亡くなったはずの旦那様との話から。
ご都合主義です。
設定は緩いです。
誤字脱字申し訳ありません。
主人公の名前を途中から間違えていました。
アメリアです。すみません。
【完結】ふしだらな母親の娘は、私なのでしょうか?
イチモンジ・ルル
恋愛
奪われ続けた少女に届いた未知の熱が、すべてを変える――
「ふしだら」と汚名を着せられた母。
その罪を背負わされ、虐げられてきた少女ノンナ。幼い頃から政略結婚に縛られ、美貌も才能も奪われ、父の愛すら失った彼女。だが、ある日奪われた魔法の力を取り戻し、信じられる仲間と共に立ち上がる。
歪められた世界で、隠された真実を暴き、奪われた人生を新たな未来に変えていく。
――これは、過去の呪縛に立ち向かい、愛と希望を掴み、自らの手で未来を切り開く少女の戦いと成長の物語――
旧タイトル ふしだらと言われた母親の娘は、実は私ではありません
他サイトにも投稿。
虐げられた人生に疲れたので本物の悪女に私はなります
結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
恋愛
伯爵家である私の家には両親を亡くして一緒に暮らす同い年の従妹のカサンドラがいる。当主である父はカサンドラばかりを溺愛し、何故か実の娘である私を虐げる。その為に母も、使用人も、屋敷に出入りする人達までもが皆私を馬鹿にし、時には罠を這って陥れ、その度に私は叱責される。どんなに自分の仕業では無いと訴えても、謝罪しても許されないなら、いっそ本当の悪女になることにした。その矢先に私の婚約者候補を名乗る人物が現れて、話は思わぬ方向へ・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
記憶喪失になった嫌われ悪女は心を入れ替える事にした
結城芙由奈@12/27電子書籍配信中
ファンタジー
池で溺れて死にかけた私は意識を取り戻した時、全ての記憶を失っていた。それと同時に自分が周囲の人々から陰で悪女と呼ばれ、嫌われている事を知る。どうせ記憶喪失になったなら今から心を入れ替えて生きていこう。そして私はさらに衝撃の事実を知る事になる―。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる