樹海暮らしの薬屋リヒト

高崎閏

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第1章

出会いの日

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 樹海の中はさまざまな音で溢れている。

 地下水が湧き出て沢を作り、苔むした岩場を流れていく音。風にそよぎ、木々があちらこちらで葉を揺らし、軋む音。霧の中にこだまして響く、幾羽もの魔鳥の鳴き声。魔獣の嘶き、群れを率いて地を踏む音。

 リヒトはそれらに耳を澄ませて、樹海の中を歩くことがすきだった。

 けもの道も無い木々の合間を歩きながら樹海の中を見渡す男がいた。癖のない香色の髪が背中の中程まで伸びており、紐で緩く結っている。

 健康的な成人男性と比べるとひょろりとした体躯で、分厚い上着を着込んでいてもどこか少し頼りない印象だ。

 紫苑色の瞳を細めて、木々の隙間の先を見つめていた男――リヒトは白い息を吐きながら独りごちた。

「さて、芽は出たかな……」

 リヒトが拠点としている場所から西方へ一刻ほど進んだ場所。種植えをした植物の様子を見にやって来た。

 足元には苔むした岩場が連なり、落ち葉と岩の隙間を縫うように水が流れていた。この辺り一帯は地下水脈がいくつも交差しており、至る所からちょろちょろと地を流れる水音がする。



 木々が開けた場所、リヒトの上背を少し越す程度の岩山まで辿り着いた。数週間ほど前に来た時は、青々とした草で覆われていたので、すぐに気づけなかったがどうやら目的地に辿り着いたようだ。枯れ草がしなる岩山は、以前に見た時と比べると全く別の様相だった。

 寒期に入った途端、樹海の様相は一変した。北側の山から吹き付ける強風が水辺の草木を凍てつかせ、濃い緑の草木は瑞々しさを失った。

 目的地であるこの場所は特に寒暖差の激しい場所で、もう少し季節が進むと水脈まで凍りつく。



 文献では寒期の初め、水脈が凍りつく前、というタイミングで芽吹くと記載されていた。

 リヒトはほっと一息つき、すぐに岩山に目を凝らし、岩と岩の隙間にそれを見つけた。

「よかった、ちゃんと発芽して成長してる」

 丸みを帯びた双葉とその細い茎の先に丸い蕾が見えた。その植物はファティナという。

 青々と草木が生い茂る季節とは真逆の季節に芽を伸ばし、苔と岩場を好んで育つ薬草がある。ファティナはその一つで、寒さが堪えるこの時期に芽吹く植物だった。

 双葉の芽から手のひらの長さほどまで育つと五枚の白い花弁を開かせる。芳香や見た目は他の花々と比べると特筆すべき点は無いが、開花時にしか得られないものがある。開花のタイミングも月光の満ちる夜にそっと花開き、その夜が明けてしまうとはらりと白い花弁を落としてしまう。

 運良く開花時に遭遇できないと採取できないもの。それについての詳細な記述は見当たらなかったが、おそらく一目見ればわかるのだろう。

 育成の難易度、採取の難易度がそれぞれ高く、その薬を高価なものにさせていた。

 固く閉じられた蕾の状態で確認できたのはとても有難かった。この様子なら数日と経たないうちに開花するだろう。

「マギユラから種を譲り受けたのが無駄にならなくてよかった」

 大烏を操る行商人のマギユラは領都とリヒトの家を行き来しては珍しい植物の種なども取引してくれる。

 リヒトさんなら育成も大丈夫だと思って~!と、ひひひっと笑う小麦色の肌のうら若い女子の顔を思い出す。天真爛漫なところはいい所なのだが、時折こうした無条件に信頼を寄せてくる部分もあり、リヒトは苦笑いを浮かべずにはいられなかった。

 ちょっと奮発しちゃったから今月は少し無駄買い我慢の月なの~と笑って言っていた彼女に、種の買取価格以上の品を卸すことができそうで安堵の息をついた。



 ピュイ、と指笛を鳴らしたリヒトは木々の向こうから聞こえてくる羽音に耳をすました。

 すい、と飛んで来たのは胴体が澄んだ空のように蒼く、羽先と尾羽が雪のように白く輝いた美しい魔鳥だった。リヒトが従えている鳥の一羽で、カエルラウェスという。

 リヒトの差し出した右手に飛び降りると、ピルピルと可愛らしい鈴のような音で鳴いた。

「ファティナの花が咲いたら収穫したいんだけど、咲いたらすぐに知らせて欲しい。いいかな」
「ピルルピー」

 諾の返答をもらい、協力してくれるカエルラウェスにはお礼を込めて道中で摘んだ小粒のベリーを差し出した。

 数粒啄むと、カエルラウェスは岩山のすぐ近くの木立に居場所を定めたのか、枝葉の上で羽を休ませた。

 リヒトの手のひら程度の全長の魔鳥だが、一昼夜で二つの国を行き来できるほどのスピードで飛ぶことが出来、速達の手紙を出す時などはとても助かっている。

 じゃあ、よろしくね、とカエルラウェスに告げたリヒトは来た道を折り返し、拠点へと帰ることにした。



 背の高い針葉樹が密集して広がる広大なシンハ樹海は魔獣や盗賊が跋扈する、危険度の高いエリアだ。

 冒険者にとってはレベルの高い腕試しができるため、強者はシンハ樹海を鍛錬の場として選ぶこともある。しかし、本質は魔の森であるため、地形変化や魔木が独りでに移動したりと、常人にとっては非常に迷いやすく、踏破が困難な森だった。

 そんな樹海に暮らし始めて早幾月。リヒトは勝手知ったるとばかりに我が庭のように森をさくさくと歩き進む。

 もう一月ほど季節が進めば、一帯に雪が降り積もる季節となるだろう。枯れ草や枯れ枝ばかりの道を見回しながら、リヒトはほうと白い息を吐いた。


 リヒトの拠点としている家まであともう少しというところで、木々が開けた水場に行き着いた。行きで来た道とは違う道を通ったのは気まぐれだったのだが、どうやら魔の樹海に導かれたようだ。

「……おや」

 黒玉色のつやつやとした鱗、すらっと伸びた首の背には同じく黒々としたヒレがついている。胴回りはがっしりとした骨格をしており、隆々とした筋肉のついた背からはリヒトの上背をゆうに越す羽根が伸びている。

 苔むした水辺にくったりと力なく、竜が横たわっていた。

 これだけ至近距離に近づいて反応が無いとなると、おそらく目の前の竜は眠っているか、はたまた動けないか。

 反応の見受けられないそこそこ大きな魔獣を前に、リヒトは首を傾げつつ注意深く観察した。

 純血種の竜は絶滅したと言い伝えられている。ならば、目の前に横たわるこの生き物は――。

 ようやく他人の気配に気付いたのか、黒竜の閉じられていた目が何度か瞬いた。琥珀色の瞳が覗く。

 きろり、と双眸がうごき、こちら側を捉えた。

 魔獣を前に、物陰に隠れなかったのには理由がある。絶滅したとされる純血種の竜だったのならリヒトの賭けは負けであるが、勝算があった。

 リヒトは歩みを止めたまま、目の前の黒竜に声をかけた。

「竜人の君、私はこの森に住む人間です。少し薬の知識があるので、もしかしたら君を助けられるかもしれない。もう少し近づいてもいいでしょうか?」

 風も止み、梢の音が遠くなる。静かな森の中で、黒竜と人間が対峙している。

 黒竜は動く気力もないようで、しばらくリヒトを真っ直ぐに見つめたままで動かず、ゆっくりとその眼を閉じた。

 おそらく、承諾してくれたのだろう。ありがとう、とリヒトは伝えると、黒竜へと歩み寄りそっとその鱗へと触れた。

 ひんやりとした黒竜の鱗が途端に粒子化し、周囲が淡く発光する。その光景を予見していたリヒトは黒竜が姿を変える様子をまっすぐに見つめた。


 柔らかな闇色の髪、まだ丸いあどけなさの残る頬の線、関節の浮き出ていない小さな手。砂や泥で薄汚れ、何日もさ迷っていたことが窺えるその人は、まだ年端もいかない子どもにしか見えなかった。


 純血種の竜と古代に人族が交わり、竜人族として生きるものたちがいる。人型と竜型に自在に移り変わり、竜型の際には一晩で二つの国を跨ぐ飛行技術を持ち、人型の際にも多量かつ多彩な魔力を用いて他の種族とは一線を画した生活をしていると聞く。

 ただ、本来ならば一定の人数で集落を作り、季節が巡ると共に集落ごと移動を繰り返す種族だということも知っている。

 目の前に力なく横たわる竜人の民は、人族で五、六歳頃の子どもにしか見えない。竜人族が長寿であることを差し引いたとしても、種族の中でも子どもであることは間違いないだろう。

 人里離れたこんな森の中で、たった一人で倒れていた理由は何だろうか?

 小さな呻き声にハッとして、リヒトは思考の海から浮かび上がった。

 何よりも先に、この衰弱しきった子どもを助けなければ。

「私の家がすぐ近くにあるので、そちらに運びますよ」

 意識はほぼない。返答が無いとわかってはいたが、声を掛ける。

 そっと子どもを抱え上げたリヒトは足早に家路を辿った。
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