北新地の恋

みお

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ラーメン食べて夜の町

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 飲んだ後にラーメンを食べる真似なんて、絶対にしたくない。そんな人生はいやだ。花子は物心が付いたときからそう思っている。
 たぶんそれはまだ幼い頃、酒と豚骨ラーメンの臭いをまき散らしながらクダを巻く父親を見て育ったせいかもしれない。
 酒とラーメンの香りは、幼い頃に飲み込んだ涙の味を呼び覚ます。

「とかいって、美味しそうに食べて」
「ちゃうよ。これは私の晩ご飯」
 染みこんだ脂のせいで、てかてか光るカウンターの向こう。禿げた親父がにやにや笑っていた。
 夏でも冬でも彼はいつでもランニングシャツにぼろぼろの半ズボン。お腹の肉はズボンのベルトに乗ってるし、顔はてかてか油光り。初見で声をかけられたなら、きっと即逃げ出すな。と花子はナルトをかみしめながら思った。
 しかし彼は繁華街で店を構えるラーメン店の店主なのである。
 人気の高い店ではない。しかしもう何十年も続いているらしい。つまり、一定の常連客はあるのだ。
 とはいえ、花子が訪れるのはいつも終電後。金曜ならいざ知らず、平日にはほとんど客もない。
 丸くて座りにくい椅子に腰掛けて腕を伸ばせばもう、後ろの壁に当たる。5席しかない小さな店。古いエアコンはガタガタ鳴って、冷たい空気を吐き出す。
 少々冷えすぎだが、これがラーメンを旨くするのだ。などと親父は言い張るのである。
「水商売の子が深夜にラーメン食べにくるのは、何度見ても切ないな」
 ラーメン鍋を混ぜながら、親父はしみじみ呟く。
「こんな店こんと、客にええとこ、連れてってもらい」
「私、スナックでもクラブでもキャバクラでもないよ。ガールズバーやから、そゆのは無いの」
 ありがちなラーメン丼の中、黄色い麺が静かに沈んでいた。ほとんど透明に近いスープからは、ぷん。と醤油の香りが立つ。その中には、魚介の香り。
 上に乗せられたチャーシューの数は少ないけれど、ナルトは呆れるほどに載っていた。
「豚骨ラーメンとか重いのはいややねん。ここのはお醤油に煮干しの出汁やから好き」
「そか」
 ネギもたっぷりだ。しかし切り方が適当なので、大きさはまちまちで、たまに繋がっていたりもする。
 長いネギの固まりをしゃくしゃく噛みしめていると、テレビから激しい歓声が響き渡った。花子はネギを口からはみ出させたまま、無意識に顔を上げる。
 店の角の棚には竈神様のお札と古ぼけたテレビが一つ。そのテレビからは、野球が流れている。阪神×中日戦。まだ一回裏。先ほど聞こえた歓声は、阪神の選手が塁に出たからだ。
 相変わらず、野球は画面を見なくても客の歓声で試合の具合が分かる。花子は音をたてて麺を吸い込みつつ、テレビを見上げる。
 画面では、塁に出た選手を大きく映し出している。まだルーキーだ。高校球児のような幼い顔に真剣な表情。可愛らしいな。などと花子は呟いた。
「なあ、なんでこの店、いつも野球の録画流すの?」
「だいたい、こんな時間にラーメン食べに来るよな奴は、試合の結果しか見られへんやろ」
 この店の営業時間は23時から深夜4時。野球が終わるころ店は開く。今は深夜だ。こんな時間まで野球をやっているわけがない。
「家でラーメンの仕込みしながら録画しとくねん、うちの奴がな。耳はもうすっかり駄目になったけど、目は達者やし、機械も強い。録画とか、俺のできひんこと、何でもできるんやわ」
 親父の趣味と気遣いによって、球場で幕の下りた野球が、飲み屋街の片隅でもう一度始まる。
「流しとくと、客も喜ぶし俺も楽しいわな」
「親父、ずっと繰り返し見てるもん。家でも見てるくせに」
「飽きんのよ。同じシーンを二回見るとな、前と違ったところに目が行くんや。最初は選手ばかり見とる。でも2回目は観客や。みんな、ええ顔しとる」
 花子もかつて一度だけ、球場にいったことがある。有名な選手の引退試合であった。野球に興味はなかったが、客がチケットを取ったのだ。凄い倍率だった。と言われ、貧乏魂が疼いた。
 しかしいざ足を運んでみれば、選手はテレビで見るよりも遙かに小さく、遙かに遠く、がっかりした。
 ただ、観客席から溢れる熱気や空気は本物だった。花子でさえ、叫んで、歌って、最後は思わず涙ぐんだ。
 テレビの中の観客はいつも真剣だ。試合は春から秋までたっぷりあるというのに、いつでも真剣だ。
 こんなに真剣になったこと、最近はあっただろうか。と花子は自問しながらスープをすすった。
「お出汁おいし」
 ああ。と、店長が吐き捨てる。選手が三振したのだ。しかし、同じシーンを彼はもう三回は見ているはずだ。それでも、つい吐き捨ててしまうのだ。
「ここだけ、深夜やなくて20時頃みたいで、時間の流れが戻るやろ」
「せやろか」
 呟いて、花子はポーチから口紅を取り出す。鏡も見ずに、一度、引く。唇をぐにっと動かすと、顔に色が戻ったような気がした。
 今からなにか用事があるわけでもない。帰って寝るだけだ。家は自転車で20分。
 それでも、花子は口紅を塗る。
「んー。でも、私、疲れてるから、やっぱり今は深夜やわ」
 野球で誤魔化しても厚化粧で誤魔化しても、今が20時に戻ってくれるわけではない。
 ごちゃごちゃと輝く繁華街の灯りと、酔っぱらいの怒声を聞きながら花子はスープをぐいっと飲み干した。
 一日、立ちつくした足にまで出汁が染み渡る。煮干しの出汁は、豚の出汁よりずっと優しくて暖かい。
「ごちそうさま」
 皿の縁に口紅の跡が残るのを、一度だけ見つめて椅子から飛び降りる。
 そして、脂ぎった机の上に500円玉を置いた。
「あ、そうそう忘れてた」
 そして、花子は店長に向かって手を差し出す。
 その手をゆっくりと、自分の頬に2回当てる。
 右手を下に向け、その上に左手をクロス。軽く頭を下げて、そして笑顔。
 ゆっくりと、動かしながら唇を震わせる。
 ごちそうさま、どうもありがとう。
 言葉にすればこんなにも長いが、手話を使えば一瞬だ。それを見た店長はビデオの停止ボタンを押すと、右手の小指をたどたどしく顎に2度当てる。そしてその手を顔の前で軽く振る。
 いえいえ、どういたしまして。
「うまくなったやん、親父」
「花ちゃんのおかげやし」
「免許皆伝やで。奥さんとも、上手くコミュニケーション取れるようなった?」
「や。まだな、俺があかんわ。あいつは病院で毎日習ってくるから、段違いに上達が早いわ。花ちゃんにも毎日来て教えてもらわな俺が追いつかん」
 あれほど賑やかだった店に一瞬の静寂、そして二人の微笑み。
「ほんま、親父のせいで太ったらどうしてくれるん。カロリー低いラーメン、考えといてよ」
 花子はまだ朱い唇を、にっと上げたまま外へ飛び出した。
 店を出て数歩歩いて振り返る。小汚い暖簾がかかったあばら屋みたいな店だ。中からは野球の大歓声。
 酔っぱらいのサラリーマンがその音を聞きつけて、「阪神最高」などと叫びながら吸い込まれたので、なるほどビデオには集客効果もあるようだ。
 そして扉が開いた瞬間、煮干しの出汁が香る。食べたばかりなのに、またお腹が鳴る。
 そうだ。大阪一の繁華街、北新地は、いつも香りに彩られている。
 

 北新地の近くを流れる淀川からぷううんと濁った香りが届くと、ああ。夏だなあと思うのだ。
 同時に、肌に張り付くような蒸し暑さとどうしようもない倦怠感。
 それは人の多さのせいもある。
 金曜日の20時、北新地の通りは異様な熱気に包まれる。
 大阪の繁華街、北新地。それは大阪の中心でもある梅田と、オフィス街の淀屋橋のちょうど真ん中。堂島に位置する。
 東西にぐねぐねと複雑怪奇に伸びた数本の通り、細道、そんな道のあちこちに、雑居ビルや小さな店が点在する。暗くなると一斉に、看板が明るく灯って夜の闇を吹き飛ばす。北新地は夜の町だ。
 しかし風俗やパチンコの類は存在しないので、繁華街といっても小綺麗でどこか上品でさえあった。
 クラブのママらしき着物姿の女性、お出迎えなのか胸を異常に開けたドレスの女、慣れた風な男に、興味本位の若い男。
 雑居ビルから新築のビル、ほとんどのビルには艶やかな看板が輝いているし、同伴のための割烹や高級料理店もあちこちに店を構える。
 ……それはすべて、東西を貫く北新地の中での話。
 花子はそこには入れない。いや、彼女の働く店は北新地の中、小さなビルにあるのだが、花子の立ち位置は、北新地の外にある御堂筋沿いの歩道である。
 大阪の血管ともいうべき御堂筋沿いは、北新地の中とは雰囲気が異なる。北新地からたった一歩外に出るだけで、そこにあるのは疲労と勤労と苦労の色だ。
 淀屋橋から梅田に向けて、サラリーマンやOLが一斉に大移動する北と南を繋ぐ道。それが御堂筋。
 南北を貫くのが御堂筋なら、その隣、東西に流れるのが北新地だ。すぐ側にある北新地に顔も向けず真っ直ぐ北へと進むサラリーマンは、そもそも遊びに興味がないのである。しかしそんな客を一人でも取り込むべく、花子は店の地図を持って御堂筋沿いに立つ。
 できるだけ足を露出した服を着て、高いヒールを履いて、通りがかる男に「ガールズバー、どうですかー可愛い子いますよー」などと間抜けな声を上げてみせる。
 時折、こちらを見る男もいたが、ほとんどが無視だ。面倒臭そうに花子を大きく迂回する男までいる。
 不景気やなあ。と花子は小さく溜息を吐いた。
 こんなことを花子は、20時から24時頃まで続けている。
(……ラーメンの香り)
 声をかけるのも飽きた頃、花子はふと香りを嗅ぎつけた。夏特有のむっとした空気の中、濃厚な豚骨の香りが漂ってくる。
 人の波の向こう、そこに巨大な花輪が見える。ビルの1階、真新しい看板には渋い黒文字で「一文字」と書かれている。店名の上には、九州豚骨の小さな文字。
 それは道沿いにオープンしたばかりのラーメン店だ。窓から濃厚な香りが漂って、夏の空気に混じる。
 雨後の竹の子のごとく……とまではいかないが、雨後のキノコくらいの勢いで北新地にはラーメン屋が生まれる。そしてすぐに潰れる。
 この店も何ヶ月持つだろうか。こんな道沿いの1階、賃料も安くはないだろうに。と花子はいらぬ心配をする。
 人気の店もすぐに潰れるような、世知辛い世の中である。
 やがて店から一人の青年がぽん、と飛び出してきた。案の定、客が入らないのだろう。
 彼はメニュー表を高く掲げて、
「ラーメン、いかがですかー!」
 と、驚くほど大きな声で叫んだ。
 しかし通りを行く人は驚くこともなく、淡々と通りすぎて行く。それでも彼は、誰より大きな声を上げる。
「美味しいラーメン、いかがっすかー!」
 喧噪の中でもはっきりと分かるほど通る声だった。
 背の高い男だ。捻りはちまきに、真っ赤なシャツ。シャツの背中には一文字、の墨書き。
 すらりとした体型だが、まだ若い。20代前半ほどか。
 就活浪人というやつだろうか。と花子はぼんやり彼を見る。目が合うと、彼は一瞬驚いたようだが、にこりと微笑んだ。
「この店、今日オープンなんです」
 彼はすぐさま、人の波をかき分けて花子の前に立つ。なかなか可愛い顔をしている。花子はとびきりの笑顔を浮かべて見せた。どんな男でもいつ客に化けるか分からない。
 今は貧乏でも、そのうち金を持つと遊びにはまる。だからどんな男でも、一度はしっかり掴んでおけ。というのが花子の理論だ。
「へえ。なんか店が出来てんなあとは思ってた。君、店長さん?」
「まさか。僕はただのスタッフ。言うても、キッチンにはまだ入れてもらえんけど。見習いやから、呼び込みしてんねん」
「僕ちゃんか」
「あ、いや、癖で」
「ええやん、かあいらし」
 突っ込むと、こちらが驚くほど真っ赤になって照れる。それを見て花子は久々に心の底から笑った。
 蒸し暑い空気と、淀川の澱んだ匂いと、豚骨の濃厚な匂い。それが花子とケンジの出会いだった。


「花子さん、一度食べにきてよ」
 ラーメン一文字が出来て、一ヶ月。花子の心配をよそに、店はそこそこ繁昌しているようだ。何かの雑誌に紹介されたのか、行列ができることも時にはある。
 それでもケンジは呼び込みのために店の外に追いやられていた。
 声の大きさを買われたのだろう。
 そして呼び込みのため、外に出ると必ず人の波をかいくぐり、花子の前に立つ。そして必ず、10分やそこらは立ち話をするのが、二人の日課になっていた。
「なあ。花子さん、一ヶ月ずっと誘ってるのに、なんで食べにきてくれんの。花子さんラーメン好きって言うてたやん」
「トンコツは、20時までに食べるようにしてるの。それ以上は胃もたれするわ、アラサーの胃を舐めたらあかんで」
「だって花子さん、20時から仕事やん? じゃあ仕事前に来てよ」
「いや。仕事前にニンニク料理とか無理」
 花子はミニスカートの裾を揺らしながら口を尖らせる。大阪の夏はまだまだ暑い。風もない。届くのは豚骨の香りばかり。ふくらはぎにまで汗が流れて、立っているだけでも重労働だ。
「それにこんな暑い時にトンコツとかないわ。蒸し暑い」
「やろ。僕もそうおもってた」
 かか。とケンジは笑う。そして植え込みに腰を落とした。呼び込みはいいのかと聞くと、今は休憩中なのだという。確かに彼は店名の書かれたシャツを隠すように、薄いパーカーを着込んでいる。
 休憩があるのは羨ましいな。と素直に花子は思った。
「花子さん、ずっとここに立ってるの?」
「売れてないからね」
 花子は店の地図を掲げ持ったまま、苦笑する。
 花子が短いスカートをはいて御堂筋で客引きをしている間、同僚たちは涼しい店内で客を相手に与太話などしているのだ。
 わざと濃い目に水割りを作って薄暗い部屋の中、軽く手でも握らせてカラオケを歌えばそれでおしまい。それ以上のことはない。
 花子も昔は店の中にいた。しかし気付けば外に立たされている。年齢のこともあるが、何より、すぐ顔に出るせいだろうと自己分析をしている。
 酔っぱらいから香る酒とラーメンの臭い。顔を近づけられると思わず背けてしまう。面白く無い冗談を飛ばす客には、蔑んだ目を向けてしまう。
 あっという間に、店のみそっかすになってしまった。
「年増はこうやって、立つんよ」
「ちゃうよ。花子さん、可愛いからやわ。お店の看板背負って立つんやもん」
 ケンジは真面目な顔をして、花子を覗き込む。花子は慌てて顔を背けた。
「僕ちゃんやのに、口はうまいのん? これまでそういって、何人泣かせてきたの」
「そ、そんなんちゃうし」
「それはそうと。ケンちゃんは、まだ呼び込みなん?」
「最近、ネギは切らせてもらえるようになった」
「大進歩やん」
 花子は、ぽん。とケンジの背を叩いた。
 最近、妙にラーメン欲が湧いた理由が分かった。こんな店の前で客引きしているからだ。
 そしてケンジがラーメンの匂いをまき散らしているせいだ。
 それでも豚骨へは食指が動かないが、例の親父の店に行く率は格段に増えた。
「……あれ?」
 植え込みに座ったケンジが何やら真剣に本を読んでいる。それをちらりと横目に見て花子は首を傾げた。
「手話?」
 彼が大きな掌に掴んで必死に覗き込んでいるのは、手話の本なのである。生真面目なイラストは見覚えがある。それは手話のテキストである。
 花子の声に彼は少し照れたように顔を上げた。
「……僕、大学が福祉系やってん」
「あら。なんでラーメン屋なの」
「卒業しても就職きまらんくて、就職浪人中。でも僕、ラーメンも好きやし、作ってみたかったからバイトでここに」
 テキストはもうぼろぼろだ。何度も何度も読み直したのだろう。折り目が付いて、赤ペンでも何か、書き殴ったような跡がみえる。
 ケンジは気まずそうにそれをポケットに突っ込んだ。
「手話は実習で少しだけやってて、もう一回やり直そかなと思って」
「私もできるよ、手話」
 花子は地図を脇に抱えて、ゆっくり右手を挙げる。人差し指を立て、それをケンジと自分にゆっくりと指し示す。
「弟が耳、聞こえんかったから」
 夏の生ぬるい空気の中、動く指。ぬるい風を切るその感覚は、子供の時から変わらない。
 素直で可愛く、優しい弟は姉のたどたどしい手話をいつも真剣に見つめてくれた。
「弟、もう死んでしもたけど」
 しかしそれでも花子は手話を忘れないし、時々思い出したようにテキストも読む。数年に一回、弟の墓参りのときに手話を使うからだ。
 声で話しかけるよりも、手で喋るほうが何でも喋れた。辛い事も、悲しいことも。弟もきっと、その方が伝わるんじゃないかと花子は思うのだ。
「……ごめん」
「謝ることないよ」
 花子は笑って地図を持ち直す。酔っぱらいが下卑た声を掛けてきたが、気にせず軽く言い返す。こんなこと、この場所ではいつものことだ。
 蚊に刺されたくらいにしか思えない。
 しかしケンジは慣れていないのか、一度立って、再び座った。顔に、悔しさが滲み出て言う。
「……花子さん」
「なん。あんな冗談に顔色かえて、おぼこいね」
 この町は花街だ。かつて遊郭があった町だ。幾人もの女が泣いて笑って、怒って死んだ。花子が北新地で働きはじめたとき、店で出会った男がそう教えてくれた。
 どこかの大学の教授といった。真面目そうな、町に似合わない男だった。
 彼は花子の手を握ることも、肩を抱くことも、耳元に囁くこともなく真っ直ぐ背筋を伸ばしてウイスキーを二杯だけ飲んだ。
 そして北新地の歴史を語って、去っていった。
 ここは特別な町だ。夢の町だ。したたかな町だ。
 花子はそれから10年。夜の町、北新地をしたたかに生き抜いている。
「ケンちゃん、手話教えたげよか」
「え、ほんま」
 ぱっと、彼の顔が輝いたのをみて花子はおかしさを堪えるように笑った。
「ちょうど、私ほかにも教えてる生徒がおるんやわ。二人も生徒持てたら、私、立派な先生やんね」
 今夜は久々に手話のテキストを開いてみよう。花子はそう思う。やる気の無い毎日に光が差し込んだような心地である。


 しかし、そんな心地は一日にして沈められた。
「困るんやわ。女の子が、ラーメン屋といちゃいちゃしてたら」
「はぁ……すみません」
 店に着くのは19時半。メイクルームで丹念に化粧する花子を、珍しくオーナーが手招いた。まだ半分しかアイラインを引いていない、そんな花子の顔をじろじろ見つめて、乾いた唇を神経質に舐めながら彼は花子にぶつぶつと説教をする。
「男の子を店に誘ってるんかと思って最初は大人しく見てたけど、ただ喋ってるだけやんね。あんな往来で、店の看板背負ってあんなことされたら、困るんやわ」
 いつばれたのか。と花子は考えすぐに否定する。
 ばれるもばれないも、毎日毎日ケンジと喋っていたのだ。目について当たり前である。 狭い狭い店の真ん中で、オーナーに怒られる花子を覗き見て同僚達はにやにや顔。
 オープン前のガールズバーは電気が煌々と灯っている。わざとらしいほど白い光の中、化粧途中の女の子達は、一様に同じ顔だ。
 塗り固められる前の顔は、みんな揃って幼いし、みんな揃って意地悪な顔をしている。
 店がオープンするとぐっと光量が落とされて、女の子たちの顔はもっと大人びて光る。いつかの男が語ったようにこの町は、夢の町なのである。
「こっちはいつ辞めてもろてもええんやからね」
「はあ」
「相手の男にも、しっかり言うとき。またちょっかい出してくるようなら、店に文句いうてそっちにも辞めて貰うから」
 オーナーの言葉を話半分で聞きながら花子は平然と頭を下げて見せた。
 以後、気をつけます。すみませんでした。
 棒読みの言葉だが、オーナーはそれだけで満足したのかぷりぷり尻を振りながらカウンターの向こうへ消えて行く。
 この店を辞めない理由は、どれだけ馬鹿にされても置いてくれるからだ。たとえ道ばたの客引きくらいしか仕事が無くても、毎月決まった給与が貰えて一人で生きて行ける。数年に一度は弟の墓参りに行ける。
 そんな暮らしを花子は割と気に入っている。
(……とはいえ、ケンちゃんに迷惑かけたらあかんわなあ)
 一応しおらしく肩を落として、途中だったアイラインをしっかりと引く。朱い口紅をしっかりと引く。眉を、高く高くきりりと描く。
 なかなかに、攻撃的な顔が作り上げられた。
(でもなあ。ケンちゃんのメールもなんも、しらんし)
 鏡を覗けば、そこにあるのは強い女の顔だ。
 それは、かつて大嫌いだった母の顔にそっくりで、遺伝子の怖さを花子は思う。
 母は、花子が少しでも自分の思い通りに動かなければ眉をきりりと上げて花子を睨むのだ。
 そして、こう言う。
(ちょっと、大人しくしてよ、な。花子)
 母の言葉を思い出して、花子は苦笑した。
 母との思い出のせいなのか、オーナーの嫌味な言葉にも、若い同僚たちの意地悪な目線にも花子は挫けない。さて。と呟いて立ち上がる。
「いってきまぁす」 
「男にうつつ抜かすなよ」
 はぁい。と気軽に応えて花子は店から飛び出す。そしていつもの定位置に立つと、いつも通り目の前のラーメン店からケンジが顔を出した。
 花子がここに立つ20時、ケンジもちょうど客引きの時間なのである。
「花子さん」
 いつものように、彼は飛び上がるように手を振る。子犬のような男だ。柔らかそうな髪が、ひょこひょこ跳ねる。
 大きく手を振るものだから、シャツから腹がちらりとみえる。
 そろそろ夏は終わる。風邪を引くよ、と言いかけて花子はぐっと耐えた。そしてぷい。と横を向く。
「花子さん?」
 不安そうにケンジの口が動くのが見えた。花子の中に芽生えたのは、ぞくりとする意地悪な心と、憐れみである。
 しばし顔を背けていたが、いよいよケンジが泣き出しそうな顔をした時、花子はそっと指を動かす。
 ゆっくりと、人差し指と親指で円を作り額にあてて下ろしながら指を開く。一瞬の動作だ。それを二度繰り返す。と、ケンジの顔が真剣なものに変わった。
 人波が二人の間を抜ける。3メートルもない歩道だが、人の多さは天下一。そんな人に阻まれた道の端と端に二人は立っている。
 しかしケンジはしっかりと花子を見つめている。その顔に泣きそうな色は、もう無い。
(そうやで、しっかり私の手を見て)
 指をゆっくりと動かす。
 ……ごめんね、店に、ばれた。話をすると、怒られる。
 数度繰り返すと、ケンジは理解したように幾度も頭を縦に振った。そしてたどたどしく、彼もまた指を動かす。何度も止まり、考え、時折ポケットのテキストをのぞき込み。
 ……僕こそごめん。迷惑かけた。
 ……だいじょうぶ。平気。
 と、花子は特上の笑顔を浮かべてみせた。通りすがりの男がその顔に見とれるのを横目に見つつ、気にせず手を動かす。
 ……こうやって話をする分には、大丈夫。
 ケンジの顔がまた輝くのを見て、花子はいつもより元気よく通りを行く男に声をかける。
 ケンジもそれに張り合うように呼び込みをする。
 通る人々が振り返るほどに、一瞬だけその場が賑わった。が、すぐに何事もないように人々は行きすぎる。
 そして車のクラクションが響いて、日常が戻って来た。

 御堂筋沿いの歩道を歩く人は、いつもみんな急いでいる。
 ぷらぷら歩いて女の子を品定めしている人など、18時や19時には皆無だ。サラリーマンもOLも、黙々と早足に集団で移動する。
 信号が青になった瞬間、ものすごい固まりが南から北に向けて大移動を開始するのだ。そうするとケンジと花子の間に人の波ができる。
 その時ばかりはやる気の無い声でお互い客引きだ。もちろん、誰もこちらを見ようとしない。 
 やがて人が途切れる。不思議な事に、そんな一瞬が定期的にある。 
 そんな時必ず、ケンジと花子は目を合わす。そして低い位置で指を、手を動かす。それはたどたどしいけれど、はっきりと言葉を刻んだ。
 寒くなってきたね。そろそろ秋かな。お腹すいてない? 足がだるいよ。
 そんな些細な言葉を交わす。二人の声は誰にも聞こえてない。こんなに多くの人が通り過ぎる町の中で、二人の言葉は二人にしか届かない。
 手話で会話を試みるようになって数週間。ケンジの動きは格段に上手になった。動きは目立たないように小さめだが、以前のようなたどたどしい動きはもうない。
 むしろ花子の方がたどたどしくなることが増えてきた。若い子は覚えが早いな、などと年寄りくさいことも思い始めた頃、ケンジの姿が見えなくなった。
(……バイト辞めたんかな)
 通りを行く人々を見つめながら花子は思う。いつも定位置から見えるのは、疲れた仕事帰りの人々ばかり。
 ラーメン一文字は、吸い込まれる客と出て行く客ばかりが目立つ。そしてそのたびに香るトンコツの香り。
 しかしケンジの姿はそこにはない。時折、赤い制服を着込んだ別の男の子が所用なのか外に飛び出していく、それだけだ。もう客引きなど必要無い人気店になったのか、ケンジは辞めてしまったのか。
 連絡先どころか本名さえ知らない花子はそれさえ分からない。
 寂しいのだろうか、と自問して首を振る。そもそもケンジとは友人でさえない。ただ、仕事の合間にみつけた暇潰しの相手だ。隙間を埋める話し相手。
 いつも見かけていた野良猫が居なくなった、その程度の関係のはずだった。
 しかし不思議と虚しさを感じるのは、
(……そろそろ秋が来るからかなあ)
 と、花子は思い込む。
 けして空気がいいとは言い切れない御堂筋沿いの歩道、そこにあるかなしかの茂みからも秋の虫の声が聞こえはじめている。

 そんなケンジが唐突に顔を見せたのは、姿を消して一ヶ月、秋が深まりつつある時であった。
 御堂筋沿いには銀杏が植えられていて、それがボロボロとだらしなく落下すると辺りは一面、なんともいえない香りに包まれる。
 落下した実は、車に、人の足に踏みつけられる。厚いアスファルトを破ることもできず、銀杏の実は哀れにもそこで一生を終えるのだ。
 その恨みなのか、銀杏は臭い香りを辺り一面にまき散らすのである。
 その香りを嗅ぐと、花子は秋が来たなどと思うのだ。
 金木犀の儚い香りよりも、そちらのほうがより花子にとっての秋だった。
 その夜もまた、銀杏の香りを嗅ぎながら花子は店を出る。高いヒールを響かせて、ぶらぶらと定位置に付こうとした。
「花子さんっ」
 ふと。花子の腕が引かれる。転びそうな花子を支えたのは、固い男の身体だ。花子の目の前は真っ赤。赤いシャツには、スミ文字で書かれた、一文字。
 顔を上げると、そこにケンジがいた。
「なにっ」
「はよ、こっち」
 ケンジの隣に立つのは久々だ。それもこれほど至近距離で顔を見るのは初めてだ。
 意外に背が高い。半袖シャツから伸びた腕は、しっかりと筋肉が付いている。
「な、なんなん」
「ええから、店の人にみつからんうちに、こっち」
 ケンジは真剣な顔で、花子の手を引っ張る。高いヒールのせいで転びそうになりながら、それでも必死に付いて走る。人が多いせいか、二人に注目する人は誰もいない。
「ああ、もうどこも人が多いな。花子さん、そこの隙間はいって」
「隙間って」
 ケンジが花子を押し込んだのは、ビルとビルの間にある隙間だ。ちょうど花子の横幅一人分。足下にはビルの隙間から漏れる水がちょろちょろ流れている。隙間にすっぽり入り込んだ花子にケンジは無言で片手を差し出した。
 その手には、小さなマグカップを掴んでいる。丁寧にラップを掛けているが、ぷん。と豚骨の香りがする。
「20時までならトンコツ食べれるんやろ? 今日のラーメン、僕がはじめて仕込みしてん」
 息を切らし、顔を真っ赤に染めて彼はいう。
「ここ一ヶ月、ずっと修業しててん。やっと、キッチン任せて貰えたから」
 食べてみて。とケンジは真剣にいう。あまりに真剣なので、花子はおずおずとカップを受け取る。
 覗き込めば、白濁としたスープが見える。うっすらと油が浮かび、ネオンにてらてら輝く。その中に、黄色い麺が少しだけ沈んでいる。チャーシューの切れ端と、たっぷりのネギ。鼻を近づけると、豚骨独特の香りがする。
 煮干しのスープにはない、甘くて野性的な香りだ。本能の一部が刺激される香りだ。醤油に煮干しでは出せない、力強い香りだ。
「たべて」
「ええの?」
「僕、花子さんに食べて貰いたくて、ずっと店の前で花子さん出てくるん待っててん」
 視線があまりに優しく、花子は顔を俯ける。
「じゃ……頂こうかな……うん、食べる」
「お店の人から見えたら困るから、僕がここに立って、こうして隙間ふさいどく」
 一歩、ケンジが近づいた。
 花子の額にケンジの胸が当たる。まるで抱きしめるほどの距離で、しかしケンジの手はビルの壁を支えている。
 ゼロ距離だ。花子の前髪も、額も、全部ケンジの胸に当たっている。
「外から見たら僕が立ってる風にしかみえんし」
「……ビルの隙間に顔突っ込んでる風に見えるわ、おかしい」
 冗談を飛ばす花子の声が震えた。目を上げればケンジの顔がすぐ側にあるのだ。睫毛が長い。目も二重瞼でくっきりだ。
 そんな目が、すぐ側から花子を見つめてくる。
「だから、はよ食べてはよ」
「……あっついなあ……あっついわ」
 カップに口を付けてすすると、口の中いっぱいに脂の味が広がった。甘い。とろりとして、粘り着くような旨味と、にんにくの香り。
 ネギがしゃくしゃくと歯に触れる。チャーシューは蕩けるようだ。
 しかし、熱い。
「あっつい……」
 顔が真っ赤にそまるほどに熱いのは、豚骨スープのせいだ。顔が赤いのはケンジのシャツが顔に映り込んでいるせいだ。
 そんな花子の思いを知ってか知らずか、ケンジはまた顔を近づけた。
「おいし?」
「……うん」
 流れる汗を拭うこともできず、花子はもくもくとラーメンを飲み込む。
「……美味しい」
 美味しいなあ。としみじみ呟くと、ケンジが満面の笑みを見せる。
 それは暗い隙間を照らす、まるで太陽のようだった。

「花子さん、僕な実家に戻ることになってん」
 まだ銀杏が臭い、秋の中頃。ケンジが唐突にそんなことを言い出した。
「バイトはやめる。手話の仕事がきまってん。ホームの仕事で」
 珍しく、スーツを着たケンジである。彼はまるで客引きに引かれたサラリーマンのような顔で花子に近づいてきた。真っ黒なリクルートスーツに身を包んだ彼が声を出すまで、花子は彼がケンジであることに、気付かなかった。
 思わず出しかけた店の名刺を手の中できゅっと握り潰して、花子は男を見上げる。
 そこに立っているのは、ケンジだ。
「……よかったやん」
 ようやく声に出せたのはその言葉のみ。
 ケンジはぼさぼさだった髪をきちんと切りそろえ、真新しいスーツを着込み、四角い鞄を手にしている。
 どこからどうみても、新卒サラリーマンだ。
「今日、手続きに行ってきた。さっき大阪戻ってきて、今から店にいく。辞めるいうても、あと一週間くらいは働くつもりやけど」
「せっかくキッチン任されたのに、店長さん。なんもいわん?」
「応援してくれたよ」
「ええ店長さんや」
 はたから見ればサラリーマンと、客引きの女。そうみえるだろう。しかし会話はたどたどしい。花子は言葉を失って、しばし顔を俯ける。
 一瞬だけ、二人の間に沈黙が落ちた。通りを行く人々の声が煩い。通りを歩く人が蹴り上げる枯れ葉ががさがさと耳に付く。
 ああ、この町はこんなにも煩かったのか。
「……実家どこやっけ」
「石川のすみっこ」
 絶望するほど遠くはないが、二人が向かい合っていた道幅よりは、確実に遠い。
「でも変な感じやわ。僕、大学からこっちにきたから、もう言葉も関西弁やし」
「手話なら平気よ、どこでも一緒」
「……うん」
「ケンちゃん。また北新地遊びおいでね」
 黒いスーツにほつれた糸が付いている。花子はそれを丁寧に取って、道ばたに捨てた。
「そんで初任給で、私の店おいで。特別に奢りで水割りつくったる……一杯分だけやで」
「花子さん」
 ケンジが真剣な顔を見せた。それはいつかビルとビルの隙間で見せた、あの顔と同じだ。
 一歩、花子に近づく。花子は一歩、下がった。足が銀杏の実を蹴った。
「僕な」
 また近づこうとするケンジの前で、花子は小さく手を振ってみせる。顔を上げて、しっかり彼の顔を見て。
 さようなら。
 と手話で語った。言葉で語るのなら5文字なのに、手話なら一瞬だ。
 ケンジはしば思案したあと、腕を振り指をクロスする。
 またね。
 言葉にすると3文字なのに、手話は長い。
 二人は無言で見つめ合う。やがて、お互いの右手が互いを指す。その手の親指と人差し指が開く。手はゆっくりと顎に近づく。
 まるで鏡映しのように、二人の動作は同一だ。
 私は、僕は、あなたが……。
「……バイバイ」
 顎に近づいた指を急いで下げて、花子は顔を背ける。手話は言葉にならず、宙に離散した。
 ケンジが慌てて手を伸ばすが、花子はそれを振り払って足早に去った。人波を横切るように素早く。酔っぱらいと酔っぱらいの合間を走り、香水と酒とラーメンの香りが蔓延する北新地の真ん中まで。
 駆け抜けて、顔を上げたそこにはネオン。震えそうな唇をぎゅっと結んで、拳を握り締める。
 北新地の夜は、いやになるほど明るい。


「馬鹿やねえ」
 深夜24時。すっかり化粧の剥げた花子を見て、ラーメン店の親父がため息を付く。
 澄んだスープに細麺を沈めて、チャーシューとネギを載せる。それを花子の前に置いて、心底呆れたように言うのである。
「石川までおいかけて、嫁にして貰い」
「親父、ちがう。ケンジとはそんなんちゃうねん」
 今月もう何度目かになる煮干しのラーメンは、やはり心落ち着く香りだった。鼻を近づけてその香りを堪能する。
 醤油と煮干しの渋みのある香り。
 豚骨のように攻撃的でも、濃厚でもない。あんな香りは、たまに感じるくらいでいいのだ。日常は、これくらいあっさりしていなければ、身が持たない。
「北新地の女に惚れたらあかんわ」
「そんなんは、高級クラブで働くようになってから言い」
 ずるずるラーメンをすする花子を見て、親父は苦笑する。そしてカウンター越しに、小さなコップを差し出した。
 覗けばそこに煮卵がころりと転がっている。
 オプションで付ければ1個100円の高級品だ。いつか付けたいと思いつつ、いつも羨望のまなざしで見つめていた卵。別に節約をしているわけではないが、いつも手が出なかった憧れの煮卵。
「卵あげるわ」
「なになに、親父、めずらし」
「おっちゃんもな、女の子が落ち込んでたら慰めるくらいはするんやで」
 花子は卵を静かにスープに沈める。薄く茶色に染まったつるりとした卵は、それだけでラーメンを幸せにする。
 ありがとう。花子は親父に向けて手話でそう語った。親父も、どういたしまして。などと殊勝に返す。
 卵を眺めて突いて、花子はぼんやりと自分の手を見る。言葉ではうまく言えないことも、手話なら、伝えられる。
 そう思うと、安っぽいマニキュアに彩られた自分の指が不思議と愛おしいものに思えてくるのである。
「……私な、もう少し手話勉強しよかな」
「せやせや。それがいい。なんでも、やっておくこと。やらずに損することはあっても、やって損することは、滅多にない」
 親父はそう言いながら、すで顔はテレビに向かっている。もう野球のシーズンも終わったというのに、この店では相変わらず野球が流れていた。
 いつの試合なのだか花子には分からない。ただ阪神が負けて、ベンチへと去って行く。そんな選手の顔が大きく映された。
 呆然とした顔もあれば、寂しげな顔もある。しかし慣れた選手は口元をきゅっと引き締め、力強い目で観客に一礼した。
 ナイター試合独特の白い光が、画面一杯に溢れている。
「ああ。くそ、また負けた」
「録画なんやから、何も負けた時の見んでいいのに」
「それよ」
 親父は煙草をくわえながら、悔しそうに画面を見つめている。動いているのが不思議なほど古い型の小さなテレビ。薄汚れたテレビの中では、勝った巨人のヒーローインタビューが始まっている。
「負けた試合もええもんやで。これはこれで、去り際の美学があるわな」
 悔しそうに言いながら、親父は煙草を噛みしめて煙を吐き出す。
 花子はポーチから小さな鏡を取りだし、赤い口紅を塗った。
 そして唇をきゅっと引き締め、鏡に向かって一礼してみせる。その顔は、力強い。
 野球選手はあのまん丸い球場が戦場だ。ならば、花子の戦場はこの町だ。
「親父、ごちそうさま」
 いつものように軽く手話で挨拶を交わし、500円玉だけ机に置く。
 暖簾をかき分け外に出ると、酔っぱらいが酒とラーメンの香りをまき散らして花子の前を行く。
 その中に、ふんわりと銀杏が香る。
 少しばかり冷えて来た。そろそろ秋も深まるだろう。そうすれば銀杏の香りともおさらばだ。
「……御堂筋、くっさいくっさい」
 呟いた花子の言葉は夜のさざめきに紛れて消える。
 顔を上げれば目の前に広がるのは北新地、花子の戦場。
 花子は薄手のストールを身体に巻き付けて早足に道を行く。
 さあ。今日は帰って力を蓄え、そしてまた明日戦いに行こう。と花子は思った。
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