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1巻

1-2

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「随分と良い出汁だ。精進しょうじんからめっぽう遠いこの場所で、手順を踏んだ飯を作ってやがるとはな……おい爺、醤油しょうゆはどこだ」

 猿は床にある徳利とっくりを嗅ぎ、少しばかり指先に取ってぺろりと舐める。

上方かみがたの醤油ったぁ恐れいるじゃねえか。最近はお上が何かとうるさくっていけねえや。質素倹約しっそけんやく、質素倹約で耳がいてえ。しかしよ、何でもかんでも倹約しちゃあ、うまい飯は食えなくなる」

 猿は笑ってそれを鍋に注ぎ入れた。こんなに良い醤油を使うのは久々だ、と心が跳ねる。

「吉原でも最近は仕出しばっかりで、見世の台所で飯なんざ作りゃしねえ。仕出しだって適当な料理をうるしの台に載っけて、高いぜにをつけやがる。それに比べて、この見世は真っ当だ。良いものを揃えてるじゃねえか」

 まくしたてるような猿の言葉に爺がぽかんと口を開けた。

「てめえ、料理のいろはが分かるのか」
「ああ、鼻は利くほうだ。おい、味醂みりんはどこだ」

 猿は爺から庖丁を奪い取ると、まな板の上でねぎを刻み始める。それを鍋に放り入れたあと、爺の差し出した味醂も鍋に注ぐ。
 爺は悪態あくたいも忘れたように、猿の動きを見つめていた。

「お前が作っているのは……豆腐の汁か」
「焼豆腐吸したじ……っていうのさ。お上品な花魁おいらん様の口にゃ合わねえが、市井の娘は喜んで啜る。本当なら葱は入れねえが、入れたほうが香りがいい……おっと、ここに辛子からしもあるな……こんな寒い日に冷たいもんや油っこいもん食わせる馬鹿がどこにいるんだよ。あったかいもん食わせてやんなきゃ、身が冷えるばっかりじゃねえか」
「ふん。ガキのくせに手がよく動く」
「ったりめえだ」

 熱い火にゆっくり煮立てられ、鍋の中の焼き豆腐が浮かぶ。それを見計らって、猿は豆腐をそっと引き上げた。
 濃い目に仕上げた出汁を、上から注ぐ。さらに焼き目のついた豆腐に、黄色の辛子をちょいっと乗せる。

「慣れてんだよ、こんなことは」

 皿の上に、焦げ目のついた豆腐が温かな湯気をあげた。
 葱の色と辛子の色が、冷えた空気の中で鮮やかに輝いている。


「おい、ここか。白ひょうたんの先生は」

 突然障子を蹴り開けた猿を見て、中の遊女が目を丸くした。
 二階の一室。赤い寝具の上に寝転がった歌の隣で、女が体をかたむけ三味線を弾いている。
 部屋には空っぽの鳥かごが転がされ、その側には友禅ゆうぜんで作られた猫の首輪なども落ちている。猫の毛、犬の毛、何でもありだ。小綺麗な建物には似合わない、雑然とした部屋である。

「おいおい、きたねえな。ちったあ掃除そうじしやがれ」

 固まる二人の間に遠慮なく入り込んだ猿は、無言のまま歌の腕を引いた。

「飯を持ってきた、食え」

 猿は手にした大きな皿をぐいと押しつける。台所から運んできたばかりのそれは、まだ柔らかな湯気をあげていた。

「なによぅ。歌さんは食べないって……」
「冷え込んで腹の具合も整わねえうちに、天ぷらや鯉の洗いを食わせる間抜けがあるか」

 猿が掴んだ歌の腕は、恐ろしく冷えている。
 細く、白い。今にも折れそうだ。
 この手で絵を描くなど、不思議なことだと猿は思う。筆を握ることさえ難しそうなほど、細く弱々しいのだ。

「冷えてんだろ? ほら、食ってみろ、温まるから」

 そんな歌の手に、皿を無理矢理持たせる。
 彼は目を細くして、猿を見上げた。先ほど自分が拾ったことすら忘れたような顔つきである。
 それに腹が立ち、猿は箸を歌の手に握らせた。

「食え。いいから。とにかく、一口だけまず食ってみろ」
「猿が作ったのかい」
「そうだ」

 歌さんは食べない、と、遊女はきいきい叫ぶが、それを足で押しのけて猿は歌の隣を陣取る。
 そしてじっと彼の顔を見つめた。

「食え」
「豆腐かい」
「豆腐だ。毒なんざ入っちゃねえよ。あったけえだけの豆腐だ」

 歌はしばし皿の中のものを見つめていたが、やがておそるおそる箸を手に取る。
 豆腐をひとかけ、そうっと箸の先でつまみ上げた。そして出汁をひと啜り。
 しゃり、と葱を噛む音が静かな部屋に響いた。
 朝の淡い光の中、消し忘れた行灯あんどんが湯気の向こうで揺れている。

「……ああ、あったかいねえ」
「あら……」

 彼の白いのどが、かすかに上下した。

「……食わせてやりたいもんだ」

 歌が、ため息のようにそう呟いた。小さなその声は、猿にしか聞こえなかっただろう。
 彼は言葉をごまかすように、豆腐を吸い込み、噛んで飲み込む。そして出汁まできれいに飲み干した。
 ぺろりと、赤い舌が唇を舐め上げる。

「……猿」
「おうよ」
「お前、料理ができるのだね。どこで覚えた」
「吉原で」

 そして猿は胸を張った。

「あたしの親父が、吉原の料理人だ」
「ふん、十分だ」

 歌は薄く笑って、床に落ちていた筆を取る。
 先ほどよりも、指先の血色がいい。
 彼はきょうが乗ったように、紙を手に取りさらりと筆を走らせる。
 さらり、さらり、描かれていくのは美しい女だ。
 彼の視線の先にあるのは空いた皿と一輪の梅の花だけ。それを眺めながら、彼は美しい女を描く。

「何も見ずに、よく描けるもんだな」
「見えてるのさ……あたしにはね」

 意味深に呟き、彼は筆を何度も動かす。

「しかし、いつもよりは見えにくい……おやおや、猿を怖がっているのかい……?」

 紙の上に描かれる女は遊女でもなければ、猿の顔でもない。美しいが、鬼気迫る痩せた女である。
 歌は筆を滑らせる手を止め、じっと猿を見つめた。

「不思議な娘だね」

 先ほどまでの人を小馬鹿にした目ではない。安堵あんどしたような、そんな不思議な表情だ。

「……猿。お前さん、行く当ては?」
「ない」

 歌の筆先をぽかんと見つめたまま、猿は呟く。

「……絵、うめえもんだな」
「では猿、ここに住めばいい。そしてあたしの飯を作るんだ」

 歌は手早く一枚の女を描き終えると、それを猿の手の上に置いた。

「それで泊まり賃は、あたしが払ってやろう……あと、絵も時々描いてあげようね。あたしの絵は売ると良い金になるらしい」
「ああ。もう、また歌さんの悪いくせだ」

 女が呆れるように呟いて、指先で三味線を弾く。
 ほろりと弾かれたその音は、柔らかい音色となって妓楼の中に響き渡った。
 そして、外ではまた白い雪が降る。

(今日は雪に豆腐に歌の皮膚ひふに……白いものばっかりだ)

 猿は窓の向こうに見える白い雪を眺める。

(一度は死んだと思ったが……)

 積もる雪、三味線の音に出汁の香り……猿は自分の手をじっと見つめる。久しぶりに握った庖丁ほうちょうは、心地よいほど指に馴染なじんだ。

(もう二度と、庖丁を握れねぇと思っていたが)

 俯く猿の背を、歌が軽く叩いた。

「だからお前さんも、もう少し生きてみな」

 まだ墨色に輝く絵を見つめ、猿は不意に胸の痛みを覚えた。




芋粥いもがゆ


 どこかで気の早い桜が咲いた、と噂に聞いた。
 しかし可哀想なことに、寒気かんきにやられてすぐに散ったという。
 つい先日、早春の緩みで暖かい日差しがあった。早咲きの桜はそれにだまされて花を開き、余寒よかんに当てられて散ったのだろう。花の命は短いというのに哀れなことだ。
 早春の花は、若い娘に似ている。
 若い娘も偽りの暖かさに騙されて花を開き、そして哀れに散っていく。
 憎いことだ、と、また降り始めた早春の雪を眺めて善治郎ぜんじろうはそう思った。


「歌の朝餉と、婆さんの昼飯。それとぜんじろの飯に……」

 鍋の様子を覗き見ながら、猿がいそがしげに駆け回っていた。

「メザシを焼いて、汁を作って……おおっと、ぬかけも出さねぇと」
「おお。旨そうだ、旨そうだ」

 善治郎は猿の背後、土間に置かれた桶に腰を下ろしてわざとらしく鼻を鳴らす。

「メザシを焦がすなよ。ほれ、汁が沸くぞ、煮詰まっちまうぞ、急げ急げ、猿……」

 手拍子てびょうしをして茶化す善治郎の声を受け、猿が細い目をつり上げた。

「おい爺、すっかりご隠居いんきょかよ、良い身分だな」
「俺ぁてめえに台所を盗まれたんだ。年寄りはおとなしくしておくよ」

 善治郎は冷たい指先をすり合わせながら、息を吹きかける。

「あったけえ日が続いたあとに急に冷え込むと、体にこたえらあな。どうも腰も足も痛くって、台所仕事が辛くてたまらねえよ」

 そして、細めた目の向こうに猿の姿を見る。
 朝日を浴びる彼女の姿と艶やかな格子の窓は、いかにも不釣り合いだった。
 ……善治郎が住むのは深川の花街。
 大黒と呼ばれる街の一角、「たつみ屋」という妓楼で厨房を任されて、すでに五年は経とうとしていた。
 花街であるこの街には、綺麗な娘が百花繚乱ひゃっかりょうらんのごとく咲き乱れている。
 その中にあって、猿だけは異質だ。
 着飾る気がないのか、地味な格子柄の着物に、古びた前かけを着け、髪は結い上げただけ。飾りも付けない。その髪もひどく固そうで、年頃の娘には見えなかった。
 袖を捲り上げているせいで、丸太のような腕が丸見えだ。そんな格好で鍋の様子を覗く姿は大きな猿にも見えるのだ。

(しかし、悪い娘じゃなさそうだ)

 と、善治郎は指をすり合わせながら娘を見る。

「そういや聞きてえことがあるんだ、ぜんじろ」
「なんでえ、珍しくしおらしいじゃねえか」
「歌の悪い癖ってのはなんだい」
「悪い癖ねえ……」

 伸びかけたひげを弄りながら、善治郎は呟く。

勿体もったいぶるんじゃねえよ。みぃんな言ってらあ、歌のやつにゃ、悪い癖があるってな。老い先みじけえ爺なんだ。今更出し惜しみしてんじゃねえよ」
「ふん……そうさな。歌さんは面白がって、いろんなものを拾ってくるんだよ。猫や犬やネズミ」
「ああ……あの鳥かごや猫の首輪はそういうことかい。飽きて捨てたか、逃げ出したか……」
「それだけじゃねえ」

 気難しそうに眉根を寄せる猿を見て、善治郎は笑いをこらえた。にやけ面を抑えるように、髭をでさする。

「……猿まで拾ってきやがった」

 視界の向こうで、猿が太い眉をぎりりと上げた。


 この猿がたつみ屋に現れてから、もう十日になろうとしている。
 彼女に名前を聞いても本名を明かさない。過去についても語らない。口を開けば悪態だ。罵倒ばとうたぐいは百も知っているくせに、生い立ちなどを聞けば途端、貝のごとく口を閉ざす。
 ただ、不思議と料理だけはうまい。仕込まれた動きだ。本人曰く、吉原の料理人だった父に仕込まれ料理番を継いだ、とのことである。
 女の料理番なんぞ聞いたこともないが、動きを見ている限りうそではなさそうだ。
 彼女は吉原から逃げて来たという。恐らくまずいことをして逃げて来たのだろうが、吉原に悪感情を抱く深川の女たちは理由も聞かず拍手喝采はくしゅかっさいでこの娘を受け入れた。
 そもそも、困った鳥が飛び込んでくれば守ってやるのが深川の気質である。それが料理のうまい鳥であれば、喜びこそすれ追い出すような真似は誰もしない。
 そうしてちゃっかり、娘はこの見世に落ち着いてしまった。
 厨房担当を奪われた善治郎といえば、すっかり楽隠居である。


「ふん。あたしは拾われたんじゃねえ。歌が飯を食わねえから、仕方なくここにいてやるだけだ」

 猿は口が悪い。娘とは思えない口調で善治郎を睨むと、鍋の蓋を取って混ぜ始める。
 口の悪さに反して、手の動きは繊細せんさいだった。味付けも庖丁さばきも善治郎が舌を巻くほど上手にこなす。

「あら、いい匂い」
「ああ。嬢ちゃん、猿をどうにかしてくれよ」

 台所を遊女の一人が覗いた。優しそうな顔をした娘だ。
 台所は入り口すぐ横にあるので、客を見送った遊女らは必ずここを覗いていくのである。

「猿め、俺の台所を取りやがった」

 善治郎が声をかけると、遊女は目を丸くして猿を見た。
 彼女がまとうのは、深川遊女の証でもある男の羽織。その襟から覗く空気には、吉原にはない引き締まった甘さが香る。

「なあに猿。あんた最近毎日料理してるのね。美味しいって噂よう。ああ、いい匂い。おなかが空いた」

 女は羽織の袖で口を隠して楽しそうに笑った。

「芋を煮てんだよ。食いてえなら、昼頃に部屋に届けてやるよ」
「あら、うれし」
「だから、とっとと布団に入って寝てな。朝に休まねえと、昼からの仕事に差し支えるぜ」

 甘い香りをまき散らしているのは、里芋の煮付けである。
 小汚い土にまみれた芋だが、皮を剥けば雪のごとき白肌となる。猿は今朝、そんな芋をどこからか仕入れてきた。

「てめえ、猿。すっかり棒手振りとも仲良しになってやがるな。俺より先にいい野菜を仕入れてきやがる」

 善治郎は火鉢に手をかざしながら口を尖らせた。この娘には不思議な魅力があるらしい。口の悪さも愛嬌あいきょうの一つなのか、気難しい行商人……棒手振りも猿相手にはいい野菜を売るのである。
 仕入れたばかりの芋は鍋の中で甘辛く、照りのある茶色に煮付けられていた。その切り方も、悔しいがなかなかにうまい。

「猿め。庖丁だけでなく、煮炊きにまで手を出しやがる」
「あらでも親父さん、嬉しいんじゃないの。最近は足腰が痛いから台所仕事が億劫おっくうだって、そう言ってたくせに」

 女はきゃらきゃらと笑い声をあげて去っていく。

「全く……ここの見世の娘どもは遣手に似て口が悪い」

 それを見送り、善治郎はため息をついて立ち上がった。
 格子の窓から外を見れば、ちらりと雪が降っている。
 床に投げ捨てておいた半纏はんてんを掴んで笠をとり、善治郎は温めた酒を竹の筒に流し込んで蓋をした。
 重い足を引きずって、善治郎は暖かな火鉢に背を向ける。

「おい、猿。俺はちょっくら出かけるがな、火だけはきちっと見とけよ。火事なんざ出してみろ、承知しねえからな」

 そして善治郎は見世の外に出た。身を切るような風が、善治郎の顔を殴りつける。


 善治郎は、雪を踏み抜く音を聞きながら一歩、また一歩と歩き続けた。
 浅葱色の暖簾を越えて見世の外に出れば、雪の中を顔馴染みの遊女たちが遊んでいる。
 時刻は明け六ツを過ぎた頃。昼に見世が開くまで、遊女たちのしばしの休息だ。皆、辛いこともあるだろうが無邪気に雪で遊ぶ様は、そのあたりの娘たちと変わらない。

(元気なこった)

 善治郎は娘たちに手を振り振り、雪の道を行く。
 たつみ屋があるこの花街『大黒』は、永代橋を降りてすぐ。船宿の奥に隠れるように存在する。
 小さな茶屋と妓楼などがぽつりぽつりと点在するだけで、八幡宮の門前にある岡場所ほどの賑わいはない。寂れているので客も少ないが、だからこそ門番なんぞも一人で良い。
 いくつかの茶屋と妓楼の建物を越え、小さな木戸があるあたりがこの街の終点だ。
 図体の大きな門番に挨拶をして、善治郎は木戸をくぐる。吉原と違って大門もなければ、見張り小屋などもない。遊女の足抜けなども、ここに限ってはほとんどない。
 ここで働く娘たちは、年増としまか借金持ちかたかあがり。身請みうけをされて所帯を持つかここで死ぬか、それ以外に行く先のない娘たちばかりなのだ。
 善治郎は腰を曲げたまま冷えた手をさすりつつ、誰もいない道を歩く。
 岡場所を出て小さな橋を越え、まだ先に進めば、八幡宮が見えてくる。鳥居を横目にさらに進むと、そこに不動堂があった。
 春には花見で賑わうが、寒い季節には人の姿は一人もない。坊主でさえももっているのか、袈裟けさの色も見えなかった。
 見えるのはただ一面の雪だ。真っ白な雪だけだ。
 不動堂を越え、さらに少し先に進めばそこは昼なお暗い森となっている。
 花が咲いているのかと木を眺めるが、それは枝についた丸い氷なのである。氷の周りに雪が化粧をほどこして、小さな花びらに見えた。
 ひどく冷える如月きさらぎの空だ。曇り空からみぞれ混じりの雪が降る。
 善治郎の娘が死んだのも、こんな寒い日のことだった。


「今年もきたぜ」

 木陰に腰を下ろし、善治郎は曇り空を見上げる。冷える体を気にもせず、善治郎は酒筒の蓋を開けた。ここまでの道のりですっかり冷めた酒は、湯気一つ上がらない。
 しかし平然と、その酒を口に含む。
 彼が見上げるのは大きな枝振りの木だ。けやきか、えのきか。昔からここに立つ巨木である。
 地面からむき出しになった根を撫でて、善治郎は呟く。

「まあ心配すんな。俺が生きてる間は毎年きてやらあな」

 酒を口に含んでも、味がしない。唇が震えて、口の端から酒がれた。その酒が腕を濡らす。濡れた先がひどく冷えた。
 今年も寒い冬である。

「……何もこんな寒い日に死ななくても良いもんだがな。つくづく、てめえは親不孝もんだよ」

 酒を飲み込んで、善治郎は木を見上げる。

(……馬鹿な娘だ)

 枝振りが一番太い、その立派な場所で数年前、娘はった。

(気づかなかった俺も馬鹿だ)

 もちろん、今はそこには何もない。太い枝には縄の跡さえ見えない。しかし目を閉じれば浮かんでくるのである。
 数年前、そこに一張羅いっちょうらの着物をまとった娘がぶら下がっていた。
 まるで早咲きの桜が哀れに散るような姿で、早春の風に薄い桃色の着物が揺れていたのを覚えている。


「――おい。くそ爺」

 目を閉じていたのか、眠ってしまっていたのか。
 気がつけば顔の半分が凍るように痛い。腕をいやというほどに引っ張られて善治郎は、はっと目を開けた。

「……な」
「行き倒れんのが好きだってんなら止めやしねえが、風邪を引きたくねえなら、あたしの肩に掴まんな」
「おま……え」

 すぐ目の前に色の黒い娘がいる。太い腕が善治郎の腕を掴むと、軽々体が浮かぶ。
 驚いて腕を払うが、情けないことにそのまま雪の中に尻餅をついてしまった。
 体にはうっすらと雪が積もり、指先は赤い。どれくらいここで眠り込んでいたものか。竹筒は雪に転がり、すっかり冷え込んで体が強張こわばっている。

「さ、さる……な、なにしにきた」
「帰りが遅えから、迎えに来た。ほれ、酒だ。てめえのは冷えてるだろ、こっちを飲みな」

 善治郎を引っ張り起こしたのは猿だ。
 彼女はここまで駆けてきたのか、鼻先を赤く染めて鼻水を啜り上げている。

「なんで分かった、この場所が」
「遣手に聞いた。毎年てめえがここに来るってな」

 猿から押しつけられた酒はまだ温かい。受け取ると指先が痺れ、口にするとその熱さに体が震えた。
 酒を飲み込めば、舌の上で杉の木がかすかに香る。
 これは上方の下り酒だ。杉の木樽きだるに詰めて船に揺られてくるので、香りがつくのだ。酒としては一級品である。
 この当たりの柔らかさは伏見ふしみの酒だろう。女酒と呼ばれるその酒は、温めるとなお優しい味わいになる。

「雪まろげのつもりか、爺。ひどく冷えてやがる」

 猿は善治郎の半纏についた雪を払う。そしてふと、彼女は目前の木を見上げて目を細めた。

「……ここで何があった」

 勘の鋭い娘である。善治郎は酒を口に含み、残った酒を木の根に注ぐ。

「娘が死んだ」
「命日かい」

 猿はじっと木を見上げると、まるでそこに娘がいるかのように手を合わせる。
 繊細なその動きを眺めながら、善治郎は口を滑らせた。

「俺ぁ、こう見えても昔は侍だ。女房も娘もあったんだ」

 雪の積もった半纏にあごまで埋まって、善治郎は冷えた鼻を鳴らす。
 昔も昔、思い出すのも気恥ずかしいほどに昔、善治郎はとある地方大名の江戸屋敷に仕える料理番であった。料理番であっても侍を名乗れた時代である。
 めとった妻は凋落ちょうらくした武家の娘だった。美しく優しい妻だった。夫婦仲は周囲がうらやむほどで、すぐに娘も生まれた。順風満帆じゅんぷうまんぱん、幸せな日々であった。
 しかしそんな些細な幸せは、たった七年ほどで消え失せる。

「気がつきゃお家取り潰しで俺も浪人だ。周囲に頭をさげりゃいいものを、片意地張ってこのざまよ……女房は、そのあとすぐに死んだ」

 妻は娘が七つの年に逝った。苦労ばかりかけさせた妻である。謝る機会もなく、彼女は善治郎の前から姿を消した。
 残された娘は、甲斐性かいしょうのない父親のことを、とと様とと様と愛らしく呼んで世話を焼く。
 娘は亡き妻に似たのだろう。心根の優しい、丸顔の愛らしい娘であった。

「こんな親父を持ったのが運のつきさ。それでも、あの子は真っ当に育ったんだぜ……年頃になるまでな。ただ、年頃になって男に騙されてよ」

 娘に男ができたことなど、善治郎はとうに気がついていた。
 口を出すべきかどうかさんざん迷って、娘に任せた。それがいけなかった。


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