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1巻

1-2

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「僕が無線で救援を頼むから、その後のフォローをお願いできるかな」
「フォローって、何をすればいいのですか?」
「無線を聞いて、必要なことがあれば受け答えしてくれたら大丈夫だよ。君なら英語もフランス語もわかるよね」
「はい」

 無線で交わされる会話をずっと聞いていたから、理解はできる。でも受け答えとなると、会話に入らないといけない。普段と違い、相手は国連や軍隊の人たちだ。

「大丈夫、電話と違って言葉を短めに。語尾にまだ続く時はオーバー、終わる時はアウト。これができればいい。聞いている限りだと、喋っている人は無線の基本も、アルファベットの伝え方もなってないしね」
「そうですけど……私が話した言葉を、無線で受けている人がみんな聞いているんですよね」
「うん、でも大丈夫。君ならできるよ」

 力強い声で励まされると、できそうな気がしてくる。何よりも、今動ける人が動かないと、状況は変わらない。言葉のレベルで言えば、自分の方が藤崎よりも上手だから、一三条も頼んだに違いない。

「わかりました、やってみます」

 美玲は助手席側に立つと、無線の通話器の部分を持った。ボタンを押し続けている間は会話に入る、離せば出る、という単純なものだ。

「僕がやるように会話すればいいから」
「はい」

 一三条は通話器を持つと、『こちら日本の車両、ナンバーは――車のタイヤがパンクしたから、ジャッキが欲しい。オーバー』と通話を切る。すると受信機から声が聞こえた。

『こちら国連担当、車の位置と車両の色を教えてくれ。オーバー』
『位置は中ほど、車の色は白、ピックアップで右前のタイヤがパンクしている。オーバー』
『わかった。ジャッキを持ってすぐに向かう。予備タイヤはあるか? オーバー』
『予備タイヤはある。救援を待っている。アウト』
『オーケー、アウト』

 通話が終わると、一三条はふぅ、と息を吐いた。救援が来ると聞いて、二人ともホッとしたのか目が合った途端、笑顔になる。

「ほら、簡単だろう? また話しかけられたら、日本の白のピックアップって答えればいいよ」
「簡単じゃないですよ……でも、頑張ってみます」

 顔を上げた美玲は、頑張るぞと気合を入れて両方の手で拳を作る。そんな彼女の仕草が可愛らしく見えたのか、一三条は口元に笑みを浮かべた。

「君ならできるよ」
「はい」

 しばらくすると、国連の車両と一緒にイタリア人を乗せた車が到着する。どうやら本職の整備士がいたのか、彼の身振り手振りに従ってジャッキが設置され、あっという間にタイヤの交換が終わった。
 その間、無線で話しかけられないかとドキドキしてしまう。藤崎の「できたぞ!」という声を聞き安心したところで、無線から助けを求める声が聞こえた。

『腹痛を訴える人がいるが、医師はいないか? オーバー』
『国連だ。車列のどのあたりにいる? 病人は一人か? オーバー』
『一人だ。列の真ん中あたりだ。オーバー』
『今、医務官がいない。これを聞いている者で医師はいないか? オーバー』

 バクバクと心臓が鳴っている。医師である藤崎ならここにいる。美玲は通話器を手に持つと、藤崎に目で合図をする。無線の内容を聞いていた彼は、うん、と大きく頷いた。
 すーっと息を吸った美玲は、通話器のボタンを押した。

『こちら日本、医師が一人いる。真ん中あたりで、止まっている白のピックアップ。オーバー』
『良かった! さっき通り過ぎたから、こちらから向かう。オーバー』
『では待っている。アウト』
『すぐに行く。アウト』

 通話が終わった途端、美玲は全身の力がふっと抜けてしまう。良かった、と思うと同時にこれから患者が来るのだと気を引き締める。

「先生、今からこちらに向かうようです」
「そうだな。準備をしてくれ」
「はい!」

 慣れていない自分でも役立つことができた。安心するとともに、国という垣根を超えて協力しあえることに感動を覚える。
 しばらくして到着した車両にいる急病人を見た藤崎は、真剣な表情で水を飲ませ鎮痛剤を渡した。応急処置でしかないが、今の状況ではこれが限界だった。
 一連のトラブルが終わった時には、美玲も藤崎も、一三条さえも砂を被ったように服の色が茶色くなっている。

「藤崎先生、顔にまで砂がついていますよ」
「ああ、さっきの砂嵐はひどかったからな」
「そういう一三条さんも、背中が凄いことになっています」
「あっ、え? そう?」

 三人で互いの身体についた砂をはたき落としてから、車に戻る。随分と遅れてしまったけれど、ゆっくりと進む車列だから、すぐに追いつけるだろう。

「橋渡さん、聞いたよ。無線で急患を引き受けたんだってね」
「ええ、緊張したけれど、なんとかなりました」
「やっぱり、君は凄いよ」

 そんなことない、と思いつつも一三条に褒められ嬉しくなる。美玲は頬をうっすらと染めるが、危険と隣り合わせの退避中であることに変わりはない。
 車列に国連の旗がついていても、ひとたび停戦が破られれば攻撃対象となる。部隊によっては末端まで命令が行き届かないことも往々にしてあった。ひやひやしながらも進む車列は、幸いにも砲弾を受けることなく進んでいく。
 ようやく港にたどり着くと、そこには邦人救助のために飛んできた自衛隊のC2輸送機が到着していた。これで国外に出ることが可能となる。美玲はホッと胸を撫で下ろすけれど、一三条の仕事はむしろこれからだ。連絡や調整のため、まだ留まっている日本人のために彼は危険なこの地に残ると言う。
 車を降りる時に、これで最後と思い美玲は思い切って声をかけた。

「一三条さん、ありがとうございました。日本に無事に帰ったら……あの」
「帰ったら、一緒に乾杯しましょう」

 一三条も安心したのか、硬い表情を崩して笑顔になる。さわやかな微笑みに惹かれるように、美玲も「はい」とはにかみながら返事をした。
 帰国したら連絡してほしい、と渡されたのは他の日本人と同じ外務省の番号が書かれたチラシだった。
 ――これって、他の人にも渡していたものと同じ……
 受け取った紙を見た美玲は、はっと顔を上げた。

「わかりました」

 ほんの少し期待したけれど、やはり一三条にとって自分は保護すべき邦人の一人に過ぎない。特別なものは何もないと、美玲は走り出しそうになっていた気持ちにブレーキをかける。

「それじゃ、また」

 一三条は名残なごりしそうに挨拶をすると、駆け足で美玲から離れていく。
 ほんの短い出会いだったけれど、美玲には忘れられない体験となった。
 内戦激化のための国外退避なんて、もう二度と経験したくはないけれど……熱い眼差しを持つ彼、一三条誠治に再び会いたいと思わずにはいられなかった。



   第二章

 日本に帰国した途端、美玲は疲れを覚えて休んでいた。心身ともに無理がたたったのだろう、心因性のものだからゆっくりと休むようにと医師から言われてしまう。
 非営利団体のアフリカでの活動は中断となったため、休養を兼ねて美玲は仕事を辞めることにした。けれど実家に帰ろうにも、母親は自分の知らない男と一緒に暮らしているから近寄りたくない。
 藤崎にはしばらく休んだら、再びアフリカを目指そうと誘われたものの、美玲にその気力はなかった。
 結局、語学力を生かして美玲は外国語を教えるスクールで働こうと、面接を受けることにした。

『フランス語の他に教えることができる言語はありますか?』
『英語も得意ですが、ビジネス英語はできません』

 言語を教える経験を問われ、学生時代に教えていたことを伝える。ネイティブ並みの流暢りゅうちょうさから、無事に面接は通り就職が決まった。
 美玲は都心にある、働きながら言語を学ぶ人が多い地域に配置された。最初は研修を受け、次第にクラスを受け持つようになる。
 働きはじめるとすぐに、受付に座る事務の安斎あんざいちなつから声をかけられた。

「美玲先生、ちなつです。よろしくお願いします。ここは外国人が多いので、名前で呼ぶのが基本ですよ」
「そうなんですね。ちなつさん、よろしくお願いします」

 ちなつは背が低く、くりっとした目の可愛らしい人だった。すらりとした手足に、オリエンタルな雰囲気の美玲とは美しさのタイプが違う。意外と人見知りの美玲は、話しかけられた途端に嬉しくなる。
 ――可愛らしい人だなぁ……
 年齢も近い二人はすぐに仲良くなった。どちらもお弁当を持ってきていたので、昼食はスタッフ控室で食べるようになる。
 ちなつの話題は流行のドラマや音楽についてなど、アフリカにいた時は忘れていたことばかりだ。新鮮な気持ちで聞いていると、頷いてばかりいる美玲にちなつは驚きを隠さない。

「美玲先生って、もしかして流行とかに興味なかった?」
「そんなことないんだけど、二年近くアフリカにいたから、感覚が戻らなくって」
「え! アフリカに二年もいたの?」

 そこから話が弾み、美玲は半年前の出来事を伝えた。日本でも大きく報道されていたから、ちなつは興味深く聞いてくる。
 美玲も話すことで自分を振り返ることができ、気持ちが整理されていく。

「だから、時々浦島太郎うらしまたろうみたいなの。ちなつさんには、いろいろと教えてほしいな」
「はい!」

 実家暮らしのちなつは、母親が未だにお弁当を作っているという。中学生の頃からお弁当は自分で作っていた美玲は違いを感じ、少しだけ心がうずいた。
 けれど、いつものように気持ちに蓋をする。

「そうだ、美玲先生は美人だから、生徒さんとのトラブルには気をつけてくださいね。ストーカーになっちゃう人とかいるので」
「そんなこと、本当にあるんですか?」
「いますよ! 語学スクールに恋人を探しに来る人。そりゃ、はじめは本気で言葉を学びますよ。でも、グループでいろんな人と会話すると、出会いの場にもなるんですよね。講師を好きになっちゃって、本気で口説くどく人もいるし」
「そうなんだ……でも、私はフランス語だからなぁ」

 英語と違って、フランス語は日常で必要となる場面が少ない。だから学びに来るのは仕事でどうしても必要があるなど、学習意欲の高い生徒しかいなかった。

「でも、最近噂になっていますよ」
「噂って?」
「フランス語に美人の先生がいるって。最近、プライベート・レッスンの問い合わせが多くて」

 先生と生徒、一対一で行うプライベート・レッスンはグループ・レッスンに比べて料金が高い。基本的にグループでの受講を推奨しているから、美玲はまだ受け持ったことがなかった。

「そうなんだ。一対一って、緊張しちゃいそう」
「生徒さんの方が、美玲先生みたいな美人と過ごせるから、緊張すると思うけどなぁ」
「ちなつさんの思い違いだよ。私、そんなに言うほどモテたことないし」
「美玲先生って、時々自己肯定感が低いですよね」
「そうかなぁ……」
「そうですよ。こんなにも美人なのに恋人もいないなんて、信じられない。もしかして片想いの相手とか、いるんですか?」

 そこまで言われるとぐっと黙るしかない。恋人はいないけれど、片想いならしている。
 美玲の頭に浮かぶのは、一人の男性だ。アフリカの強い日差しの下、鋭い眼差しで見つめられた。終始緊張感があったけれど、最後に笑った顔を見せてくれた彼。
 ――一三条誠治二等書記官。
 アフリカで出会ってから半年も過ぎているのに、美玲は毎日思い出しては、ため息を吐いていた。
 渡された外務省の電話番号にかける勇気はない。かければきっと、あの時の退避日本人として心的相談センターに回されてしまうだろう。そこで一三条の名前を出したとしても「それは吊り橋効果の恋です」と言われるに違いない。
 まさしく吊り橋効果だろう。けれど、きっと東京で会ったとしても。
 ――あんなにも素敵な人だから、絶対に好きになっちゃう……
 会って、もう一度話をしてみたい。でも――チラシに載る円の形をした外務省のシンボルを見ると、身がすくんでしまう。
 自己肯定感が低いだけでなく……美玲が引け目を感じる理由はもう一つある。
 実家にいる母、海鈴みすずのことだ。両親が離婚したのは、海鈴の不倫が原因だった。離婚当時、美玲は口論している二人の様子からそのことを知っていたし、フランス人の父はしっかりと説明してくれた。
 どちらが美玲を引き取るか、という話になると、男と別れたばかりの海鈴は寂しいから連れていくと言って聞かなかった。美玲も母親から一緒にいてほしいと言われると、愛されていると思い見捨てることができない。
 結局、父親に時折面会することを条件とした離婚が認められた。けれど海鈴は美玲を連れて勝手に帰国し、二人で一緒に日本に住みはじめた。父親は突然断りもなく日本に帰った海鈴を許すことができず、連絡は絶たれたままだ。
 今の美玲であれば、自ら父親に連絡することはできるけれど……十年以上も離れ、すでに再婚もしている父親が娘からの連絡を喜ぶとは思えない。
 日本に帰った母親は、美貌にものを言わせて、付き合う男性をころころと替えていた。さすがに年ごろの娘のいる家に男を連れてくることはなかったけれど、美玲は早く家を出たくて仕方がなかった。
 そんな母親を身近に見ていたから、恋愛には消極的になっていた。どれだけ美人だ、綺麗だと言われても自分とそっくりな、奔放ほんぽうすぎる母を思い浮かべ嫌になってしまう。
 こんな自分が、外交官の中でもエリートのキャリア官僚である彼を想うことすらおこがましい。思い出は胸にしまっておこうと、美玲は彼から受け取ったチラシを折りたたむ。
 ――もう、いい加減に忘れなきゃ……
 こんなにも一人の男性を想い続けた経験はなかった。恋愛偏差値の低い美玲には、どうにもならない想いの行先を見つけることは容易ではない。
 ため息を吐くことしか、美玲にはできなかった。

 日々の仕事をこなしながら、休みとなった日曜日。美玲は勤めていた非営利団体の参加するイベントに久しぶりに顔を出すことにした。
 都内にある大きな広場で開催され、国内にある主要な非営利団体や国際開発を行う機関が一堂に会するお祭りだ。外務省などが共催しているから、関心のある学生や人々が大勢訪れる。
 非営利団体にしてみると、支援者にアピールする大切な機会だから、おのずと準備に熱が入る。フェアトレードの品物を売るブースを用意し、そこでコーヒーを売っていた。
 アフリカで栽培されたものを販売しているが、数や品質が均等にならないため市場では流通させにくい。そのため団体が買い取っているけれど、売り上げはそれほど多くない。
 それでも、酸味の強いコーヒー豆は一部の支援者には人気が高かった。
 一度飲めばその味のとりこになる。職員だった時にコーヒー農園を訪れていたから、美玲は製品が売られているのを見て一安心した。
 ――本当は、売り子も手伝いたかったけど……
 ボランティアとして、これからも関わりたいと思っていた。アフリカの陽気な人たちを知っているから、もっと何かできることをしたい。けれど……
 アフリカのことは好きでも、まだ恐ろしい紛争地のイメージが残っている。あの砂埃すなぼこりの風をもう一度受ける覚悟がつかない。
 しかし、そこに住む人々は皆素朴な人たちだった。乾燥イチヂクをくれたマリアのように、優しく強い女性たちばかりだった。
 ――また、行きたいなぁ……
 いつか平和になった時に、もう一度行ってみたい。
 目を閉じるといつでもアフリカの照りつける太陽と、大柄で陽気な女性たちを思い出す。そして、少し日に焼けた怜悧れいりな瞳の彼を――
 非営利団体のブースにたどり着いた美玲は、顔なじみのスタッフに声をかけられた。

「美玲さん、お久しぶりです!」
「こんにちは。みんな元気そうだね」

 美玲はせっかく訪問したからと、コーヒー豆を購入する。これなら、休憩時間にれることができそうだ。それに、ちょっとだけげ感の強いローストも懐かしい。

「はい! コーヒー豆ですね。あ、そういえば藤崎ドクターも来ていましたよ。まだこのあたりにいるのかなぁ」
「藤崎先生もいるの? じゃ、ちょっと探してくるね」

 美玲は会場をぐるりと歩きはじめる。非営利団体といっても、活動内容や規模は様々だ。美玲の働いていた団体のように、海外に日本人の駐在員を置けるところは少ない。
 小さな団体は小さいなりに得意な分野で支援している。あまり人々に注目されない地域に密着している団体もある。それら一つ一つのブースを見るのも、研修で知り合った仲間に声をかけあうのも楽しみの一つだった。
 アフリカで活動している団体のパンフレットを見ていると、後ろから声がかかる。

「おっ、美玲君じゃないか」
「藤崎先生!」

 白髭をたくわえた藤崎は、以前と変わらず朗らかな表情をしている。

「元気にしていたか? そういえば、転職したって聞いたけど」
「はい、今は都内でフランス語を教えています」
「そうかぁ、君はいいパートナーだったけどなぁ」
「そう言っていただけると、嬉しいです」

 藤崎は豪快な笑顔を見せつつも、人のいない方へ美玲を呼び木陰に立った。

「どうだ、フラッシュバックはないか?」
「はい、もうテレビでアフリカの映像を見ても、懐かしいとしか思いません」

 藤崎は医師として美玲の心の状態を心配していた。恐ろしい体験をすると、どうしてもトラウマとして残ることがある。美玲が団体を辞めたせいもあり、藤崎は責任を感じていたようだ。

「そうか、それなら良かった。で、あれからあの、外交官の彼には会ったのか?」
「外交官のって、一三条さんですか? いえ」

 なぜ藤崎がそんなことを聞くのだろうかと不思議に思い、美玲は首を傾げる。その顔を見た藤崎は「まいったな」と頭をかいた。

「本当に、会っていないのか?」
「……はい」

 藤崎は困ったような顔をしながら「いや、余計なおせっかいかもしれないし」とぶつぶつ呟いている。

「一三条さんが、どうかされたのですか?」
「あー、いや。そういえば今、日本に帰国しているみたいだぞ」
「そうなんですか?」

 美玲はひと際大きく目を見開いた。総合職の外交官が一つの在外公館にいる期間は三年くらいと聞いたこともあり、彼は日本にはいないとばかり思っていた。
 話していると、藤崎を探していたスタッフに声をかけられる。彼は「すまん、また会おう」と言って戻っていった。
 潑剌はつらつとした藤崎の後ろ姿を見ると、自分もまた何かしたいと思う気持ちが湧いてくる。でも……
 美玲は顔を左右に振った。まだ、以前のようにボランティア活動をする気にはなれそうにない。
 今はここに来ることができただけでも、一歩前進だ。自分のからに閉じこもりがちな美玲は、自らを鼓舞するように歩きはじめると、中央に掲げられた看板が目に留まる。
 そこには『現役外交官が語る国際協力のホンネ』とあり、外務省ブースとして講演が予定されていた。
 ――現役外交官、かぁ……
 もしかして、と思って眺めていると、美玲は探していた人の名前を見つけてしまう。三番目に登壇するのは、中東アフリカ局の一三条誠治と書かれていた。

「一三条さんが、いる」

 何度も思い出していた彼が、この場所にいる。アフリカにいると思っていたのに、藤崎の言う通り日本に帰国していた。
 ――会いたい。ほんの少しでいいから、もう一度会いたい。
 時計を見ると、すでに講演がはじまる時間になっている。考える間もなく、美玲は走り出した。
 野外にもうけられた会場には、熱心に聞く人もいれば、単に立ち止まって雑談している人もいる。
 壇上に上がって話しているのは、日に焼けた精悍せいかんな顔つきをした彼だった。
 ――いた! あそこに、本当に一三条さんがいる……!
 マイクを通じて聞こえる彼の低いバリトンの声。アフリカにいた時は無造作に伸びていた髪が、今は切り揃えられ後ろにキッチリと撫でつけられていた。
 何よりも三つ揃えのスーツ姿が眩しい。白の細いストライプの入った紺色のジャケットに、ウェストコート。皺のない白のシャツにえんじ色のネクタイを締めている。日本では少し主張が強く感じる色合いだけれど、アフリカではよく見られる組み合わせだ。
 ――スーツ姿も、素敵!
 彼の雄姿ゆうしから目が離せない。壇上にいる一三条には、美玲のことはわからないだろう。当時は後ろで一つに縛っていた髪を今日は下ろし、くるりと巻いている。あの時は日焼け止めだけの素肌をさらしていたのに、今日はしっかりとアイメイクもしていた。
 服装だって、アフリカにいた時は長袖シャツに綿のパンツと地味だったけれど、今日はAラインのロングスカートをはいている。トップは黒のニットで、大ぶりな木のネックレスを重ねづけしていた。
 だから、きっと自分がここにいるとは思わないだろう。印象が違いすぎるし、あの日は全てが混乱していたのだから。
 ――でも、こうして元気そうな顔を見ることができて、良かったなぁ……
 彼は時折砕けた口調で、難しいテーマでさえもユーモアを交えて話している。最後に質疑応答の時間を迎えると、子どもの素朴な『アフリカって遠いですか?』という質問にも、丁寧に『遠いかもしれないけど、僕の心は近いよ』と答えていた。
 ――はぁ、やっぱりかっこいい……
 司会をしている女性の声が、上ずっているような気がする。一三条がかっこよすぎて、緊張しているのかもしれない。
 そんな妄想同然のことを考えていると、講演の終了する時刻が近づいてきた。いつまでも彼を見ていたいけれど、一三条は忙しいに違いない。この後も、現役外交官だからきっと仕事が待っているのだろう。
 もう行かなくちゃ、と美玲は立ち上がった。お尻についた汚れを払ったところで――

「美玲さん、待ってくれ!」

 壇上から、マイクを使って一三条が声をかけた。

「――!」

 振り返ると、一三条が「すみません」と司会者の女性に謝っている。そして壇上をひらりと飛び降りると、そのまま美玲の方へ走ってくる。
 あっという間に距離を詰めた彼は、美玲の傍に立った。ふわりと清涼感のある香りがただよう。

「久しぶり。元気だった?」

 息を乱しつつも髪をかき上げた彼は、別れた時と同じようにさわやかな笑顔を、目を丸くした美玲に向けていた。

「あっ、あの……」

 突然目の前に立った彼に、何を伝えればいいのかわからず美玲は狼狽うろたえる。足を止めた彼女に安心した一三条から「壇上で君を見つけたんだ。良かった、会いたかったよ」と言われ、さらに驚いた。

「会いたかった? 一三条さんが……私に?」
「ああ、君を探したけれど、もう非営利団体は辞めていると聞いて。藤崎先生に確認しても、美玲さんの転職先を知らないと言われて、どうしたものかと思っていたんだ」

 一三条はさっぱりとした笑顔で「この後、時間がある?」と聞いてきた。

「はい、今日は大丈夫ですけど」
「良かった、ちょっと待っていて。僕もこの講演が終われば自由になるから」
「はぁ」

 彼は責任者に挨拶してくるよと言い、戻っていった。突然のことに驚きつつも、美玲は嬉しさで胸が弾む。
 ――私に会いたかったって……

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