北新地の恋

みお

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肉まんに、花束を

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 真喜子がホステスを辞めたのは、きっかり一年前のことである。
 もともと、真喜子の性格は水商売に向いていなかった。だというのに、なんとなく流されるようにホステスとなったのは10年前の28歳。
 その時点ですでに年増と言われ、なんでこんな世界にきたのだと蔑まれた。
 それでも可愛がってくれる馴染み客が居たので、なんとかホステスの体裁だけは保てていた。
 しかし、そこで真喜子の悪い癖が出たのである。
 ……つまり、彼女は惚れやすい。
(なんであんな男、そんな男、ああ、ほんま。くだらん男ばっかり)
 と、あとで自分さえ嘆息してしまうような男にばかり、惹かれる惚れる。
 夜の女が本気になってはいけないと、ママから叱られ同僚から馬鹿にされ、その時は目を覚ましても、また次の瞬間には別の男に恋をしていた。
 夜の商売に向いてないのだ。と気が付いたのは10年目の38歳。10年間コツコツ貯めた金を使って、真喜子は北新地の隅に小さな店をオープンさせた。
 スナックではない。花屋である。それも大型の花や観葉植物ではない。売るのは、ごくごく小さな花束だ。
 北新地は大阪キタの一大繁華街。迷路のように入り組んだ道には、いくつものビルが林立する。そこにはネオンの光に彩られた店の名前がずらりと並び、夜になると美しい女達が香りを放って動き始める。
 そんな女達を影で支えるのは、金を出す男だけではない。酒屋に花屋に、同伴のできる高級店。そんな店は、道の端々に山のようにある。そんな店を、真喜子もオープンさせた。
 昔から北新地を縄張りとする老舗の花屋は真喜子が店を出すやいなや、いきり立った。が、内容を見て半笑いで去っていった。
 雑居ビルの一階、昔は売れないケーキ屋が入っていた狭い店を居抜きで借りただけの小さな店。おかげで、外から見ればケーキ屋だか花屋だか分からない、そんな不思議な店に仕上がった。
 狭い店には細々とした花がぎっちり並んでいる。元はケーキを入れる大きなショーケースには、冷蔵を切って小さな花を並べた。
 まるでオママゴト。勝負にもならない。老舗の花屋は「せいぜい頑張って」と言い捨てて去って行く。その苦笑には人を小馬鹿にする色が見えた。
 ホステスをしていたころは、いくら年増であろうと大事にしてもらえた。その立場を辞めたとたん、人とはこれほど冷たくなるのである。
 どうぞよろしゅうお願いします。と頭を下げて同業者を見送って、真喜子は自分の店を見上げる。
 小さな看板には、「フラワーアレンジ・椿」、と書かれている。店の中を覗き込めば、可愛く色鮮やかな花が、良い香りをまき散らしている。奥には自分用の小さな休憩スペースを設けているが、それ以外は全部花。バケツの水の中、花たちは明るく眩しい。
 小さくて可愛すぎるほどだが、それは確かに自分の店だ。
 よし。と真喜子は力を入れて、笑った。
 それは確かに、自分だけの店なのである。

 もと水商売の女が店を出したと聞くと、口さがない人間はすぐさま嫌らしい勘違いをする。どうせ男に貢がせたのだろうなどというのである。
 しかし彼女の店を見ると、ああ勘違いか。と、呆れ顔で去っていく。小料理屋やクラブならともかく、こんな小さな花屋だ。
 貢いでくれる男も居なかったのかと、ずけずけと言ってくる人もいる。
 しかし真喜子は挫けない。いじられるのも、馬鹿な女と陰口を叩かれるのも、10年の間にすっかり慣れた。
 自分を励ますことができるのは、自分だけだ。
 自分が自分のことを馬鹿ではないと分かっていれば、それでいい。
(今日は、どんな花束つくろかな。白いお花と黄色いお花でもええし、そうそう、ちょうど小さなバラもいいのが入ったし……)
 花の水を替えながら、真喜子は考える。店に置いてある花は全て小さい。敢えて小さい花を選んで仕入れている。
 手の中に収まる程度の、可愛らしい花束、おしゃれなブーケ、箱に詰めた花畑のような花Box。それが真喜子の店の売りだ。
 ホステスをしていたからこそ分かる。売れない女だったから、もっとよく分かる。花束というのは、いつ貰っても嬉しいものだ。
 しかし派手なのはいけない。大きすぎてもいけない。小さく、愛らしく、それでいて花の種類は多く、かわいく。
 店に行く男が、気兼ねなく花束を買える店にしよう。花束を気軽に贈って貰える、そんな店にしようと、真喜子は考えた。
 高くても2千円か3千円までの小さな花束。昔、趣味でとったフラワーアレンジメントの資格が役に立った。
 客の話をきいて、花を組み合わせるのは楽しい。ときに、もし自分が貰うのなら……と妄想することもあった。いやいやいけない。そんなのだから、ホステスも辞めたのではないか。
 しかし、そんなこんなで店をオープンさせて、約一ヶ月。なんとか形になってきた。

「あの、ここってイッパンが買ってもいいんですか?」
 買っていくのは常連ばかりではない。時に、一見さんが訪れることも多い。
 今日もまた、店を開けると同時に一人の青年が店を覗き込んだ。
 真喜子はバケツを地面において、微笑む。
 夕陽を背に受けて、青年が入口で戸惑っているのが見えた。
「いらっしゃい。イッパン?」
「……えっと。イッパン……プロやないんですけど、普通の通りすがりで」
 慣れていないのか、その青年は気恥ずかしげに店内を見渡している。
 まだ若い。大学生か、いや20代前半。
 こんな若いうちに新地遊びを覚えるなんて隅に置けない男だ。と思いながら、真喜子は素早く彼の格好を見る。
 安物のスーツと鞄。それほどの金は持っていない。ならば、遊ぶ店はガールズバーがせいぜいか。
「イッパンのお客さんも、もちろんええですよ」
 きょろきょろと、落ちつかない様子の青年は、可愛らしい。笑いを堪え、真喜子は花を何本か抜いて差し出してみせた。
「一本からでも、買えますよ。花束なら、好きな花言ってください。私がこしらえますから」
「えっと、でも、僕、彼女の好きな花知らんのです」
 照れた彼の言葉は、大阪の風を感じない。あら? と真喜子は首を傾げた。
「大阪の子やないのね」
「あ。わかります?」
「イントネーション。大阪も混じってるけど」
「僕、ずっと大阪の大学通ってて。でも、去年の秋に実家に就職で戻ったんです」
「どこ」
「石川です」
「あらやっぱり。北陸やとおもった」
 からからと笑い、真喜子はバケツの水をすくって捨てる。ひやり、と冷たい空気が手を刺した。
 昔は綺麗に綺麗にと気遣っていた指先が、赤くささくれている。ネイルなどもう二月はしていない。それでも、昔の指よりも今の方がずっと綺麗だ。
「彼女はどんな子。ホステスさん?」
「あ、ホステスやなくてガールズバーで働いていて」
 青年はシャイなのか、もじもじと言葉を紡ぐ。
「そんな売れてないって、言うてましたけど」
「大人しい子? 気が強い子?」
「はっきりした人です」
 ならばあまり大きすぎてはいけないな、と真喜子は思う。近年、北新地のあちこちに、ガールズバーが林立している。若い女の子がお酒を飲ませてくれる。自由恋愛を歌い、甘い言葉と若い姿で男性を誘う。
 最初こそ、品位がないなどと叩かれたが、切磋琢磨はどの水商売でも同じこと。今ではいい店だけが残るのだという。
「じゃあ。小さなバラを中心にして、周りをシックなお花で固めるのはどうやろ。覗いたらバラが見えるの。きっと可愛い」 
 可愛い、という言葉に彼がパッと微笑んだ。
 このような青年に思われて、その女の子は幸せものだ。と真喜子は自分のことのように、嬉しくなった。

 店を出すのに、男に金を出してもらったのだろう。という嫌みな言いぐさは今でも多い。
 目立たないように薄いメイクにしてもダブダブのズボンを穿いても、10年沈んでいた水の香りは抜けきらない。それほど器量がいいわけではないが、変な色気がある。などと言われたこともある。
 そんな色気はからかいの対象になった。しかし真喜子は挫けない。爪の先をともすような生活で貯めた自分の金を使い、自分の力で店を作った。
 経理も経営学も何一つ知らないところからのスタートだ。何度も頭を抱えたし、数字をみるのも大嫌い。それでもすがりついて必死に店を出したのは、ひとえに花が好きだったからだ。
 大昔、まだホステスをはじめたばかりのころ。真喜子を褒めてくれた男がいた。その男は、ある日真喜子に花束を贈ってくれた。それは真喜子の誕生日のことである。
 名刺に書いておいたその日に、彼は律儀に花を贈ってくれた。それはけして大きくは無い。小さく、掌に治まる程度の可愛い花束である。
 また悪癖が出て、好きになりそうだった。しかし、周囲から「あのひとは愛妻家だから諦めな」と窘められた。
 男はその後も、何度か店を訪れた。北新地では有名な男であったらしい。金払いがいい、しかし女の子に対して紳士的。けしてホステスとは恋に落ちない。
 しかし、ホステスはみんな彼に恋をした。
 真喜子も幾度か隣に座ったが、それだけだ。花に由来する真喜子の源氏名が愛らしいと褒められたが、それだけだ。
 真喜子は店を辞め、もうあの男の姿も見ない。
(でも、たぶん、あの花がすべてのはじまり)
 うつら、と眠りに落ちかけて、真喜子は慌てて頭を振るう。
 目の前には小さなパソコンが煌々と光輝いている。
 そこには、ぎっちりと数字の乱立。店を持つということは、数字との戦いである。
 売れる店ならプロに頼めるが、真喜子ほどの店では全て自分でこなすしかない。
 昔から数字が苦手な真喜子にとって、月に一度のこの作業は苦痛でしかなかった。
 苦痛から逃れるためだろうか。ふと昔の思い出に浸ってみたりもする。
(いややわ、こんな年で、女の子みたいに)
 固まった肩と腕を大きく振り上げて、欠伸をもらす。上げた顔の先、見えた時計は明け方5時半。腹が同時にぐうとなった。
「あらぁ。もう、こんな時間」
 仕事を終えてもう6時間以上、パソコンに張り付いていた。ということだ。
 腹も減るし肩も凝る。コートを引っかけ外に出ると、さすがに夜の町、北新地も眠りに落ちている。
「……さぶう」
 ネオンの光は落ちて、枯れ葉だけが地面を舞っている。
 すっかり秋は深まった。御堂筋沿いに植えられた銀杏の黄色の葉が、風に煽られて北新地の中にまで滑り混んでいる。明け方に見る枯れ葉は、乾いて汚れ、可哀想なほど疲れ果てている。
 道にあるものといえば、そんな枯れ葉にふくふく太った野良猫。そして、仕事帰りのホステスたち。
 真喜子と同じく経理をしていたのか、何か話し込んで遅くなったのか、暗い顔をした女達が数人、横切った。
「さっぶい。さっぶい」
 冬の風はもうすっかり冷たい。通りを彩る銀杏並木も、もうすっかり金色で、こんな明け方の青黒い空気の中で妙に綺麗だった。
 吹き付ける風に小さく身をちぢこませ、道を行く。ぽつんと光を放っているコンビニに滑り込むと、温かい珈琲を手に取った。何を食べようか迷えば、暇そうな店員が「今、あんまんと肉まん蒸し上がりましたよ」などという。
 その言葉に惹かれて覗きこめば、ふわりと温かい。
 肉まん、餡饅、ホットコーヒー。温かい袋を抱えて、真喜子は途端に幸せになる。
 昔から、こうだ。悲しいことがあっても、懲りない。だから無駄に恋ばかりしてきた。
(食べたらちょっと、お店で仮眠しよ)
 枯れ葉を蹴り上げ店の前に付くと、真喜子はぎょっと足を止める。
「あら」
 店の前に、巨大な固まりが転がっているのである。それは行く時には無かったものだ。おそるおそる覗き込めば、それはどうも男のようなのである。スーツ姿の男が、座り込んでいる。
 顔が赤いのに青い。酔っぱらいだ。
 ほう、と溜息を吐いて真喜子は男の顔を覗き込んだ。死んではいない。息はしている。
 ならば平気だ。昔から、酔っぱらいには慣れている。
「こんなところに寝てたら、風邪引きますよ」
「ああ……」
 声をかけられて、男は目を覚ました。眠りかけていたのか、目の焦点が怪しい。
 上等なスーツがよれよれだ。どれだけ呑んだのだろう。よくぞ泥棒などに狙われず、ここに辿りついたものである。
「……酔っ払ってはるんやわ。お店でよければ、どうぞ」
 抱えて店に引きずりこむ。そこではじめて顔を見て、真喜子は二度驚いた。
 ……見間違うはずがない。その顔は、真喜子に花束を贈った、あの男である。すっかりと酔っぱらい、風体が変わってしまっているが。
 しかし、驚きの言葉を飲み込んで、真喜子は自分の髪を整える。化粧はすっかり剥げ落ちている。ああ、マスクの買い置きはどこだろう。などと焦り、自分の頬を軽く叩く。
 もう、ホステスではない。こんな自分に気付くはずもない。
「……すみません。酔って、寝てしまって」
 男は目を覚ましたのだろう。絡まる舌で、そう呟いた。
 見れば、這々の体で立ち上がりふらつく身体でスーツの汚れを落としている。
 やはり、その顔は見覚えのあるあの男だった。
「い、いいえ」
 真喜子はできるだけ顔を見せないように俯いて、店の光を少しだけ落とす。
「死んではるんかとおもて、驚きました」
「すみません。ここだけ店の灯りがついていて……ちょっと休憩させて貰おうと思ったら、そのまま寝落ちてしまったみたいで……こんなところに花屋があったかなあ」
「一ヶ月前にオープンしまして」
「最近は忙しくてあまり新地に来られなかったから気付かなかったなあ」
 男はだんだん酔いが覚めてきたのか、口調が軽くなる。
「昔はよう、来られてましたの?」
「ええ、付き合いで少々……ただここ何ヶ月か忙しくてすっかりご無沙汰で」
 椅子を差し出すと、彼は大人しく座った。酔っぱらいのくせに姿勢がいい。その姿勢のよさに、真喜子は思わず微笑んでしまう。
 確かに、彼はどれほど呑んでも、けして最後まで姿勢を崩さない男だった。
「ご無沙汰ついでに、飲み過ぎましたか?」
「悲しい事があって飲み過ぎました。いい年をして恥ずかしい」
「悲しいこと?」
 男はふと、目に悲しみを浮かべた。こんな顔もするのかと、真喜子は驚く。
「悲しいというよりも後悔というべきでしょうか」
「だから、女の子はべらして?」
「いえ」
 困ったように笑って、彼は首を振る。笑うと、少年のような顔になる。
「笑ってください。バーで一人で、夕方から、深夜まで」
「あら。新地なんやから、可愛い子とお喋りして憂さ晴らししたら良かったのに」
「昔は、そんなことばかりしてました。でもそんな気分にもなれなくて、思い出のバーで、ずっと引きこもって」
 酒の香りをまき散らし、彼はネクタイを整える。そのネクタイは少し、よれている。
 昔はそんなことはなかった。昔はスーツもネクタイも完璧な男だった。
 何があったのだろう。と真喜子は首を傾げる。
「バーを追い出されたのか、自分から出たのか、それさえ覚えてないんです。あなたもこの辺りでお店を出しているのなら、そんなお客さんは慣れっこでしょう」
「ええ、ええ。よおさん、おります。でも、こんな紳士的な酔っぱらいさんははじめて」
「いや、恥ずかしい。取り繕っているだけです。僕の人生は、取り繕うばかりで大事なことにも気付かず……」
 男は疲れた顔をぐしゃぐしゃとかきまわすと、ふ。と真喜子の顔を覗き込む。
「おや、あなたどこかで?」
「勘違いでしょう。平凡な顔ですもん」
 すみません。と、男は再び謝った。生真面目な男である。
 同時に彼の腹がぐうと鳴る。その音にまた彼は照れた。
「呑んでばかりで、あまり食べてなくて」
「肉まんでよければどうぞ。あ、あんまんもありますよ」
「でもこれは、あなたの朝ご飯……いや、夕ご飯? でしょう」
「どうせ二つは多すぎやもの。じゃ、半分こ」
 袋の中に入った肉まんもあんまんも、まだ温かい。湿り気のある温かさだ。
 柔らかい生地に爪を立てるようにして、真ん中からそっと割る。ふわりと、煙が踊った。
 安っぽい肉の香りだが、たまらなく美味しそうだ。半分を男に渡して、残りを口に放りこむ。柔らかくてほんのりと甘く、温かい味わいが、朝に冷えた体を暖める。
 男が食べ終わるのを待って、あんまんも割る。あんまんの中は、肉まんよりずっと熱い。気を抜くと唇がじゅっと焼けそうに熱い。
 二人同時にあんの熱さにやられ、動きが止まる。目が合うと、妙におかしくて笑えてきた。
「肉まんといえば、神戸の中華街にも美味しいところがあるんですよ。今度買ってきましょう」
「もう。また冗談ばっかり」
 男の軽口のような言葉に、真喜子はつい微笑む。
「冗談はいややわ」
 冬の花屋は凍えるほどに寒い。水がそこいらに張ってあるからである。滑り込むような寒さも今朝は不思議と耐えられた。照れているのか緊張しているのか嬉しいのか、妙に身体が火照るのである。
 まるで少女のようだ。と、自分を見下げて真喜子は嘲笑した。

 そして一ヶ月と半分すぎたころ、男は本当にふらりと顔を見せた。まだ時刻は夕暮れ時。
 夕暮れの北新地とは、一般社会でいうところの、朝の七時である。
 各店舗、料理の仕込み、酒の仕込み、花の仕込みで忙しい。お店の女の子たちは出勤前。人によっては同伴の支度中。
 早い帰宅をするサラリーマンと夜の町を生きる人々がバトンタッチをする、そんな瞬間である。
 すっかり薄暗くなった紺色の夕暮れを浴びて、男はにこりと笑った。
 手には、神戸南京町の名前が刻まれた袋を持っている。
 真喜子は手に持っていた紙の束を、思わず落としかける。慌てて抱き留めて、目を見開く。
「驚いたぁ」
「僕は約束はきちんと守るたちなのです」
 中年といっていいほどの年齢ではあるが、笑うと子供のようだった。
 手に持った紙を適当に放り投げるなり、真喜子は慌てて椅子を差し出す。床は水でべちゃべちゃだが、男は気にせず椅子に腰掛けて袋を開ける。
 その中には大きな四角い箱。中には白い皮膚も艶やかな、肉まんが5つも並んでいる。
 コンビニとは違って、もっちりつややか。弾力のある皮膚で、中には具がぎっちり詰まっている手応えだ。
 手に乗せると、重い。
「こんなにあったら、もう半分こ、せんでええね」
 手に乗せて無邪気に喜ぶ真喜子を見て、男が目を細めた。
「いや。あのときの肉まんのほうが美味しかったかもしれない。今日、ひとつ店で食べて来たのですが、そう思いました」
「……御礼に、お花作りましょうか」
 あまり見つめられると、悪い癖が顔を覗かせそうになる。真喜子は慌てて顔を背けて、店の花を見た。可愛らしい、自慢の真喜子の花たち。
 可愛い包み紙を用意して男に好きな花を選ぶよう伝えると、彼は素直に喜んだ。
「良いんですか。実は、花が欲しいなと思っていたところでした。でも僕は花のことはとんと弱くて」
「花の名前やなくていいんです。色とか、香りとか、渡す相手の雰囲気とか。言うてくれたら、私が作ります」
 男は必死に店内を見渡している。花の前には、真喜子が書いた説明プレートを添えている。もちろん、そんなものを見て買う客など皆無だが。
 しかし男は丁寧に、そのプレートを見ては頷き、驚き、感心するのである。
「すごいな。見た事はあっても、名前を知るのは初めてな花ばかりだ。もちろん、当たり前なのだけど、ひとつひとつ、きちんと名前がある」
「ええ。ええ。花たちは、みんな名前があります」
 ただの道ばたに咲く花にも名前はある。名前のない花などない。
 真喜子にも名前はあった。それはホステスとして働くための、別の名だ。それは、花に由来する名であった。
 客にはまともに呼ばれたことがない。自分の名を明かすと、お前にその名は似合わない。と馬鹿にされたこともある。
 呼んでくれたのは、親しくする飲食店のおじさん。そしてこの男だけだ。しかし、真喜子はその名が大好きだった。一番好きな花の名前だったからである。
「そうですねえ。贈る相手の名前とお花の名前をかけてもええですし、色や雰囲気で選んでもええです。それか、新店舗をオープンさせたママさんに贈る花。クラブの若い子に、新人ちゃんに、中堅に。そのイメージに合わせて、作るのが私の仕事ですから」
「そうだな……」
 男はプレートを丁寧に見つめている。自分の字を見つめられるのは、妙に恥ずかしい。所在なく俯くと、男はやがて一つの花を指さすのである。
「あ。そうだ、かすみ草がいいな。それだけで……例えば雲みたいに、できるかな」
「それだけ? 寂しないですか」
「いいんです」
 小さな白い花が揺れるかすみ草は、ぐっと固めて花束にすると真っ白な雪のようになる。まだ初雪には少し早いが、それを予感させる雰囲気だ。
 しかし寂しい。自分ならば、ここにきりりと美しい、赤の花を入れる。きっと、イルミネーションのようで綺麗だ。
 しかし要望であれば仕方のないこと。真喜子は手早く枝を斜めに切り、水を含ませたスポンジを取り付ける。そして慎重に、レース模様の紙でくるむ。
 せめてもの反逆に、リボンは赤を選んだ。
 それを男はじっと見つめる。まるで愛おしい物を見つめるように、その目は細く、円を描く。温もりが伝わるようで、リボンを結ぶ手が震えた。
「この花束、明日までもつかな」
「もつようにしておきますよ。でも、今日持っていかはるんじゃないの?」
「いや、持っていくのは明日」
 花を受け取った男は、恥ずかしげに微笑んだ。
「妻の四十九日なんです」
 妻の名前は、カスミというんですと、男は言った。
「苦労を掛けっぱなしで逝った妻です。笑ってください。最期にしか、優しくできない男です」
 真っ白なかすみ草の花束を持って、切なげに微笑む男の目は、ここではない別の所を見ていた。


 夜になれば北新地は盛り上がる。酔った客が増えれば、真喜子の店も多少賑わう。
 その賑わいが治まるのは24時頃。真喜子の店はそれより前の22時頃に店終いをはじめる。その頃にはもう、花を買う客などいないからである。
 しかし今夜、真喜子は人通りの減っていく道をぼんやり見つめている。 
 戸も全開だ。冷たい風が足を冷やしていくが、それが却って心地良いのである。
「ん。まきちゃん」
 もう誰も訪れない。そう思っていた店に、一人の男が顔を出した。
 寒い季節なのに、着古したシャツと小汚いズボンだけで平然と立っている。ぽよんと出た腹の肉がベルトに乗っているのが妙に似合っている。
 その顔を見て、真喜子は慌てて立ち上がった。
「あら。親父さん」
「電気ついてたからびっくりしたわ。どしたん、お花屋さんはもう終わってる時間やろ」
 彼は、真喜子の店の向こう三軒でラーメン店を営む男だ。汚いが旨い店として北新地でも人気の店で、ホステス時の真喜子も何度か通って顔見知りとなった。
 偶然、近くで店を出すことになったところ、以前以上に優しく接してくれた。呼び名を源氏名から本名に素早く変えてきたのも、流石であった。
 それ以来、真喜子はまるで父親に対するように彼を慕っている。
「うん、もうお仕舞いしてるよ。でもちょっと、考えごとしてて」
「そか。寒いのに、戸くらいしめんか」
「うん。涼しいなぁ、涼しいなぁ、おもてる間に、すっかり夜。寒くなってもうた」
「せや。待ってて。おっちゃんがええもんあげよ」
 親父は嬉々として姿を消す。やがて、10分後にあついあついと騒ぎながらまたも顔を覗かせる。その両手には、ラーメン鉢が掴まれている。
「あら。ラーメン?」
「最近食べにきてくれへんからってのは冗談やけど、今日の売れ残り。やから、気にせず食べて」
 真喜子が大急ぎで出した簡易の折りたたみ机の上に、ラーメンが置かれた。ふわりと、魚介スープの香りがする。
 その香りを嗅いで、真喜子の腹が鳴った。そういえば、夕方に肉まんを食べたきり、何も食べていない。
「ええの? 全然売れのこりに見えへん」
「何時間も前の話やで。ラーメン作ってな、さあだそか。って時に客が喧嘩はじめて。男と女の痴話喧嘩。よおある話」
「うん、あるある」
「で、出されへんやろ。そんな喧嘩の最中に、はいおまたせ。なんて」
 その風景を想像して、真喜子は噴き出す。と、親父も笑った。
「そのうち女の子は泣き始めるし、男もひっこみつかんようになって、金だけおいて帰っていきよった」
「まあ、律儀やね」
「伸びたラーメン、よそでは出せんし。どうしよか思ってたとこ。だから、スープだけあっためてな。誰か女の子泣いて無いか探して外きたら、あんたや」
「ややわ。泣いてないでしょ」
 熱々のラーメンを、有り難くちょうだいする。手を合わせ、割り箸を割り、熱い鉢を持ち上げて、すする。スープが喉を焼いて、熱が全身を巡った。
 麺は確かに伸びきっていたが、それが却って柔らかく、胃に優しく染みるのだ。スープを吸って、やわやわになった麺がじんわりと身体に染み渡るのだ。
「あったまるわあ」
 見れば親父も豪快にラーメンをすすっている。北新地の片隅、花屋でラーメンをすする二人の姿がおかしく、真喜子は笑う。
「ねえ親父さん、うちらは業が深いねえ」
「なんで?」
「どこに行ったって。花屋もラーメン屋もできるけど、こんな夜の町でお店して」
 北新地はほかの町より夜が深い。この狭い地域に、多くの人が生きている。道を一本ずれるだけでビジネス街だというのに、ここだけは別の町だ。
 どんなに馬鹿にされても、なぜかこの町から離れられない。
「深いねえ、業が」
「せや、まきちゃん。うちのに花を見繕って」
 スープまでごくごくと飲み干したあと、親父は鼻をすする。そして店を見渡し、売れ残りの花を指さす。
 どれも高い花ばかりを指すのは、さすがだった。こんな町に暮らしていると、不思議と色々なものの価値が見えるようになってくる。
「ええですよ。ラーメンおごってくれたし、お礼代わりに」
「あかんあかん。商売人は金とっとき。金を取るんがプロや。余裕ができて、好きな子におごってあげられるようになるんが、もっとプロや」
 立ち上がり花を選ぶ真喜子に、親父の早口が降り注ぐ。
「おっちゃんのラーメンは売れ残り。でもこの花はちゃうやろ」
「でも」
「この花は、まきちゃんみたいにピチピチや」
「あかんよ、そんな事いうて。私はすぐ人のことを好きになるから、危ないんよ」
 二人で顔を見合わせて、噴き出す。そんな冗談も、親父相手なら気軽だった。
「じゃあ。かあいらしいん、作るわね」
 赤に青、黄色。それこそ思う存分、可愛らしく目にも鮮やかな、寒さを吹き飛ばすような花束にしよう。真喜子は、今日の夕方に見た真っ白な花束を忘れるように頭を振る。
「ねえ、親父さんは奥さんのこと愛してはるんやわ。お花を買っていってあげるくらいやもん」
「愛とかそんなん、おっさんは知らんわ」
 つまようじで、しいしいと歯を磨きながら親父は手をぱたぱたと振る。
「愛なんてしょせんは情な。情も二種類あってな、こいつは、かあいいなあ。触りたいなあと思ってるうちは、ただの情や」
 親父の声は、大きい。冷たく空気が澄んでいるときは、特によく響く。しかしその大声が、真喜子には心地がいい。
「でもそのうちに、ああこいつには苦労掛けられた。俺も苦労掛けた。憎いわ腹もたつわ、でも可愛いなあ可哀想やなあ、苦労の分、笑わせてやらなあかんなあ。と思いはじめたら、情けや。情けになったら、もうあかん。これは、離れられん。死ぬまで面倒みたらなあかん。花であいつが喜ぶなら、買ってったらええねん」
「親父さんの言葉、小難しいなあ」
「照れ隠しやん。突っ込まんといて」
 からからと笑いながら、真喜子は花を包む。
 真喜子はこれまで、多くの人に恋をして多くの恋に破れた。
 そのうち、本当の恋は、情けを感じられるほどの恋は、どれほどの数あったのだろう。
「私はまだまだやなぁ」
 冷たい手で花を包む。
 持ち上げて光にかざすと、それはまるで花畑のように、この寒々しい空気を彩った。

 週に一回ほど、必ず男は真喜子の店に顔を出した。
「いや、意外にね。ここの花はうけがいいんだ」
 凄惨なまでにぼろぼろだったあの時から、もう数ヶ月。男は平然とした顔をして、花を買いに来る。
 その心の内を真喜子が聞くことはない。男もそんなものは求めていない。
「お客さん、女の子を伸ばすタイプに見えますわ。お花あげたら、女の子喜ぶでしょう」
「大きいと大げさだから、このお店は凄く助かってる」
「嬉しいわ、ありがとう」
 男は椅子に腰を下ろしたまま、眩しそうに目を細めて北新地の通りを見つめている。
 すっかり季節は冬に突入した。北新地もあちこちで、ライトアップがにぎにぎしい。
 北新地を抜けたところにある、大阪市役所の真裏でもライトアップイベントが始まったらしく、そんな話題も聞こえてくる。
「冬でもこんなに綺麗な花がたくさんあるんだね」
「最近は年中お花はありますよ。冬に咲く花も多いし、逆に冬のほうが保つ花も多いんです。うちは、そういうのもありますよ」
 ピンクに赤に、青。華やかな色の、スイトピーにガーベラ。冬にも強く冷たい風にも負けない。
「へえ、冬に」
「春に咲くお花より、私は冬に咲く花が好きです。こう……耐えてるところがいじらしくて」
「だから、この店の名前の椿っていうんだね……綺麗な名前だ、椿」
 ぴくりと、真喜子の指が震える。それを、必死に隠した。胸の内が、じわりと暖かくなる。目の縁が、熱くなった。
「……ええ。そう、一番好きなお花の名前」
 枝を切り、向きを整え、できるだけ綺麗に見えるように真喜子は花束を作る。
 一生は続かないその美しさを、一瞬の喜びのために包む仕事は業が深い。業は深いが、果てしなく自分に合っているような、そんな気がする。
「どうです? 少し高いですけど、今日はこのお花、綺麗ですよ」
「商売上手だねきみは。実は、今日は新店舗のお祝いに」
「そうねえ、それなら……」
 綺麗に整った花からいくつかを抜き出して、可愛い花束を作る。
 ちくりと棘が真喜子を刺した。しかし平然とした顔で包む。シフォンに包まれたそれは、まるでドレスに包まれているようだ。
 男に抱かれ運ばれて、どうか幸せになっておいでと囁いた、その声は北新地を抜ける風の音に紛れて消えた。
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