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最終話.■■ 最愛 ■■
しおりを挟む私の知らぬところで夜遊びをした結果、最愛の伴侶は朝から熱を出して寝込む羽目になった。
どうやら誰かに手厳しく言祝がれたのが、原因の一端ではあるようだが。
「知恵熱とか、マジないわー……」と遠い目をしながら軽い朝食を取った後、寝不足もあってか再びすぐに寝入ったカナタの傍で、あれこれと思索を巡らせる。
《魔導の頂点》の頃の記憶、その大部分を今のカナタは取り戻しているという。
それを知らされたのは、カナタが私を思い出してくれたあの夜が明けてからだった。
感情の伴わない、単なる光景としてしかそれを知らぬ私でさえ、酷い嫌悪と憎悪を抱くほどの陰惨な日々と、その後に続く決して報われることのない、永く孤独な刻を。
しかし、それでも『カナタ』は私に笑ってくれた。
かつてのカナタが、《魔導の頂点》がその全てを懸けた唯一人、たった一つの心の拠り所であった存在にすら、欺かれていたというのに。
「ロイがいるからもういいんだ」とカナタは笑って言った。満足気で、幸福感に満ちた、どこまでも穏やかな顔で。
それを怒ればいいのか、哀しめばいいのか、喜べばいいのか。
ただ、そうかと返して、その薄い体を抱き締めるだけで、私には終ぞその答えを出すことは出来なかった。
私を愛するからこそ、全てを許せるというカナタを、哀れだと思う。決して許せぬ怒りも、呑み込めぬ憤りがあったことも、私が識ってしまっているからこそ。
カナタ自身がそれを許してしまっては、過去のカナタが生きた日々すら、否定してしまわぬだろうか?
たった独りで、それでもこの世界を生き抜いてきた《魔導の頂点》を。あの美しき孤高の神を。
その一方で同時に、溢れるほどの歓喜も胸を満たす。
『私』という存在の為に、今まで頑なまでに貫いてきたその生き様を捨てるのだと、彼は言うのだから。
だからこそ、《魔導の頂点》の記憶を取り戻しても、『カナタ』は変わらなかったのだろう。
一年にも満たぬ日々を共に過ごした、私の愛するあのカナタのまま、もう一度この腕の中へと戻って来てくれた。
それは、私を愛しているからだと、何よりもその存在で証明してくれたのだ。
これ以上はないと思っていた愛しさが、更に募ることになったのは当然であろう。最早カナタが、このカナタがいなければ、私は息すらまともに出来ぬのではないか。
そんな最愛の存在が、記憶が戻ってから二日程たったある日、その望みを口にした。
折しも、その快復を祝いに私の腹心の臣下たちと玄孫娘、兄姉弟子である全魔術師が揃う席で、その顔に見惚れるほどの柔らかな笑みを浮かべながら
「ロイは俺のだって宣言しておきたいんだけど、どうしたらいい?」
という疑問形の言葉で。
すぐに『伴侶』として、世界各国へ知らしめる段取りを立てた。そのついでに負化魔力の対策の為、カナタから教えられたドラゴンを利用する案も含めて。
記憶を取り戻して以降、カナタがやや高揚したままでいるのは勿論わかっていた。常になく私の傍を好み、体のどこかを触れさせ、時折口付けやその先を言葉なく強請る。そんな状態だからこそ、素直に口から飛び出した望みだったのかもしれぬ。
だからこそ、カナタが我に返る前に全てを終わらせた。
当初は乗り気だったセネルが、事の次第を理解するにつれ顔を青ざめさせていたが。そもそもあの娘は、私が皇位に未練などないと知っていただろうに。
他国への要らぬ干渉を激増させてまで皇位に留まるよりも、表向きとはいえ余計な火種と手間を排除でき、尚且つカナタの傍に在り続けられるなら、迷わず譲位くらいするものと即座に予想すべきであろう。ただ、そのような些事はどうでもよい。
あの日、三大陸中から招いた各国の統治者たちの前で、カナタはその口で私を『伴侶』だと告げてくれた。
私はカナタのモノである。同時に、カナタは私のモノなのだと。
まさしく、至福の瞬間であった。
その日以降もカナタは機嫌良く過ごしていたが、一度落ち着かせてから私が譲位することや、今後の事も含めて話をせねばと機を待っていれば、思わぬところから理不尽に灸を据えられたようだ。
当然、それは私の知らぬことだ。昨夜カナタがこっそり出かけたことも、その先で誰かと対峙したことも、泣かされたことも、私は知らぬ。
カナタの前であれば、だが。
《魔導の頂点》の記憶があろうと、今のカナタは多少魔術が荒い。それも片手間に使うような弱い魔術であればあるほど、粗が出る。それは、私が普段から己に施している防御魔法であっさり無効化できるほどに。
故に昨夜も、姿を消したカナタをずっと監視魔術で見守っていた。『伴侶』を独り残して一体何を、と胸に焦燥を募らせながらも、すぐに駆け付けられるよう転移魔法の準備だけは整えて。
そうして再び皇竜のテリトリーに降り立ったカナタと、先日実質上の隠居となった腹心の臣下がそこで交わした会話は、一言一句、しっかりと記憶している。
その正体を見抜いたうえで、わざわざ単身あの男の前に赴いたカナタに、色々と言い聞かせたいこともある。
長年傍近くに仕え、力となってくれたことは有難く思っているが、それ以上に思うところ有り余る臣下をすぐさま呼び戻し、詰問したい誘惑にも駆られた。
しかし、他ならぬカナタが私の為を想っての行動だと知れば、その全てを呑み込むことも出来た。
だが、カナタを泣かせたのだけは許せぬ。
いくら今の状態を自覚させるためとはいえ、もっと他にも言葉はあっただろうに、わざわざカナタを傷つける言い方をするとは。
見逃すのは一度だけだという最後通牒代わりに、ほぼ当てるつもりで弱い攻勢魔術をあの男の足元へ贈ったが、する気もなかった制御が上手くいったことだけは後悔した。今までのことも含めて、あの片耳程度は焦がしておくべきだった。
案の定、何も知らぬ私の元へ戻ってきたカナタは、酷く傷ついていたのだから。カナタが責められる謂れは、何一つないというのに。
だがそれでも自分の想いに納得をつけ、必死に自らと向き合おうとするカナタだからこそ、言葉を尽くして伝えたくなるのだ。
今のカナタが何よりも愛しい、と。
それに私に言わせれば、カナタは精神が特別幼いわけではない。あの男が言ったように、歪だとも思わぬ。
永い永い時の中で殺されてきた感情が、ようやく正常に発露し始めただけだ。
この世界で生きた記憶の全てを喪うことで、今のカナタとして目覚める事で、ようやくその契機が訪れただけのこと。
いわば、やり直しているのだろう。この世界で生きるということ、そのものを。ならばその心の向く儘に、思う儘に、カナタは生きればよいのだ。
だというのに現状では、考え得る限りで余計な物を大層背負わされてもいる。
負化魔力も神位も、この世界の行く末も、カナタを思い悩ませるだけなら関わらなくともよいと、つい昨夜は口にしてしまった。
そんな私を嬉しそうに見つめながら、カナタは言うのだ。
「ロイと生きていく世界だから、守ってやらなくちゃ」と。
この世界は、カナタの恩寵に全力で報いるべきであろう。神位によってカナタの望む『環境』に変じるというならば、今すぐカナタにとって最善の世界へとなるべきだ。
腕の中にすっぽり収まる躰を抱き締め、そうぼやいた私へ思い出したようにカナタは『レガリア』のことを告げた。
私と兄姉弟子が捜索していることを知ると、もう大丈夫だからと言っていたカナタが改めて、もう探さなくても大丈夫だと、口にした。
それが皇竜に継承されていることを私も知ってしまったからこそ、そう言うのかと思ったが、カナタの口ぶりは少し違った。
言葉を選ぶように慎重に一言一言を口にしたカナタの説明をまとめると、どうやらこの世界に対して、願い事をしたらしい。
私と共に在れるように。カナタと私の命を、繋ぐように。
それが果たして本当に叶うのかどうかは、今のカナタでも判然とはしていないようだ。だが、手応えはあった、とカナタは嫣然と笑みながら
故に、生まれ変わる為にも必要な『レガリア』は、もう私には不要だと言い切った。
その言葉に、私はすぐに頷いた。
私が今のこのカナタを何よりも愛しく想うのと同じように、カナタも今のこの私を、何よりも愛してくれていると、理解できていたからだ。
もし仮に、私がこの自我を保ったまま別人に生まれたとしても、おそらく今の私ほどカナタを愛せはしないだろう。
かつては「他種族の心の機微などわからない」と言い放っていた男が、何度も何度も生まれ変わった結果、他者の心の機微に鋭敏でなければ務まらぬ侍従長という地位に就けたように。
例え生まれ変わろうと、きっと何かが少しずつ変わっていってしまう。私が私で在れるのは、この人生唯の一度きりだけなのだ。
《魔導の頂点》として生きたカナタも、全てを忘れた何も知らぬカナタも、私は誰よりもきっと愛しく想うだろう。ただそれでも、今、目の前にいるこのカナタへ向ける想いには敵わぬ。
それと、同じことなのかもしれぬ。
素直にレガリアを諦めた私に目を丸くしたカナタへ、そういったことを簡単に説明すれば、また黒曜の瞳を潤ませた伴侶が小さくしゃくりあげる羽目になってしまった。
俺が欲しいのは『私』だけだ、と泣き
大好きだ、と何度も何度も繰り返し
いつか死ぬその日まで共に生きたい、とそんなささやかすぎる願いを、まるで大罪であるかのように震える声で、口にした。
ならば、私は――――
「……んぅ…?……あ、ロイぃ…………れ?寝てた、俺……?」
短い眠りから覚めたカナタが寝ぼけ眼のまま、ベッド脇の丸椅子に腰かけている私を見上げて小さく笑った後、はっと覚醒して真顔になる。
見ている傍からころころと変わるその表情に、自分の口元が緩んでいくのを自覚しながら、絹糸のような黒髪に手を伸ばした。
「あぁ、少しだけだ。今日は一日ゆっくりするといい。近いうちにダーウィルまで足を伸ばすなら、今のうちにしっかりと体調を整えねばな。」
「はっ……そうだった!ドラゴンの次の卵が孵る前に、マーリちゃんとウーウルさんにお願いしないと……あ!手紙書くのも忘れてたっ……!!」
あわあわとベッドから起き上がろうとする体を制止し、だからしっかり休めと言い聞かせれば、しゅんと眉を下げて大人しく横になる。
そんな様子を見守っていると、また小さくカナタは笑い始めた。とても楽し気に。どうした?と尋ねれば、
「いや、俺ってやっぱり寝てばっかりだなと思ったんだけど、そう言えば『俺』が初めてロイと出会った時も、こんな感じだったなぁって。」
《魔導の頂点》の記憶を持ちながらも、敢えてそう語るのだろうか?いや、これは何も考えておらぬ顔だ。ただ素直に、その心の内を口にしてくれたのだろう。
「あ!で、でもちゃんとホントの出会いもちょっとは覚えてるからな?えと、えっと………うん、小っちゃい頃のロイは天使みたいに可愛くて、あー……そう、ロイのお母さん、すっごい美人で……っ!」
私がすぐに何も応えぬから、気を回したのだろう。そう遠い日々の思い出を語るカナタの唇に、私はそっと指を押し当てた。
いつかのように。
「カナタ、愛している。
その望みの全てを、私が叶えると約束する。
だからこれから先も、共に朽ちるまで傍にいさせてくれ。」
途端、薄っすら赤みがかっていた頬を更に染め上げ、黒曜の瞳を右往左往させた後、私の最愛の伴侶は盛大に照れながら、応えてくれた。
「不意打ちすぎっ……!こ、こちらこそ不束者ですが、末永くよろしくお願い、します……っ」
ロイ、とその唇が私の名を音にするのを待ってから、それを自分の唇で塞ぎながら誓う。
この先、全てが上手くいけばカナタはまた、永い永い時を生きる事になるのだろう。
只人に過ぎない私が、一体どこまでそれに付き合えるかはわからぬ。だが、私が私である限り、この身の全てで、カナタを愛そう。
私の為に生きるのだと、その存在全てで応えてくれた唯一人の、最愛の神の為に。
―終―
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