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【菖蒲】
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空気の中に熱がこもり始めた。通りを歩く人々の装いも、涼しげな絣織の着物に変わりつつある。
日差しはまるで粘るようで、笠を深くかぶった源五郎の顎に汗が一筋垂れ落ちる。
日差しは、すっかり夏のそれだ。
ちょうど、今日は端午の節句。夏の香りが届き始める頃である。
「お。兄さん、風呂がわいてるよ」
白い陽を浴びて歩く源五郎に湯屋の番台が気安く声をかけた。
最初は遠巻きにみられていた源五郎だが、この町に半年近く暮らしたせいだろうか。心安く声をかけてくる人間が増えた。それは嬉しいことでもあったが、同時に切なくもあるのだった。
「今日は菖蒲の湯だ。さっぱりするし、命が延びるよ。入っておいで」
「ああ、あとでな」
男はふくふくと太って、いかにも人の良さそうな顔をしている。源五郎のことを、幼い妹かまだ小さな子をつれた浪人とでも思っているのだろう。手を引かんばかりの勧誘を苦笑いでやり過ごして、源五郎は足早に通りをいく。
見れば商店の軒先には、菖蒲や柏餅などが売られている。なるほど今日は端午の節句である。
時は無為にすぎるのではない。顔を上げればそこには節句があり、人は時の区切り目を無心に楽しんで生きている。
それは源五郎にとって羨ましくもあり、同時に妬ましいことでもあった。
源五郎は俯き気味のまま、素早く稲荷の横道に入る。と、赤い鳥居の隅に男の影がある。
「……銀次」
源五郎は笠で深く顔を隠して、男の隣に滑り込む。
初夏の陽気の日差しが差し込む境内に、歩く人の姿は見えない。
通りを隔てたこの場所はいつも静かで、遠くからぼてふりの声だけが聞こえてくるだけだ。
この場所に、午後の鐘が鳴る頃に。と、銀次からの手紙が届いたのは今朝のこと。
その紙は石に巻き付け、轆轤の店に投げ込まれてあったという。書き殴ったような手癖のある文字は銀次のものだった。
「どうした。突然場所を……銀次」
「急に場所を変えて、驚かせたな。すまねえ」
「おまえ怪我を」
銀次の隣に滑り込むと血の香りがした。それは、銀次から漂っている。肩口が着物ごと斜切りにされ、むき出しとなった腕に赤い筋が見える。
「誰にやられた」
「さあな。伊藤の一派だろうよ。なあに、これくらいのこと」
四角い顔を持ち上げて、彼は呵々と笑う。血の気の多い彼にしてみればこの程度、怪我のうちにも入らないのだ。むろん、源五郎にとっても同じこと。
ただ、問題はここ半年ほど何の動きもなかった屋敷の界隈にかすかな動きが生まれたことである。
今はかすり傷でも、やがてそれは大きな何かにつながる。その可能性は、あるのである。
「俺のことはいい、それよりこれを見せたくてな」
「これは」
銀次が周囲を窺いながら差し出してきたのは、一本の刀である。
いや、刀にみせかけた木の飾り刀である。
木を削っただけの幅広の刀の柄には鮮やかな7色の布や紙の飾り。それを、お召しこじりという。父の手から息子の手へ、節句の祝いに受け渡される縁起のものだ。
源五郎は震える手でそれに触れる。
このお召しこじりは、半年前に亡くなった幼い主、一之介のものではないか。
「これは……いったいこれまで、どこに」
源五郎は覚えている。何年も前、大殿より、これを受け取り笑った一之介の笑顔を。それはただ、父より賜りものを受けて喜ぶ純真たる子の笑顔だった。
しかし源五郎たちは別の意味で嬉しかった。
民間ではただの玩具ともなろう。しかし屋敷をいただく身であればこそ、この刀は跡取りとしての資格を約束をするものである。主は確かに跡取りとして認められたのだ。それを示すものであったはずだ。
「……血が」
懐かしいそれには、黒ずんだ血が一面に張り付いている。それは銀次のものではない。もっと古い。
誰の血などと、聞くまでもない。それをみて、源五郎の胸が締め付けられた。彼ははじめて、主の死につながる証をみた。
「そうだ。若様の」
「血が」
「若様はこれを握って、大殿のところへ向かおうとしていたのだ」
「……」
「打ち捨てられていたこれを、屋敷の中間が拾って隠した。何度も執拗に通う俺を哀れんだか、これをくれてやるからもう来るなと」
それを伊藤の一派がかぎつけたか。と源五郎は思う。
銀次は、進まない探索に焦ったのだ。証拠をつかもうと顔を近づけすぎた。そのせいで、狙われた。
「それで怪我を」
やり返したさ。と銀次はにやりと笑った。確かに気の短い彼のこと、相手も無事ではあるまい。
しかし動きが向こうに知られた以上、江戸にはいられないだろう。
そんな源五郎の心を読むように、銀次が笑った。
「なあ源五郎、今日は別れにきたのだ」
「別れだと」
「俺はこの刀を持って、大殿のところへ向かおうと思う」
大殿がつめている任地は遠く、箱根を越える。間には関所もある。しかし、それへいく。と銀次はいった。
「一度体調を崩した大殿だがを持ち直したと聞く。江戸の噂は届いているようだ。しかし気をつけていただかねば、大殿も危ない」
「関所はどうする」
「関所やぶりはお手のものさ。屋敷にゃばれねえように、うまくやる」
ぬるりと源五郎の顔に汗が流れる。知らず握りしめた手のひらに、爪が食い込む。残された片目が大きく見開かれる。
「俺も」
「おっと、いけねえ。お前は残れ。江戸にいて、動く人間も必要だ。報告の手紙は、お前が宿としている茶屋に届けさせる。なぁ、あの茶屋にいる女……年増だがいい女だな、源五郎」
共に行く、と言いかけた言葉を、銀次がちゃかすように止める。
「しかし」
「それに、お袖ちゃんか。あの子は良い子だ。お前の妹か、それともあの年増に生ませた子か。聞くような野暮はしねえが」
二人の顔には汗が浮かんでいる。暑さのせいだけではない。
はやる源五郎の腕を、銀次が握った。逆の手で、いまや証拠の品となった、お召しこじりを懐に納める。
彼は源五郎を、軽く突き放した。
「なあ、源五郎。今のお前には守るものがあるじゃねえか」
風が吹いた。それは熱をもった風である。
砂埃を浴びても、銀次はあくまでも笑顔を崩さない。
「正直な、死ぬのは俺だけでいいとおもっているんだ。お前は、あの子を守りたいだろう」
「銀次、ふざけているのか」
「そんな顔をするんじゃあねえよ」
じゃあな。と彼は言った。
そしてもう、後ろも見ずに駆け出して行く。藍色の縞の着物は、あっという間に初夏の日差しに飲まれて消えた。
「おや……」
呆然と通りに戻り歩き始めた源五郎はすぐさま、人とぶつかった。
ちょうど見えない目の側である。慌てて顔を上げれば、相手は商人風の男である。
「……失礼」
「あなた、源五郎さんじゃないですか」
名を呼ばれ、思わず右手が腰に伸びたのは、やはり気が張っていたのだろう。よくよく目前の顔を眺めて、源五郎はようやく背をただす。
「ああ、あなたは」
「ずいぶんと人相が変わってしまって、気づきませなんだ」
高級な着物をまとった恰幅のいいこの男を、源五郎は知っている。
着物問屋の大旦那、屋号を伊勢屋といったか。
女を相手にする商売柄か、羽振りがいいはずだが腰は低い。
屋敷でも幾度も見かけた。物が良いのに安いといって、質素倹約にをつとめる武家の女に人気の店なのだと聞く。
彼は商売柄か、人の顔をよく覚えていた。人相がすっかり変わった源五郎を、一目見抜いた。
「お久しぶりですね。あのお屋敷も不幸があったとか、なにやらかしましく……」
「……」
「あなたのお姿もついぞ拝見しませんで、どこへいかれたかと思っておりましたが」
如際なく探りを入れてくるのも、商売柄だろう。しかし彼の顔の奥に、源五郎を案じる色も見える。
「……少し、いいか」
源五郎は彼を通りの隅に誘い、囁く。
「わけがあり、今は屋敷を離れた」
味方が一人、あれば。源五郎の中でその思いが強まる。
一人でいい。屋敷の内情のわかる味方があれば、銀次の助けになる。
銀次は江戸を離れる。しかし、源五郎はなにもできない。死ぬこともまだできない。その矢先にこの男と、出会った。それはありがたい縁である。
「あなたは、まだ屋敷に出入りをしているのか」
「ええ」
「俺は事情があって、屋敷に戻れない身だ。何か変わったことがあれば、教えてほしい。礼はあまりできないが……」
「なにをおっしゃる」
伊勢屋は豪快に笑って首を振った。
「お世話になったあなた様のお役に立てるのであれば、構いませぬが……」
「事情は、まだ……詳しいことは」
「わかりました。ただ私も商人です。利にならないことが起きているのであればすぐに教えてください」
抜け目のない笑顔だが、源五郎の胸の内に安堵が広がる。まだ、動ける。源五郎にもできることがある。
安堵すると同時に、通りのにぎわう物音が耳に滑り込んできた。
幼い子供たちが、長い菖蒲の葉を刀のごとくふりまわしては母にきつく叱られている。
それをみたのか、伊勢屋がなにやら思いついたように手を打った。
「ああ。源五郎さん。久々にお会いしたのだから、せめて手土産でも」
荷をほどき、取り出したのは丁寧に折り畳まれた菖蒲の葉である。
日差しを浴びると、つんと青臭い香りが鼻をくすぐる。
それは先ほど銀次が持ち去った、お召しこじりの形にも似て、源五郎の胸が締め付けられた。
「今日は節句ですから。それと柏餅を。これはなかなかいけます」
続いて荷の奥かた取り出したのは柏餅である。
彼は食道楽と噂に聞く。その噂は嘘ではないのだろう。蕩けそうな笑顔で、餅を広げて源五郎に見せる。
「餡は小豆と味噌です。餅をくるむ柏の葉が表になっているのが小豆で、裏が味噌と。まあ一度食べてご覧なさい。なかなかに旨いものですから」
葉にくるまれたそれは、いかにもうまそうな白い肌を持っていた。手に乗せるとずしりと重い。
「柏餅を食べ、菖蒲湯につかれば命が延びるとも言われております。面倒ならば、菖蒲を樽にでもつけて、手でも顔でもお洗いなさい」
清涼な香りを放つ菖蒲を手にして、源五郎は笑うこともできなかった。
命を捨てに出かけた男の影で、自分は命を延ばす菖蒲を握るのだ。
浅ましいと思うのと同時に、小さな少女の笑顔が浮かぶ。
「源五郎さん」
伊勢屋が困ったように笑いかけた。
「どうしました。ひどくお困りのお顔だ。あなたに珍しい」
いや。と、曖昧に笑って源五郎は餅と菖蒲を腕に抱える。
先ほどまで暑いほどに晴れあがっていた空だというのに、不思議と雲がかかりはじめていた。
空は突然ぐずり初めて、雨がぽつりと垂れてきた。
暑かった空気はとたんに冷えて、町をいく人々は我先にと軒先に飛び込んでいく。
強く吹き付ける直前、源五郎はようやく長屋に飛び込む。と、それを待ちかねたように小さな影が源五郎の体にぶつかってきた。
「げんご」
「遅くなった」
小さな体で源五郎の足下にからみつき、小さな手のひらで必死に源五郎の袖を握る。餅のような丸い頬を真っ赤に染めて、あげた顔は満面の笑みである。
「おかえり、げんご」
袖に顔を隠すように無邪気に遊ぶお袖である。が、不意にまじめな顔をした。
「げんご、怪我をしたの」
「していない」
「血」
「……気のせいだ」
妖怪はするどい。血の香りをすぐにかぎ分ける。いつか本格的にすべてが動き始めたとき、この少女がどのような感情を抱くのだろうと思うと、源五郎の胸にかすかな痛みが走った。
それは、感傷的で身勝手な思いではあったが。
「それより、土産だ」
「げんご。菖蒲?」
「葉で手を切るなよ」
「あ。かしわもち」
懐におさめた土産の数々を、お袖は目を輝かせて見つめる。嬉しげに足をぱたぱた動かすのも、少女らしい愛らしさだった。源五郎は、彼女の手に柏餅を握らせる。
「男の子しか食べちゃだめって」
「かまわない、食べなさい」
命を捨てる覚悟を何度したところで、家にもどれば日常がそこにあるのが不思議でならないのである。
もう銀次は江戸をでた頃であろうか。まだ品川の宿辺りだろうか。そう考えながら、源五郎は瓶の水をたらいに移す。
澄んだ水の上に菖蒲の葉を載せると、不思議と青く香った。
色が付くはずもないというのに、なぜか青く染まってみえるのだ。
「お袖、その前に。こちらへ」
柏餅を握ったままのお袖を手招き、彼女の足を水に浸す。小さな足が菖蒲を踏んで、くすぐったそうに彼女は笑う。
笑うと、水が波紋を広げた。
「命が延びるそうだ」
妖怪の寿命とは幾年であろうかと源五郎は思う。
少なくとも、人の子よりは長いだろう。お袖も百鬼夜行に戻りさえできれば、長く生きられる。そのうちに、源五郎のことも忘れるに違いない。
忘れるくらい長く生きてくれればと、源五郎は彼女の小さな足を洗う。
「げんごも」
「俺はいいんだ」
風呂屋の番頭も、伊勢屋の主人も、そして銀次も皆が源五郎を生かそうとする。五月の節句は命の節句だ。死にたがる男に似合わない節句だ。
皆がこぞって源五郎に生きろと呪いをかける。
そしてまた源五郎の中にも呪いはある。
このままお袖を守って生きていければと、不意に甘えが顔を出すのを彼は自覚していた。そして恐れていた。
「お袖、おまえは生きろ」
「げんご?」
「おまえだけは生きてくれ。かならず、仲間のもとに返す、だから」
何かをかぎつけたのか、お袖の顔に暗いものが走る。目をそらして源五郎は濡れた手を拭く。
手に染み着いた菖蒲は、まるで源五郎の生きたがる心を読んだかのように、意地悪くさわやかに香った。
日差しはまるで粘るようで、笠を深くかぶった源五郎の顎に汗が一筋垂れ落ちる。
日差しは、すっかり夏のそれだ。
ちょうど、今日は端午の節句。夏の香りが届き始める頃である。
「お。兄さん、風呂がわいてるよ」
白い陽を浴びて歩く源五郎に湯屋の番台が気安く声をかけた。
最初は遠巻きにみられていた源五郎だが、この町に半年近く暮らしたせいだろうか。心安く声をかけてくる人間が増えた。それは嬉しいことでもあったが、同時に切なくもあるのだった。
「今日は菖蒲の湯だ。さっぱりするし、命が延びるよ。入っておいで」
「ああ、あとでな」
男はふくふくと太って、いかにも人の良さそうな顔をしている。源五郎のことを、幼い妹かまだ小さな子をつれた浪人とでも思っているのだろう。手を引かんばかりの勧誘を苦笑いでやり過ごして、源五郎は足早に通りをいく。
見れば商店の軒先には、菖蒲や柏餅などが売られている。なるほど今日は端午の節句である。
時は無為にすぎるのではない。顔を上げればそこには節句があり、人は時の区切り目を無心に楽しんで生きている。
それは源五郎にとって羨ましくもあり、同時に妬ましいことでもあった。
源五郎は俯き気味のまま、素早く稲荷の横道に入る。と、赤い鳥居の隅に男の影がある。
「……銀次」
源五郎は笠で深く顔を隠して、男の隣に滑り込む。
初夏の陽気の日差しが差し込む境内に、歩く人の姿は見えない。
通りを隔てたこの場所はいつも静かで、遠くからぼてふりの声だけが聞こえてくるだけだ。
この場所に、午後の鐘が鳴る頃に。と、銀次からの手紙が届いたのは今朝のこと。
その紙は石に巻き付け、轆轤の店に投げ込まれてあったという。書き殴ったような手癖のある文字は銀次のものだった。
「どうした。突然場所を……銀次」
「急に場所を変えて、驚かせたな。すまねえ」
「おまえ怪我を」
銀次の隣に滑り込むと血の香りがした。それは、銀次から漂っている。肩口が着物ごと斜切りにされ、むき出しとなった腕に赤い筋が見える。
「誰にやられた」
「さあな。伊藤の一派だろうよ。なあに、これくらいのこと」
四角い顔を持ち上げて、彼は呵々と笑う。血の気の多い彼にしてみればこの程度、怪我のうちにも入らないのだ。むろん、源五郎にとっても同じこと。
ただ、問題はここ半年ほど何の動きもなかった屋敷の界隈にかすかな動きが生まれたことである。
今はかすり傷でも、やがてそれは大きな何かにつながる。その可能性は、あるのである。
「俺のことはいい、それよりこれを見せたくてな」
「これは」
銀次が周囲を窺いながら差し出してきたのは、一本の刀である。
いや、刀にみせかけた木の飾り刀である。
木を削っただけの幅広の刀の柄には鮮やかな7色の布や紙の飾り。それを、お召しこじりという。父の手から息子の手へ、節句の祝いに受け渡される縁起のものだ。
源五郎は震える手でそれに触れる。
このお召しこじりは、半年前に亡くなった幼い主、一之介のものではないか。
「これは……いったいこれまで、どこに」
源五郎は覚えている。何年も前、大殿より、これを受け取り笑った一之介の笑顔を。それはただ、父より賜りものを受けて喜ぶ純真たる子の笑顔だった。
しかし源五郎たちは別の意味で嬉しかった。
民間ではただの玩具ともなろう。しかし屋敷をいただく身であればこそ、この刀は跡取りとしての資格を約束をするものである。主は確かに跡取りとして認められたのだ。それを示すものであったはずだ。
「……血が」
懐かしいそれには、黒ずんだ血が一面に張り付いている。それは銀次のものではない。もっと古い。
誰の血などと、聞くまでもない。それをみて、源五郎の胸が締め付けられた。彼ははじめて、主の死につながる証をみた。
「そうだ。若様の」
「血が」
「若様はこれを握って、大殿のところへ向かおうとしていたのだ」
「……」
「打ち捨てられていたこれを、屋敷の中間が拾って隠した。何度も執拗に通う俺を哀れんだか、これをくれてやるからもう来るなと」
それを伊藤の一派がかぎつけたか。と源五郎は思う。
銀次は、進まない探索に焦ったのだ。証拠をつかもうと顔を近づけすぎた。そのせいで、狙われた。
「それで怪我を」
やり返したさ。と銀次はにやりと笑った。確かに気の短い彼のこと、相手も無事ではあるまい。
しかし動きが向こうに知られた以上、江戸にはいられないだろう。
そんな源五郎の心を読むように、銀次が笑った。
「なあ源五郎、今日は別れにきたのだ」
「別れだと」
「俺はこの刀を持って、大殿のところへ向かおうと思う」
大殿がつめている任地は遠く、箱根を越える。間には関所もある。しかし、それへいく。と銀次はいった。
「一度体調を崩した大殿だがを持ち直したと聞く。江戸の噂は届いているようだ。しかし気をつけていただかねば、大殿も危ない」
「関所はどうする」
「関所やぶりはお手のものさ。屋敷にゃばれねえように、うまくやる」
ぬるりと源五郎の顔に汗が流れる。知らず握りしめた手のひらに、爪が食い込む。残された片目が大きく見開かれる。
「俺も」
「おっと、いけねえ。お前は残れ。江戸にいて、動く人間も必要だ。報告の手紙は、お前が宿としている茶屋に届けさせる。なぁ、あの茶屋にいる女……年増だがいい女だな、源五郎」
共に行く、と言いかけた言葉を、銀次がちゃかすように止める。
「しかし」
「それに、お袖ちゃんか。あの子は良い子だ。お前の妹か、それともあの年増に生ませた子か。聞くような野暮はしねえが」
二人の顔には汗が浮かんでいる。暑さのせいだけではない。
はやる源五郎の腕を、銀次が握った。逆の手で、いまや証拠の品となった、お召しこじりを懐に納める。
彼は源五郎を、軽く突き放した。
「なあ、源五郎。今のお前には守るものがあるじゃねえか」
風が吹いた。それは熱をもった風である。
砂埃を浴びても、銀次はあくまでも笑顔を崩さない。
「正直な、死ぬのは俺だけでいいとおもっているんだ。お前は、あの子を守りたいだろう」
「銀次、ふざけているのか」
「そんな顔をするんじゃあねえよ」
じゃあな。と彼は言った。
そしてもう、後ろも見ずに駆け出して行く。藍色の縞の着物は、あっという間に初夏の日差しに飲まれて消えた。
「おや……」
呆然と通りに戻り歩き始めた源五郎はすぐさま、人とぶつかった。
ちょうど見えない目の側である。慌てて顔を上げれば、相手は商人風の男である。
「……失礼」
「あなた、源五郎さんじゃないですか」
名を呼ばれ、思わず右手が腰に伸びたのは、やはり気が張っていたのだろう。よくよく目前の顔を眺めて、源五郎はようやく背をただす。
「ああ、あなたは」
「ずいぶんと人相が変わってしまって、気づきませなんだ」
高級な着物をまとった恰幅のいいこの男を、源五郎は知っている。
着物問屋の大旦那、屋号を伊勢屋といったか。
女を相手にする商売柄か、羽振りがいいはずだが腰は低い。
屋敷でも幾度も見かけた。物が良いのに安いといって、質素倹約にをつとめる武家の女に人気の店なのだと聞く。
彼は商売柄か、人の顔をよく覚えていた。人相がすっかり変わった源五郎を、一目見抜いた。
「お久しぶりですね。あのお屋敷も不幸があったとか、なにやらかしましく……」
「……」
「あなたのお姿もついぞ拝見しませんで、どこへいかれたかと思っておりましたが」
如際なく探りを入れてくるのも、商売柄だろう。しかし彼の顔の奥に、源五郎を案じる色も見える。
「……少し、いいか」
源五郎は彼を通りの隅に誘い、囁く。
「わけがあり、今は屋敷を離れた」
味方が一人、あれば。源五郎の中でその思いが強まる。
一人でいい。屋敷の内情のわかる味方があれば、銀次の助けになる。
銀次は江戸を離れる。しかし、源五郎はなにもできない。死ぬこともまだできない。その矢先にこの男と、出会った。それはありがたい縁である。
「あなたは、まだ屋敷に出入りをしているのか」
「ええ」
「俺は事情があって、屋敷に戻れない身だ。何か変わったことがあれば、教えてほしい。礼はあまりできないが……」
「なにをおっしゃる」
伊勢屋は豪快に笑って首を振った。
「お世話になったあなた様のお役に立てるのであれば、構いませぬが……」
「事情は、まだ……詳しいことは」
「わかりました。ただ私も商人です。利にならないことが起きているのであればすぐに教えてください」
抜け目のない笑顔だが、源五郎の胸の内に安堵が広がる。まだ、動ける。源五郎にもできることがある。
安堵すると同時に、通りのにぎわう物音が耳に滑り込んできた。
幼い子供たちが、長い菖蒲の葉を刀のごとくふりまわしては母にきつく叱られている。
それをみたのか、伊勢屋がなにやら思いついたように手を打った。
「ああ。源五郎さん。久々にお会いしたのだから、せめて手土産でも」
荷をほどき、取り出したのは丁寧に折り畳まれた菖蒲の葉である。
日差しを浴びると、つんと青臭い香りが鼻をくすぐる。
それは先ほど銀次が持ち去った、お召しこじりの形にも似て、源五郎の胸が締め付けられた。
「今日は節句ですから。それと柏餅を。これはなかなかいけます」
続いて荷の奥かた取り出したのは柏餅である。
彼は食道楽と噂に聞く。その噂は嘘ではないのだろう。蕩けそうな笑顔で、餅を広げて源五郎に見せる。
「餡は小豆と味噌です。餅をくるむ柏の葉が表になっているのが小豆で、裏が味噌と。まあ一度食べてご覧なさい。なかなかに旨いものですから」
葉にくるまれたそれは、いかにもうまそうな白い肌を持っていた。手に乗せるとずしりと重い。
「柏餅を食べ、菖蒲湯につかれば命が延びるとも言われております。面倒ならば、菖蒲を樽にでもつけて、手でも顔でもお洗いなさい」
清涼な香りを放つ菖蒲を手にして、源五郎は笑うこともできなかった。
命を捨てに出かけた男の影で、自分は命を延ばす菖蒲を握るのだ。
浅ましいと思うのと同時に、小さな少女の笑顔が浮かぶ。
「源五郎さん」
伊勢屋が困ったように笑いかけた。
「どうしました。ひどくお困りのお顔だ。あなたに珍しい」
いや。と、曖昧に笑って源五郎は餅と菖蒲を腕に抱える。
先ほどまで暑いほどに晴れあがっていた空だというのに、不思議と雲がかかりはじめていた。
空は突然ぐずり初めて、雨がぽつりと垂れてきた。
暑かった空気はとたんに冷えて、町をいく人々は我先にと軒先に飛び込んでいく。
強く吹き付ける直前、源五郎はようやく長屋に飛び込む。と、それを待ちかねたように小さな影が源五郎の体にぶつかってきた。
「げんご」
「遅くなった」
小さな体で源五郎の足下にからみつき、小さな手のひらで必死に源五郎の袖を握る。餅のような丸い頬を真っ赤に染めて、あげた顔は満面の笑みである。
「おかえり、げんご」
袖に顔を隠すように無邪気に遊ぶお袖である。が、不意にまじめな顔をした。
「げんご、怪我をしたの」
「していない」
「血」
「……気のせいだ」
妖怪はするどい。血の香りをすぐにかぎ分ける。いつか本格的にすべてが動き始めたとき、この少女がどのような感情を抱くのだろうと思うと、源五郎の胸にかすかな痛みが走った。
それは、感傷的で身勝手な思いではあったが。
「それより、土産だ」
「げんご。菖蒲?」
「葉で手を切るなよ」
「あ。かしわもち」
懐におさめた土産の数々を、お袖は目を輝かせて見つめる。嬉しげに足をぱたぱた動かすのも、少女らしい愛らしさだった。源五郎は、彼女の手に柏餅を握らせる。
「男の子しか食べちゃだめって」
「かまわない、食べなさい」
命を捨てる覚悟を何度したところで、家にもどれば日常がそこにあるのが不思議でならないのである。
もう銀次は江戸をでた頃であろうか。まだ品川の宿辺りだろうか。そう考えながら、源五郎は瓶の水をたらいに移す。
澄んだ水の上に菖蒲の葉を載せると、不思議と青く香った。
色が付くはずもないというのに、なぜか青く染まってみえるのだ。
「お袖、その前に。こちらへ」
柏餅を握ったままのお袖を手招き、彼女の足を水に浸す。小さな足が菖蒲を踏んで、くすぐったそうに彼女は笑う。
笑うと、水が波紋を広げた。
「命が延びるそうだ」
妖怪の寿命とは幾年であろうかと源五郎は思う。
少なくとも、人の子よりは長いだろう。お袖も百鬼夜行に戻りさえできれば、長く生きられる。そのうちに、源五郎のことも忘れるに違いない。
忘れるくらい長く生きてくれればと、源五郎は彼女の小さな足を洗う。
「げんごも」
「俺はいいんだ」
風呂屋の番頭も、伊勢屋の主人も、そして銀次も皆が源五郎を生かそうとする。五月の節句は命の節句だ。死にたがる男に似合わない節句だ。
皆がこぞって源五郎に生きろと呪いをかける。
そしてまた源五郎の中にも呪いはある。
このままお袖を守って生きていければと、不意に甘えが顔を出すのを彼は自覚していた。そして恐れていた。
「お袖、おまえは生きろ」
「げんご?」
「おまえだけは生きてくれ。かならず、仲間のもとに返す、だから」
何かをかぎつけたのか、お袖の顔に暗いものが走る。目をそらして源五郎は濡れた手を拭く。
手に染み着いた菖蒲は、まるで源五郎の生きたがる心を読んだかのように、意地悪くさわやかに香った。
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