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第六章 山口観光騒動記
第百八十七話 百種類以上のソフトクリーム
しおりを挟む繰り返す季節を、重ねる月日を、降り積もる一秒一秒を、指折り数えたりはしなかった。
ただ淡々と流れるままに日々を過ごした。
だから、今が一体あの日から幾年幾月かだなんて、そんなことは彼女には判然としない。
それなりに長い年月、とだけ。
家の外にすらりと立つ一本の木。そこに凭れるようにして彼女は座る。
「……思えば、この木も随分立派に成長したな」
植えた時は、ひょろっこい苗木だった。嵐がくればしなり、枝を折り、日照りが強ければ萎びる。実に頼りない木だったのだが、それなりに気にかけてやったこともあり、見上げたら視界から空を埋め尽くす程度には大きくなった。
「まぁ面倒なことも色々とあったが、こうしてこの日までやってこれたことを考えると、私も魔女としては上々だった」
半ば無意識に、ぽんぽんと地面を叩く。土のざらりとした感触が、彼女の手の平に伝わる。
少し感傷的になって振り返ってみれば、実に思いもかけない人生だった。きっと、魔女としては異色の人生だ。
この世のどこに、処女性を重んじる癖に人間の男を伴侶に得、精神的な繋がりだけではなく肌まで重ねた魔女がいるだろう。それも、魔女としての資質を保ったまま。
世界は広いが、そうそう見つかるものでもないだろうと、彼女は思う。
それは、彼女の知らない熱だった。
彼女の知らない、気持ちだった。
そして、知ってしまったからには、彼女にとって一等大切なものとなった。
掛け値のない慈しみをやり取りする日々。
時にすれ違い、言葉の礫を投げ合うことがあっても、必ず繋ぎ直される縁。
引っ掻き回され、翻弄され、世界はまるで別物になった。
それはあまりに自分の根幹を揺らすことだったけれど、そのうちに彼女は全て呑み込んだ。丸まま、全て自分のものにして、自分の世界を組み直した。
共にあった日々は長かったのだろうか。それとも、駆け足で過ぎ去ってしまっただろうか。
耐え難い喪失感に苦しむ日も多かったように思うが、自分の足跡を振り返ると、そこには溢れんばかりの日々の切れ端があった。その一つ一つを丁寧に浚っていれば、時間はあっという間に過ぎたように思う。
振り返れるものが多いということは、長かった、あるいは濃密だったということかもしれない。
人より少しだけ穏やかではあったけれど、時間は容赦なく流れた。
分け与えた血の分だけ持ち時間を延ばして、その中で十全に互いを慈しんだ。
少しずつ、年を重ねていくその姿を見て。
“お前と私は違うもの”
言い聞かせるように、彼女はなんてことない風に言ったものだ。
“だからこそ、その違いを解して、尊重して、慈しみたいと思う”
少し、強がっていたかもしれないけれど、それは本心だった。
言い聞かせていたのは、相手にか、自分にか。きっと両方だったのだろう。
自分の心は最後の最後まで、いや、途切れたその後もなお、満たされていたと思う。本当に沢山の沢山の心を受け取って、自分と言う存在は十全に満たされていたのだ。
離別は、想像以上の代物だった。
抉られるような痛み、ぽっかりと空いた穴、虚しく響く自分の嗚咽。空気は澱み、あらゆる事象が意味を失った。
何をしても、何にもならないと感じた。
広々とした室内。時折脳内で掠める柔らかな声に反応しては、振り返った先の虚空に絶望したものだ。
苦しくて苦しくて気が狂いそうで。
思い出をよすがにするだけでは到底足りないと、そう思った。
けれど、一つ一つ丁寧にめくり返せば、あらゆる出来事が愛おしかった。とてもとても大切で、彼女の胸を痛めつけながらもゆっくりとゆっくりと満たしにかかった。
少しずつ、少しずつ。
そうやって彼女は、呼吸の方法を取り戻していったのだ。
土に還すのがいいだろうと、庭先にその場所を確保した。手伝いを申し出る声は沢山あったが、彼女はその全てを断ってひと掘りひと掘り、土を抉り、その場所を用意した。
そして、また自分の手で、一杯ずつその穴を埋めていった。
何か目印があった方がいいだろうかと思って、それで若い苗木を植えたのだ。
何の変哲もない木だ。実もならないし、目を引く花を咲かせることもない。先に触れた通り、気候に左右されて何度も枯れかけた。
これは、ただの木だ。
彼女はそう思っている。
けれど少しだけ、特別なところがあるのだ。
この木は、ほんのり特別な気を帯びている。家のちょっとした守りにするのに適した、少しだけ特別な気配。
いつ頃からか、それに気が付いた。それは、加護の気配と言うに近かった。
“養分として、吸い上げたのか?”
冗談交じりに、足元を見下ろしながら彼女は苦笑したものだ。
これは、ただの木だ。
彼女はそう思っている。
近くにあった気配を少し吸い取っただけの、ただの木。
生まれ変わりとか、乗り移りとか、そういうものを彼女は全く信じていない。だからこれはただの偶然だし、まぁ解釈を与えるにしても“置き土産”程度の認識だ。
そういう風に割り切ってはいたけれど、彼女はこの木をそれなりに大切にしてきた。駄目になりそうになったら、手を出してきた。
そうして、この木は守護の木として、今日までここにあるのだ。
「ま、こうして過ぎて見れば、やっぱり一瞬だったかもね」
少し冷たくなってきた空気。高く、そして濃くなった空。静かな森の中、彼女は独白を続ける。
「過ぎたからこそ言えるのかもしれないけれど、そう悪いものではなかった」
苦しみも、悲しみも、全部彼女のものだった。
苦しめるのも、悲しめるのも、それだけ幸せだったからだ。失ったものが、愛おしかったからだ。
「私はねぇ、信じてないんだよ」
苦笑が零れる。
「生まれ変わりとか、死後の世界とか、そういうのは信じてない」
でも。
「ほら、お前が言っていたから」
それは二人の流れが重なっていた一時の間。折りに触れて、何度も何度も。最期の最期まで繰り返された。
“オレの一途をナメないでいて? 大丈夫だよ。オレはちゃんと待てができる子だよ”
「待ってるって言うんなら、迎えに行ってやらなくちゃならないじゃないか」
本当はこういう時、迎えに来るものなんじゃないか、そんなことを頭の片隅で思いながら、彼女は穏やかな心持ちで微笑む。
追い越してしまうことがあっても、その先でちゃんと待っていると。
ずっとずっと自分だけを待っていると、あの子がそう言ったから。
だからこの日まで、生きてきた。
ちゃんと投げ出さずに生きてきた。
きっと最期には胸を裂かれる思いをすると思った。その通りだった。けれど、それまでにどれだけのものを手に入れることができただろうか。
今、こうして穏やかな気持ちで、愛しい気持ちで胸が満たされていることが何よりもの答えなのだと、そう思う。
自分と相手の差が怖かった。同じでないことが、怖かった。違ってしまっていることが、辛く思えることもあった。
その度に、胸の内で繰り返したのだ。
“お前と私は違うもの”
“だからこそ、その違いを解して、尊重して、慈しみたいと思う”
何度も何度も繰り返して、実際その通りにした。
憎むのではなく、受け入れ、愛した。
自分の見目は、今この時になってもやはりあの時のまま。成長が止まった時から、何一つ変わらない。そういうものなのだと、彼女はもうすっかり受け入れている。
違っていたから、手を取り合えた。
違っていたから、互いの人生は交わったのだ。
同じ生き物だったのなら、共に生きる道はなかった。
二人を引き合わせた、数奇な運命。
「もう少しだけ待っておいで」
彼女は柔らかく言葉を落とす。
きっとまた、見えないしっぽをぶんぶん振っているに違いない。それを想像すると、少し楽しい気分にすらなる。
「サフィール、きっとすぐに追いつくから」
そう言って。
彼女はゆっくり瞳を閉じた。
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