売却魔導士のセカンドライフ

嘉野六鴉

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18.いい湯だな

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 ほんのりと空の色に夕刻の気配が滲み始めるなか、僕の目の前に広がるのは、鬱蒼とした深い森だった。
 人の訪れが有り得ないことを物語るように、足元には幾重にも下草が生い茂っているのだから、こんな晴れ着姿のヒラヒラした上等な服で出歩いていい場所ではない。絶対に。
 だが、そんなことはお構いなしに僕をひょいと小脇に抱えた魔王は、迷うことなくその長い脚を進めた。

「あーっ、あ!ダメ、ダメだってば魔王!裾、裾が小枝引っ掛けてる!」
「少々構わぬ、気にするな。だが閨での言葉をこのような時に耳にできるのも、また一興か!ふははは!」
「だから何言ってるのさこのっ――あぁっ!?やっ、ちょっとぉお!?今髪飾り落ちたよ!?もぉおぉダメ!拾って!!お願いだから!!」
「ほぅ?ユーリオが望むなら是非もない」

 そうして僕の落とし物を魔法で拾い上げながら魔王が向かった目的地は、本当にすぐそこだった。転移した場所から徒歩三十歩程度、だろうか。
 突然、森の中の開けた場所に出たと思ったら、剥き出しの白い岩場が顔を出す崖の上に到着していたのだ。
 しかもそこには、温かな湯気が上がる白みを帯びたエメラルド色の液体を湛えた、天然のプールが……いやこれは、プールというよりも……

「ふふ、どうだユーリオ。其方の好きな『温泉』だ」

「温泉……だけれども、これはどう見ても天然露天風呂と言うべき――ッんきゃ!?」

 水気のない白い足場、いわば露天風呂の縁の辺りに僕をすとんと下ろした魔王。背後の彼を振り仰ぎながら、咄嗟に訂正を入れようとした言葉が変な幕切れとなったのは、つい今しがたまでいつもより幾分派手な白いローブ姿であった男が、既に、全裸になっていたからである。

 ちなみに僕はこんなにも明るい場所で、その男らしい体を眺めたことはまだない。

 筋肉の塊のような職業騎士たちと比べれば多少線が細いとも思うが、それでも余計な肉を纏わず引き締まった体躯に、くっきりと割れた腹筋、逞しい肩幅とそこから伸びるすらりとした長い腕、その先にある指先まで美しく整った手で長い白銀の髪をかき上げながら魔法で頭上にまとめる姿を、否応なく凝視してしまうではないか。

 これだから、魔法を日常的に使う魔族はッ!これだからッ……もおぉお!!?

 胸の鼓動が一気に跳ね上がったのは、単に驚きのせいだ。それ以外ない、ないったらない。

「んなっ、なに、いきなり、ぬい、脱いでるの……」
「其方こそ、いつまでそのままなのだ。どれ、手伝ってやろう」
「え……ッひ!?」

 視線のやり場に困りながら、さりげなく僕が魔王から距離を取ろうとした寸前で、その指先で肩をトン軽く触れられた瞬間、今度は僕の服が消えた。
 文字通り、体から一瞬で服だけが消えたのだ――ということは、素っ裸の男が二人。それも名目上は伴侶という関係の、性奴隷とその主なわけで……。

(や、やだ……絶対ここで犯される!?野外なんてやだー!!)

 非常に現実味のある想像が脳裏を駆け巡り、魔王を見上げたまま固まっていると、愉し気に細められた蒼く灯る双眸と視線が絡み合う。そうして、ゆっくりと大きな手がこちらへ伸ばされて――

「では、愉しむか」
「え?」

 そのまま軽く胸を押された結果、派手な水しぶきを道連れに僕は温かなお湯の中へ背中から突き落とされていた。
 その直後、鼻に入ったお湯にむせ込みながら水面から頭を出した後、自分は静かに水面へと脚をつけ、よっこらせと体を沈ませる魔王へ猛烈に抗議したのは言うまでもない。

 だからもう一体全体何なのさー!!と叫ぶ僕に、これまた魔法で取り出したと思しきお盆を水面に浮かべ、そこへ小さなグラスを二つ乗せると無言のままいい笑顔で差し出してくる、お団子頭が新鮮な顔だけはいい男。
 しかも切子のように繊細な文様が刻まれた透明な杯の中には、見間違うことのない僕の大好物が誘うように揺れている以上、とりあえずそれを呷るしかないではないか。

 まるで誂えたように水深の浅い天然温泉は、膝を立てて座るだけで僕は肩までしっかりと浸かれる。その状態で隣から漂ってくるグラスに時折口をつけ、ぽーっといい気分になる頃には、空がいつの間にか黄昏時へと近づいていた。
 それほど高くない湯温のおかげで、のぼせることなくぼんやりと穏やかな時を過ごしているのだが……。

「本当に、なんで、今日はこんなことに……」

 かぽーん、とどこかから鹿威しの幻聴すら聞こえてきそうなゆったりとした時間の中で、魔王とただ隣り合って温泉に浸かっているなんて。
 とびきり高そうな服を着せられて、慌ただしくザルツヴェストを出発したのが今朝のことだというのに、なんだかかけ離れすぎていて現実感がない。
 帝国の皇子様の挙式、という縁もゆかりもない盛大なイベントに立ち会ったせいもあるだろうか。

「愉しかったか?」

 ふふん、と自信ありげに尋ねてくる男の低い美声に素直に頷くのは癪だけれども、慣れない煌びやかな場所での緊張感から解放されたこともあってか、つい僕は小さく頷きかけた。
 長身ゆえに、同じように湯船に身を沈めていても胸のあたりから体がしっかり水面に出ている魔王の言葉が、その口から飛びだすまでは。

「といっても、ここからが本番なのだがな」
「え……?……えぇッ!?これ以上まだ何か――」

 ぎょっとして思わず反射的に隣の美丈夫から距離を取ろうとした時、ちゃぷっという僅かな水音と共に魔王の腕が宙へと掲げられ、その真正面を指さす。
 つられてその先へ視線を向けるが、そこは切り立った崖の先で、湯船につかっている視線の低い状態では眼下の森も視界に映らず、ただオレンジ色を帯びた空と僅かな薄雲があるだけだ。

 ……まさか、この崖下から突然巨大な魔物が這い上がってきたりとか、しない?いやもしかして、既にこの天然温泉プールの中に何らかの魔物サプライズが仕込まれている!!?

 心なし隣の男へそっと擦り寄ったのは、身の危険を感じた結果だ。
 それに対して、へらっとにやけた笑みを浮かべられるのは心外だが、背に腹は代えられない。いつ何が襲ってきてもいいように、態勢を整えなければ。
 だが、そんな僕の視界に現れたのは、崖の下からふわりと浮かび上がって来たらしき、小さく丸い光だった。

 ふわりふわりと浮かんできたそれは、掌に簡単に収まるほどの小ささで、夕焼け空に映える澄みきった蒼い輝きを放つ。
 それはキラキラと輝きながら、次第に天へと昇っていく。それも、あっという間に数を増していき、辺り一面を埋め尽くすほどの膨大さで。
 そのうえ、上空へと舞い上がったそれは風に流され、黄金色の空に蒼の粒子で細く幾筋もの川を描き出していく。

 オレンジと青の関係は補色だから綺麗に映えて見えるんだよ、とまた余計な知識が頭の中でひょっこり顔を出すが、この何とも雄大で、静謐な美しさに僕はただただ口を半開きにしたまま見入ってしまっていた。
 あの光が流れる先を辿れたら……なんて、虹のたもと探しを夢見る子供のようなことを知らず考え始めた時、隣から満足げな囁きが耳に届く。

「愛い顔だ。これならユーリオも気に入ると思ったが、やはり余の目に狂いはなかったな」

 そう絶妙に自分を上げることを忘れない男の言葉に、思わず小さく息を噴き出して笑ってしまうではないか。
 それから、この想いを口に乗せた。

「――うん、こんな景色見たことない。すごく、綺麗だね……。あ、ありがとう……見せて、くれて」

 隣で小さな杯に口をつける魔王は、その不思議な双眸を緩めて僕を見つめながら物言わずに、したり顔で頷いて見せる。
 もしかして本当はこれを見せてくれるのが一番の目的で、そのついでがあの挙式への参列だったのだろうか。
 一度そう思い至れば、我ながらあながち間違ってはいないような気がしてくるが、それを肯定するように隣の男は更に言葉を紡いだ。

「年に一度、このフェルシオラの辺境にて立ち会える光景だ。余には見飽きたものだが、こうして其方と眺めるならまた一興よ」

 その愉し気な声音に内側からほわっと体が温かくなった理由は、傍にいてくれるのがこの人だからなのか。
 ふわりふわりと、絶え間なく地上から天へと遡っていく光の雨。
 それを再び黙って眺めながら、僕も水面に浮かぶ盆の上から自分のグラスを手に取って、一口のどを潤した。

 なんだか本当に目まぐるしい一日だったけれど、こんなにも穏やかで静かで綺麗な光景を前に、天然露天風呂を楽しめるなんて、僕の今までの人生の中でもきっとベスト3に入る幸せな時間だろう。

 そんな感傷的な気分を紛らわしたくて、まるで今思い出したかのように、魔王へとこの不思議な景色の理由を僕は尋ねた。
 一体どんな自然現象だろうと、興味が沸いたのも本当だ。

 でも、知るべきじゃなかった。少なくとも、今は。


「ん?知らぬのか?植物型魔物の産卵だ。この量だと――ふむ、来年は荒れる人間の国があろうなぁ。肉食性な上に森の中での擬態も上手い種だ、迂闊に出歩く者たちが次々と餌食になろう。阿鼻叫喚というやつだな!」

「…………お願いだから最後まで空気読んで」


 なんなのさ……なんのさ本当に!もうッ……!
 なんだかちょっと雰囲気あって、魔王と一緒にいるのもいいな……なんてコロッと思いかけてたのにッ!!
 もう今日の思い出は唯一つ、いい湯だな!でお終いにするほかないじゃんかー!!


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