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72.異世界で記憶喪失になったら
しおりを挟むなんだかよく寝たな~、気持ちいいなぁ、と満ち足りた感覚のままゆっくりと目を開ける。
周囲の明るさを眩しく思う間もなく、一目見れば絶対に忘れられないほどに美しく整った顔の美丈夫が目の前にいて、視線が釘付けになった。
短めの金糸の髪に縁どられた、白く透き通った肌にすっと通った鼻筋、端正な口元と、こちらを見つめる紫水晶色の瞳。
嫉妬すら無意味なほどに洗練され一つ一つが整ったパーツ、それを完璧な配置にしたらこんな顔になるのだろうか。そんなことを思いながら、あまりの現実離れした美形を前につい口元が緩む。これほど綺麗な存在を間近で見られるなんて、いい夢だなと。
誰かの名前を呼びながら、ほっとしたように息をついて僅かに緩んだその人の表情も十人中、いや、百人中百人が見惚れるくらい絵になっているのだから。
だから、自分の心の声がそのまま口をついて出ていたことに、しばらく気がつけなかった。
それを小さく笑われて、だって仕方ないだろこんな神々しくて神様っぽい人間なんてお目にかかったことないんだ、と頭の隅で反論しかけた時だ。
何か、噛み合わない。
俺の髪を梳きながら、耳に心地の良い声音で穏やかに話すこの人は、誰なのか。
知らないはずなのに、知っている気がする。
うまく言葉にならないちぐはぐな感覚が、だんだんと大きくなっていく。
その中で、滔々と話し続ける目の前の人の名前を呼ぼうとして、呼べないことに気づいて、そもそもこの人が誰なのかわからない、と自分の中で結論が出てしまった。
それが酷く嫌で、嫌で嫌で仕方なくて、でもなぜそう感じるのかすらわからないまま、柔らかに眇められた紫色の瞳を見つめて、どうにか問いかけた。
「あの……だれ、ですか?」と。
驚きに収縮した瞳に酷く傷ついた色が浮かんだ瞬間、胸のどこかが盛大に軋みを上げた気がした。
でも、そんなわけのわからない感覚に意識をやる余裕は、その後の俺には一切なかった。
しばらく沈黙した美丈夫に「どこまで覚えている?」と掠れた声音で問いかけられ、そう言えば俺はどうしてこんな見慣れない豪華なベッドで寝てるんだ、と考え始めた直後、パニックに陥ったからだ。
え?なんで俺、自分の名前も言えないの?というかここどこ?で、ほんとこの人誰?なんで俺こんな所にいるの?ここ日本……ん?日本てどこだっけ?あれ?え?俺、今まで何してた??
一体何がどうなって、なんでこんなことになって、何がなんで俺は今どうなっているんだ??と、頭の中があわあわ大混乱を極めた俺。記憶喪失だな、と金髪美人さんに判定された。
しかもここ、俺が元々いた『世界』とは違う、らしい。いや、世界ってなんだよ、それが違うってどうなってんだよ、あーでもなんとなく言いたいことはわかる、気がする。
つまり俺、異世界で記憶喪失になった!!!………………マジか!!夢だろ!?夢オチだろ!?…………夢オチってなんだっけ?!!
そんなプチ恐慌状態の俺へ面倒がらず簡潔に、滾々と、諭すようにこの状態を説明してくれた金髪紫眼のお兄さん、見た目二十代後半くらいのとんでもない美形さん曰く、きっとこれは怪我の後遺症による一時的なものだろう、と。
そうでなければならぬ、って最後にぽつりと小さく呟いてたけど。
結局その日は、俺は『カナタ』という名前で、この神々しい美形はロイさん、後から部屋にやってきた色々世話をしてくれる兎耳の爺様がファイさん、というのを教えてもらって終わった。
どうやら俺は長い間眠っていたそうで、起きて早々に負担をかけるものではない、とロイさんがそれ以上の話をしてくれなかったのだ。
色々、もうそれは山ほど色々気になることだらけだったんだけどな。結局その言葉に従って何も聞けないまま、ベッドの上でクッションに背中を支えられながら暖かくてあっさりとした美味しいスープを飲んだ。
その後すぐに夜だから寝ろ、と言われるがまま横になり、また目を閉じたんだ。全然眠くもなかったから、寝付くまでにかなり時間がかかったけど。
そのせいか、やけに広すぎるベッドが寂しいとか、寒くもないはずなのに寒いとか、「よく休め」と部屋を出て行ったロイさんをなぜか何度も思い出しては、理由のない胸の小さな痛みと付き合う羽目になった。
それでもどうにか眠りに落ちる直前、次に目が覚めたら、全部思い出せてるといいなと願いながら。そうしたら、あの紫水晶みたいな瞳はまた緩く甘く溶けて、笑ってくれるだろうか。なんて頭の片隅に過った。
そして、そんな夜を七回繰り返した結果。
――――俺、相変わらず何にも思い出せないんだけど!!?これってどうなの?もしかしてずっとこのままなのか?!
自分が元々住んでいた所も、家族とかもぼんやりどころか、こう霞んでる?くらいの感覚でしか覚えてないし、何よりこの豪華な部屋で会う人会う人にちょっと寂しそうな顔されるのも申し訳ないし、それに何より!!
ロイさんが傍目から見てもかなり憔悴してるのがほんっっとーに!!申し訳ないんですけどぉお――――!!?
まだ詳しい話を誰もしてくれないから、よくはわからないんだが、ロイさんと俺って結構親しい関係だったみたいだ。
忙しいのか、ロイさんが俺と一緒にいる時間はあまり多くないけど、それでも傍にいると何だか胸がふわふわしてくるし、誰といるよりも落ち着くし、安心できる。
もしかして、俺の保護者だったんだろうか?でも家族にこんなとんでもない美丈夫がいた覚えは欠片もない。確か、弟がいたような気はするけど、兄はいなかった、はずだし。じゃあ父親?えー……それだけはない、とどこかが断言するし。
じゃあ何だろう?
答えの出ない疑問を胸で繰り返しながら、今日も一人で広い広い庭園の一角を散歩している。あぁ、一人だけど、ファイさんがつかず離れずの距離で見守ってくれているのは知ってる。
なんだか初めてのお使いみたいだ、とまたよく覚えていない言葉が頭に過る中、白い円柱に金の細工が見事な四阿でちょっと休憩。
はふー、と大きな息を一つ吐いたのは、俺の体力の無さが冗談ですまないレベルになっているからだ。
目を覚ました日の翌日に、試しに少し歩いてみようとベッドから降りたものの、廊下へ繋がる扉まで辿り着けず、結局ロイさんに担がれてベッドに戻る羽目になったのはもう忘れたい。まさか室内で行き倒れ経験ができるとは………。
でもその状態に比べれば、なんだかんだで歩ける距離も長くなっているし、体力も戻ってきてはいるんだ。なるべく前向きに考えながら、籐で編んだような座り心地のいいベンチに腰掛けて、本日も快晴な青空を日陰から見上げる。
「おぉー……今日も綺麗だなぁ」
じっと見つめていれば浮かび上がってくる青い光が描き出す幾何学模様、川のように宙を流れていく綺麗なそれをぼんやりと見送って、また疑問が増えてくる。
あれはいったい何だろう、触ってみたいが嫌な予感もする。それに、たまに世界が薄っすら赤く染まって見えるのも、気になる。今も目の前を、黒い砂粒のような光が横切っていくし。
これを『不思議』だと感じるのは、やはり俺が元々別の世界の住人だから、なのだろうか。
そうつらつらと考え事をして自分を誤魔化していたが、あまりにもぼんやりしていたせいで、ぽろっと口から本音が零れていた。
「――――なんか……寂しいな……」
記憶がないから、比較対象がないから、具体的に何がどうこうと言うわけではないけれど。……違う、それは嘘だ。
本当は、ふとした時に隣に温もりがないこととか、話しかけてくれる声が知らず期待していたのと違う人だったとか、例え一緒にいてもどこか遠く感じたり、俺を見て、その向こうに誰かを探すような紫色の瞳が―――
そこまで勝手に思考が進んで、俺は再度ため息をついた。これだ、もう何度目だこのウジウジうだうだした思考は。
頭を空っぽにしていたら、すぐにこんな事を考えてしまう。決まって、いつだって、いつの間にか唯一人のことだけが脳裏を占める。
こうなったらいい加減、認めるしかないだろう。
俺って、男が好きだったんだと。いや、ちょっと違うか?あの人だから、好きなんだ。
陽の光を集めたような金糸の髪も、光の加減で色を変える紫水晶の瞳も、穏やかに微笑む姿も、耳に心地良い低い声音も。
会えばいつだって一番に俺の体調を気遣ってくれるのも、俺の記憶が戻らないことを誰よりも悲しんでくれていることも、きっとこうなる前の俺のことを大切に想ってくれていたのだと、言葉にされずとも伝わってくる。
だから、俺もあの人を好きになったのか?んん……むしろ、俺って一目惚れしてないか?どうなんだろうな。
でもなんにせよ、このちょっと胸がざわざわして苦しいような痛いような感覚は、あの人のことが好きだからだ。
それだけは、間違いない。ただ、なぁ……………
(あの人って見るからに金持ちそうで、地位がありそうじゃん?こんなでっかい庭に、城みたいなこのお屋敷だけで世界が違うのわかるし。それに今の俺って、頭ぱっぱらぱーの役立たずだろ?
いざ『好きです!』なんて言っても、相手にされなくないか?昔の関係性も、そういうのじゃなかった、とか言われたらそれこそ玉砕じゃん。そうしたら、鬱陶しがられてもうここに置いてもらえなくなるかも?……ダメだ、それはダメだ。今ですらろくに一緒にいられないのに、ここを追い出されたりなんてしたら、もう二度と会えなくなるんじゃ―――)
それは、とてもとても怖いことだと、直感で判断できた。会えなくなるなら、傍にいられなくなるなら、こんな世界で生きていたって意味がない。
「カナタ?どうした、顔色が悪いぞ。」
「……ぁ……ロイ、さん……」
声を掛けられて初めて空ではなく、いつの間にか膝で握りしめた手を見つめていたことに気づかされながら、慌てて顔を上げる。
そこにはいつもと同じ、深い赤色をした見るからに高級なローブを自然体で着こなすロイさんが、完成された彫像のように目の前で佇んでいた。
あー……かっこいいな、ほんっと。同じ人間だよな?そのかっこよさを俺に1ミクロンでいいから分けて欲しいよな。
目の保養とばかりにその姿に見入っていると、やがて小さな衣擦れの音と共に、指先まで綺麗に整った白い手がそっと俺の頬に触れた。
それだけで、心臓が一段階跳ね上がったように感じながら、ゆったりと穏やかな声音で紡がれる言葉に聞き惚れる。
「ふむ、熱はないようだな。無理をする必要などないのだから、ゆっくり療養するがいい。」
「えと……ありがとう、ございます。」
頬に熱が集まり始めるのを自覚する前に、あっさりその白い指先が離れていく。それがとても残念に思えて、身を起こしたロイさんを思わずそのまま見つめてしまっていた。
初めて会った日から、日に日にどこか厭世的な気配を纏い始めても、その紫色の双眸に宿る光に時折影が差し込もうとも、この人の美しさが損なわれることはない。
ただ、そんな姿に胸の奥で酷い焦燥に駆られるんだ。違うだろ、って言いたくなる。
この人は、そんな昏い目で俺を見ない。取り繕ったような上辺だけ優しい声音で、俺と話さない。
本当はたくさん俺の名を呼んでくれるはずなのに、最近は全然口にも出されない。それに、俺に触れる手は、もっと――――
「どうした?そのような顔をして。
無防備だな……それでは、悪い男に喰われてしまうぞ?」
はっと我に返った時には、先ほどよりも深く身をかがめたロイさんの腕が、俺の座るベンチの背もたれに伸ばされ、圧し掛かるような至近距離で顎先を逆の手で緩く掴み上げられていた。
表面的はどこか愉し気な声音と、眇められた優し気な瞳にちらりと映る仄暗い光を目と鼻の先に見咎めた瞬間、ぞわりと背筋を悪寒が走る。
これは、怖いものだと。きっと酷いことを、される、と。
でも、
「っ……いい、よ?……ロイ、さんなら、なにしても――」
声が震えないよう、精一杯の虚勢を張ってそう口にした。だってさ、俺はこの人のことが、『好き』だから。
『愛してる』なんて、いつか嘘になるような薄っぺらい言葉じゃなくて、俺が『好き』だと心の底から言えるのは、きっとこの人だけだから。
やけに自分の鼓動を煩く感じながら、空に浮かぶ曖昧な雲のように、胸の中で浮かんでは消えて流れていく想いが、とても大切な気がした。
吐息が触れ合いそうなほどの至近距離で、俺をじっと見下ろす紫色の双眸に浮かぶ感情は隠され、凪いだように何も映さない。
そのまま俺にとってはとてもとても長い時間、縋るような気持ちでそれを見つめていたが、不意に形の整った口元が小さく歪んだ。
「―――冗談だ。お前のような子供に、手など出さぬ。」
そう揶揄うように喉奥で嗤いながら、何事もなかったかのように身を起こすロイさんにしばし呆然とした後、俺は胸の内で盛大に悪態をついた。
(嘘つけッ!!!!誰が子供だ誰がッ!!!!このッッハゲッ!!!)
ドッドッと荒い心音を抑えようと胸に手を当てていると、遠くからファイさんが控えめに呼びかける声がした。
「陛下、お客様とのお時間でございます。」
ロイさんと同じようにそちらへ首を巡らすと、二度ほど会ったことのある人たちが、ファイさんの後ろで手を振っていた。
一人は、長い白金の髪をツインテールにした小柄な美少女で、真っ黒な外套にその身を包んでいる。もう一人は、肩まである赤みがかかった金髪と白衣に眼鏡姿の理知的に見える、背丈のある男。
そして最後の一人…………だけは、見覚えがなかった。
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俺と目が合うとなぜか深々と俺に向かってお辞儀をしてくれたので、慌ててベンチから立ち上がり俺もぺこっと頭を下げるなか
「そうか、今行く。
よいか、くれぐれも無理はするな――――カナタ」
ロイさんはそう最後に俺の名を小さく呟いて、背を翻した。
迷いなく真っすぐファイさんたちの元へ向かう、細身に見えて実は意外としっかりしていそうなその背中を見送りながら、確信する。
異世界で記憶喪失になったら、失恋したと。
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