【完結】〜 花は花なれ 人も人なれ 〜

キリン

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上巻 〜 気高く散りゆく山百合 〜

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松明の火にべられた薪の爆ぜる音がする。
一体どのくらいの者達が、この屋敷の周りを取り囲んでいるのだろう?珠はふとそんなことが気になった。

「……奥方様。実は…殿から仰せつかっておりますことが…」

声を辿るように振り返れば、廊に額を擦りつけて畏まっている細川家家老、小笠原秀清の姿があった。

「…殿が?なんと…?」 

「はっ!殿がご不在の折、もし奥方様の名誉に危険が生じたならば、奥方様のお命を断つようにと。そして、我等家臣も奥方様の後を追って自害するようにと」

それはどこの武家の妻でも、一朝有事の際、夫の不名誉にならぬよう、言い含められている事ではあった。けれど珠は、夫が己が忠臣に託した、言葉の裏の意味までも覚っていた。

珠は虚空を見つめながら「…どこまでも勝手なお方…」と小さくこぼし、覚悟を決めた顔で秀清の方へと向き直る。そして、凛とした態度で声を張った。

「秀清!この屋敷におる女・子供…いえ、皆をすぐに集めなさい!命を断つのは、我が身一つで充分!他の者達は裏から逃しておやりなさい!」

「奥方様!」

わたくしも武将の妻。人質となり、夫の枷になるならば、潔く命を断ちまそうぞ! だが、他の者には関係のないこと。治部殿(石田三成)も、他の者達に用はあるまい」

「なれど!」

「…なあ秀清。一つ頼まれてくれぬか?己が命を絶つ覚悟など、とうにできておる。なれど…自らの手で命を絶つことは、切支丹の教えに背くのじゃ。私は最後まで神の教えに背きとうない。其方にしてみれば、気が進まぬことだろうが…最後の情けに、その刀で私の首を落としはくれぬか?」 

乞うように秀清を見つめる瞳に、恐れや怯えの影はない。覚悟を決めた珠の姿は、高潔でありながらも、どこか哀憐を誘うものであった。秀清は震える声で「御意」と頭を下げた。


ーー散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれーー
(花は散るべき時をわきまえているからこそ、美しい。私もそうありたい)

珠は己が散り時は今だと辞世の句に詠んだ。そして徐に膝立ちになり、胸の前で両手を組む。瞳を閉じると様々な出来事が思い出された。幼き頃、姉達と駆けまわった野山。夫である細川忠興と初めて顔を合わせた祝言の日。初めて我が子をかいなに抱いた日。辛いことの多い人生であった筈なのに、思い出すのは幸せな事ばかり。何だかそれが可笑しくて、珠は思わず笑みをこぼした。

秀清は、このような状況にもかかわらず、柔らかな笑みを浮かべている珠を健気に思った。この気高く美しい奥方様をどうにかしてお助けしたい。そう強く願ったが、時間も術もない。
ならばせめて苦しまぬようお送りしよう。秀清は固く目を閉じて覚悟を決めると、滂沱の涙を流しながら手にした長刀で珠の喉元を一突きにした。
鮮血が飛び散る。突き立てた刃を引き抜くと、支えを失くした珠の身体が、壊れた絡繰り人形のように不自然に崩れ落ちた。

珠の身体の下に、深紅の血だまりが拡がっていく。辺りに飛び散った血は、まるで深紅の花弁のようだった。
珠はまるで深紅の花々の中で眠るように見えた。秀清は死してもなお美しい珠の遺体が人目に晒されることのないよう、屋敷に火を放つと、自害して果てた。


珠によって命を繋いだ者達の耳に、ドンと地面を揺らす爆音が届く。その者達が屋敷の方を振り返ると、屋敷から煙が立っていた。それから数度、珠の自室の辺りで爆発が起きた。
その爆発が火の回り早めたのだろう。細川家の大坂屋敷は、あっという間に火の海となった。


明智 珠子(細川ガラシャ) 享年37歳。壮絶な最期であった。


自らが上杉征伐へと出立した翌日に起きた悲劇を知った忠興は、珠を自害に追いこんだ三成に強い憎しみを覚えた。だがそれと同時に、やっと己を支配する『狂気』から解放されると安堵した。これでもう珠を失う恐怖に怯える必要はなくなった。珠は永遠に己のものになったのだ。そんな仄暗い喜びを忠興は感じていた。 



***



ーーどうしたら、もっと上手に愛してやれたのであろうか?

得も言われぬ感情に苛まれながら、忠興は酒を呷った。


忠興が珠と初めて顔を合わせたのは、15の時。
右府様(織田信長)の勧めにより、忠興は珠を娶ることとなった。祝言の日、初めて妻となる珠を見た忠興は、その美しさに目を奪われた。まるで山中に咲く、山百合のようなおなごだと思った。
忠興と同じよわい、まだ15だというのに、既に珠は山百合のような色香を纏っていたのだ。

祝言の序盤。それまで伏せられていた珠の瞳が、忠興を捉えた。その瞬間、忠興は、静謐な湖のように澄んだ珠の瞳に吸い込まれるような不思議な感覚を覚えた。

それより先のことはあまり覚えていない。
まるで物の怪に魅入られたかのように、忠興は珠から目を逸らせずにいた。己の心臓が早鐘を打ち、胸が締め付けられたかのように苦しくなるのを感じながら、ただ珠を見つめていた。


ーー今思えば、一目惚れだったのだろう。

祝言の後の床入りの際。忠興は、珠の、まだ誰も足を踏み入れてはいない新雪のような無垢な肢体に、ただただ見惚れた。

その息をのむ程に美しい肢体が、己がものになる。己だけが、この白く美しい肢体に触れることができる。そう思うだけで、忠興は身が震える程の歓喜と興奮を覚えた。
閨のしきたりとして、女人には極力優しくするよう習ってはいたが、若かった忠興に情欲を抑える事はできなかった。珠を喜ばせるどころか、性急に事を進め、夢中になって珠の身体に己を刻みこんだのだ。 

 

その後、忠興は、静謐な湖の底へと引き摺り込まれるよう、珠に溺れていった。

珠が閨の中だけで見せる、恥らいに潤む瞳、上気した頰。
縋るように伸ばされた白魚のような指。
懇願するように発せられる甘く艶めいた嬌声。
雪のように白い柔肌が官能に染まり、忠興の手によって桜色へと色づいていく様は、何よりも美しかった。

こんなにも婀娜あだやかな珠の姿を知るのは。その事実に、忠興は計り知れない喜びを感じていた。


珠の素晴らしさは、何も閨の中のことだけではなかった。 
珠は賢く聡明で、女だてらに武芸をも嗜んだ。その上、周囲への気遣いもできる。文句のつけようもない程によく出来た女であった。

忠興とて、能楽や和歌を嗜む教養人である。千利休を師とした利休七哲りきゅうしちてつにも数えられる文化人でもあったが、それでも忠興は、何事も卒なくこなす珠が面白くなかった。

忠興は、まるで好いた童女どうにょの気を引く為に、意地悪をする愚かな童男《おぐな》ように、珠を邪険に扱った。本心とは裏腹に、悪辣あくらつな態度ばかりとっていたのだ。


誰の目にも触れさせたくない程、自分を見失う程、忠興は深く珠を愛していた。けれど忠興は『執着』とも『独占欲』とも呼べる、醜悪な狂気を持て余すだけで、珠に想いを伝えたことがなかった。伝える努力すらしなかった。 


――もしあの頃素直になって、珠に想い伝えることが出来たなら、また違った関係を築けていただろうか?

酔いが回ったのか、忠興は珠と想い想われるように過ごす日々を夢想した。だが、すぐに「否」と自答し、酒を呷る。これまで珠にしてきた所業は、どう考えても常軌を逸している。やはり『狂気』を纏う己には、あのようにしか愛せなかったのだと、忠興は固く目を閉じた。



忠興は結婚当初から珠を屋敷の奥に軟禁していた。
誰にも盗られぬよう。珠が逃げ出さぬよう。まるで幼子が宝物を仕舞い込むように、屋敷の最奥に珠を閉じ込めていた。

生来活発な珠には、窮屈な生活だっただろう。不満を抱いていただろうに、珠が忠興に意見する事はなかった。
 
今思えば、あの頃が一番幸せだった。忠興と珠は、夫婦らしく、それなりに仲良く暮らしていた。
その証拠に、祝言を挙げた翌年には長女・於長おちょうを。更にまたその翌年には長男・忠隆を。若夫婦は続けざまに子宝を授かったのだから。 



珠との関係に暗雲が立ち込め始めたのは、珠の父である十兵衛殿(明智光秀)が、右府様(織田信長)を京都・本能寺で討つという愚行を犯してからだった。 

ーー珠は一夜にして『逆臣の娘』となったのだ。

「殿のお立場を守る為にも、どうぞ離縁して下さりませ」そう言って、珠は何度も離縁を申し出た。離縁が叶わぬのならば、いっそ殺してくれと縋ってきたこともある。

しかし、その頃には既に、忠興は珠なしの人生など考えられぬ程、珠を深く愛していた。離縁などできるわけがない。

もし、珠の申し出をのみ、離縁したとして。珠が刑に処され、命を絶たれるなら諦めようもある。だが、離縁した後、珠が再びに嫁ぐのだけは許せなかった。いくら罪人の娘とはいえ、子の為せるおなごは価値がある。珠ほどの美貌を兼ね備えていれば、尚の事だ。

珠のあの艶めかしい肢体を他の男も味わうのだと思うだけで、身体中の血液が煮えたぎるような激しい嫉妬を覚えた。その架空の男を八裂きにしてやりたくなった。


結局、忠興は、珠を丹後国たんごのくに味土野みどのの山中にある屋敷に匿った。『逆臣の娘』となれば、手柄を立てたい輩にその身を狙われることもある。珠を守りたいが為の、隔離・幽閉だった。

忠興は『逆臣の娘』である珠と離縁をせず、『幽閉』という名ばかりの罰で匿ったのだ。自らの首をかけて。
忠興は、当然自分の想いは、珠に伝わっていると思っていた。気持ちが通じ合い、相愛の仲だと信じこんでいた。

実際珠は、甘味や書物を手土産に、忠興が闇夜に紛れて訪れる度、喜んで迎えてくれていたのだ。




……しかし、己の想いはこれっぽっちも通じてはいなかったと、後に思い知ることとなった。
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