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下巻 〜 死しても 尚 薫る 山百合 〜
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珠の大事な話というのは『離縁』の話などではなかった。が、受け入れ難い事実だった。
太閤殿(豊臣秀吉)がバテレン追放令を出したすぐ後に、珠は切支丹の洗礼を受けたというのだ。子供達とともに。全て忠興の預かり知らぬことだった。
忠興は焦った。太閤殿(秀吉)の意に反するような行動を取ったとなれば、忠興自身も、既に「逆臣の娘」という烙印を押されている珠の命も危ぶまれる事となる。忠興の命だけで済めばいい。だが最悪、お家断絶の可能性もある。何と軽率な…。
忠興は珠に何度も改宗するよう話した。自分が置かれた状況を鑑みろと、子供達にも危険が及ぶのだと、何度も諭し説得した。だが、珠は頑なに拒み続けた。
焦りを隠さずしつこく改宗を迫る忠興の姿は、自身の立場を守る為に必死で、珠を責めたてているように見えたのかも知れない。だが、本心はただただ珠を失う事を恐れていた。
珠を失わずに済むのであれば、どんなに恨まれようと憎まれようと構わない。
珠を頷かせる為には、やはり更なる恐怖で支配するしかないのか?
さすれば、流石の珠も「是」と頷いてくれるのではないか?
そんな思いがふと忠興の頭を過った。
どのような方法ならば、頑な珠が折れるだろうか?珠が耐えられない程の衝撃を与えるにはどうしたらよいのか?
忠興の頭の中に、恐ろしい程残忍な方法が幾つも浮かび上がっては消えていく…。
結局、忠興は最も悍ましい方法をとった。
珠と共に洗礼を受けたという珠の腹心の侍女の耳と鼻を、少しずつ削ぎ落としていったのだ。珠に何度も何度も改宗するよう問いながら。
侍女が激しい痛みに悶絶する。涙を流しながら狂ったように絶叫を上げた。
傷口から流れ出る鮮血と止まる事のない涙に塗れて、侍女の顔がぐちゃぐちゃに汚れていった。
……だが、それでも珠は侍女への謝罪の言葉を口にするだけで「是」とは答えなかった。
頑固な珠に業を煮やした忠興は、激痛のあまり気絶してしまった侍女の豊かな黒髪までも切り落とした。
何故?…何故ここまでしても承知しない?近しい者を犠牲にしてまで、何故改宗を拒む?
忠興は珠の信仰心が理解できなかった。これでは何をしても無駄だ。
忠興は血塗れになった侍女の襟元から手を放した。血塗れの身体が、飛び散った深紅の鮮血と散らばった黒髪の上に力なく転がる。
その瞬間珠は辛そうに目を伏せて、無残な姿となった侍女から目を逸らした。だが、すぐに前を向くと、侍女の元へと駆け寄り、介抱し始めた。
忠興がその場を去ろうとしたその時、一瞬だけ、珠が燃えるような『憎悪』が滲んだ瞳で忠興を見た。
そんな『憎悪』の視線でさえ、忠興は喜びを感じた。己によって生み出される全てが愛おしくてたまらなかった。
珠に関して、己がおかしくなっていると忠興は自覚していた。
『狂気』に憑りつかれていると。
珠の全てを独占しなければ気が済まなかった。
珠の全てを支配しなければ我慢ならなかった。
珠を失わない為ならば、何でも出来た。
人を殺める事にさえ厭わない。罪悪感すら抱かなかった。
珠に向けてもらえるなら、どんな感情でも構わなかった。
蔑まれようと、憎まれようと、珠の感情が己に向けられている。そう思うだけで、天にも昇る気持ちになった。
当然の如く、その日以降、忠興は珠に避けられ続けた。
……そして、此度の悲劇の報せを受けることとなったのだ。
最後に珠と笑顔で会話を交わしたのは、いつの事だっただろうか?
忠興にはどうしても思い出す事が出来なかった…。
***
結局、珠の骸が見つかる事はなかった。
珠の私室の至る所に鉄砲の火薬の粉を仕掛けておいたのだから、残骸さえ残らぬのは当然だとは思いながらも、珠の骸を目にしていない分、実感がわかなかった。
今でも時折、ふとした瞬間に、甘く濃厚な山百合の薫りが漂ってくる。
そんな時、忠興は仄暗い喜びを感じるのだ。
ーー珠。お前の魂は、死んでも尚、儂の側から離れられずにいるのか?すぐ傍にいるのだろう?
「憎しみ」であろうが「呪い」であろうが、珠が己の傍にいるのであれば構わない。
珠…珠…。
もし来世というものがあるならば、今度はもっと言葉を尽くして愛を語ろう。
もっと大事に大事に。座敷牢にでも閉じ込めて、儂以外に逢えないようにしてしまおう。
今度は勝手に飛び立つことのないよう、最初からその翼を切り落としてしまおうか?
早く、早く、お前に逢いたい…。
お前のいない現世など早く終えてしまいたい。早く、お前と再会して、その柔らかな肢体を抱き締めたい…。
ーー結局、その後43年もの長きに渡り、忠興が珠の元に旅立つことは叶わなかった。
忠興は、最後まで『狂気』とも呼べる想いを抱えいたのだろう。生涯、珠以外の正妻を持つことはなかったと言うーー
《終》
太閤殿(豊臣秀吉)がバテレン追放令を出したすぐ後に、珠は切支丹の洗礼を受けたというのだ。子供達とともに。全て忠興の預かり知らぬことだった。
忠興は焦った。太閤殿(秀吉)の意に反するような行動を取ったとなれば、忠興自身も、既に「逆臣の娘」という烙印を押されている珠の命も危ぶまれる事となる。忠興の命だけで済めばいい。だが最悪、お家断絶の可能性もある。何と軽率な…。
忠興は珠に何度も改宗するよう話した。自分が置かれた状況を鑑みろと、子供達にも危険が及ぶのだと、何度も諭し説得した。だが、珠は頑なに拒み続けた。
焦りを隠さずしつこく改宗を迫る忠興の姿は、自身の立場を守る為に必死で、珠を責めたてているように見えたのかも知れない。だが、本心はただただ珠を失う事を恐れていた。
珠を失わずに済むのであれば、どんなに恨まれようと憎まれようと構わない。
珠を頷かせる為には、やはり更なる恐怖で支配するしかないのか?
さすれば、流石の珠も「是」と頷いてくれるのではないか?
そんな思いがふと忠興の頭を過った。
どのような方法ならば、頑な珠が折れるだろうか?珠が耐えられない程の衝撃を与えるにはどうしたらよいのか?
忠興の頭の中に、恐ろしい程残忍な方法が幾つも浮かび上がっては消えていく…。
結局、忠興は最も悍ましい方法をとった。
珠と共に洗礼を受けたという珠の腹心の侍女の耳と鼻を、少しずつ削ぎ落としていったのだ。珠に何度も何度も改宗するよう問いながら。
侍女が激しい痛みに悶絶する。涙を流しながら狂ったように絶叫を上げた。
傷口から流れ出る鮮血と止まる事のない涙に塗れて、侍女の顔がぐちゃぐちゃに汚れていった。
……だが、それでも珠は侍女への謝罪の言葉を口にするだけで「是」とは答えなかった。
頑固な珠に業を煮やした忠興は、激痛のあまり気絶してしまった侍女の豊かな黒髪までも切り落とした。
何故?…何故ここまでしても承知しない?近しい者を犠牲にしてまで、何故改宗を拒む?
忠興は珠の信仰心が理解できなかった。これでは何をしても無駄だ。
忠興は血塗れになった侍女の襟元から手を放した。血塗れの身体が、飛び散った深紅の鮮血と散らばった黒髪の上に力なく転がる。
その瞬間珠は辛そうに目を伏せて、無残な姿となった侍女から目を逸らした。だが、すぐに前を向くと、侍女の元へと駆け寄り、介抱し始めた。
忠興がその場を去ろうとしたその時、一瞬だけ、珠が燃えるような『憎悪』が滲んだ瞳で忠興を見た。
そんな『憎悪』の視線でさえ、忠興は喜びを感じた。己によって生み出される全てが愛おしくてたまらなかった。
珠に関して、己がおかしくなっていると忠興は自覚していた。
『狂気』に憑りつかれていると。
珠の全てを独占しなければ気が済まなかった。
珠の全てを支配しなければ我慢ならなかった。
珠を失わない為ならば、何でも出来た。
人を殺める事にさえ厭わない。罪悪感すら抱かなかった。
珠に向けてもらえるなら、どんな感情でも構わなかった。
蔑まれようと、憎まれようと、珠の感情が己に向けられている。そう思うだけで、天にも昇る気持ちになった。
当然の如く、その日以降、忠興は珠に避けられ続けた。
……そして、此度の悲劇の報せを受けることとなったのだ。
最後に珠と笑顔で会話を交わしたのは、いつの事だっただろうか?
忠興にはどうしても思い出す事が出来なかった…。
***
結局、珠の骸が見つかる事はなかった。
珠の私室の至る所に鉄砲の火薬の粉を仕掛けておいたのだから、残骸さえ残らぬのは当然だとは思いながらも、珠の骸を目にしていない分、実感がわかなかった。
今でも時折、ふとした瞬間に、甘く濃厚な山百合の薫りが漂ってくる。
そんな時、忠興は仄暗い喜びを感じるのだ。
ーー珠。お前の魂は、死んでも尚、儂の側から離れられずにいるのか?すぐ傍にいるのだろう?
「憎しみ」であろうが「呪い」であろうが、珠が己の傍にいるのであれば構わない。
珠…珠…。
もし来世というものがあるならば、今度はもっと言葉を尽くして愛を語ろう。
もっと大事に大事に。座敷牢にでも閉じ込めて、儂以外に逢えないようにしてしまおう。
今度は勝手に飛び立つことのないよう、最初からその翼を切り落としてしまおうか?
早く、早く、お前に逢いたい…。
お前のいない現世など早く終えてしまいたい。早く、お前と再会して、その柔らかな肢体を抱き締めたい…。
ーー結局、その後43年もの長きに渡り、忠興が珠の元に旅立つことは叶わなかった。
忠興は、最後まで『狂気』とも呼べる想いを抱えいたのだろう。生涯、珠以外の正妻を持つことはなかったと言うーー
《終》
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