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53.◆時、満ちる◆
しおりを挟む気に障るだけだった泣き言も、その奥に蠢く不可思議な思考が垣間見える様が、愛い。
孤独を厭うくせに、深い関係となった後に嫌われたら立ち直れないから、と先手を打って自衛するせいで更に悪循環へ陥り、また苦悩する不器用な様も、愛い。
使い魔である自分にだけ心を許し、前世を持つという秘密も、刻一刻と激しく変化する思考も、全て洗いざらい吐き出す様も、勿論愛い。
気がつけば、魔族の末端に至るまでその感覚を伝播させてしまうほど、ユーリオという魔導士の一挙手一投足の全てが、愛いと思えるようになっていた。
それでも、その愛い本人を手元へ置こうとしなかったのには、魔王なりの理由があった。
敵対する国の魔導士であれば、あわよくばいずれは魔王へ挑みに来てくれるかもしれない。
その折に、どんな素晴らしい力を示してくれるのか――それが単純に楽しみであり、望みであったからだ。
だが、愛い魔導士が十五の誕生日を迎えた夜に、その考えはまた変わり始める。
唯一の友である使い魔を前に、いつになく悲壮な顔をして、一年後も同じように孤独なら、もう死を望みたいと少年は言った。
これが自分の選んだ生き方なのだから、自業自得だとはわかっている……そう言いながらも、また泣くのだ。
自分の代わりなんていくらでもいる、誰の特別にもなれない、それはとても寂しく辛いことなのだと。
稀有な魂を持ち、魔王の意識すら一時的に使い魔へと封じる力まで持った、これほどまでに、格別に、愛い存在が。
一方的な話にしばらく付き合ってやると、いつものように泣き疲れて眠った、幼さの残る魔導士。
その濡れた頬を労わるようにペチペチと撫でながら、使い魔の体で魔王は考えた。
この愛い魔導士を誰も愛でぬというのなら、もう直接、自分が愛でるべきではないか、と。
それは非常に魅力的な案に思えたが、即座に実行するのはためらわれた。
手元に置いてしまえば、魔王自身の楽しみである『イグナベルク王国を率いた魔導士ユーリオたんとの決戦』という未来が、ほぼ潰えるのだから。
相反する望みを天秤にかけるという贅沢な時間を魔王が愉しんでいるうちにも、刻一刻と時は進んだが、孤独な魔導士を取り巻く状況は変わらなかった。
結局、魔王が決断したのは、愛い魔導士の十六歳の誕生日まであと四日、という時だった。
「そうだな、決めてしまえば別の楽しみもできるというものよ。里心が残る状況であれば、あの子が余計な苦悩に身を浸すだろうことはわかりきっていた。故に、わざわざ停戦協定と引き換えの対価とすることで退路を断ち――」
「ザルツヴェストに馴染みやすくなさったのでしょう?もう百はお伺いしました聞き飽きました、あと何度繰り返されるおつもりで?」
ついに限度を迎えたのか、険のある声音で呼びかけてきた神樹の言葉に、魔王は鬱陶しげに目を開けた。
相変わらず、この翠緑の海に囲まれている空間において、彼女とはいわば一心同体の状態であるために追想の記憶をも共有してしまうのだ。
そのうえで独り言まで漏らし始めていたのだから、長々と他人の思い出に強制的に付き合わされている神樹にとっては、たまったものではなかったのかもしれない。
しかし、そこは魔王。
常に己の望みに従って生きる存在に、遠慮や配慮といった思考は特にない。
「ここからが更に愛いところなのだ、付き合え」
「……いざ手元に置いてみれば、御自分への鋼のような警戒心が『愛い』。それが生誕の祝賀一つで脆くも崩れ去る様が『愛い』。は、肌を……ごっほん。肌を重ねれば容易に乱れる様も壮絶に『愛い』、のでしょう?」
「わかっているではないか!さすが余の神樹よ!」
上下も定かではない場所で、それでも横たわる魔王の傍で綺麗な姿勢で膝を折っていた老婆は、諦めたように長々としたため息をついて肩をすくめてみせた。
そして、魔王主体でこの話に付き合い続けるよりは、と先手を打って自ら口を開く。
「でも、唯一のご不満もあったのでしょう?使い魔の姿であれば何でもお話しくださるのに、魔王たる貴方様へは言葉を飲み込んでしまわれる、と」
「うむ!そこもユーリオたんの愛いところではあるのだが、余にもなぁ、もう少し何でもかんでもぶちまけてくれれば……」
「それは貴方様が御自分の望みよりも、かの魔導士殿の御力になりたいと願われていたからでしょう。ここへお出ましになったのも、全てそのため。それも、ただ『愛い』からだったのですか?」
「ん?それ以外、理由などなかろう」
静かに問いかける年老いた女の声音に、魔王は何を当然なことを、と不思議そうに緩く首を傾げる。
だが直後、この鈍感が、と内心で毒づく神樹の思念と共に提示された疑問に、更に深く首を傾げることしかできなくなった。
その望みのままに振る舞い、何よりも自由に生きる存在が、なぜこのような外からの刺激も一切届かぬ退屈な空間に身を置くことになったのか。
共に長く生きていけるようにと造り変えたものの、元が短命である存在など、いずれその心は壊れると予測していたのではないか。
あのまま全ての人間が滅んだとしても、それが多少早まるだけだったのに。
それなのになぜ、魔王ラグナレノスは、その力の大半を賭してまでたった一人の魔導士の心を、守ろうとしたのか。
なぜ、なぜ、と問い続けるその思念に、九十度近く首を傾けたまましばし沈黙を保っていた魔王だったが、その精悍な顔の眉間へ徐々に皺を刻み始めていく。
「――その問いの答えは、全て『愛い』からであろう?あれは、愛いのだ。愛いと可愛がったものが壊れる様は、できれば見たくなかろう。もし仮にそうでなかったとしても――所詮、もう全て終わったことよ」
そしておもむろに、瑠璃色に灯る双眸がちらりと周囲を見渡した。
その眼には、ようやく神樹の全てが以前のように整い行く様が見えていた。
世界中から吸い上げてきた毒が、どこからともなく盛大に漏れいくものの、僅かばかりが無害な大気となって放出されていく、気配。
そこに魔王たる存在の力添えは、もう必要なかった。
つまり、それだけの時が流れたのだろう。
今度は神樹が無言のまま控える中で、魔王は淡々と口を開きながら大きく伸びをした。
「あれだけ孤独を嘆いた子だ。すぐに人の世へ戻ったであろう。余の加護もふんだんに贈った以上、どこであろうとあの子は求められたであろうなぁ。それでも害せる者は誰一人おらぬのだ、望みのままに生涯を送れたであろう。あぁ、いっそ国でも興しておれば、また一興」
「はぁ~~……。自らの力不足が口惜しくはありますが、わたくしはわたくしで足掻くのみ……。他人様へ想いを割くのも、これで最後ですわね。では、長年のご助力に厚く感謝申し上げますわ、我が君」
体中から空気の抜けるような盛大なため息の後、深々と頭を下げた神樹の姿は、その言葉を最後に周囲へ溶けるようにして掻き消える。
「……長年こうして世話をしてやったというのに、何という去り際の速さか……うむ、『美しい』な」
彼女は彼女の目的と望みに対し、何よりも誠実で貪欲である。
それを気に入っているからこそ、魔王は気分を害するどころか、そう褒めそやした。
そして、自分も待ちに待った自由なる世界へ足を踏み出そうと意識したものの……なぜか、気が乗らない。
この場所では、時の流れる感覚も狂うとはいえ、大層つまらぬ時間を延々と過ごし続けてきた自覚もある。
さっさと神樹のバランスが戻ることを願っていたし、その為にほぼ全力を費やしてもきた。
だが――……。
(あれほどまでに愛い者は、もうおらぬであろう……)
神樹の外に広がる世界へ戻ったところで、もう自分が愛でた存在はいないのだ。
(……ふむ。『苦い』、な?……なるほど、これが真なる後悔というものか?面白い……とは思えぬのが不快であるな……)
己の思考領域を満たす、不可思議な感覚。
それに自嘲めいた笑みを浮かべていたことなど、魔王は自覚すらしていなかった。
されど魔王は、魔王。
そのまま感傷に浸るという無駄な時間を過ごすことはせず、あっさりと神樹の内在空間から外へとその身を移動させた。
この自分にここまで跡を遺した、『愛い』存在の痕跡を探すという次の娯楽を思い立ったのだ。
力を使えば即座に知り得てしまうだろうから、人間のように少しずつ少しずつ、手ずからそれを探してみよう、と。
自分の内側で今も尚暴れ続ける、多くの分かたれた思念たちも、それを望むだろう。
(そうだな、魔族たちを手元に呼び出し、まずは城の手入れと……おそらく人間共が好き勝手していようから、その掃除――あとは……あぁ『領土』とやらの確認もあったか。うむ、ウーギに命じるか)
それからゆっくりと、あの子が生きた証を探せばいい。
(また何度も泣いたのであろうな……それから開き直って、国でも興しておればよいが。――連れ合いは、できたであろうか……余が可愛がり過ぎたせいで、人間相手で満足できるとは思わぬが。いや、『愛』とやらがあれば、それをも覆せるのか……ふむ)
なぜか多少の苛つきを覚えるなか、魔王は神樹の根元へその姿を現した。
多くの巨大な根が絡み合いながら地中へ埋まっていく、ちょうどそんな境界の部分へ、人としての姿で佇んでみる。
久しぶりの『視界』に感じる明るさは、変わらず空に太陽がまだあることを語り、穏やかに吹き抜けていく静かな風は、神樹周辺に広がる樹海が人間の手に落ちていないことを語った。
「……ほぅ」
そのなかで、思わず零れた感嘆のため息。それは、見渡す限りに広がる花畑によるもの。
青と白の小ぶりな花々は、神樹が集め、垂れ流し続ける毒を少しでもこの地周辺で止めておくように、と魔王が造り出した存在だ。
だが、時と共に増殖していくのは当然とはいえ、記憶よりも遥かに広大となったその景色に、違和感も覚える。
「自動人形たちの世話で、ここまで広がったのか?……ベルちゃんにもう一度仕組みを聞いておくべきか……」
かつて自立型魔動人形の技術供与をしてくれた、朋。
その名を口に出して一人呟く魔王は、明るい日差しの下、久しぶりの体を確かめるように両の掌を見つめながら、指を握ったり開いたりを繰り返す。
それから準備運動とばかりに、周囲の様子をその力で確認しようとし――。
驚きに息を呑んで、顔を上げた。
だが、そこにはどこまでも続く花の波が揺れるだけ。
その様に、かつてないほど気の逸るような、焦燥に駆られる思いで、魔王は今しがた覗き見た光景の場所へとすぐさま転移魔法を発動する。
そして、一呼吸もないうちに目前へ現れた確かな光景に、その双眸を見開いた。
まるで信じられないとでも、いうように。
なぜなら彼から少し離れた先、二十m程の距離を置いた場所では、楽しげに花畑を行ったり来たりする人間が、いたからだ。
それは、とても上機嫌な様子で両手に持ったグラスを掲げ、くるくると踊るように花々と戯れている、一人の青年。
細身の肢体に品の良い白く小綺麗なシャツとズボンを身に纏い、腕には半端に脱いだ新緑の上着を羽のように引っ掛けている。
膝丈までの可憐な花の海を観衆に、円を描くようにあっちへふらふら、こっちへふらふらと足を進める度に、その長く伸ばされた暗紅色の髪が陽に透けて、赤く美しく煌めいた。
きっちりと首の後ろで結われたその髪には、瑠璃色の細いリボンが編み込まれ、何かを主張するように強く光を弾く。
そんな人間を取り巻くのは、何体もの魔動人形たちだった。
総勢十人ほどの彼らはみな、手に手にボトルやらグラスやらを持ち、慌てたように青年の後を追いかけている。
勿論、人形たちは既に、真の主である存在の帰還にも気づいている。
魔王が認識した時点で、彼らもまた主が傍にいることを把握したのだから。
だからこそ、その鳥の翼に似た黒い腕を伸ばし、青年が翻す上着の裾を引っ張ったり、すらりとした手足を叩いて、どうにか注意を促そうとしているのだ。
かつて魔王が何よりも愛でた存在と、完全に同一の魂をした、人間へ。
今ここに、その魔王がいることを。
「もーぉーぉう!何なのかなぁペンギンしゃん!これこそ、ここ数百年……ううん、もしかしたら千年に一度のできと言っても過言ではないほどのスペシャルブレンドだよ!?これぞ積年の僕の努力、その結晶!!最高に美味しい!!もうだめ!やめられない、とまらな――」
ようやく動きを止めた青年が饒舌に語るなか、顔の横にグラスを持ったまま、ふとこちらへ向けた視線。
そこで初めてまじまじと見えたその顔に、魔王は口を開こうとした。
だが、喉が音を奏でない。
零れ落ちそうなほど見開かれた、極上の琥珀色の瞳。
多少紅潮している頬に、まだあどけなさが気配として残る、すっきりと整った若々しい顔立ち。
その全てに、あの日、「行かないで」と泣き叫んだ少年の面影が、ある。
それがにわかには信じられず、けれど自分が見間違えることのない魂を答えに、魔王はかろうじてその名を音にした。
「ユーリオ?」
時が止まったように固まっていた魔導士の両手から、音もなく滑り落ちたグラス。
それは花畑に埋もれるよりも先に、自動人形たちによって素早く受け止められていた。
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