北新地の恋

みお

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春の夢、ゆるり溶かしてフルーツ牛乳

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 4月の風が吹き始めると、北新地のすぐ側を流れる堂島川の水がゆるむ。
 川向かいのビルから漏れた光が、とろけた水面に反射するのがいかにも春らしかった。
 夜の道を急ぐ人々の顔も華々しく、服の色合いも軽やかな色揃い。
 湿り気を帯びた向かい風に桜子は目を細め、
(……すっかり、春やなあ)
 など、しみじみ思った。
 彼女が歩くのは、大阪を北から南に貫く御堂筋。梅田のビル群に背を向けて、御堂筋沿いに南に抜ければ大阪キタの歓楽街として知られる北新地が顔を出す。そこを抜ければ堂島と呼ばれるエリアである。
 その場所は、川と川の合間にできた巨大な中州。しかし、ただの中州ではない。
 この広いエリアには市役所もあれば図書館もある。歓楽街を川の向こうに眺めながら、生真面目な施設が島に浮かぶのである。
 不思議な街だ。と、桜子は初めてこの地を踏みしめた何十年も前から、そう思っている。

(……ん?)

 川の上を渡す橋を渡りかけ、桜子はふと欄干に目をやった。
 石づくりの古い橋、その欄干に身を乗り出す男がいたのだ。
 男はざらついた橋の欄干に体を押しつけて、川をのぞき込んでいる。もしくは、身を投げようというのか。
 そばを通りかかる人たちは気づいていないのか、気づいていて無視しているのか。誰も男に声をかけない。目もやらない。
 ただ、春の湿気った空気が、男のスーツを軽く揺らしていた。
「あんた……」
 桜子は思わず足を止めた。そして通行人を押し退けるように橋を横断し、男に近づく。よれよれのスーツに古ぼけた鞄。背中から感じる、どうしようもない哀愁。
「あんた何を……」
 思わず顔をのぞき込み、桜子は苦笑した。
 男は川に身を乗り出した姿勢のまま、ご機嫌なとろけ顔。ぶつぶつと、六甲おろしなどを歌っているのである。
(……ああ、なんや)
 男は顔どころか耳まで真っ赤だ。吐き出す息は酒臭い。それを見た桜子は小さなため息をつく。
(酔っぱらいかいな)
 腹立ち紛れによれよれのスーツの背を強く叩く。驚いて振り返った男に向かって桜子はにやりと笑って見せた。
「おっちゃん、危ないで。落ちなや」
「あ、なんや。婆ちゃん、おおきに」
「お姉さんって言いな。正直者はもてへんで」
 軽口を利いて桜子は再び歩き始める。
 若い頃は自慢だった色気のある腰回りも、70を越えるとただのたるんだ肉の固まりだ。よくからかわれていた巨大な尻は今も健在だが、ふりふり歩けば肉が揺らめく。
 しかし、年を取っても足は健康なまま。今でも走ることができるし、膝も頑丈だ。腰だってまだ真っ直ぐである。
 さすがに髪は白く染まったが、そんな髪を高く結い上げ、着慣れた浅黄の着物に緋色の帯。縦にも横にも広い身体を見せつけるように堂々と歩けば、向かいから歩いてきた気の弱そうな若者はすぐに道を譲った。
 それを桜子は有り難いとも思わない。かといって怒るわけでも、卑屈になるわけでもない。
 桜子は開かれた道の真ん中を、当然のような顔をして進んだ。
 娘時代から、男に気遣われることには慣れている。


(……ああ、今日は人が多い)
 橋を渡る人は集団の固まりとなって、御堂筋沿いに北に向かって歩いている。その中で、桜子は一人逆うように南に向かう。そのせいか、余計に人の多さが目に付いた。
(金曜か、なら、しゃあないわ)
 そういえば今日は金曜日である。人も浮かれるはずだ。
 この道は、オフィス街と夜の街を繋ぐ道。多くのスナックやクラブが林立する北新地は、大阪の中でも独特な空気を纏う。
 ビジネスビル群に囲まれた一角に、突然現れた享楽の迷路道。そこを彩る色鮮やかなネオンは、今も昔も眩しく町を照らしている。
 その道の側、浮かれ調子のサラリーマンやOLたちがぞろぞろ歩くのも、昔から変わらない風景である。
 その彼らがどこから来たのかといえば、それは川の上流下流に点在する巨大なビル群である。
 夜22時近くになってもまだ灯りのともる巨大ビルには多くのサラリーマンが難しい顔をしてパソコンや書類の束を弄くっている。
 それがどんな仕事なのか、桜子にはわからない。そんなに紙ばかりいじくって、なにが生まれるのかもわからない。
 そもそも桜子は会社なんぞで働いたことがない。
 戦後のごたごたした時代に生まれ落ち、娘時代は給仕などをしていた。そして、気が付けばホステスになっていた。
 そんな、よくある人生である。
 新地に流れ着いたのも偶然の積み重ね。ただし、似たような境遇の娘たちと桜子が違っていたのは北新地と水が合った、という点だ。
 なんとなく水が合い、なんとなく根を下ろした。嫌な事は山のようにあったが、楽しい事はそれ以上にあった。
 昼間は気むずかしい顔をしてオフィスで偉ぶる男たちが、夜には桜子の前で愚痴を吐くのがおもしろくもあり、かわいくもあった。
 男の愚痴だけを聞いて数十年。気が付けばママと呼ばれる存在になり、今度は若いホステスの愚痴を聞く羽目となる。
 やがて、新地で彼女を知らない人間はモグリだ、ともいわれるほどの存在になっていた。が、桜子が数十年繰り返してきたのは、ただ愚痴を聞く事だけである。
 ホステスとして働きはじめ、そして店を畳むまで北新地に根を張り続けた数十年。
 桜子はこの町で、愚痴だけを聞き続けた人生である。


 そして今もまだ、その宿命からは逃れられない。桜子が愚痴から逃げても、愚痴の方が桜子を追いかけてくるのである。
 ここまでくれば、もうついでだ。死ぬまで付き合うつもりではある。しかし、なんとまあ数奇な人生だろうか。と桜子は苦い煙草を吸い込んで、紫色に似た煙を宙に向かって吐き出した。
 そんな桜子に、かけられた甘い声がある。
「桜ママァ。私、フルーツ牛乳」
 頭をべちゃべちゃに濡らした若い女が、バスタオル一枚巻き付けただけのだらしない恰好で、桜子を見上げている。
 ネイルで着飾った指の先には、100円玉が一枚。逆の手には、しっかり冷えた瓶のフルーツ牛乳。
 厚い瓶の中で揺れるその液体は、安っぽい電灯の白い光に晒されて華やかな色に見えた。
「待って、アヤちゃん、あかん、それっ」
 それを見て、奥からもう一人の女が顔を出す。ちょうど顔に化粧水を叩き込んでいたのか、片手には高級ラインの化粧水を握りこんだまま、子供のような顔をして目尻をとがらせる。
「それ、最後の一本やん。それ、うちの」
「早いもん勝ちぃ」
「あかん、私、最初から目ェつけてた!」
「そこ、喧嘩しな!」
 甲高い言い合いが始まりそうだったので、桜子は番台を一発叩いて黙らせる。桜子の低い声にあわせて、古い木の台がぎしぎしと音を立てた。
「だってえ、ママー」
 女はまるで甘えるように唇をつんととがらせ、番台に座る桜子を見上げる。
 この場所は、桜子の特等席だ。
 町の片隅にうち捨てられた古い古い銭湯。女湯の入り口入ってすぐ左手、少し高台に作られた見晴らしのいい番台。
 そこに腰を下ろせば、男の裸も女の裸も丸ごと見える。ついでに壁に付けられた古いテレビも、しっかり見える。
 ちょうどテレビに流れるのは、深夜のニュースだ。野球の開幕戦、その結果が流れてくる。今日の阪神は、勝ちであるらしい。
(なるほど、せやから六甲おろし)
 欄干にもたれかかった男の歌声を思い出し、桜子は苦笑した。
 そして柔らかい座布団に尻を沈み込ませ、女を一瞥する。
「それに、何度もいうけどな。私はあんたみたいな子、これまでいっぺんでも使ったことはありません。あんたのママは、別のママやろ」
「だって、桜ママはこの桜銭湯のママやもん。それにもし桜ママが今でもお店してたら、私、そこで働きたかったなぁ……ママ、今からでもお店せえへんの?」
 桜子の尻も体も、さんざん北新地の風を吸い込んできた。最高級のソファーにも、高級なお座敷の柔らかい座布団にも、様々に座ってきた尻である。しかしそのどれよりも、この席は居心地がいい。
(ここより、最高な場所はそうそうないわ)
 と、煙草を吸い込み桜子はにやりと笑う。若い頃に比べると、ずいぶん丸くなったものである。
 自分の尻の形にぴたりと収まる番台椅子の上で吸う一服は、これ以上ない至福の時間だ。
「もし私がまだ店やってたら、あんたなんぞ雇うかいな。そんなスッポンポンでフルーツ牛乳握って走ってくるような子。風邪引くからはよ、身体拭きなさい」
「はぁい」
 フルーツ牛乳の瓶を持ったまま、女は踊るように脱衣所に駆け戻る。それを見たもう一人の女が素早く文句を付けた。
「ママァ。私もフルーツ牛乳のみたーい」
「フルーツ牛乳なら、男湯にあまってるわ。ちょっと、そこの男前」
「俺やな」
 男湯に向かって適当に声をかけると、すぐさまホスト風の若い男が手を上げた。ちょうど風呂上がりか、滴る水も弾くような、ほどよく引き締まった身体である。
 悪ぶって髪を明るく染め、耳にはいくつものピアス跡。しかし長い前髪に隠れた目は純朴で幼い。
「そっちの冷蔵庫の、2、3本こっち持っといで」
「えっ、ママ、俺、女湯入ってもええのん?」
「あほう。一歩でも入ってみい、北新地におられんようにするで」
「ママこわあ」
 男が笑うと、合いの手を入れるように奥の風呂場からカコーン、と洗面器の転がる音がした。
 先ほどまで言い合っていた女たちといえば、子猫のように寄り添って、半裸のだらしない恰好のまま甘いフルーツ牛乳を飲んでいる。
 タオルから漏れたふくらはぎの白さは、まるで咲き始めの桜のように白く透き通ってみえた。
 まだ20歳そこそこか。どれだけ大人びたメイクをしたところで桜子には分かるのだ。
 キャバクラで働く二人組。あと数年もすれば北新地から抜け出して、結婚するなり別の仕事つくなり、する。
 そしていつか思い出すはずだ。深夜25時、こんな場末の小汚い銭湯で飲んだフルーツ牛乳の味を。
 それを思うと、桜子は切なくもあり、嬉しくもあった。


 桜子が自分の店を人に譲ったのは、10年前。60の年を数えたその日である。
 北新地の片隅、雑居ビルの奥にある目立たない小さいクラブ。ともすれば街のネオンに埋没してしまいそうな小さな店だ。この店の人気は桜子の人柄で持っている。と、言われたものである。
 あっさりと店を捨てた桜子はそれから10年間、何もしなかった。
 引退したママといえば大抵は、小料理屋でもするのがセオリーである。誰もが桜子の次の動きを知りたがった。
 しかしそんな小うるさい外野の声を無視し続けて10年。
 昨年の夏の終わり頃、桜子はこれまでと全く異なるところに目を付けた。  
 着飾った人間を見るのはもう飽きた。それならばもっと原始的な場所がいい。人が最も落ち着ける場所で働こう。そう思った。
 小さな銭湯が後継者不足で店を閉じる……噂を聞いたのはちょうどそんな時である。
 北新地から徒歩15分。小さく古くさく、女湯と男湯の間に小さな番台が一個だけある。そんな、昔ながらの銭湯だ。
 渡りに船。なぜか、そう思った。
 店ごと買い取ったが専門的な部分については人を雇ったし、風呂の掃除などの力仕事はホストを雇った。売れていないホストなら、安い時給でも風呂賃タダにするだけで喜んで手伝いに来る。
 つまり、桜子の仕事は番台に座って客の相手をすることだけである。
 22時を過ぎてから店を開けるせいか、客の7割はホステスかホストである。残りはそんなホステスを相手にするタクシー運転手や飲食店の従業員。つまりはここは、ちいさな北新地である。
 年寄りのほんの暇潰しと始めたものの、そこそこ忙しい。それが嫌かと言われれば、存外楽しい。
 口の悪い人間などは「まだ新地の女の子で儲ける気か」、「隠居すればいいのにガメツイことだ」などと陰口を叩いているようだが、桜子は気にもならない。
(いいたい奴には、言わせとけばええ)
 と、思う。陰口など、生まれ落ちて今まで飽きるほど聞いてきた。その経験で学んだのは、陰口に悩む価値など微塵もないということである。
「ああ、ほんま、いそがし……」
 煙草の煙をふいっと吸い込み、吐き出す。
 と、寛ぐ間もなく番台の横の入口が勢いよく開いた。
「ママーこんばー」
 22時からオープンするこの銭湯は、26時を回るとようやく落ち着く。人がはけた頃にやってきた新しい客を、桜子はチラりと横目で見た。
「花子、遅いな。仕事か」
「今日はご飯たべてきてん。おなかペコペコやったから」
 それは数週間前から常連になった女である。けばけばしい化粧と、安物の服からして、クラブのホステスではない。最近乱立しているというガールズバーの女である。
 時代の流れか、最近の北新地には安っぽい店がやたら、多い。
 花子というその女は、ガールズバーで働くには少々年増である。さほど会話も上手では無いらしく、看板持ちばかりさせられるのだ。といつも桜子に愚痴をこぼす。
 しかし、名前がどこか似ているせいか、若い癖に老成してみえるせいか桜子は花子を妙に気に入っていた。
 苦労してきた子だと、桜子は花子を見ている。もちろん、苦労をしなかった女など、この町にはいないのだが。
「遅い時間に食べたら胃もたれするで」
「ええねん、慣れっこや」
 花子が背伸びして番台に500円玉を置く。その袖の隙間から、春の生ぬるい香りがした。
 食べ物の匂いなどしない。外の香りだ。誰かと長く立ち話をしていたのか、彼女の身体は冷えている。
 食事をしてきたなど嘘である。しかし、桜子は気にせず釣り銭を彼女の手に乗せてやる。
 嘘の多い女は、昔から好きだった。


「ああ、やっぱり大きなお風呂はええね。すっきりするわ」
 メイクを落とした顔をタオルで包みながら、花子が風呂からあがってきたのは1時間後のことである。烏の行水が多いホステスの中、彼女は特別長湯だ。
「ああ、あったまった」
 のっぺりとした顔が、銭湯独特の白い電灯に照らされて白々と輝いている。
「あ。フルーツ牛乳、もうない」
 花子は番台隣の小さな冷蔵庫をのぞき込み、口をとがらせる。
「これ飲もうと思って一日がんばってたのに」
 白く煙ったガラス越し、並んでいるのは茶色のコーヒー牛乳瓶とスプライト、コーラ。それに小さなビール缶に緑の瓶のミカン水。
 なぜかこの銭湯は、フルーツ牛乳ばかりがよく売れる。
 わざとらしいほどの甘酸っぱいミルク味。キンキンに冷えた小さな瓶を女も男もこぞって取り合った。
「さっきも補充したけど、もう売り切れか」
 桜子は番台の上から、男湯を覗き込む。男湯の冷蔵庫の中からも、フルーツ牛乳は消滅していた。
「一番人気やもん」
「今度からはようさん仕入れておくわ」
「じゃあ今日は、みかん水でええかなあ」
 冷蔵庫の前でしばらく悩み、花子は緑色の瓶をつかんだ。番台の上に、銀色の百円玉を一つ。
 桜子が代わりに手渡すのは、年季の入った栓抜きだ。くすんだ銀の栓抜きに、テレビの画面が写りこむ。
 テレビでは、まだ阪神の試合結果を流している。このニュースを何度流すつもりか、と桜子はあきれ顔でテレビを見上げた。
 花子も釣られてテレビを見上げながら、ジュースを美味しそうに三口、飲んだ。
「みかんの味やないよね、これ」
 みかん、と書かれているが、味はただの甘酸っぱい清涼飲料水である。頼りないほどのかすかな甘さとさわやかさがあり、桜子はどちらかといえばこちらの方が好きだった。
「花子。疲れてるな」
 瓶を抱えてため息を付く花子を見て、桜子は思わず声をかける。
 もうママでもなんでもない。女の子を気遣う必要などひとつもないが、憂いのある顔を見ると、思わず声をかけてしまう。だから愚痴ばかり聞いてしまう。
 しかし、これはもう死ぬまで直らない癖のようなものである。
「わかる? 客がしつこくて」
「あんたのところのママは止めんのか」
「止めんよ。私ただの看板持ちやし、辞めたかったら辞めって」
「店の名前言いな。あんま非道なことしよったら、新地におられんようしたるわ」
「ママこわぁ」
 けらけらと花子は笑う。笑ってみせても、疲れた表情は消えない。
 夜の店で働くことに、そろそろ疲れを覚える年齢である。ここで辞める女も多いが、これを乗り切った女は二度と北新地から離れられない。
 どちらがいい、とは桜子にはいえない。
 桜子は煙草に火をつけ、吸い込む。紫煙が天井までゆっくりゆっくり上っていく。ゆるやかなのは、空気が湿っているからだ。
 暖かい湯をたっぷり使う銭湯は、空気が乾く暇がない。銭湯独特の湯の香りが、煙を飲み込んでいく。
「……ん。手話か」
 ふと下を見れば、花子が椅子に腰掛けたままなにやら本を熟読している。手話、と書かれた本である。彼女は長い指先を器用に動かし、にっと笑った。
「うん。今度のお休みに実家いくねん。弟のお墓参りいくから、練習」
「花子の弟は、そうやったな」
「そうそう」
 花子の弟は耳が聞こえない。そのため花子は手話を覚えたという。そんな弟ももう亡くなったと昔、世間話の合間に聞いた。
 花子の手の動きをぼんやり眺めながら、桜子は番台に肘をつく。
 手の動きを目で追うだけでは、どのようなことを語っているのか一片も分からない。ただ、ゆるやかに空気を割って動く手は、ダンスのようで美しかった。
「手話いうたら、むかぁし、知り合いにおったわ……覚えなあかんなあ、いうてた男が」
「なになに、色っぽい話?」
 あほ、と笑いとばし桜子は煙草をもみ消す。
「奥さんが耳きこえんくなって、そんで手話覚えなあかん言うて……長いこと会ってないけど」
「なん。色っぽい話やおもたのにー」
「ママも色っぽい話、ようさん持ってるでしょう」
 ふと、男湯から合いの手が入った。振り返ってみると、年かさの男がにこやかに桜子を見上げている。
 彼は冷たいコーヒーをふりふり、番台に百円をひとつ置く。
 最近、この銭湯に来るようになった男である。名前を沢木といったか、タクシーの運転手だ。
 夜のホステスを拾うため、この地に的を絞る運転手は多い。沢木もその中の一人だ。
 しかし、運転手になる前は北新地で派手に遊び歩いていた男である。
 北新地で身を持ち崩すのはよくある話。沼を這いだしたのち、再び北新地に吸い寄せられる男達も多い。しかし、沢木のようにまっとうになって戻って来る男は少ない。
 つまり彼は、根が生真面目だったのだろう。
 沢木はコーヒーを飲み干すと、桜子を見上げて笑う。
「ママは昔は綺麗でね。そりゃもう、色っぽい話のひとつやふたつ」
「一言余計や」
「勿論、いまでも綺麗ですよ」
「沢木さん、おべっか上手になったなあ」
 男湯から女湯は見えない。しかし声だけは通るので、二人の掛け合いを聞いて花子が楽しげに笑う。
 気がつけば、深夜も更けていく。男湯は沢木一人、女湯は花子一人のみ。たった二人の客と、番台の女主人を残すのみであった。
「花子も沢木さんも、覚えとき。どうせ綺麗でも年とったら、このとおり。結局は人は皮と骨だけになるんやで」
 それに肉襦袢。と沢木が余計な一言を付け加えるので、桜子は苦笑を返した。
「ま、肉襦袢も残るわな」
「ママ。だから無駄な努力するなってこと?」
「逆、逆。綺麗なのは今だけなんやから、後悔せんよう、思いっきり楽しんで綺麗にしとき」
「……似たようなこという人知ってる」
 ミカン水を飲み干して、花子は甘い息を吐く。
「新地のすみっこの、ラーメン屋さんのおっちゃん。汚い店で、作ってるのも太ったおっちゃんやけど、これがおいしくて……あ。そうそう」
 ぽん、と花子が手を打った。
「そのおっちゃんの奥さんも、耳がきこえんから、おっちゃんが手話覚えなあかんって」
 かーん、と乾いた音がどこかから聞こえてくる。それは天井の水滴が床に落ちた音である。深夜になると水滴の音がとりわけ、高く聞こえる。
 桜子は煙草をもみ消し、身を少しだけ乗り出した。
「……名前は?」
「どうやろう。みんなおっちゃんとか、店長とかばっかり言うて……」
 花子は瓶に丁寧に蓋をして、片付けながら首を傾げる。
「ママの知り合いの人かなあ。野球が好きで、一年中ずっとお店で野球流してるねん」
「阪神の?」
「そうそう、阪神の」
 小脇に風呂の道具を抱えた沢木が扉をくぐる。ついでに桜子の顔を見上げて言った。
「いつ行っても、テレビで阪神戦の映像ばっかり流してますよ。シーズンオフのときは、録画でね。ラーメンもなかなか美味しいんですわ。私も時々お世話になります」
「そこのおっちゃんが、私の生徒やねん」
 花子は無邪気に桜子を見上げた。
「生徒?」
 テレビの音声が急に下がる。CMが終わり、深夜のニュースが始まったのだ。
「私、おっちゃんにな、手話おしえてるねん」 
 阪神が勝った。聞き飽きたニュースが、桜子の耳に飛び込んでくる。
 その声は、かさかさ乾いて聞こえる。
 同時に夏の暑い日差しと、高い高い歓声の幻聴まで聞こえたような気がした。

 
 一度そのラーメン屋に行ってみよう。と、花子が桜子に提案したのは、数日後のことである。
 一度は断ったが、強引ともいえるほどに花子は執拗だ。美味しいから、奢るから。何度も誘われ、仕方なく桜子は重い腰を上げる。
 普段出かけるより早い19時前。久々に通る北新地の細道は、昔よりずっとごみごみして見えた。
 車と人が行き交う道をすすみ、角を曲がった途端。桜子は小さな溜息を吐く。
 目の前に、いかにも小汚いラーメン屋があった。敷地は狭い。年季の入った暖簾も、扉も、全部脂に塗れている。汚い店だ。
 ……しかし、その店からぷん。と出汁の香りが鼻に届いたのである。
 繊細な魚介の香りと甘い脂の香りだ。雑なようで繊細で、優しい香りである。
 桜子の舌は肥えている。そして、彼女の舌に満足を与えた料理は少ない。
 唯一無二、彼女が感服した出汁の香りがある。このラーメン屋から香るそれは、その香りに似ている。
 花子に押されて暖簾をくぐりながら、店主の顔を見る前に桜子は口を開けた。
「ふん。こんな店があったなんてなあ」
 店内は外から分かる通り狭かった。カウンターだけの小さな店だ。中に入ると、出汁の香りがますます良くわかる。
 顔を上げるとカウンターの内側、太った男が煙草をふかしている。
 男が見上げているのは棚に付けられた古くさいテレビだ。桜子の銭湯に置いてあるものとおなじくらい、古い。
 その小さな黒い箱は、阪神戦を流している。今はちょうど、中継なのだろう。男は名残惜しげにテレビから目をそらし、入り口をみる。
 男はまず花子に気付き手を上げ、やがてその隣に立つ桜子を見た。
 脂ぎった太った男だが、その目の幼い感じに桜子は見覚えがある。
「随分、お見限りやねえ、久保田さん」
 男はしばし不思議そうに首を傾げていたが、しばらくしてぽかんと口を開けた。そして、素っ頓狂な声を上げたのである。
「サクラコさんっ!?」
 震えるような高い声。その固い声は、カタカナのような音で響く。男は……久保田は背を真っ直ぐにして、まるで壊れた人形のように頭を下げた。
 それを見て、目を見開いたのは花子である。
「親父さん、やっぱりママのこと、知ってるの?」
「知ってるもなにも……恩人やわ。花ちゃんこそ、なんでサクラコさんと……えっ、もしかして、どっかお店を?」
「西天満の辺りで銭湯してる。もう、新地からは足洗ってな」
 人は驚きすぎると、心千々に乱れて声も震える。久保田は震えながら桜子と花子を交互に見るので、花子が耐えかねたように吹き出した。
「私はその銭湯の常連やねん」
 久保田は見た目より俊敏な動きでカウンターから飛び出すと、入り口に「休日」の看板をかける。そして二人に椅子を勧めるなり、いそいそと二つのラーメン鉢の用意などをはじめた。
 手際のよさを見れば店の経歴が分かる。人気のある店なのだろう、と桜子は思った。汚い店だが、皿にもグラスにも汚れは一つもない。
「ええのん、久保田さん。お店締めてしもうて。なんや、悪いわ」
「他の客が来て邪魔されとうないですし」
 古ぼけた椅子に座れば、ぎしぎしと嫌な音を立てる。全てが古いが、その中でも店長である久保田が一番古い。
「20年ぶりやろうか……いや、25年やったか。もう昔過ぎて、覚えてもない……」
 カウンターに肘をつき、桜子はラーメンを作る久保田を見た。
 久保田はいまだ緊張を隠せない顔で、桜子を眩しげに見る。
「ちょうど、22年ですわ」
 すっかり年老いた男である。昔はもう少し細かったし、髪もあった。しかし顔立ち自体は、昔からさほど変わっていない。
 その言葉を聞いて、花子が目を輝かせて桜子と久保田を交互に見た。
「やっぱり。ママの知り合い? ママのお客さんやったん?」
「と、いうわけでもないんやわ、花ちゃん。はい、お待ち」
 恭しく机に置かれたラーメンは、透き通ったスープと黄色い麺が静かに沈む、ごく一般的なものだった。
 鼻を近づけると、上品な魚貝類の香りがする。それは、遙か昔に嗅いだすまし汁の香りに似ている。
 ゆっくり一口すすると、塩気が通り過ぎ最後に口の中に甘味が残った。
 久保田はまるで教官の指示を待つ部下のように、まっすぐ立ちつくしたまま緊張の面持ちである。乾いた唇がわなわな震えている。
 だから桜子も、わざとらしいほどゆっくりと時間をかけてスープを口に運んだ。
「……どないですか」
「おっちゃん、おもろい。そんな緊張して」
「あほ。サクラコさんに味見て貰うとか、緊張もするで……」
 桜子は、ラーメンなどもう長らく食べていない。それでも、麺のちょうどいい茹で加減といい、スープの旨味といい、人気のある味だと直感した。
「まあまあ。うん、ええんちゃうの」
 まだ久保田は緊張の面持ちで桜子を見つめてくる。花子の堪え笑いだけが店内に響く。
「……美味しいわ」
 桜子が呟くと、久保田の肩から一気に力が抜けた。
「……ありがたい、ほんまありがたいわ……」
「親父さん、おもしろいなあ」
 拝むように手を合わせる親父を見て、花子はいまだ笑い止まらない。普段はもっと駄目な親父なのだ。と花子は桜子に耳打ちする。
 もっとやる気が無く、だらしのない男なのだ、などと。
「花子、おっちゃん、おっちゃん言うけどな。この人はもともと、新地の有名な割烹の、板前さんやで」
「えっ。おっちゃんが」
「初めて会ったんは、もう30年前……いや、35年前にもなるか……なあ、久保田さん」
「そうそう、まだ包丁も握れへん、そんな見習いのころから、サクラコさんに目ェかけてもろて」
 久保田は小さな目に懐かしさを浮かべる。
「そらもう、味のことではさんざんこき下ろされてたわ、サクラコさん遠慮ないもん」
「当たり前や、そんなこと」
 桜子がまだ若い久保田と出会った頃、彼女は今が盛りの女っぷりであった。
 久保田はそんな桜子に見向きもせず、ただ料理の心配だけをしていた。店に行こうが、外で会おうが、久保田が案ずるのは出汁の味のことばかり。
 そんな久保田が妙に気に掛かり、桜子は彼の店に足を運んではこき下ろしたものである。
 厳しい桜子の言葉に久保田は必死に食らいつき、気がつけば認めざるを得ない味に、なっていた。
 しかし、そんな関係も20数年前に、終わったのである。
「で、なんで割烹辞めたん。親父さん」
 花子の質問に、一瞬だけ久保田が言葉に詰まる。が、やがて顔を伏せたまま鍋をかき混ぜ、早口に呟いた。
「それなあ……俺なあ、サクラコさん所のホステスさんに一目惚れしてもうて」
 それは春の始まる前。いや、早春ともいえない寒い季節。
 毎日毎日、飽きもせず久保田は桜子の店にやって来た。腕一杯に大きな弁当箱を持って、白い息を吐き出しながら。
「いっぺん見かけてから、惚れてなあ……そりゃあもう、惚れて」
 久保田の視線は、桜子を通り越してその奥。別の女に注がれる。
 女を目にすると、久保田の目が潤み手はふるえていた。
 それを見て、桜子は全身に水を打ちかけられた気持ちになった。
「毎日毎日、弁当届けに行ったもんや。そりゃあもう、サクラコさん怒る怒る。しつこい男は嫌われるいうて」
 テレビではまだ阪神の試合を流している。負け試合だ。空気が悪いが、ピッチャーは眉一つ動かさない。ただ、真っ直ぐ前を見ている。
 思えば久保田もこんな目をしていた。それはもう随分昔の話。
 その真っ直ぐな目は、桜子が雇う女に向けられていた。年増の、大人しい、訳ありな女。それが、久保田の惚れた女である。
「親父さん、情熱的やん」
「でもなあ、振られてしもうて」
 女は泣きながら、久保田を拒否した。久保田のようなまっとうな男が自分に惚れてはいけない。そういって、泣いた。
(……いや、それだけやないな)
 桜子は熱いスープにふうふうと息を吹きかけながら額に浮かんだ汗を拭う。
(あの子は、賢かったから)
 彼女が久保田の手を取らなかったのは、桜子の思いに気付いていたせいもあるだろう。
 つまり、桜子が久保田に対してかすかに抱いていた淡い想いを見抜かれていた。
 男なら金持ちから俳優まで選び放題だった、桜子の気の迷いのような恋である。恋と呼ぶには淡すぎる、情けないほど幼い恋である。
 気持ちなど、口にすることもできない恋だった。
「……おっちゃんなあ、失恋して、川に飛び込んで死のうおもてん」
 久保田は懐かしむように、呟く。
 その言葉を聞いて、花子が激しく咽せた。
「親父さんが!?」
「繊細やもん、これでも」
 それは20数年前、梅の花の上に白い雪が積もる季節。傷心に冷えた久保田の背を、桜子は今でも覚えている。
 久保田は堂島川にかかる欄干によりかかり、冷たく光る川に腕を伸ばしていた。放っておけば、落ちていただろう。桜子が見つけたとき、もう体は半分ほど宙に浮いていた。
「色々あって振られて、もう人生が嫌になってもうて、欄干から堂島川に飛び込もう思ったところをサクラコさんに助けてもろて」
 久保田がちらり、と桜子を見る。桜子は自然に目をそらした。
 あの日、死にたいと言って泣く久保田の背を抱きしめて地面に引きずり落とし、桜子は彼と一緒に泣いた。着物は雪に汚れ、指輪に付いた石は傷ついたが、あのときに初めて触れた久保田の背は、暖かかった。生きている。と思えば泣けた。
 そして生きているからこそ、また今も会えた。
「いろいろあって、店も辞めて……でも、そのあと、無事に……まあ家内と一緒になったわけや」
「じゃあママが、おっちゃんたちの恩人や」
「そうそう、もういくら御礼言うても足りんな」
「あほな事いうもんちゃうわ」
 桜子はスープをぐいっと飲み干して、音を立てて丼鉢をカウンターの上に置く。
「うまくいったんは、この人の情熱的なプロポーズのおかげやわ。あれにはたまげた」
「サクラコさんっ」
「えっえっ! どんなん?」
 わ。とテレビから歓声があがる。逆転のホームランだ。先ほどまで沈んだ球場が嘘のように活気を取り戻した。
 音量を下げようとする久保田の手を止め、桜子はテレビを指す。
「ここや。ここ。見てみぃ、花子。この甲子園球場の阪神戦。プラカード持ってな。テレビに向かってプロポーズしよった」
 20数年前の阪神戦。久保田が手に大きく掲げた巨大なプラカードには、試合のことも野球のことも一言も書かれていない。ただ真摯な文字で、女の名前と求婚の言葉が綴られていたのである。
 試合のちょうど合間のこと。テレビカメラが面白がってそれを映したものだから、ちょうど店で試合を見ていた桜子たちの目にもしっかり入った。
「アナウンサーには冷やかされるわ、新地でも騒ぎになるわで」
 店ではもちろん大騒ぎ。プロポーズを受けた女は黙って涙を流し、傷ついた左手首をそっと撫でる。そして、深々と桜子に頭を下げたのである。
 つまり、それが彼女の答えだった。
「すごぉい」
「止めてください、サクラコさん……」
「それであの子は、このおっさんの元に嫁いでいったというわけや」
「結婚……なあ」
 呟く花子の声は重い。ふと、久保田が彼女の顔を覗き込んだ。
「花ちゃん、何か悩みごとか」
「すこぅし」
 彼女は最後の麺をすすると、手を合わせる。
 その指に乗ったマニキュアの色は、可愛らしいピンク色である。昔はもっと赤や黒などを付けていた。最近は色が妙に大人しい。
「もし、大きな……転機? みたいなのがあったら、二人ともどうする?」
 テレビではまた、何が試合の進展があったらしい。賑々しい音は、祭り囃子のように響く。
 花子は吸ってもいない煙草を吹かす真似をして、宙に息をふうと吐いた。
「……人生一回きりや、好きなことしい」
「やってみたらええ、やらずの後悔よりやって後悔や」
 久保田と桜子の言葉がかぶり、二人はきょとんと顔を合わせる。それを見て、花子が吹きだした。
「やっぱり、二人ともよお似てる」
「当たり前やん。俺の、人生の師匠やもん」
 ぶる、とどこかで音がする。それは花子の鞄からだ。携帯が震えたのである。彼女は器用にそれを止めると、大急ぎで口紅だけ引く。
 紅い唇をつんととがらせ、桜子を見た。
「私、もう仕事やし、おっちゃん、ママのこと送ってあげて。ママごめんな、付き合わせて。銭湯を開くにはちょっと早いかもしれんけど」
「いや、一人でいけるで」
「だあめ。もう夜なんやから」
 花子は時に強引なことがある。
 そして立ち上がるなり胸の辺りで素早く手を動かした。それは手話だろう。久保田に向かって眉をきりりと手を動かせば、久保田もおぼつかない手つきでそれに答えた。
 本当に、余計なお世話だ。言いかける桜子の腕を暖かいものが掴んだ。
 振り仰げば、そこには久保田。
 その熱で、桜子の中に過去が一気に巡る。しかしそれは一瞬のこと。
「じゃあ、送ってもらおか」
 男に優しくされるのは、娘時代から慣れている。


 北新地を出て橋を渡れば、やがて左手に無機質な建物がみえる。それが大阪市役所だ。
 その横には、緑に囲まれた道。それをまっすぐ進むと、不思議な建物が目に飛び込んでくる。
 それはまるでギリシアの神殿のような建物なのである。随分古びてはいるが、装飾の入った屋根を支える二本の丸い柱。独特な窓。
 石は黒ずんで、闇の中で見上げると威風堂々と見える。明治の財閥が作ったといわれているこれは、図書館である。
 それを超えてまだ進めば、裏手には赤レンガの巨大な建物が闇に浮かんでいた。中央公会堂と呼ばれるこれもまた、明治に作られた建物だ。
 その独特な建築を、ルネッサンス様式というのかバロック様式というのか。建築に明るくない桜子には細かいことは分からない。
 ただ、赤レンガに緑の屋根、巨大な玄関口は荘厳で、圧巻である。夜は光が当てられ、まるで闇にぽかんと別世界が浮かんでいるようだった。
 建物のちょうど前に流れる川沿いには桜が植えられていて、開きかけた蕾が愛らしくも揺れている。
 そんな建物の横、桜子と久保田は並んで歩く。
 桜の咲き始める季節だが、夜はまだ冷える。久保田はまるで桜子の風よけになるように真横に立った。
 そしてぽかん、と中央公会堂を見上げる。 
「……久々に見ましたけど、相変わらずおっきいですね」
「初めて見たときは、なんや変な……けったいな建物や思ったけどな。時間が経つと、これもええもんやと思えてきた」
 ……20年と少し前。あの日も、桜子は久保田と並んでこの道を歩いた。当時はライトアップなどもなかったし、建物こそあれ、他はもっと寂しげな道であった。
 死にたいと言って泣く久保田を何とか引っ張って、あてどなく歩いたのがこの道だ。
 あの時はまだ春が浅く、桜は咲いていなかった。
 しかし今は、顔を上げれば中央公会堂を着飾らせるように、道沿いの桜が花を付けている。
 まだ2分咲きだ。桜は葉よりも先に花を付けるので、咲き始めでもまるで雲海のように白い。
「サクラコさん」
 ふ。と久保田が足を止めた。桜子が振り返ると、久保田はまるで頭を腹にくっつけんばかりの勢いで頭を下げているのである。
 頭を下げてもなお、背はまっすぐだ。そこに彼の性根がある。
 中央公会堂から漏れた灯りが、久保田の背をしらじら染めている。薄暗い道を歩く若い女が、二人を不思議そうに見つめていく。
「いやや、なん。頭あげてな」
「サクラコさんのおかげで、家内も生きました。俺も生きてます」
 彼の声音が、変わった。
 先ほどまで、花子に向けられていたような軽い調子ではない。重く、静かな。
「何度、御礼言うても足りん。かというて、サクラコさんのところ押しかけるわけもいいかんし、そうこうする間に、桜子さん気付いたら北新地からおらんなってもうて」
 昔というには昔過ぎず、最近というには古い。そんな20年前、北新地の片隅で起きた小さな恋愛劇に桜子は思いを巡らせる。
 ちんぴら崩れの悪い男から必死に逃げて来た女と、それに恋をした板前の恋である。そんな板前に恋をした自分という存在が無ければ、もっと良かった。そうであれば、
(こんな年でこんな苦い思い、せんですんだのに)
 と、思う。
「後から聞きました。前の旦那んとこ帰ろうとする家内をひっぱたいて止めてくれたこと」
 女は男に惹かれていた癖に、元旦那でもある悪い男がそれを邪魔した。
 そちらに行くならどうなるのか分かっているのかと、安っぽい脅し文句に女は屈しかけた。散々にいたぶられ、命こそ落とさなかったが傷つけられて耳に一生の傷を負った。
 それを知った男は泣く。自分のせいだ。自分では女を救えないと泣いて、男は川に飛び込もうとした。
 ……そこで桜子が動かなければ、二人とも死んでいたかもしれない。それくらい、あの恋は一途だった。
「店にも嫌がらせされたとか……」
「そないなこと、可愛いもんや。ネコに引っかかれたくらいなもん。気にせんとき」
 男と女は無事に手を取り一緒になった。桜子のお陰だと何度も何度も頭を下げられたが、そんな綺麗なものではない。
 苦みを噛みしめて、桜子は二人を祝ったのである。
 桜の木に囲まれた小さなチャペル。そんな小さな結婚式には桜子だけが参加した。
 痛々しい傷を白いドレスと桜の花で隠した女は、これまでに見たことがないほど幸せな顔で笑っていた。
「ケイちゃんは、元気か」
「そりゃもう」
「綺麗か」
「それはもう、ずっとべっぴんさんですわ」
 耳まで紅く染めて、久保田はいう。
 久保田の横で、咲き始めの桜が揺れていた。昼には清楚に見える桜の花だが夜の暗がりで見ると、妖しい色に見える。 
 まるで北新地の女達である。
「聞いたで。いまさら手話を習うとか、遅いな。もうすっかり、ベテランになってるかおもたのに」
「いやあ、割烹辞めた後、喰うに困ってラーメン屋はじめて、それで手一杯になってもうて」
 久保田は照れたように頭を掻く。
「花子は教えるん上手やさかい、しっかり習い」
「はい」
「……幸せか」
「はい」
 短いが、確かな答えだ。
 桜子は、溜息を飲みこみ川沿いに咲く桜を見る。盛りになれば、ここらは一帯、まるで雲海のようになるのだ。
 桜の花の下で笑う、女の顔を思い出して桜子は目を細めた。
「……そうか、それが一番や」
 桜の柔らかい花弁に触れるか触れないか、ぎりぎりのところまで指を伸ばし、桜子はつん。と花を突いた。
(ああ。情けない。こんな年になって、二回失恋したようなもんや)
 花は風に揺れ、まるで桜子を慰めるように頬にそっと触れる。
 桜子の頬に、夜露が一滴垂れた。


 数日後。銭湯は、女の涙に溢れた。
「酷いねん。そないに、言わんでも、ええとおもうのに、私、なんも悪くないのに」
 番台の下、肩をふるわせて泣くのは、先日銭湯ではしゃいでいた女である。
 しかし、今日は駆け込んでくるなり、涙でメイクをぐちゃぐちゃにして桜子に泣きついた。
 言葉も切れ切れだが、客とトラブルを起こして怒られた。そういう話であるらしい。
 桜子は居心地のいい番台に座って煙草をふかし、女の頭を撫でてやる。まだ若い女の頭は、小さくて柔らかく、その上に乗る自分の掌がぐっと年老いて見えた。
「そんな時は、よおさん泣いたらよろしい」
 声をかけると、堪らないようにまた彼女は嗚咽をあげた。
「はよお風呂浸かって、メイク落としておいで。お風呂上がりはフルーツ牛乳あるで。ママの奢りや」
「ママって呼んでもええのん」
「今だけやで」
「あらあら、可愛い子の泣き声が聞こえるわ」
 男湯から、明るい声が聞こえて桜子は一瞬だけ息を止める。が、何事も無かったかのように、また息を吐き出した。
「久保田さんも、はようお風呂入り。女の泣き声は裸と一緒や。じっくり聞くのは、やらしいやらしい」
 数日前から久保田は桜子の銭湯に顔を出すようになっていた。まるで常連のような顔をして、堂々と現れる。
 北新地のラーメン屋という立場のせいか、彼はホステスやホストなどと懇意である。馴染むのにそれほど時間はかからなかった。
「この声は彩ちゃんやね。またラーメン食べにおいで」
「ふと……太るぅ……」
「もうちょっと太った方があいらしわ。見てみ、サクラコさんはこの年でもあいらしやろ」
 かかかと久保田は笑い飛ばす。その声に、彩と呼ばれた女はまるで綻ぶように微笑んだ。
「約束よ。やった。フルーツ牛乳にラーメン、貰えることになった」
 そしてまた、桜の花弁のような白い足を惜しげもなく剥き出しにして、服を脱ぎ散らしながら脱衣所に駆けていくのだ。
「ほんまに、サクラコさんが銭湯の主になってるとは」
 声が近い。ふと目線を下げれば、番台の下に、久保田の人なつっこい笑顔があった。
 桜子はにやりと笑いって煙草を一本、久保田に差し出した。
「中は禁煙ちゃいますのん」
「私が吸うのに、禁煙できひんやろ」
 久保田のくわえ煙草に、火を付けてやる。こんな動きも、20年ぶりであった。
 久保田もまた当たり前のように火を付けられながら、ゆっくりと煙を吸い込む。
「いやしかし、驚いた……」
「板前がラーメン屋になったんやから、新地のママが銭湯くらいするで」
「そらそうですわ」
 桜子も一本、くわえた。久保田がおぼつかない手つきで、それに火を付ける。
 互いに顔を見合わせ、笑った。
「また、あいつも連れてきますわ」
「そうして。久々に、会いたいわ」
 ふう。と息を吐く。
 上がった二本の紫煙は、銭湯の湿った空気の中、空中で柔らかく絡み合って離散した。


 その日は、24時を回るとぴたり客足が止まった。
 店を閉めるか。と番台から出た途端、入口の開く音がする。
 今日は疲れた、断って帰ろう。そう思ったが、客の顔を見て桜子は思いとどまる。
「あら。ママ、おわり?」
 それは花子である。彼女は妙に晴れ晴れとした顔で、桜子に手を振る。桜子は外に閉店の看板をつるし、そして花子を見た。
「あんたが最後や。入り」
「あ。もうお客さん、おらんのや。ええの?」
「特別」
 そして、外の暖簾を外す。入口に鍵をする、玄関の電気を落とす。
 脱衣所に戻れば、花子が楽しげな顔で桜子を見ていた。
「じゃ、ママもお風呂一緒せん?」
 こーん。と水の弾ける音がする。誰もいない風呂の中、水滴が洗面器にでも落ちたのだろう。
 今日は客も少なめで、お湯もまだまだ勿体ないほどに綺麗だ。
 しばし悩み、桜子はさっさと着物の帯に手を掛けた。
「せやな。たまには、ええやろ」
 着物を脱ぎ捨て、風呂のドアを開くとむっと熱気が顔を襲った。
 銭湯を経営しているが、入るのは久々のことである。
 何番風呂か分からないくらい、多くの人間が浸かった湯は柔らかい。一番風呂独特の、あの固さがない。
 春の川とおなじように、水が蕩けている。
 やや熱いその湯に指先をつけ、ふくらはぎを解すように入れ、腰、胸、肩。ゆっくりと浸かると自然に息が漏れた。
 隣に並んで浸かると、花子が感嘆するように呟く。
「ママ色白やあ」
「肌にはな、日に当たるんが、一番あかん。私なんか、もう何十年も夕方に起きて、日が落ちてから行動してるからな」
 天井から垂れた水滴がいくつも、風呂の表面に波紋を広げる。二人きりしかいないが、水が溢れて湯に打ち付ける音はうるさいほどだ。
 花子は鼻先まで湯に浸かりながら、入口を指さした。
「ここからやと、番台がようみえるでしょ」
 彼女の指した場所を見れば、なるほど曇った硝子扉の向こうに脱衣所がみえる。その向こう、高台になった場所に番台の隅っこがみえた。
 背の高い桜子が座れば、顔がしっかと見えるはずだ。
 花子はまるでそこに桜子が座っているように、見つめて微笑む。
「安心するんよ。お風呂よりも明るい脱衣所の向こう、その高い所にママが座って」
 人が多いときは、客を窘めることもある、怒ることもある。全て、風呂場からはまるみえだ。
 苦笑を浮かべる桜子に、花子は続ける。
「テレビを見上げてるママの顔とか、女の子叱ってるママの顔とか、それだけで、みんな安心するんよ」
 湯の中で膝を抱えて、足の指を不作法に動かしている。まるで子供のような些細な動き。
 桜子は子供にするように、その頭をそっと撫でた。
「ママ……」
 花子は見た目よりも色が黒い。肌の艶もそれほど、若くはない。しかし桜子からみれば、子供の肌だ。
 彼女は湯の中で足の指を折り曲げ、折り曲げ。鼻先まで湯に浸かり、顔を上げ、言いにくそうに桜子を見上げる。
「ママ、あんな」
 湯の中で彼女の、地味になったマニキュアが光る。
「……私なあ、お店辞めるねん」
「店、うつるんか」
「ちゃうねん」
 熱いのか、頬がかすかに紅潮している。しかし、花子の声には覚悟のような物があった。
「大阪から出るねん。悩んでたけど、吹っ切れた」
「男か」
「……というか仕事。手話の仕事、してみたかってん。1個、あてがあって、行こうと思うねん」
「遠いか」
「石川県」
 石川、と聞いて桜子は脳内の地図を広げる。けして遠くはない。しかし、近くもない。そこへ行くのは、けして仕事のためだけではないだろう。彼女の装いを地味にさせた男の存在が見え隠れする。
「……また、遊びに来たら、この銭湯おいで。あんたを新地から抜かせた、その男も連れといで」
「ママ」
 ほろり、と花子の目から涙が浮かんで落ちた。一滴、二滴。
「ママ……」
 彼女の手が桜子の腕を掴む。そしてまた、ほろほろと泣いた。
「新地から離れるんが、つらいか」
「嫌なことしかなかった街やのに」
 離れるとなると、つらいのだ。と、花子は声も無く泣いた。
「……有難う、ママ」
 その涙は湯の中に溶けて行く。
(銭湯は、女の涙で出来てるわ)
 年老いてすっかり泣けなくなった自分の涙は、どこへ消えて行ったのだろう。と、桜子は思った。

 風呂から上がると、冷たい風が顔に当たった。古い建物なので、すきま風が多いのだ。しかし、今はこの冷たさが心地いい。
 ふう。と親父くさい息を吐いて花子が素っ裸のまま冷蔵庫へと急ぐ。
「花子っ! ちゃんと身体拭きい」
「やった。フルーツ牛乳ある。ママも飲も、フルーツ牛乳。私の奢り」
「ん」
 番台に200円を丁寧において、花子は二つのフルーツ牛乳を手に戻って来る。
 紙の蓋を開け、厚いガラス瓶に口を寄せる。
 黄色い液体をぐいっと飲み干せば、口の中に甘酸っぱさが広がった。鋭くなどない、柔らかい飲み心地。
 優しい甘さとつんとした冷たさが、熱くなった体の隅々に行き渡る。
「甘いなぁ」
 花子が幸せそうに呟いた。
「甘いなあ……」
 桜子も呟く。なるほど、みんながこぞって買うはずである。
 身体の熱を甘さがとろけさせ、頭の先までしゃっきりと冷えた気がした。
「もう来週引っ越しやから、ここには来られんとおもう。今日が最後」
「そうか」
 着替えて外に出ると、冷たい風が顔を打った。
「ママ、お風呂片付けせんでええのん? なんなら私手伝うけど」
「早朝にホストの兄ちゃんが日替わりで来てくれるから、いっつも放って帰る。私はほんま、椅子に座ってるだけや」
「慕われてるなあ、ママ」
「楽させて貰ってるわ」
 振り返れば、小さな銭湯である。誰の仕業か、壁には小さく「桜銭湯」などと書かれている。
 川沿いにある巨大なビル群の灯りには敵わないが、いまの桜子にとってみれば、この銭湯の小さな灯りだけで充分すぎるほどである。
 銭湯を出て真っ直ぐ、外へ。しばらく歩けば、闇の中に真っ赤な中央公会堂の灯りが見える。
「身体に気をつけるんやで」
「うん。また落ち着いたら連絡するな。ああ……桜、綺麗。中央公会堂も、赤と緑で、綺麗ねえ」
 川沿いの桜は数日前より開花が進んでいる。花子はそれをみて、歓声をあげた。まだ濡れている彼女の髪が露を放って夜の道に輝く。
「桜も、真っ白」
 花子はうっとりと、花に顔を寄せる。
 ソメイヨシノの白は、夜の闇の中でみると恐ろしく白い。
 緑の葉がないだけに、余計白さが際立つのだ。
「花子」
 桜に見とれていた花子は、桜子の声に慌てて振り返る。メイクを落としたその顔は、まるで子供のようだった。
「何、ママ」
「幸せになりや」
 はっと花子は目を見開く。が、やがて満面の笑みで頷いた。それは、かつて結婚式場で見たあの笑顔と同じだ。
「花子。じゃあ、私こっちの道やから」
「うん、ママ。私もこっちやから……今日はありがとう」
 手を振り、やがて別れる四つ辻。
 数歩、進んで桜子は足を止めた。
 振り返ると、そこにはまだ花子の姿がある。彼女は桜の花を眺めるようにふらふらと歩いているのである。
「花子」
 その細い肩に、小さな頭に、桜子は刻みつけるように言う。
「ママァ」
 甘えるような花子の声は、優しく夜に蕩けた。
 花子はまるで子供のように、飛び上がって手を振る。桜子は、そんな彼女をまっすぐに見つめ、言った。
「……絶対に、幸せになるんやで」
 温い風が吹く。それは花弁を舞いあげ、花子の身体に降り注ぐ。
 静かに頭を下げる花子は、まるで花弁に包まれたいつかの花嫁だ。
 きっと幸せになるだろう。
 そんな予感を胸に、桜子はまた歩きはじめた。
 春は、まだ始まったばかりである。
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