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バルシュ辺境伯と路地裏で③
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「シェナ、違うの! こちらの方に、危ないところを助けて頂いたの」
「お、お嬢さま……」
「私を守ってくださった、勇気のある方よ。そんな顔しないで」
シェナを安心させようと、私は彼の方を向くと柔らかい笑顔を見せた。
「供の者が失礼をしました、助けて頂いたお礼を何かさせてください」
私の笑顔をすぐ傍で見た彼は息を呑む。ゴクリと男らしい喉ぼとけが動くと共に、低い声が発せられた。
「それは必要ない」
「でも……」
どうしよう。このまま彼の腕の中にいたい……と思っても、あっという間に馬車に近づいてしまう。ギィ、と従者が扉を開けると彼は長い足で中に入り、長イスに私を座らせた。
そのまますぐに外に出ようとする男の服を持ち、上目遣いに見上げる。
「あの……お、お名前を教えてください」
「……いや、これからは供とはぐれないように」
「では! これで汗をお拭きください!」
私は馬車に置いていた鞄の中から、可愛らしい桃色のハンカチを取り出した。
「あっ、ご、ごめんなさい! こんな色しかなくて」
ただでさえ子どもっぽいのに、こんな桃色のハンカチを渡してしまうなんて。恥ずかしさで目を伏せるけれど、彼は気にしない様子で受け取った。
「ありがとう、では、これだけいただいていこう」
彼はハンカチを持つと大きな手で私の頭を撫でる。そして風のように馬車から降りると姿を消した。
横抱きをされている間に少しだけ黒い靄を払ったけれど、気晴らし程度のものだ。もっと時間をかけて、全てのもやもやを払いたかったのに。
けれど彼はもういない。馬車に入って来たシェナに聞いても、すぐに去っていったという。
「シェナ……私ったら、自分の名前も伝えられなかったわ」
「お嬢さま、それで正解です。このような危険な目にあったことを、社交界で話されてしまうといけませんから」
シェナの言う通りだけれど、やはりきちんとお礼を伝えたい。顔は良く見えなかったけれど、正義感に溢れた素敵な男性だった。
「でも……あのように恐ろしい顔をされていたので、てっきりお嬢様を攫おうとしているのかと思ってしまいました」
「まぁ、そんなにも怖い顔をされていたの? 私、靄がかかっていてわからなかったの」
「それはそれは……あの方はとても厳つい表情をされていて、本当に恐ろしくて」
「そうだったのね。とても優しい人だと思ったのに……。黒い靄もかかっていたけど、胸の辺りはとても暖かかったわ」
シェナは眉根を寄せると「お嬢さま」とため息を吐いた。彼はよほど恐ろしい顔をした人物のようで、ちょっぴり悲しくなる。
私には見えなかった彼の顔を、シェナに聞きながら頭の中で想像する。たくましい身体つきのように、厳しい表情の人だろうか。シェナによると、顔つきはまるで悪の集団の首領と言われても、仕方のない表情をしていたというけれど。
——彼は、そんな人ではないわ。あんなにも優しかったもの……
私の心の内を聞いても否定することなく、優しい言葉をかけてくれた。もう、無理をしなくていいと言われ、私はようやく気持ちに区切りをつけることができる。
王都の屋敷に無事に帰ることのできた私は、これまでを反省して弟のために肌着を用意することにした。ずっと姉らしいことをしていないから、名前を刺繍してあげようと針を手に取る。
けれど、私は彼を思い返す度にふわふわとして、何も手につかない。
そんな様子を見たアミフェ姉さまが声をかけてきた。
「アリーチェ、あなた、恋をしたわね」
「こっ、恋だなんて! そんなことは……」
恥ずかしくて俯いてしまうけれど、恋愛に関しては姉さまは玄人だ。もじもじしている私にアドバイスをくれる。
「いい、アリーチェ。恋は駆け引きなのよ、女にとって戦いなの! あなたには私の経験からまとめた『閨の格言』を教えてあげる」
「姉さま……!」
それから、姉さまによる特訓が始まった。格言を教わり暗唱する。私にとって、それは刺激的で目の開かれるものばかりだった。
でもその一方で、助けてくれたあの方の名前すらわからない。でも、ため息を吐いてばかりではいけないと、王立図書館に行き調べるとすぐに彼と思しき人にたどり着く。
肩章に描かれていた竜の紋と屈強な体つき、特徴的な軍服とひとつにくくられた黒い長髪から、ルドヴィーク・バルシュ辺境伯、その人であると思われた。
——バルシュ辺境伯閣下……
部下もつけず、単身で王都を歩いているとは思えない身分の人だ。けれど一睨みするだけで悪漢を従わせる、あれだけの強さを持つのであれば護衛など必要ないのだろう。
——雲の上の人だったんだ……
同じ貴族とはいえ子爵令嬢では、身分が釣り合わない。それに辺境伯は舞踏会といった賑やかな場所には来ないと専らの噂だった。もう一度会いたいと思っても、機会もない。お礼状を書いたけれど、間違っていた場合は失礼になるため出せなかった。
会えない分、私の胸の中にはバルシュ辺境伯への淡い想いが積み重なっていく。けれど、その彼から結婚の申し込みが届いたと知り、私は喜んで手を挙げた。
順調に結婚の話が決まると、私は再び会えることを期待してやまなかった。
「お、お嬢さま……」
「私を守ってくださった、勇気のある方よ。そんな顔しないで」
シェナを安心させようと、私は彼の方を向くと柔らかい笑顔を見せた。
「供の者が失礼をしました、助けて頂いたお礼を何かさせてください」
私の笑顔をすぐ傍で見た彼は息を呑む。ゴクリと男らしい喉ぼとけが動くと共に、低い声が発せられた。
「それは必要ない」
「でも……」
どうしよう。このまま彼の腕の中にいたい……と思っても、あっという間に馬車に近づいてしまう。ギィ、と従者が扉を開けると彼は長い足で中に入り、長イスに私を座らせた。
そのまますぐに外に出ようとする男の服を持ち、上目遣いに見上げる。
「あの……お、お名前を教えてください」
「……いや、これからは供とはぐれないように」
「では! これで汗をお拭きください!」
私は馬車に置いていた鞄の中から、可愛らしい桃色のハンカチを取り出した。
「あっ、ご、ごめんなさい! こんな色しかなくて」
ただでさえ子どもっぽいのに、こんな桃色のハンカチを渡してしまうなんて。恥ずかしさで目を伏せるけれど、彼は気にしない様子で受け取った。
「ありがとう、では、これだけいただいていこう」
彼はハンカチを持つと大きな手で私の頭を撫でる。そして風のように馬車から降りると姿を消した。
横抱きをされている間に少しだけ黒い靄を払ったけれど、気晴らし程度のものだ。もっと時間をかけて、全てのもやもやを払いたかったのに。
けれど彼はもういない。馬車に入って来たシェナに聞いても、すぐに去っていったという。
「シェナ……私ったら、自分の名前も伝えられなかったわ」
「お嬢さま、それで正解です。このような危険な目にあったことを、社交界で話されてしまうといけませんから」
シェナの言う通りだけれど、やはりきちんとお礼を伝えたい。顔は良く見えなかったけれど、正義感に溢れた素敵な男性だった。
「でも……あのように恐ろしい顔をされていたので、てっきりお嬢様を攫おうとしているのかと思ってしまいました」
「まぁ、そんなにも怖い顔をされていたの? 私、靄がかかっていてわからなかったの」
「それはそれは……あの方はとても厳つい表情をされていて、本当に恐ろしくて」
「そうだったのね。とても優しい人だと思ったのに……。黒い靄もかかっていたけど、胸の辺りはとても暖かかったわ」
シェナは眉根を寄せると「お嬢さま」とため息を吐いた。彼はよほど恐ろしい顔をした人物のようで、ちょっぴり悲しくなる。
私には見えなかった彼の顔を、シェナに聞きながら頭の中で想像する。たくましい身体つきのように、厳しい表情の人だろうか。シェナによると、顔つきはまるで悪の集団の首領と言われても、仕方のない表情をしていたというけれど。
——彼は、そんな人ではないわ。あんなにも優しかったもの……
私の心の内を聞いても否定することなく、優しい言葉をかけてくれた。もう、無理をしなくていいと言われ、私はようやく気持ちに区切りをつけることができる。
王都の屋敷に無事に帰ることのできた私は、これまでを反省して弟のために肌着を用意することにした。ずっと姉らしいことをしていないから、名前を刺繍してあげようと針を手に取る。
けれど、私は彼を思い返す度にふわふわとして、何も手につかない。
そんな様子を見たアミフェ姉さまが声をかけてきた。
「アリーチェ、あなた、恋をしたわね」
「こっ、恋だなんて! そんなことは……」
恥ずかしくて俯いてしまうけれど、恋愛に関しては姉さまは玄人だ。もじもじしている私にアドバイスをくれる。
「いい、アリーチェ。恋は駆け引きなのよ、女にとって戦いなの! あなたには私の経験からまとめた『閨の格言』を教えてあげる」
「姉さま……!」
それから、姉さまによる特訓が始まった。格言を教わり暗唱する。私にとって、それは刺激的で目の開かれるものばかりだった。
でもその一方で、助けてくれたあの方の名前すらわからない。でも、ため息を吐いてばかりではいけないと、王立図書館に行き調べるとすぐに彼と思しき人にたどり着く。
肩章に描かれていた竜の紋と屈強な体つき、特徴的な軍服とひとつにくくられた黒い長髪から、ルドヴィーク・バルシュ辺境伯、その人であると思われた。
——バルシュ辺境伯閣下……
部下もつけず、単身で王都を歩いているとは思えない身分の人だ。けれど一睨みするだけで悪漢を従わせる、あれだけの強さを持つのであれば護衛など必要ないのだろう。
——雲の上の人だったんだ……
同じ貴族とはいえ子爵令嬢では、身分が釣り合わない。それに辺境伯は舞踏会といった賑やかな場所には来ないと専らの噂だった。もう一度会いたいと思っても、機会もない。お礼状を書いたけれど、間違っていた場合は失礼になるため出せなかった。
会えない分、私の胸の中にはバルシュ辺境伯への淡い想いが積み重なっていく。けれど、その彼から結婚の申し込みが届いたと知り、私は喜んで手を挙げた。
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