袖振り縁に多生の理

みお

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【名月】

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 空気が急に冷え込み、吹きつける風が鋭さを増す。

 源五郎は着物の襟を押さえ、通りを歩く人々を見る。皆、どこか薄ら寒そうに、背を丸め歩いている。

 変わる季節を肌に感じるそんな秋の頃、源五郎の元に一つの荷物が届けられた。



 荷を届けに来た男は、名乗らなかった。ただ目つきの鋭い男だ。

 強く雨の降り付ける深夜、彼は周囲を気にするように長屋の戸を叩く。飛脚の成りだが、そうではないだろう。頬に深い傷がある。堅気の男ではあるまい。

 顔を見られるのを厭うように源五郎の名を確かめると、荷を押しつけ背を向けた。

 銀次に頼まれた。と最後、男は囁くようにいう。鋭いばかりの目に哀れむ色が浮かんだことを、源五郎は見逃さない。

 声を掛ける間もなく、男は駆け出した。白霧のような雨の中に男の背が消える。それだけだ。全ての痕跡を消して男は去った。

 源五郎は荷を抱えたまましばし周囲を探り、戸をしっかりと閉める。受け取った荷は、軽い。

「……」

 眠るお袖に気付かれないように、そっと包みを解く。手紙などはない。ただ包みの内側に、一文字、走り書きがされている。

 毒

 それはそう読めた。銀次の文字だ。それを見て、源五郎は震える。

 慌てて中を改めればそこには見覚えのある、お召しこじり。行灯の下、眺めてみれば木の刀には古い血がべっとりと付けられている。

 確かにこれは主の血の付いた、お召しこじり。夏の頃、銀次が持って箱根を越えたはずのものである。なぜここにあるのか。なぜ届けられたのか。考えてみるまでもない。

「……銀次」

 名を呼ぶと声が情けないほど震えた。すぐそばで、お袖が無邪気に寝返りを打つ。その肩に着物をかけてやりながら、源五郎の口内に血の味が滲んだ。

 気がつけば、唇が裂けるほど強く噛みしめている。



 今宵は中秋の名月なのだ。と、言い出したのはお袖か、それとも轆轤か。

 そういえば今日は日が暮れる前から長屋が妙に騒がしかった。美しい月が上がるのだという。秋の月は格別であるなどという。

「ね。だから。ね? 源さん」

 轆轤が赤い唇をぼってりと膨らませ、強請るように源五郎の膝を突いた。

 頼まれた書き物のため、机に向かっていた源五郎は小さく首を振る。

「俺は」

「行かないなんて言っちゃいやぁよ。最近、源さんの様子がおかしくって、お袖ちゃんと心配してるんだから」

 最近、轆轤は花街から抜け出しては源五郎の家に入り浸りだ。置屋の女主なので、ある程度の自由は利くという。

 彼女はお袖と揃いの着物を着て、源五郎の前で楽しげに舞う。白い首が、行灯の火でぬめりと光っていた。

 外はもう、暗いのだ。

「近くの川に新しい橋が架かったでしょう。そこがね、お月見に良いといって皆そこに集まってンのよ」 

「げんご」

 二人の纏う揃いの着物はススキに兎に月見の団子。紺の帯には灰色の雲がかかり、帯から垂れた根付けの先には黄色い丸い玉。揺れるたび、まるで月が揺れるようであった。

「……いきたいか、お袖」

「うん」

 轆轤の後ろに隠れながらも、遠慮がちにお袖は頷く。切りそろえた黒の髪が、彼女の白い膚に影を落とす。

 それを見て、源五郎は筆を置いた。

「行こう」

「もう。そうやって、源さんは。やっぱりお袖ちゃんに甘い」

 口を尖らせる轆轤に構わず外へ出ると、なるほど天には黄色の月が浮かんでいる。

 綺麗な円を描いた、巨大な月だ。すっかり夜が更けても明るいのは、月の輝きのせいだろうか。

 通りを行く人々は皆、天を見上げている。いつもより動きが緩やかだ。その中で顔を俯けているのは源五郎くらいだろう。源五郎の目には、大地に映る影が見えている。

 それは夏の日、稲荷で銀次を見送ったあの時の影に似ている。

 ……何故、一人で行かせたのか。何があったのか。調べても屋敷は固く門を閉ざしたまま、内部は探りようもない。焦るだけ、時が無駄に過ぎていく。

「……ご」

 焦燥感と、ともすれば自棄になってしまいそうな衝動が日に日に、押さえられなくなっている。

(……しかし)

 源五郎は思う。

(命が惜しいわけではない。ただ俺には……)

「げんご」

 つい。と袖をひかれ、源五郎はたたらを踏んだ。

 後ろから付いて歩くお袖が袖を引いたのである。月明かりの元で見ると彼女の目は、どこか赤く見えた。

「げんご、あのひと」

 お袖が源五郎の背に隠れ、指をさす。人の溢れる橋のたもと。そこに、見覚えのある男が一人。

「アァよかった、源五郎さん、今からお宅へお伺いしようと思っていたのです」

 伊勢屋である。彼は源五郎を見るなり、心底安堵したようにため息を付いた。

「……屋敷になにか」

 大殿のことか。と源五郎は身を堅くする。が、伊勢屋は困ったように眉を寄せている。

「お嬢さん方は、少しあちらを向いておいでなさい」

 彼は源五郎を手招くと木の影に呼び寄せる。彼の持つ風呂敷は、大きい。

 重そうに何度も抱え治すそこからは、かすかな腐臭を感じた。

「荷が、何か」

「ええ。今日の昼過ぎ、屋敷にある物が届いたそうで……私はその処分を頼まれたのです。ええ、屋敷ではどうにも置いておけないと言いますし、番所へ届ければよいと思ったのですがそれも困ると言われ……私が預かってきたのですが」

 伊勢屋は困ったように眉を寄せ、その荷をそっと解く。

 腐臭が強まった。

 幾重もの油紙に包まれた長細いそれは、人の腕なのである。肩口で切り落とされた人の腕なのである。中を改めるまでもない。精悍に焼けたその腕に、源五郎は見覚えがある。

(……銀次)

 心の中で名を呼ぶ。名を呼べば、その確信は強まった。

 夏の稲荷で別れたきりの、あの男の腕に相違ない。

 源五郎の顔色に気付いたのか、伊勢屋は急ぎ、風呂敷に包み直した。

「屋敷に異変があればすぐにお知らせするというお約束でしたので……源五郎さんは、この腕の持ち主に見覚えがあるのでしょうか」

 雲が流れて月が隠れる。二人の間に、影が落ちた。観月に集まった酔客が、文句を飛ばす声が響く。

 辺りの騒がしさに反し、源五郎の口はかたい。

「これに、木でできた刀も一緒に届いたそうです。私はそちらは見ておりませんが」

「刀?」

「ええ。それは、お屋敷に留めおかれ、こちらの荷のみ、どこかに棄ててこいとのご無理なご命令……おや、源五郎さん、顔色が少し……?」

 雲が晴れた。光に晒された源五郎を見て、伊勢屋が案ずるように言う。

 しかし構わず、源五郎の足はすでに長屋へ向かいかけていた。

「少し思い出したことがある。伊勢屋、しばしここに居られるか」

「……ええ」

 月がまた曇った。今日は雲の多い日である。薄暗がりに包まれた伊勢屋の顔は、よくみれば影が深い、微笑む口元が薄く開く。

「お待ちしております」

「……駄目」

 そんな源五郎の袖を握ったのは、お袖だ。彼女は必死に源五郎の袖を引き続ける。

「げんご、こわい顔、いっちゃ、だめ」

 厭な予感がする。と、お袖は訴える。厭な予感など、源五郎の胸を叩き続けている。それは昨夜から、まるで早鐘のようにいつまでも煩く鳴り続けている。

「すまん、お袖」

 抱き上げて一度、強く抱きしめる。泣き出しそうなお袖を轆轤の腕に押しつけて、源五郎はまるで飛ぶように、駆けた。



 厭な予感ほど、的中するものである。

 長屋に辿り着き、戸を開けた途端に源五郎の顔が曇った。

「……やられたか」

 締めておいたはずの戸が開いている。中を覗けば机の上の紙も筆も、着物も散乱している。嵐が室内を駆け巡ったようである。

 お袖が大切にしていた人形は踏みつけられ、首が半分取れている。

 しかし源五郎は急ぎ戸を閉めると、土間の隙間に手を伸ばす。

「……ある」

 引き出してみれば、布に包まれたお召しこじりがそこにある。震える手で布をめくり、中を見る。血の付き方も、飾りも、全て記憶にあるものだ。本物がここにある。

 安堵すると同時に、また厭な予感が胸を突いた。

「……では、何が屋敷に届いた」

 これは、罠か。

 ふと源五郎の直感が告げる。同時に、潰れた目の側で、何かが蠢く気配がする。

「……!」

 避けられたのは奇跡であり、ほぼ勘であった。突き出された小刀が、源五郎の腕を貫きそこねて宙に揺らめく。窓から差し込んだ月光を浴びて刀身が輝く。

「誰だ!」

 刀を突き出したのは巨大な影だ。源五郎はお召しこじりを抱えたまま、身をそらす。狭い土間では源五郎の持つ刀は何の役にもたたない。外へ飛び出そうとするも、足をすくわれた。

「……っ」

 動きの速さが素人ではない。腕をふさがれ、腹を殴られた。蹲った源五郎の喉に、手がかかる。息が詰まる。

 動きに一寸の無駄もない。声もない。さらに敵は、源五郎の視界に入らない、片目で追いかけるもその場所を執拗に移動する。

「だ……誰だ」

 抵抗するも、呆気ないほど素早くお召しこじりが奪われた。追いかけようと立ち上がるが、すぐに足が崩れる。月光の眩しさに当てられたのかと、そう思った。

 しかし、そうではない。膝に、小刀が刺さっている。



「なぁに、源さん。何か、盗られたの?」

 地面に蹲り、咳き込む源五郎に声をかけたのは轆轤である。

 顔を上げると、月の根付けが目の前で揺れていた。

 一瞬気でも失っていたのかもしれない。痛みが今更のように脳天まで貫いた。

「轆轤……お袖は」

「また、お袖ちゃんのことばかり……大丈夫よぅ。大家さんに預けてきたから」

 轆轤はひざまずくと、源五郎の傷を優しく撫でた。白い指に血がねっとりと絡み、彼女はどこか恍惚と言うのである。

「アァ、可哀想に源さん、こんな怪我をして……ねぇ。源さん、何か盗られたんでしょう? 今日の夕方、土間に隠していたあの小さなもの?」

「……見ていたのか」

「見えるのよ、妖怪はなんでも。隠し事はできないの。この家にあるものが一つ減っても、分かるのよ」

「妖怪だからか」

「やぁね、それは違う。源さんを好きだからよ」

 くすくすと、鈴が転がるように彼女は笑う。懐から取り出した軟膏をたっぷり傷に塗り込み、布をあてがうと轆轤は立ち上がった。

 指に付いた血を愛おしげに眺めて彼女は笑うのだ。

「取り返してきてあげる」

「できるのか」

「その代わり、ひとつ頼み事をきいて頂戴ね」

 ぬ。と白い首が伸びる。月光に晒された目はやはり、燃えるような赤に見えた。



「ごめんよ。源五郎さん。普段は誰かしら長屋にいるのに、今日に限っては、うちの婆さんまで張り切って月見に出ちまったせいで、空き巣に狙われるようなことに」

 荒れた部屋を見て、肩を落としたのは大家である。

 轆轤に聞いたと言って、駆け込むなり彼女は泣きそうな声をあげた。

 見れば長屋に住む男も女も、わいわいと源五郎の部屋を覗き込んでいる。血気盛んな若い男は犯人を捜すといって大騒ぎだ。揃いの半纏などを纏って、捕り物騒ぎに喧しい。

「酷い空き巣だ。なにもこんな長屋を狙わなくても……貧乏長屋で盗るものもあるまいと、気を抜いたらこのザマだよ。可哀想に、怪我までして」

「……俺こそ、自慢げに刀を腰に下げておきながらこんな体たらく」

 足を引きずる源五郎を見てお袖が悲鳴を上げる。続いて、地面に転がる壊れた人形をみてお袖は耐えきれなくなったのか号泣した。

「お袖」

 源五郎は震える少女の肩を抱く。お袖は源五郎の袖に顔を埋めて泣いた。

「大丈夫だ、お袖」

「何か盗られたかい。困りごとがあればすぐ言うんだよ」

「いや、大丈夫だ……それより、すまない。このような騒ぎを」

「馬鹿なことをお言いじゃない!」

 大家が源五郎の肩を強く掴む。厳しい顔付きだが情は深い。太った指が、ぎりりと源五郎の肩に食い込んだ。

「一度引き受けたんだ。あんたを守るのが私の仕事だ。おふざけじゃないよ。そんな他人行儀な」

「げんご、いじめないで」

 割って入ったのはお袖。人形を抱えたまま今にも泣きそうな顔で大家の手を必死に叩く。

「いじめないで」

「お袖ちゃん、ごめんよ。源五郎さんを虐めてるわけじゃあないんだ。そのお人形は、私が縫い直してあげるからこちらにお寄越しよ。いや、ちょっとうちにおいでよ、こんなに小さな子に見せていいもんじゃない」

 大家がそういうと、お袖の顔がぱっと華やいだ。が、申し訳なさそうに再び俯く。

「やだ。げんごのそばにいる」

「お袖、俺は大丈夫だ。行ってきなさい」

 お袖は幾度も源五郎を振り返りつつ、外へ出た。残されたのは荒れた部屋と源五郎だけだ。

(……さて)

 怪我は不思議と痛まない。傷が浅いせいもあるし、轆轤の軟膏のおかげもあるだろう。

 源五郎は土間の隙間を睨み、考える。

 深夜に届いたお召しこじり、屋敷に届いた銀次の腕。そして同じく届いたというお召しこじり。どちらが本物で偽物か。

(違う)

 源五郎は親指を強く噛む。どれほど考えてもしっくりとこない。

 お召しこじりはこの世に二本とない。本物を源五郎は三度見た。それはまだ主が生きていたころ、二度目は夏の稲荷、三度目はこの家で。

 見間違えるはずもない。届いたものこそ、本物のお召しこじりだ。ならば、屋敷に届いたというお召しこじりは偽物だ。いや、届くはずがない。

 無いものは、届かない。

(泳がされた)

 いかないで。と泣きそうに言うお袖の声が今更ながら蘇る。その側で、笑う伊勢屋の顔もまた。

(……仕組まれたか)

 気が抜けたように、源五郎は長い息を吐く。

 敵の目的は源五郎がどこにお召しこじりを隠したのか、ということだ。そのために、泳がされた。

(伊勢屋も……そうか)

 焦りが目を曇らせた。悔やんでも、仕方が無い。

 しかし分からないのは、なぜ今になってお召しこじりが必要になったのか。しかしそればかりは、いくら考えても答えが出ない。何か動きがあったのだ。ここ、10ヶ月近く沈黙を守っていた屋敷に。

 殺されなかったのは、殺す価値もないと思われたか。たかが下っ端、たかが侍のなり損ない。目を潰された時も、殺す価値もないと吐き捨てられた。

 その時のことを思い出し、源五郎の片目がうずいた。

「源さあん」

 月光が真っ直ぐに伸びる。は。と顔を上げれば、玄関が開いたのだ。そこに、轆轤が立っている。逆光となっても分かるほど、その顔は満面の笑みである。

「なあに。泣きそうな顔」

「……主のため、殺されることもできない我が身が情けない」

「人間って面白い。あたしなら、生きていけるほうが、いくらもいいとおもうけど」

 彼女は子供の背ほどもある大きなススキを握っていた。それが、まるで狐の尾のように揺れるのだ。

 戯けるようにそれを振り、舞妓のように踊ってみせる。

「どぉ? なかなかでしょ。河原に生えていたのを、取ってきたのよぅ」

 立派なススキは黄金色。なるほどそれは月によく映える。

 その合間に、握り隠されているものがある。轆轤はゆっくりと、それを源五郎の前に差し出した。

「……そうそう、これでしょ」

「よく……分かったな」

 彼女が差し出すのは、血の付いたお召しこじり。手にすると分かる。これが本物だ。大切に胸に抱くと、そこに主が息づいているような気がした。

「匂いが付くのよ。この家にあったものは、全て。あたしの匂いがね……なんて、嘘。妖怪の匂いが付くのよ」

「盗った男は」

「さ? 河原でうろうろしてたから」

 轆轤がにぃ、と笑う。ふっくらと膨らんだ赤い唇から、赤い舌。

 さて、ここまで彼女の唇は赤かったか。

「……食べちゃったから、わかんない」

 覗いた舌がちろりと宙を舐める。伸びた首が黄金に染まり、なるほど彼女は妖怪であった。と源五郎はそう思った。



 すっかり夜も更けた。月見と空き巣事件の興奮で賑わっていた長屋も深夜になると、途端に鎮まった。

 今はただ、風の音だけが賑やかだ。

「お願いごとっていうのはね……」

 そう源五郎に耳打ちした轆轤が、誘いだしたのは長屋の裏庭。開かれたそこにはすでに、大きく布が広げられている。そして酒と、団子と小芋の衣かつぎ。

「色々あって、お月見できなかったから。今からお月見しましょ。だぁれもいないの」

 轆轤がまるで少女のような顔で笑うので、源五郎もつられて笑った。

「そうか。妖怪とは、邪気が無い」

「ずるい。袖も」

 泣き疲れて眠っていたはずのお袖が二人の間に割り込むなり、轆轤に向かって睨み付ける。

「あっちいって、轆轤」

「源さん、こっちの妖怪には邪気があるわよ」

 ぷ、と口を膨らませる轆轤だが、やがて飲み始めると手酌酒で頬を赤く染めた。

 お袖は眠気を必死に耐えていたが、やがて抗えなくなったのかゆっくり船をこぎ始める。抱え上げると、源五郎の袖を掴んだまま寝息を立てた。

「月、綺麗ねえ」

 轆轤もまた源五郎の肩に頬を寄せて、楽しげに笑うのだ。

 彼女の手折ったススキの向こうに、丸い月が浮かぶ。今や盛りの月を、たった三人だけで眺めている。

 かすかに血が香るのは、源五郎のせいか轆轤のせいか。

 掴んだ盃に、映る月は右に左に揺れている。 

「……人も妖怪も優しいものだな」

 源五郎は呟きとともに、月の酒を一度に煽った。
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