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70. お答えしましょう 後編

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 ロイに顔面を殴られ、たたらを踏むように後ろへとよろめいたシュレインを眺めながら、不思議と冷静な頭で淡々と、今の会話を理解していた。

 俺がこの異世界にやって来たのは迷い込んだからではなく、招かれた――いや、連れて来られたからなのだと。
同時に、あれだけ思い出せなかった元の世界での最後の記憶が、自然と脳裏に蘇ってくる。

 それはついさっきの、悪夢としか思えない世界で思い出した、あの夏の日の出来事だった。

 俺の暮らしていた高校の寮へと、一人で訪ねてきた弟を両親のもとへ送り届けるために、うだるような熱気の中、まだまだ自分よりも小さな手を引いてバス停へと向かう、その途中のこと。

 本当は事故になんて、巻き込まれていない。俺たちは、木陰の多いこじんまりとした公園に、立ち寄ったんだ。
 予想以上の暑さに俺は弟を少し休憩させようと思って、隣り合ってベンチに座り、寮から持ってきたペットボトルのお茶を鞄から取り出して、それを手渡そうとしたところで………弟の背中の向こうに、突然黒い穴のような裂け目が、生まれる瞬間を見た。
 そこから何本もの人間の腕のような影が飛び出すのと、咄嗟に目の前の小さな体をベンチから投げ落としたのは、同時だった。
そして俺は、『兄さん』と叫ぶ声を聞きながら、わけがわからないままその腕たちに穴の中へと引きずり込まれたんだ。

 それから後のことは、やっぱり思い出せない。次に目が覚めたら、ロイがいてくれた。それが今の『俺』の、この世界での始まりだから。

 そこまで記憶を辿った所で、まったく傷のない顔を片手で抑えたシュレインが相変わらずの穏やかな声音と微笑で言い募る。ロイから数メートル程、距離を取りながら。

「だって当然だろう?この世界で誰よりも強い存在をそのまま野放しにするなんて、有り得ない。出来る限り強固な魔力封印を施して無力化した後、隷属魔術で余計な記憶を思い出さないよう処置をして、へ送り込み心身ともに負荷をかけ、弱らせる。
 その状態で過酷な環境下から救い出せば少しは恩に感じて、こちらの思惑通りに動くと想定したんだよ。だって『人間』は強制させるよりも、自発的に動かす方が良い成果を出すものだろう?実際、カナタは想定以上の盲目さで――」

「もう良い、その薄汚い口を開くな………その口で、カナタの名を貴様が呼ぶなッ!!」

 憎悪すら滲み出る低い低い声音と共に、この黒の世界でロイの姿を浮き上がらせていた光の輪郭が、ゆっくりと紫色に変わり始める。
 怒りに染まってもなお美しさを損なわない顔の代わりに、その感情の強さを語るように、それは瞬く間にどす黒く色を深め、炎のように揺らめいていく。
ただ、その光景を前にシュレインは呆れたように嘆息を一つ、零して言った。

「ここはカナタの魂、その最深領域にして魔力回路の中枢部だよ。ただでさえ深刻なダメージからの回復途中だっていうのに、カナタに止めを刺したいのかい?
 別に僕はそれでもいいよ。『神位』が陛下に継承されるだけだからね。むしろこの世界の原生生物である陛下が神位保持者となる方が、僕にとっても望ましいくらいだ。」

「く……ッ」

その言葉を受けて苦々しい顔をしたロイの、荒ぶるような紫色の魔力が再びただの光の輪郭へと戻るのを眺めながら、俺はようやく、小さく口を開くことができた。


「最初から全部、あんたの仕組んだことだったのか。」


 700年前に、俺がこの異世界にやって来たのも。そこで死にたくなるような、心が壊れるような目に遭わされたのも。
そんな『世界』から助けてくれた唯一人が、その全ての原因だったのに。そうと知ることもなく、その唯一人の為に、何百年もずっと独りで戦い続けていた、のか?


「そうだよ。《魔導の頂点レグ・レガリア》」


 耳に心地の良いはずの、けれどどこまでも機械じみた薄っぺらな声音の肯定は、『俺』を壊すには十分過ぎる破壊力を持っていたのだろう。
だって今ですらこんなにも胸が痛い、自分のどこかが嘘だと泣き叫んでいる、俺という存在全てが膝から崩れ落ちそうになる。

 もう何も聞きたくない、見たくない、目を閉じて耳を塞いで、この柔らかな闇のような黒い世界で眠ってしまいたい。

―――そう、思っただろう。

魔導の頂点かつての俺》、ならば。


「カナタっ!……泣くな、カナタ。」

 俺のもとまで急いで戻ってきたロイの、その長く綺麗な白い指先で目元を拭われて初めて、また自分が馬鹿みたいに涙を溢れさせていたことに気づいた。でも、それだけだ。

「ん、大丈夫だ、ロイ……。ちょっとだけ、しんどい気がするけど、でも『俺』は、大丈夫。」

 この言葉に嘘はない。気遣わしげなロイに向かって、そう自然に笑うことが出来るのだから。
だってさ、辛くて苦しくてそれでもきっと少しは幸せもあったはずの、この世界を生き抜いた俺の記憶は、もう俺の中にはない。
 その代わりに今の俺を形作ってくれたのは、満たしてくれたのは、目の前のこの唯一人だから。

「俺には、ロイがいてくれるから、誰に何を言われようがもうどうだっていいんだ。
 俺の過去全部がシュレインの掌の上だったとしても、だからそれが何だって言うんだ。俺自身が覚えてないんだから、そんなのどうでもいい。
 だから今の俺は、幸せだよ。ロイが俺を愛してくれるから、俺もロイが大好きだって、この口で言えるようになった今が。」

 いつどんな時でも俺を愛しいと語る紫色の瞳が瞬く中、頬に触れたままのロイの手に自分の手を重ねて、その温もりを確かめながら緩く目を閉じる。
確かに過去の自分の事を想うと、いくら記憶がないとはいえ、感情が大きく波打ちそうにはなる。俺の中のどこかで、《魔導の頂点レグ・レガリア》としての俺が、きっとまだ生きているから。

でもそれを優しく包んでくれる存在が、温もりが、俺にはある。だから、大丈夫なんだ。

「それに、俺の記憶を持ってるロイがこんなに怒ってくれてる。昔の俺の代わりに、あの人を殴ってくれた。それだけで、わりと吹っ切れそうな気分だ。」

 あんなに怒り狂ってるロイなんて、初めて見たもんな。それが疑いようもなく俺の為だとわかるから、勝手に涙が溢れ続けてはいても、どこか胸が暖かくなるほどだ。
だからそう言って笑えば、ロイの端正な顔が小さく歪んだ。

「例えカナタがそう言おうとも、私はあの男を許しはしない。命ある限り、憎み続けるだろう。」

「それでいいよ。だってそれって昔の俺の為、なんだろ?」

 ほら、俺が忘れた『俺』のことまで、こうしてロイは大切に想ってくれる、愛してくれる。今の俺はそれをただ嬉しいと、幸せだと感じるから、過去の真相なんて今更もういいよ。
 まだ腹に据えかねると複雑そうな顔をするロイを見上げていると、自然と涙も止まった。だからもう一度大丈夫だとロイに告げて、面白そうにこちらを眺めているシュレインへと視線を向けた。

「というわけで、ちゃっちゃっと要件終わらせて消えてもらえるかな?俺の世界に、お前はいらないから。」

 その言葉にロイと同じ色をした瞳が小さく見開かれた後、初めて造り物めいた顔に人間じみた表情が浮かぶ。まるで自嘲のような、笑みとなって。
ほんの少しだけ胸のどこかが痛み、その笑みの理由を訪ねたい欲求に駆られたが、今の俺には必要のないことだと思い直す。その代わり、

「そもそも、これってどういう状況なわけ?ここが俺の魂?の?深層領域?なんでそんな所にあんたもロイもいるわけ?なんか胸糞悪い夢をさっきまで見てた気がするんだけど、それもあんたが原因か?
 大体、あんたはきっちり昔の俺に『エリューティアは二体いるから倒せ』ってちゃんと教えてくれてたのか?あと忘れかけてたけど『レガリア』って結局何のことだよ。」

 そう頭に浮かんだ疑問を片っ端から口にした。
 すぐにまた優し気な微笑に表情を固定したシュレインと、怒気を抑えようとして抑えきれていないロイの、一触即発の雰囲気の中で語られた長々とした話をまとめると、

神位を俺が完全に継承できた時点で、シュレインが俺に施していたという隷属魔術、その一部が発動した。それはシュレイン曰く、"俺へのご褒美"だったらしい。

 この男、俺を無理矢理異世界ウルスタリアに連れてきたことも、その後の事も含めて、どうやら『悪いことしたなぁ』とは思っていたらしく、親切心でそういう魔術を施してくれていたんだと。
それは当時の、700年前の俺の願望が『全て』叶えられた世界。そこで生きている、そんな夢を見られるように、って。

 まぁロイがすぐに指摘したけど、神位を継承した俺の意識を封じ込めて眠らせておけば、俺自身がこの世界そのものを積極的に害することはできないし、あわよくば原生生物、この星に生きる人間か、他の生き物に俺を殺させることも可能になるから、って狙いもあったっぽいけど。
 でも俺がその『夢の世界』を拒絶した結果、隷属魔術そのものも打ち破ったらしい。それを察したシュレインは、こうなったら腹をくくって全部説明しますかー、と湧いて出てきたようだ。俺の魂に掛けていた、隷属魔術の名残を使って無理矢理、この黒の世界へと。

 そう、なんと、このシュレイン・セフィリムという男、今もまだという。
 かつての俺に告げた通り、自らが死んだ後もこの世界を巡っているのだ。全く別の存在として生を受け、顔も名前も、種族すら違う生き物として、何度も何度も。いわゆる転生、生まれ変わりというやつだろう。
ただし、天霊人としての力はほぼ全て喪っているらしく、特別強大な魔力があるわけでもなく、寿命も種族特性程度しかない、本当に普通の生き物になっている、と。
ただ、なにせ自己申告だから、それが嘘かホントかはわからないが。

 そして、そんなとんでもないことを可能としているのが、『レガリア』という物らしい。
 それはこの世界、いやこの星独自の防衛機構で、『神位』へ影響を及ぼすことが出来る唯一の物だと、シュレインは言った。神位保持者が、万一侵攻神に敗れた場合の為に、用意されていた保険のようなものだと。

「『レガリア』の権能を使えば、ある程度『神位』の真似事が出来る。神位保持者が望む世界の激変、その邪魔をたった三千年近く出来る程度、でしかないけどね。」

「それ、『たった』の使い方絶対違うから。じゃあその『レガリア』はあんたがずっと持ってて、俺にはないんだよな?セキュリティ的にその方がいいかも。えと、後は――――」

 なんだっけ、聞きだしたら止まらないな。あれもこれもそれも聞かなきゃいけないことだらけだ。
まぁ俺の頭じゃ全部理解しきれていない、気がする。でも一緒にロイがいてくれるから、聞けるだけ聞いとけば、後でどうにかなるだろ。
じゃあ次は何を聞こうかと考えていると、穏やかな淡々とした声音に思考を割って入られた。

「君は無意識にこの質問を避けてるのかな?それとももう、神位保持者の本能でわかってるのかい?
 どうして、『愛する者とあとどれだけ一緒にいられるか』尋ねないんだい?」

「え――……」

 いつの間にか俺を支えるように腰に回っていたロイの腕が、僅かに強張った気がした。
 思わず弾かれたように顔を上げた俺のすぐ傍で、何かを覚悟した強い光を宿す紫色の瞳がシュレインを見据えながら、端正な口元がはっきりと音を紡ぐ。

「単刀直入に言おう、シュレイン・セフィリム。その『レガリア』とやら、私に寄越せ。
 それがあれば貴様のように今の自我を保ったまま、世界を巡ることが出来るのであろう?」

 ロイの言葉に、一瞬思考停止しかけていた俺の頭がゆっくりと回り始める。

 神位というものは、高い不死性をくれるという。
 ただの人間でしかない俺が、この世界にやって来て200年、ほとんど容姿が変わらずに生きてこれた。それはきっと体内魔力の大きさのせい、だろう。
でもエリューティアの一体を倒して、その後500年近くも同じ姿で生き続けてこれたのは、完全ではないとはいえ神位とやらを得ていたからなのか?

 じゃあこの先は?いつまで俺は生きる?ロイは?
 ロイだって魔力がとんでもなく大きいと言われているが、人間だ。この世界に生きる、ただの人間なんだ。それも、既に種族寿命を大幅に超えて130年近くも生きている。

 そりゃ俺だって、ずっとずっと一緒にいられるとか、そんな子供じみた夢は持ってない。いつかは、その日が来ることだってわかってる。
でも、それはどちらかが多少長生きする程度だと、普通の人間の一生の範囲でしか、想像できていなかった。むしろ、700年近くも生きてる俺の方が、先に死にそうだとどこかで思ってた。
なのに、そうじゃない?このままだと、俺は、ロイが……ロイが死んだあと、下手したらまた何百年も、もしかしたら何千年も、独りで生きることに、なる……のか?

「それはそこの神位保持者次第かなぁ?この子の望みに沿わなければ、何もできないよ。」

どこか愉し気な声音を聞き流しながら、考える、考える。

『レガリア』があれば、ロイは死んだ後も、この世界を巡ってくれる。シュレインのように。
名前も、顔も、姿も、変えて?でも心は、ロイのまま?
いつどこで、どんなモノに生まれるかわからないまま、俺はただロイが生まれ変わって来るのを、待つのか?

「カナタ、私は何があろうとお前の傍を離れる気はない。この身が朽ちようとも、必ずまた、カナタのもとへ戻ると誓う。だから、そのような顔をするな。」

 少し眉を下げたロイが、諭すように低く優しい声音で俺の髪を撫でながらそう言うけれど、


「……―――だ……いや、嫌だ。それは嫌だ、絶対に嫌だ!!」


考える前に口から飛び出した言葉は、間違いなく俺の本心だったのだろう。

「嫌だ!!今の、今のロイがいいんだ!!!俺が、俺が好きなのは今のロイなんだ!!!その瞳で、その声で、俺を愛してくれて、この腕で抱き締めてくれるロイなんだ!!
 生まれ、変わるって……!一度はロイが死ぬってことだろ!!!いくら、いくら心が同じでもっ……いくら記憶があったってっ……もう今のロイは、このロイはどこにもいなくなるってことじゃないか!!それっ……それならっロイが、ロイが死ぬ時に俺も死ぬ。どれだけよぼよぼの爺さんになっても、今のロイがっ……いいっ……今のロイしか、いらない………っ!」

「っカナタ……しかし――」

 なんでだろう、シュレインの言葉で勝手に溢れてきた涙と違って、この涙は息をするのも苦しい。
またロイを困らせてるってわかるのに、ロイの言う方法がきっと一番良いはずなのに、どうしても嫌だ。

 でも俺とロイがこの意見の相違に妥協点を見つける前に、のんびりとしたシュレインの声音が全てを打ち切った。

「はい残念でした、陛下。『レガリア』の継承は先送りということで。あと揉めてるところ悪いんだけど、そろそろ時間なんだよねぇ。
 あぁ、今の世界はエリューティアの影響受けすぎちゃって、もう負化魔力自体は生態系の一部になってるから、それ踏まえて今後はどうにかしてね。あまりヒント出すと誓約違反なんだけど、もういっか。ドラゴン大事にして、魔術師が馬車馬の如く働けばどうにかなるとは思うよ。
 じゃ、後はこの世界頼んだよ~。」

「なっ!?待て貴様ッ!『レガリア』を寄越せとッ」

「だからそれは却下だロイッ!!!それからシュレイン!あんた最後まで最低だなッ!!?俺への詫びにもっと何かどうにかしろよッ!!!」

 シュレインの有り得ない丸投げ宣言と共に、その周囲から急速に黒の世界が白く白く染め上げられていく。その眩しさに思わず目を瞑って、咄嗟に隣の温もりにしがみつきながら、そう最後に悪態を吐いた。
そのなかで、ふわりふわりとまた暖かな何かに包まれる直前、いつも脳裏に響いては雪のように溶けて消えていった声を、今度こそはっきり聞いた気がした。


--- だったら言ってごらん
 君が憎んで、君が赦した存在へ、助けてって ---



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