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第三話
しおりを挟む「マ、マスターッ!」
「っ、はっ」
口づけを解いた彼は、忌々し気に私を見下ろす。まるで汚らしいものをみているような視線に、心が凍りつく。
——マスターに、嫌われた……?
ドクン、とひと際強く鼓動する。それはそうだろう、無理やり発情しかねない状況に追い込んでいるのは、私だからだ。
「ご、ごめんなさい……」
彼はギリ、と奥歯を噛んで目を閉じると、周囲に漂う淫魔のフェロモンを吐き出すようにふーっと深く息を吐いた。
「くそっ」
制御できない欲望を恨むように頭を小さく降る。常に冷静で落ち着いている彼が、抗うことのできない衝動に苦しむように唸り声をあげる。
「あっ、んんっ」
再び唇が重なり合う。今度は初めから深いキスだ。唇の裏側を重ねるように何度も食まれ、口を開けたところで舌先が入り込む。高揚した気持ちのまま、私も舌を絡ませ唾液を飲み込んだ。
——熱い、こんなにも熱いなんて……
服ごしに彼の体温を感じる。がっちりとした体躯に、筋肉質な腕が私の背中を支えている。いつの間にか、ぴったりとくっつきながら、私は腕を彼の背中に回していた。
ドクドクと高鳴る心臓の音が耳に響く。このまま、彼に暴かれてしまうかもしれない。
いつか、誰かに襲われてしまうことを覚悟していた。淫魔の血が覚醒する時を、自分ではコントロールできないからだ。だから、そうなる前に誰かと身体を重ねていれば良かったのに――私はキスさえしたことのない淫魔だった。恋愛に夢を見すぎて、簡単に純潔を捨てることができなかった。
「んっ……はぁ、……んんっ」
これ以上、フェロモンがでないようにと目をぎゅっと閉じる。それでも彼の熱を感じ、匂いを嗅いでキスをしていると、流れ出していくのを止められない。
「ごっ、ごめんなさいっ」
キスの合間に、瞳を潤ませながら謝ると、マスターは「いいから」と言って再び口づける。誰もいないギルドで二人、唇を重ねる水音だけが部屋中に響いている。
けれどマスターは執拗に私の口内を舐めながらも、それ以上のことをしてこなかった。ぴたりと身体をくっつけながらも、手は背中にあてられたままだ。淫魔の本能が、それ以上を求めているのに刺激が与えられない。
時折、口が離れる度にマスターから「息を吸うんだ」と言われる。キスと深呼吸をくり返していくうちに、私の身体から放出するフェロモンが落ち着いていく。
鼓動も収まり、最後は二人の間を銀の糸が引くようにして、口を離した。はぁ、はぁと息を整えながら彼を見上げる。
「どうだ、少しは落ち着いたか」
「……はい」
彼の目も、いつものように漆黒に戻っている。近くにあるソファーに座らされ、深呼吸をする。すると一旦傍を離れた彼から水の入ったコップを手渡された。
「こんなことは、初めてだったのか?」
私はコップの水を飲み終えると、コクリと頷く。不思議と彼の低い声を聞いていると、心が凪いでいった。
「私以外の男の前で……フェロモンを出したことはないんだな?」
「はい。……マスターだけです」
答えると彼は「そうか」と言い目を閉じると、何かを考えるように額に手を置いた。
「吸血族と、淫魔のミックスか……。多分だが、私の血を飲んだことで淫魔の血が活性化したんだろうな」
「え、マスターの血で?」
「……そうだ」
ママからは淫魔のフェロモンが溢れた時は、大抵近くにいる異性に襲われてしまう。けれど、一度でも精液を受け入れれば後はコントロールできるようになるとも聞いていた。
でも、私はマスターとキスをしただけで、落ち着いてしまった。
「あの、マスターは大丈夫ですか? 私のフェロモンをあんなに浴びたのに」
「大丈夫ではなかったから、お前に口づけてしまっただろう」
彼はギロリと睨むように私を見下ろす。冷たい視線がちょっと怖い。
「そ、そうですよね……でないと、私なんかに触れたくなんてないですよね」
「そうではない」
「え、えっと、はい」
腕を組んだ彼は、私を呆れたように見つめながら話し始めた。
「お前の秘密を知ったからには、私のことも伝えておこう。私は竜人の血をひいているから、血を飲むと身体が活性化すると言われている」
「りゅ、竜人!」
なんかものすごいことを聞いてしまった! 竜人なんて、もはや伝説上の存在かと思っていたのに。どうりでマスターは強いわけだ。竜人は身体をうろこで硬化することもできると言われている。
思わずぽかんとしてしまう。でも、肉体も精神も強い竜人だったから、淫魔のフェロモンにも誘惑されなかったのだろうか。
「竜人だから、淫魔フェロモンが十分効かなかったんですね?」
「……」
それには反応しないまま、彼は大きく息を吐いた。
「お前は、フェロモンの影響で抱かれたくはないのだろう?」
「え」
「ウサギ耳と話していたではないか。初めては恋人がいいと。だったら、見つかるまで私が淫魔の血を抑えてやる」
「そんなこと、できるんですか?」
この淫魔フェロモンがでないように、手伝ってくれるというけれど。要するに、定期的にフェロモンを発散させれば、思わぬところで放出して事故を起こすことはないだろう、と提案される。
「でも、それだとマスターにフェロモンを浴びせちゃう……」
「大丈夫だと言っただろう。私なら耐えられる」
ママも姉さんたちも、フェロモンを浴びて落ちない男はいないと言っていた。パパは苦笑いしていたくらいだから、本当の話だと思っていたけど。違うのだろうかと、私は目をぱちぱちと瞬かせた。
「……本当に? でも、迷惑ではないですか?」
「言っただろう、私は竜人だと。それに、万が一昼間のギルドでフェロモンをまき散らされるよりは、迷惑ではない」
淡々とした表情で伝えてくれるけれど、信じられない程ありがたい話だ。ホッとすると同時に、思わず聞いてしまう。
「……私、仕事を辞めなくてもいいのですか?」
「誰が辞めろと言った。お前ほど仕事慣れした者はいない。……私にとって、大切な職員だ」
思わず胸がぐっと迫る。これまで働いてきたことを、認めてくれた。それだけでなく、こんなにも迷惑な体質でも辞めなくてもいいと言ってくれる。
——どうしよう、嬉しい……!
「仕事が終わったら、私の家で少し血を舐めればいい。一人暮らしだから、フェロモンが漏れようが気にする必要はない。少し触れ合えば、落ち着くだろう。そうだな、週に一度でどうだ」
え、と声が漏れそうになる。マスターからの提案は、私にとってありがたいものだけど……本当に、いいのだろうか。
「でも、そんなことしたらマスターの休みを奪ってしまいます!」
「だったら、早く恋人とやらを作るんだな」
「は、はいっ」
思わず返事をしてしまうけど、私なんかがマスターの家に行ってもいいのだろうか。疑問は残るけれど、彼は否と言わせる雰囲気はなかった。マスターから言ってくれた話だから、断るのもおかしい。
「では、しばらくと思いますが……よろしくお願いします」
頭を下げた私を見て、マスターは形の良い口元をくっと上げた。何かを企んでいるような目をしながら、腕を組んでいる。
私は自分が囲い込まれつつあることに、この時は全く気がついていなかった。
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