袖振り縁に多生の理

みお

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【初午】

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 暮れの鐘に呼ばれ、源五郎は顔を上げる。気がつけば外はすっかり闇に覆われていた。

 源五郎は筆を置くと、文机に広げた紙を端から丸めて懐に差し込む。

 そして、名を呼んだ。

「お袖」

 長屋は狭い。隅には布団が畳まれ、土間には古い湯呑みと鍋が重ねられている。行灯は部屋にひとつだけ。魚油を使っているせいか光が時折揺らめいて、壁に映った源五郎の影も同じように揺れた。

 ただ、ひとつ。壁にかけられた紋付きの羽織だけがこの場の空気に似合わない彩りを放っている。

 源五郎はその羽織を横目でみたが、すぐに顔をそらし刀を腰にさす。

「お袖、少し文を届けてくる。家に居られるか」

 源五郎は部屋の隅にある鏡をのぞき込み、顎を撫でた。曇った鏡面に、白い顔がぼんやりと浮かび上がる。

 少しやつれてはいるものの、髭は剃り落とされ、顔には若々しさが蘇っていた。目のくまも、ずいぶんと薄い。

 ただ、右目に残った傷だけは別だ。目も堅く閉ざされたまま。生傷はいまだ赤みを帯びている。左目の眼孔の鋭さも隠せない。

 顔面を覆う憂いの中、左目だけがぎらぎらと輝いているのである。

 源五郎は自分の顔から逃れるように、鏡に布をかけようと、した。



「げんご」



 しかし鏡の端に黒髪が映り、鏡の中の源五郎の顔がかすかにほころぶ。

 気がつけば源五郎のそばに寄り添うように、少女の姿があった。

「お袖」

 肩で切りそろえた髪がさらさらと揺れる。丸い瞳が鏡の中の源五郎をみて笑う。小さな指は哀れなほどに、赤くなっていた。

 彼女は源五郎が咄嗟につけたこの名を、不思議と気に入っている様子である。最近は自分で自分のことを、袖。などと呼ぶことも多い。 

 そんな彼女の言葉ひとつ、動きひとつが源五郎を穏やかにさせるのである。

「げんご、お出かけ?」

「冷えるだろう、お袖。火鉢に寄っていなさい」

「うん」

 冷えた手を包み込んでやり、源五郎は少女を火鉢のそばに近づける。冷たい肩に、着物を一枚かけてやった。

 妖怪は夏の暑さも冬の寒さも感じないものらしい。しかし、このような冷え込む日に、少女の冷えた体に触れると源五郎の中に憐れみが浮かぶのである。

 いくら温めたところで、けして熱を持たない体だとしても。

 そしてお袖も源五郎の憐れみに寄り添うのか、温められることを厭うことはしなかった。

「すぐ戻る」

「早く帰ってきて」

 少女は火鉢に手をかざしたまま無垢な目で見上げる。源五郎の険しい顔に、笑みが浮かんだ。

 それはこの狭い長屋に、少しばかりの暖かみを与えた。





 江戸の冬は酷く冷え込む。特に初午を迎えるこの時期は、手足も凍るほどの寒さである。

 不意の風に当てられ、源五郎は薄い着物の襟を合わせる。

 そろそろ暖かな着物を買い足してやらねばならない。自分のためではなく、お袖のために。

 妖怪の少女と出会って、暮らして、たった一月。その間に、不思議と源五郎の心は落ち着いていた。

 黒い感情に押し流されそうになるたび、少女の白い顔が浮かぶのである。少なくとも今年の暮れまで、源五郎は死ぬわけにはいけない。

 彼女を百鬼夜行の列に返すと約束をしてしまった瞬間、約束が生まれた。それは、生きていなくては果たせない約束である。

 しかし仇を討って死ぬこともまた自分の中で定めた約束だった。

 相反する約束ではあるが、けして命を惜しんでいるわけではない。

 死ぬ前にひとつ、生き甲斐が生まれたことに、彼は感謝さえ覚えるのである。

 以前と違ってはっきりとした足取りで、源五郎は長屋を抜けて道を急いだ。

 何本かの橋を渡って道を曲がれば、赤い光が目を貫く。しゃんしゃんと、色気のある三味線の音色が聞こえ、明るい門をくぐれば女の白粉が鼻をついた。

 ……花街である。

 薄暗い長屋と比べて、ここはまるで極楽のごとき賑わいであった。赤い着物を身にまとった粉臭い女たちが、源五郎の姿を見つけては嬌声をあげる。

 方々から差し出される手を素早くすり抜け、源五郎は小さな茶屋に滑り込んだ。そこには、こざっぱりとした女が一人。

「轆轤」

 この茶屋はうら寂れているのか、それとも通りを行く酔客には見えないのか、花街とは思えない静寂を保っていた。

 女は暇を持て余すように火鉢をかき回していたらしい。着物の襟を広くあけているせいで、白い首筋が夜の闇によく映えた。

 花街にしては年かさだが、小さな口に愛嬌が見える。このような場所にいる女にしては、頬がぷくりと膨れて愛らしくもみえた。

 火鉢を抱え込むようにして、だらしなく伏していた女は、珍客を見上げて声を裏返す。

「あらやだ、源さん。遅いじゃない。待ちくたびれたわよう」

「文を書いてきたぞ」

 まといつく白い指を払って、源五郎は懐の文を女につきだした。

「これでいいか」

「ありがとう。源さんが文字の読み書きできて助かるわあ」

 女は嬉しそうに紙をひろげ墨の香りをかいでいる。

「源さんの匂いがする」

「するものか、それは墨の香りだろう」

 源五郎は文字を読めた。それだけではなく、書くこともできた。小難しい言い回しはできないが、人のために手紙を読んで返信を書くくらいのことはできる。

 今日の文は、女の昔なじみに当てたものだった。近況などを取り留めもなく書いている。

 花街に代筆屋を求める人間がいる、と聞いたのは先日のことだ。大家に頼み世話をしてもらったところ、轆轤と呼ばれる年増女が、一番に手を挙げた。

「このあたり、だれも文字なんざ書けないでしょう。源さんのおかげで、みなも助かってるのよ」

「おかげで、俺も食うには困らん」

 火鉢のそばに座り手をかざすと、轆轤が源五郎の肩に羽織をかけた。冷えきった指先と肩口に熱が走った。

 轆轤は羽織ごしに、源五郎の体に身を寄せる。

「ついでだから遊んでいきなさいよ、おやすくしておくから」

「うれしいが、またの機会にな。お袖が待っている」

「ほらまた、今日もまたお袖に負けた」

 轆轤はけらけらと笑う。声はまるで狂気に満ちていて、やがて彼女の姿がぬるりと伸びた。

「……あん、やだ」

 彼女が笑うと同時に、その首が伸びたのである。白く艶やかなうなじが伸びるなり、小さな顔が宙を不安定に泳ぎ、轆轤の目は丸く広がる。

 源五郎はあわてることもなく、宙を舞う彼女の頭を掴む。だらしなく伸びた首を折り畳むと、彼女の襟口に無理矢理押し込んだ。

 まるで首の折れた人形のように、彼女の頭はだらりと垂れ下がったまま。しかし、しばらくして正気に戻ったのだろう、轆轤は両手で頭をつかみ、首を定位置に固定する。

 赤い唇がにぃ、と笑って赤い舌がちろりと見えた。

「せっかく顔をつかんでおくれなのだから、唇を吸っていけばいいのに無粋な人」

「気が緩んでいるのではないか、轆轤首。夜とはいえ、不用心」

「最近緩くてねえ。笑うとすぐに伸びてしまう」

 轆轤はからりと笑う。

「源さんがあんまりつれないのがだめなのよ。文でも書いてもらわないと、会いにきてくれやしない。恋しさに首が伸びてしまった」

 轆轤の白い指が源五郎のうなじをなでる。冷たい、それはあまりに冷たい指だった。

 よくみれば彼女には影がない。行灯の光に照らされ、壁にうつるのは源五郎の影ばかりである。

「お馬鹿なことばかりお言いじゃないよ」

 と、ふすまが開いて誰かが部屋に滑り込む。それは尾の先が二本に分かれた猫だった。

 猫は器用に二本の足で歩き、まるで夜鷹のように婀娜っぽく布を顔にかけている。

「ろくろ首。おまえの首は生まれつきじゃないか」

 猫は老婆の声を持つ。そして狂ったように笑うのだ。

 それをみた轆轤の首がまた延びて、猫が踊るように火鉢の影に隠れて笑う。静かにしていた火鉢もやがて動きだす。ひび割れの隙間から、鋭い歯がかちかち鳴った。

 よくよくみれば、江戸の町は妖怪に満ち満ちている。





 源五郎は昔から、不思議とあやかしが見える体質であった。

 見えるというよりも、感じるのである。

 寝入りばな、幾匹もの妖怪が源五郎の顔をのぞき込んでいたのを知っている。不気味な妖怪もいた、おかしな顔のものもいた。

 誰もが皆、このように見えるものだと思いこんでいた源五郎だが、ある時それが特別であると知って愕然とした。そんな特殊さを嫌われたか、ある時源五郎は親に捨てられ、彼は口を閉ざすことを覚えた。

 いずれ見えなくなるものと思っていたが、その勘は年々強くなる。とある家に仕えるようになってからも、その眼力は衰えることがなかった。

 その家とは、大名筋の武家屋敷である。

 そもそもがそうであったのか、それとも主が不器用であったのか、貧乏な家ではあった。

 大名の家であるので、屋敷に住むのは江戸に残された妻子と、家宰、それを守る侍たちのみである。

 小さな家ゆえに人も少ないが、しかし優しい主であった。そしてその薫陶を受けたのか、妻も息子も、優しい性質を持っていた。

 親に捨てられ丁稚として働く源五郎に優しく声をかけてくれたのは、まだ十にもならぬ、その家の長男、一之介であった。

 丁稚である源五郎を、彼は足軽の位にあげた。下っ端とはいえ、源五郎は侍となったのである。

 源五郎に文字の読み書きを教えたのも、一之介であった。これからの時代、足軽も文字くらいは読めなければならぬと、一之介はそういって、源五郎に文字を与えた。それは、刀を与えられる以上に、源五郎を感動させた。

 幸せは10年、続いた。

 一之介に危険が迫っていると源五郎が気づいたのは、ちょうど昨年の秋口ごろか。

 人の放つ妖気に気づいたのだ。その妖気を放っていたのは、同じく家に仕える中間の一派である。

 彼らが一之介の弟と親しくしているのは、周知の事実。その弟は今の夫人の子ではない。当主の弟が遊女に生ませた子……つまり甥を、引き取り育てているのだという噂を聞いたこともある。

 長男を差し置いてその子供に人が集まりはじめた。つまりは、不穏な空気であった。

 そしてちょうどそのとき、遠く任地に居を構える主が床に臥せっている。と噂が流れてきた。

 主が亡くなれば、嫡子が次ぐは必須。しかし、その長子に何かあれば、次男にそのお鉢が回ってくる。実質は甥であっても、扱いは子と同じである。

 その事実に気づいた源五郎は、遅蒔きながら一之介に迫る危険を知った。

 一之介襲撃計画を聞いたのは、それからすぐのこと。お家の大事を城に伝えるべく、冷え込む道を走った源五郎だが、闇に打たれた。気を失い、悪意のある手が彼を牢に縛った。

 足軽の乱心として、番所にとどめおかれたのである。





「源さん?」

 火鉢がちり、と泣いた。炭が割れたのだ。火鉢の妖怪にも痛みがあるのか、歯をむき出しにして火鉢がうめく。

 足下に広がる冬の寒さが一段と深まった気がした。

 顔を上げると、妖怪どもは遊び疲れたように、ひとかたまりになって火鉢に当たっているところである。

「やだやだ怖い顔をしてるねえ」

 轆轤の膝で眠る猫が片目をあげた。

「また過去のことをおもっていたね源五郎。人は過去に捕らわれすぎる。おまえは特に、そうだ。過去に食われてしまうよ。ただでさえでも、妖怪に好かれるたちだ」

「……そうだな」

 源五郎はふと目覚めたように、刀を引き寄せる。

 古びた刀はふれるだけで痛いほどに冷たい。しかしこの刀を手放すわけにはいかなかった。

「帰る」

「つれない人」

 轆轤はふてくされたように顔を膨らませ、にゅ。とまた首を伸ばすので、源五郎は薄く笑った。

「首をしまっておけ。客もとれぬぞ」

「あら。しまっておけば源さん買ってくれるの」

「また今度な」

「お袖によろしくねえ」

 轆轤は首を少し伸ばしたまま、艶やかな笑みを浮かべて手を振った。

 小さな手である。あやかしは、体が成長しないのかもしれない。

 外にでると、さきほどより灯りが増えていた。甘い香りと白粉の香りが源五郎を責め立てるようである。

 花街の一角にある小さな茶屋。他と変わらないその茶屋が妖怪で溢れているなど、通りをいく酔客の誰が気づくであろう。

 こうして、江戸のあちこちに、少しの闇に、妖怪が居着くことなど誰も気づかない。それでいいのだ。と源五郎は思う。

 人と同じようにあやかしも生きている。それでいいのだ。

 先ほどよりも人数の増えた女の嬌声を器用に交わしながら、源五郎は帰路を急ぐ。

 その源五郎の前を一人の少年が塞いだ。

「稲荷さんの御権化……御十二銅おあげ……」

 顔色の悪い、やせ細った少年だ。彼の背後には、小さな少女が不安げな顔で付き従っている。

「御十二銅おあげ……」

 花街の人波に揉まれ、怒鳴られながら少年が必死に差し出すのは、稚拙な狐が描かれた絵馬である。

「そうか、今日は初午か」

 源五郎は漏らすようにそういった。古来より、初午の日には稲荷をまつるのが常だった。初午には皆着飾って稲荷を詣でる。

 江戸に多い物は伊勢屋稲荷に犬の糞とうたわれるほど、あちらこちらに稲荷のお社がある。

 そのせいか初午の日は、江戸中がまるで祭りのような賑わいを見せる。

 その中で、子供は絵馬を1文ほどで売りつけ小銭を稼ぐのである。この兄妹は散々花街の客にどやされたのだろう。疲れ果てた顔をして、やせ細った腕が哀れであった。

「おあげ……」

 少年は源五郎の顔を見て、怯えたように声を詰まらせる。

 源五郎の潰れた目を見たのだろう。少女は悲鳴を噛み殺し兄の腕を掴む。

「怯えるな」

 源五郎は腰を落として少年の手にいくらかの金を握らせてやった。そして、少年の手から絵馬を受け取る。

 その望外の金額に驚いたのか、少年は目を丸める。そして、妹の手を引いて駆けるように逃げた。

 街角にある稲荷からは、にぎやかな初午詣りの声が響いている。



 雨のような雪のようなものが源五郎の肩を濡らした。

 顔を上げれば闇の中に月が浮かぶ。雲も無いのに雪が降るとは不思議な話である。

 長屋に辿り着けば、そこは闇。普段なら多少なり人通りのある長屋の通りが灯りも無く、しんと静まりかえっている。

「げんご」

 家に近づくと、小さな姿が駆け寄ってきた。彼女は素足のまま、小さな足で地面をかけて源五郎に飛びつく。抱き上げれば、鼻の頭が真っ赤に染まっていた。

「どうした。ひどく長屋が静かだな」

「みんな、狐様に会いに行くのだって。おばあちゃんが、こんなのくれたよ」

 お袖の隣に、小さな重箱がおかれている。あけてみると中にはいかにも手作りらしい弁当だった。

「初午だからか……」

 弁当の中身は、赤飯と芥子菜の味噌和え。元は京阪の風習ときくが、初午にはこのようなものを振る舞い食べるのである。

 大家が気遣いをみせたのだろう。

 誰しも弁当を手に稲荷に集まり、赤赤と燃える鳥居をくぐる。信心深いものもあるだろうが、年に一度の祭りを楽しもうとする人間の方がずっと多い。

「お袖もいくか」

「お狐様は、袖を脅かすから……」

 お袖は少し、困ったように眉を寄せる。百鬼夜行置いていかれた時、彼女は近くの稲荷に身を潜めていた。しかし、いたずら好きの神は妖怪をひどくからかったとみえる。

 小さな妖怪は、神におびえた。

 眉間にしわを寄せ今にも泣き出しそうなお袖を、源五郎は苦笑とともに抱き上げた。そして手には弁当箱。

「では、少し遠出はできるか。お袖」

 頬に寄せられた彼女の頬は、幼くはかない。

 彼女は抱き上げられながらも、源五郎の袖をぎゅっとにぎった。そうしなければ、不安であるように。

「どこいくの」

「墓参りに行こう」

 二人の上に雪が降る。それは袖の頬に似て、はかない淡雪であった。





 真っ赤な鳥居は普段よりも燃えるように明るい。灯火が多くたかれているせいだろう。

 夜の闇と雪の白さの向こうにうかぶ稲荷の石像は堂々たる姿。夜にもかかわらず、人の賑やかさは花街に見劣りもしない。

 そんな初午の騒ぎを横目に、源五郎は道を急ぐ。町を抜け、川を渡り、そして小さな山にでた。

 ここまでくれば、もう喧噪は届かない。ただ暗い獣道が続くばかりである。道にはところどころ雪が積もり、それが白い光となっていた。

「怖いか」

「げんごがいるから怖くないよ」

 妖怪に暗闇が怖いか、などと聞くのはいかにも無粋であった。

 それでもお袖なりに精一杯、気を使ったのだろう。それがいじらしくもある。

「そうか」

「そうだよ」

 源五郎は苦笑し、道を急ぐ。不思議な獣の声と鳥の鳴き声、そして源五郎が雪を踏み抜く音だけが響く静かな山道である。

 目が慣れると、木々の隙間から月明かりが注いでいることに気づいた。

 山道を抜けると、やがて小さな墓地にでた。墓地といっても寂れている。ほんの9つばかりの墓が朽ちて並ぶだけの場所である。もとは無縁仏が投げ込まれた場所なのだろう。いつの頃か、誰かが墓をこしらえたのだ。

 その一角に、新しい墓がある……墓だといわれなけば、誰も気付かないに違い無い。石を乱雑に積んだだけの、墓である。

 源五郎はそこで足を止め、お袖をおろす。お袖は、源五郎の袖をつかんだまま、寄り添った。

「げんご」

「これは、俺の主の墓だ」

 墓に雪が積もる。それを源五郎は丁寧に払う。冷たさが指に染み、どす黒い憎しみが体を熱くした。

「昨年末に殺された、俺の主の墓だ。お袖」





 昨年末に記憶を戻す。

 番所にとどめおかれたあと、どれくらい気を失っていたのか。目が覚めた源五郎は必死に戒めを説き、垢臭い着物を洗う間も惜しんで屋敷に戻れば、すべてが終わったあとである。

 一之介は流行病で死んだのだ。と、侍従はうそぶいた。

 奥方は病んで里に返された、という。先日まで夫人のいた部屋には、艶やかな遊女がほほえんでいる。

 屋敷では、すでに後嗣はないものとされた。当主の甥であり次男が唯一の男子であるとねつ造され、気に食わぬと逆らった旧臣は皆、追い払われたそうである。

 入口から閉め出され、屋敷を見上げる源五郎を憐れんだのだろう。古くからの出入り業者が、そっと源五郎に一之介が眠る墓の場所を教えた。 

 墓に向かえば、それは当家の墓ではない。寂れた山の端、石だけ積まれた、庶民のものより酷い墓に名前だけが乱雑に刻まれうち捨てられていた。

 一之介は優しい男であった。ようやく成人したばかりの、先の明るい若者であった。源五郎に書を教えた人であった。あやかしが見えることで周囲から厭われる源五郎に、唯一優しく接してくれた人間であった。

 なにより、彼の身を侍へとあげてくれた恩人であった。

 その墓をみた彼は、仇を討たねばならぬと誓った。そして、墓を抱えて一度だけ、泣いた。

 仇を殺さねばならない。それは燃えるような情熱においてではない。殺さねば自分が生きている意味がない。

 そして彼は刀をとった。仇に向かった。

 しかし、その切っ先は敵に届かず、源五郎の右の目から光が失われたのである。

 敵に情けがあったのか、それとも目の壊れた侍など恐ろしくもないと思ったのか。いずれか分からないが、命までは奪われなかった。

 そして源五郎は、生き延びた。





「げんご、怖い顔してる」

 ひやりと冷たさが源五郎の頬を包み、源五郎の意識が雪山に戻った。

 目の前にお袖がいる。彼女は心配そうな顔で、源五郎の頬を両手で包んでいるのである。

 なぜこんな子供に、それもあやかしに優しい気持ちを持てるのか。

 それは、この目が亡き主に似ているからである。

 一之介もまた、親に捨てられた源五郎の顔を心配そうに撫でた。その手の感触を源五郎はいまだに覚えている。

「すまない」

「やっぱり、お狐さまのお祭りにいこう、げんご」

 お袖はたどたどしくそういった。気がつけば、二人の体には雪がしんしんと積もっている。

 先ほどまで聞こえていた獣の声も聞こえない。ただ、静かである。雪が音を吸い取って、お袖の声だけが源五郎に届いた。

「怖いのではないか」

「平気」

 お袖はけなげに首を振る。

「げんごがいるから平気。おべんとうも、きっとそこで食べるとおいしいよ」

「……そうだな」

 源五郎は目の前の墓石に、小さく別れを告げて立ち上がる。この静かな場所を次に見るときは、大望を遂げる直前のときであろう。

「わかった、行こう」

 立ち去る瞬間、お袖は墓石に向かって小さく手を振った。源五郎にはみえない何かが、妖怪のこの子には見えるのかもしれない。

 しかし振り返りもせず、源五郎は山をかけ降りる。

 山道の抜けるころ、道の向こうから笛の音がきこえ、燃えるような赤い鳥居が見えた。そのたもとにある狐の像は、源五郎の心を見透かすように、細い目で睨め付けてくる。

 それでも源五郎は不思議と、幸福なのである。

 ただ死ぬ前にひとつ、生き甲斐が生まれたことに、彼は感謝さえ覚えるのである。

 旧主より与えられた優しさというものを、死ぬ前に誰かに帰すことができることがたまらなく嬉しいのである。

「せっかくの初午、絵馬を奉納しよう」

 先だって手に入れていた小さな絵馬が、源五郎の懐からこぼれておちる。

 人波をかき分けて絵馬をおさめる。手を合わせ祈ったが、願いは不思議と血生臭いものではなかった。

 隣で小さな手を合わせる少女の祈りもまた、血生臭いものではないだろう。

 いつか人を殺さなくてはならない自分と、百鬼夜行の闇に戻らなくてはならない少女を見て、神はどう思ったか。

 ……闇に覆われた本殿の奥から、まるで慰めるように鈴の音が鳴り響いた。
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