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74.愛されたから
しおりを挟むひゅうぅ、と通り過ぎる夜風。
雲一つない満天の星空を従え、冴え冴えとした蒼白い光を放つ、満ちた双子月。
どこからか聞こえる水が流れる音は、近くに大きな川でもあるのだろうか。
闇に浮かび上がった世界は、天を支えるように伸びた大樹を円状に囲うように広がる野原、そしてそれを檻のように閉ざす森の影で出来ている。
「…………どうしてこうなった………」
そんな周囲を一通り確認した俺は、もはやあきらめの境地でそう呟いていた。
眠りに落ちる直前まで、自分はあの豪華な部屋で寝心地抜群のベッドの上で、一人作戦会議をしていたはずだ。なんの?当然、狙った獲物を仕留めるための、だ。
一目惚れの相手から『子供』認定されて、あぁこりゃ失恋だわとショックは受けたものの、その程度で引き下がってたまるかー!と作戦を練りに練っていたところだった。
俺は絶対、あの人が欲しい。あの人に好きだと言いたいし、できれば、愛していると言わせたい。
今の自分の中にこんな強烈な感情があるなんて少し不思議な気にもなったが、とにかくその衝動に従って悶々と考えていた。
ズバリ、子供と言われた俺に、色気が出る方法について。
ようやくいい案を思いついたところで夜更かししているのがバレて、一杯お茶を貰ってからちゃんと大人しく寝た、はず、なんだが……。
やけにひんやりするな、と思って目を開けたら、何故かこんな野外の巨木の根元で、その幹にもたれかかるようにして眠っていた、俺。
白い寝間着の上に自分では着た覚えのない緑のガウンを羽織っているが、一体何がどうなってこんな状況になっているのか、全く見当もつかない。
誰かに連れてこられたのか?それとも俺が勝手に出歩いたのか?え?なにそれ怖っ……!
とりあえず、ただ座っているのも落ち着かないので、野原の真ん中にどっしりと佇む大樹から離れて広い草原を少し歩いてみる。
裸足に夜露に湿った草が冷たいが、月明りに愛されたような白く小さい花が一面に咲き誇っている様は見事で、つい現実逃避も兼ねてその光景に見入ってしまった。
周りには建物らしき影が何一つなく、当然人工の明かりなども全くないが、満月を迎えた二つの月の明るさで、視界に問題はない。
むしろ、夜でもこんなにはっきり見えるものかと新鮮な驚きが胸に満ちる。
「綺麗な花だな。ちっちゃくて、纏まって咲いてて。花束とか…………うーん、ロイさんなら髪に差しても……あぁ、絶対似合うよなぁ。」
なるべく花を踏み潰さないように辺りをさくさく歩き回りつつ、誰へともなく呟けば、また風が小さく俺の横を吹きぬけていく。
その現実感に、やっぱりコレ夢オチじゃない……と口元が引き攣るが、まぁどうにかなる――いや、どうにかしてくれるはずだ、とそこまで危機感は湧いてこない。
俺は多分、こうして待っていればいいのかな、って。
「んー……でも頼りっぱなしってダメだよな。俺も、なにか出来るようにならないと……」
足首まである俺にとっては少し大きめのローブの裾が水気を含み、僅かに重くなったので散歩もこの辺りにして、またあの樹の根元へでも戻ろうかと足を止めた時、不意に月の光を遮る小さな影が目前に落ちてきた。
「きゅぴっ」
そんな可愛らしい鳴き声に顔を上げれば、俺の頭上、手を伸ばせばぎりぎり届くかどうか、という位置に不思議な生き物がいる。
背中に薄い翼を生やし、銀色の体毛に覆われ、黒く平べったい嘴とつぶらな瞳をした、ソレ。
なんとなく知っている気がして咄嗟に口を開くが、
「かっ…か……?かー…………『か』から始まる生き物だった気がするんだけど?」
あと一歩のところで単語が出てこなくて、無意識に首が限界まで傾いていく中、俺をじっと見下ろしていた銀の生き物は、やがてゆっくりと目の前まで降りてきた。
翼を羽ばたかせることもなく、顔の前で静止したそれは、ただただじぃ――――っと俺を見つめるものだから、こちらも思わず見つめ返していると、おもむろに長い首がしなりその鳥に似た頭の天辺を俺の額へと―――盛大にぶつけてきやがった。
そして静寂の野原に、ゴッチン!!!とやけに派手に響いた鈍い音と、俺の無様なうめき声が生まれる。
「~~~っぁあぁあっお前ッ!急に何すっ……!!」
目の眩むほどの衝撃と痛みで知らぬ間に蹲って悶絶していた俺が、ようやく頭を押さえていた手を離し、きつく閉じていた目を開いた時、夜の世界が一変していて息を呑んだ。
いくら月明かりが十分とは言え、暗い事には変わりがないはずなのに、見渡す限りの世界が赤く色を帯びている。たまにこんな風に空気が赤みがかっているように見える事はあったが、ここまではっきり見えたのは初めてだ。
その中で目の前に浮かぶ銀の生き物…………そう、ドラゴンだ、カモノハシだけどドラゴンなあの謎の生き物の周りだけ、炎を背負ったような蒼に染まっていた。
「きゅぴぴんっ………きゅぴ―――――――――っ!」
まるで一仕事終えたぜ、と言わんばかりに満足気に小さく鳴いた後、ドラゴンのカモンは一際大きな声を上げる。
すると、野原の草の影から、佇む大樹の枝葉の間から、眠りについた黒い森の木々の隙間を縫って、カモンより幾分か小さいが、ほぼ同じ姿をした桃色の生き物が瞬く間に集まってきた。
そのどれもが蒼い光をふんわりと体に纏い、赤い世界を思い思いに横切って、飛び回る。
すると、赤と蒼が混ざり出し、ゆっくりと色を変えていく。
俺の一番好きな、あの色と同じに、なる――――。
(あぁ、そうだ………この色だ。俺が初めて、この世界で見た、色―――)
ドラゴンの群れは、やがて一つとなって大きく旋回するように飛び回りながら、野原の上空へと舞い上がっていく。
その中心で、こちらを振り返った銀のドラゴンが一匹、何かを口から吐き出した。
ゆっくりとゆっくりと、雪よりもなお緩やかに落ちてきたそれは、白い綿毛のように柔らかな光に包まれた、黒く輝く砂のような一粒で。
無意識に差し出していた俺の掌に、吸い込まれるように、消えた。
瞬間、
頭の中に流れ込んできた、どす黒い汚泥のような怖気。
けれど、それを呑み込む程に鮮烈な、唯一人の声音と姿に、意識が埋め尽くされて、溢れた。
「……ぁ…………」
世界で一番、俺を必要としてくれて、愛してくれて、守ってくれた人。
誰よりも何よりも俺が大切だと、言葉よりもその瞳で、その手で、教えてくれた人。
「……っ…ぃ…………」
なんで忘れていられたんだ。声が聞けないだけで、今この手が届かない距離にいるだけで、こんなにも胸がざわめくのに。
一番欲しいのは、この紫色に染まる調和した世界じゃない。ただこの色の瞳をした、唯一人なんだ。
なのに、上手くその名前を口にすることも出来ない、胸に渦巻く熱の塊のせいで手足のように使えるはずの魔術も上手くいかない。
勝手に溢れて来る涙が、邪魔だ。
嗚咽で引き攣る喉が、嫌だ。
早く、早く帰りたいのに……あの温もりにしがみついて、俺を呼ぶあの声を聞きたいのに。動けない、ただ震えるだけのこの体が、憎悪するほどに疎ましい。
いっそ自分で傷でもつければ、その刺激で動けるようにならないか?
脳裏に過ったその名案を実行する前に、不意に右足の付け根に熱を感じた気がした直後、すぐ傍であの魔力が揺らぐ気配に、勝手に腕が動いた。
「――カナタ!!何故、皇竜のテリトリーにいる!?」
パッと光が散るように現れたのは、短く切り揃えられた金糸の髪を乱し、寝間着の上に片腕だけ袖を通した黒のガウンを引っ掛けて、焦燥に顔を歪めた、
俺の唯一人、特別で大切で、『大好き』な、人。
無意識に伸ばした俺の腕は、拒絶されることなく迎え入れられ、すぐに体ごと抱きすくめられる。守るように、囲うように。
久しぶりの、もう本当に何百年も離れていたような気がするほどの、懐かしい温もりと感触を確かめながら、その背に腕を回して強く強く、しがみついた。
「…………魔物に、襲われたわけではないな?賊も――おらぬか……」
いつの間に飛び去ったのか、ドラゴンの気配も、俺たち以外の人間がいる気配もない、夜の静寂に満ちた野原。
それを十分確認した男が、ほっとしたように俺を抱く腕の力を少し緩める。
「いつの間にか、―――お前の、気配が宮にないゆえ、追跡魔法で追ってきたのだ。何があった?説明はできるか?……っ」
そう淡々と告げながら、今更そっと俺から距離を取ろうとした男の首に腕を回し、ようやくその顔を、見上げた。
月明かりを背負った美しい男の、今は濃く深く見える紫水晶の瞳が期待と困惑に小さく揺れるのを見つめながら、口を開く。
「お前が、俺を振るからだろ。大好きだ、ロイ。」
あぁやっと呼べた。なんだ、嬉しくてもわりと涙って出るんだな。
なんて思いながら笑えば、馬鹿みたいに呆然とした顔をしたロイが、迷子の子どもみたいに不安げに呟いた。
「かな、た?」
そんな声、初めて聞いたな。
「うん、お待たせ。ちょっと寝ぼけてたってことで………心配かけてごめんな、ロイ。」
できるだけ安心させるように、いつもの調子でそう応えつつ、短くなった金糸の髪を指先で梳きながら続ける。
「やっぱり、短いのも似合うな。うん、あんな所よりちゃんと現実で見る方が、三割増しでかっこい―――――」
「カナタ!!!」
再び強く抱き締められて、俺の言葉は途中で止まった。そして始まるのは、俺の肩口にしっかりと顔を埋めたロイの、告解。
震える声音で、嗚咽交じりに、大の男が、皇国と言う大国中の大国に君臨する皇帝が、惜しげもなくその醜態を晒す。
「愛している……今のカナタも、過去のカナタもっ……そう、何度も繰り返しておきながら……っこの、ざまだ……。
再び、記憶を失くしたカナタを見て………傍に、っいられなく、なった……」
いつもと逆の立場になったかのように、その広い背をトントンとゆっくり叩きながら、膨大な熱量の滲む言葉に耳を傾ける。
「わた、私の……未熟故に、またカナタを喪ったのだと……っ…私が、私が、愛していたのは……誰よりも、何よりも……っ……私を『愛している』と言ってくれる、今のカナタだ。」
過去、仄かな恋心が恋情へと至った《魔導の頂点》でもなく、何も知らない唯の『異世界の人間』でもなく、今の、この『俺』を望むのだと、ロイははっきり言った。
その言葉はきっと、いやその言葉こそずっと、俺が待ち望んでいたものだったのかもしれない。
「ふ……ふふっ……やったね、俺、《魔導の頂点》に大勝利。」
「っ……カナタ……」
どうしてもそう言わずにはいられなかった俺の言葉に、何か言いたげにのろのろと顔を上げたロイの頬には、まだ涙の痕がくっきり残っている。
でも、その顔に浮かんでいたのは困ったような、それでいてどこまでも優しく穏やかな微笑で
「だが……困ったことになった。私に『レガリア』を継承させぬと言ったカナタの気持ちを、凡そ理解できてしまった。」
「ん……?」
なんで今その話が出てくるのか、俺の頭が残念ながら理解しきれないうちに、今はそれより、と囁いたロイの腕に腰を抱かれ真正面からストレートに懇願された。
「睦み合いたい、今すぐに」
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