481 / 761
side 和彦
2
しおりを挟むなぜ、あれほど難しかったことが、これほど簡単にできたのか。
秀に起こった変化と言えば、一つだけだ。秀はただ、願った。
会いたい、と。
雪虎と呼ばれたあの子に、また。
それは幼子ゆえに純粋で、一途な願いだった。たとえ、根っこにあったのが、興味本位や好奇心であったとしても。
またもう一度、雪虎と会ってみたかったからこそ、秀は自由を求めた。
それが、功を奏したのか。
あれほど難しかった力の制御を、気付けばいとも容易く秀は行っていた。ただ。
そのための原動力となった、雪虎に会いたいと願う、渇望は。
幼い心にとって、すぐ。
…酷い―――――重荷となった。
なにせ、外に出てからも、ずっと。
秀の心の向きは、雪虎にだけ、真っ直ぐに進んでいて。
せっかく、自由になったのに。
なんでもできるのに。
すべて許されているのに。
秀は何一つ、自由ではなかった。
雪虎が憎くなるのは、すぐだった。
どうして。
―――――あの子は、私を縛るのか。
父が、雪虎を特別扱いするのも、納得できなくて。
許せなくて。
なのに、自分の心からあの子を決して外せないのだ。すぐにわかった。父も、そうなのだと。
気付けば、雪虎のすべてが疎ましくなっていた。
それでも、視線は必ず、雪虎の姿を追っていて。
雪虎が、だいじにしているという小汚い少女に向ける、表情を見た刹那。
たちまち、すべてがひっくり返った。
引きずり戻された。
あの時、はじめて雪虎を見た日へと、心が。
雪虎には、どうあってもかなわない。
完膚なきまでに、秀は敗北した。
否、勝ち負けなどどうでもいい。秀はもう、骨の髄まで理解している。
雪虎が雪虎として、生きて、そこにいる。もうそれが、それだけが、秀にとってのすべてなのだ。
「…旦那さま、よろしいですか」
助手席に乗っていた男が声をかけてくるのに、秀は目を開いた。
「なんだね」
「穂高の若君は、もう本州方面に出て―――――無事、故郷へ向かっていると連絡がありました」
秀は、ゆっくりと俯けていた顔を上げる。
助手席の男は、事務的に言葉を続けた。
「穂高家に、戻った暁には」
「手筈通りに」
ぞっとするような秀の声にも、臆することなく、月杜家に代々仕える男は頷く。
「了解しました。穂高家が始末に動く前に、月杜の者の手で片付けます」
月杜の手で始末したいなら、なぜ、わざわざ穂高家へ返すのか。
そのように思われそうだが―――――まずは穂高家へ戻すことに、意味がある。
秀は明かりが流れていく窓の外へ目を向けた。
雪虎は、こちらへ向かう前に、かかりつけの医師のところへ預けている。
付き添いを一緒にいた者数名に頼み、秀が踵を返したところ。
―――――どこ行くんだ…いや、ですか。
雪虎は、秀の前に、立ち塞がった。怒った顔で。だが。
いつも強い印象の目に浮かんでいたのは、心配だ。
幼い頃から、ああいった表情は変わらない。おそらく、雪虎は察したのだろう。
秀にとって、これからが今日最大の仕事の仕上げの時間だと。
―――――用事はもう終わったんじゃないんですか?
訊きながらも、どう言えばいいのか分からない、と言った態度で、雪虎は言葉を不器用に紡いだ。
終わった、と言えば、じゃあこのまま秀と一緒に行く、と返され。
診察があるだろう、と言えば、終わるまで待っていろ、と来た。
危険な場所へ、雪虎を連れて行きたくはない。
内心、ほとほと困っていると、雪虎は真っ直ぐな目で、核心をついてきた。
―――――危ないこと、しに行くんじゃ、ないだろうな。
その表情を思い出し、温かな心地になった半面。
車の中で、秀は独り言ちた。
「…トラを蹴った、だと」
呟きと共に、車内の空気が、凍えるほどに、冷えた。
秀の身を案じる雪虎の顔に、自身を傷つけた相手に対する恨みなど、もう微塵も残っていなかった。
殴り返して、彼の中では本当に、それで終わったのだ。
雪虎は一度やり返せば、もう、尾を引かない。ただし。
秀は、そうではない。
…秀が答えるまでは引かない、先ほどの雪虎は、そんながんとした態度で立ち塞がった。
彼が、真正面から、じっと秀の目から視線をそらさないのは、珍しい。
秀がすぐに答えなかったのは、そんな雪虎の表情を、もう少し堪能しようと思ったからだ。
だが、なぜそんな表情を雪虎が浮かべるのかは分からなかった。
だいたい、普段の雪虎の反応と言えば。
基本的に、秀を疎んじている。
なのに、その時の雪虎からは、秀から距離を取ろうとする意思を感じなかった。そのせい、だろう。
気付けば、手が伸びていた。
右手で、そぉっと頬に触れれば、ぴくりと雪虎の肩が揺れる。
戸惑った態度で、彼の視線が振れた秀の手がある方へ動いた。
秀は触れた指先で、頬の輪郭を撫で下ろすように、して。
雪虎の顎を掴んだ。そのまま、当惑した顔を上向かせ―――――…。
触れた、感触を思い出した秀は、車の中で、ふ、と指の甲で唇の輪郭をなぞった。
正直なところ、雪虎に害をなした相手は、すべて消し去りたい。なにせ、彼らは。
秀から雪虎という存在を、奪う可能性があったからだ。
その根にあるのは―――――恐怖だ。
笑うしかない。
鬼だなんだと恐怖と畏怖の対象でありながら、月杜秀は、たったひとりを失うことが耐えられないのだ。
だが、中学の頃、無茶なことをやらかしていた雪虎には、相当敵も多い。
もし、秀が。
気持ちのままに行動し、そのいっさいを片付けていれば、今頃、雪虎と同年代あたりの人間は、地元では不自然なくらいに数を減らしていただろう。
ゆえに、秀は耐えた。
子供の頃から、ずっと。
消し去りたい衝動を、堪え続けた。
だいたいそんなことは、雪虎は望んでいない。それを思えば黙っていることもできたのだ。だが、今回は。
穏やかだが、凍った刃のような声で、秀は続けた。
「いくら殺しても殺したりないが…仕方ないね」
たった一度、殺されるだけで済むならば、優しい方だろう。
0
お気に入りに追加
0
あなたにおすすめの小説

異世界漫遊記 〜異世界に来たので仲間と楽しく、美味しく世界を旅します〜
カイ
ファンタジー
主人公の沖 紫惠琉(おき しえる)は会社からの帰り道、不思議な店を訪れる。
その店でいくつかの品を持たされ、自宅への帰り道、異世界への穴に落ちる。
落ちた先で紫惠琉はいろいろな仲間と穏やかながらも時々刺激的な旅へと旅立つのだった。

男爵家の厄介者は賢者と呼ばれる
暇野無学
ファンタジー
魔法もスキルも授からなかったが、他人の魔法は俺のもの。な~んちゃって。
授けの儀で授かったのは魔法やスキルじゃなかった。神父様には読めなかったが、俺には馴染みの文字だが魔法とは違う。転移した世界は優しくない世界、殺される前に授かったものを利用して逃げ出す算段をする。魔法でないものを利用して魔法を使い熟し、やがては無敵の魔法使いになる。

間違い転生!!〜神様の加護をたくさん貰っても それでものんびり自由に生きたい〜
舞桜
ファンタジー
「初めまして!私の名前は 沙樹崎 咲子 35歳 自営業 独身です‼︎よろしくお願いします‼︎」
突然 神様の手違いにより死亡扱いになってしまったオタクアラサー女子、
手違いのお詫びにと色々な加護とチートスキルを貰って異世界に転生することに、
だが転生した先でまたもや神様の手違いが‼︎
神々から貰った加護とスキルで“転生チート無双“
瞳は希少なオッドアイで顔は超絶美人、でも性格は・・・
転生したオタクアラサー女子は意外と物知りで有能?
だが、死亡する原因には不可解な点が…
数々の事件が巻き起こる中、神様に貰った加護と前世での知識で乗り越えて、
神々と家族からの溺愛され前世での心の傷を癒していくハートフルなストーリー?
様々な思惑と神様達のやらかしで異世界ライフを楽しく過ごす主人公、
目指すは“のんびり自由な冒険者ライフ‼︎“
そんな主人公は無自覚に色々やらかすお茶目さん♪
*神様達は間違いをちょいちょいやらかします。これから咲子はどうなるのか?のんびりできるといいね!(希望的観測っw)
*投稿周期は基本的には不定期です、3日に1度を目安にやりたいと思いますので生暖かく見守って下さい
*この作品は“小説家になろう“にも掲載しています

5歳で前世の記憶が混入してきた --スキルや知識を手に入れましたが、なんで中身入ってるんですか?--
ばふぉりん
ファンタジー
「啞"?!@#&〆々☆¥$€%????」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
五歳の誕生日を迎えた男の子は家族から捨てられた。理由は
「お前は我が家の恥だ!占星の儀で訳の分からないスキルを貰って、しかも使い方がわからない?これ以上お前を育てる義務も義理もないわ!」
この世界では五歳の誕生日に教会で『占星の儀』というスキルを授かることができ、そのスキルによってその後の人生が決まるといっても過言では無い。
剣聖 聖女 影朧といった上位スキルから、剣士 闘士 弓手といった一般的なスキル、そして家事 農耕 牧畜といったもうそれスキルじゃないよね?といったものまで。
そんな中、この五歳児が得たスキルは
□□□□
もはや文字ですら無かった
~~~~~~~~~~~~~~~~~
本文中に顔文字を使用しますので、できれば横読み推奨します。
本作中のいかなる個人・団体名は実在するものとは一切関係ありません。

今さら言われても・・・私は趣味に生きてますので
sherry
ファンタジー
ある日森に置き去りにされた少女はひょんな事から自分が前世の記憶を持ち、この世界に生まれ変わったことを思い出す。
早々に今世の家族に見切りをつけた少女は色んな出会いもあり、周りに呆れられながらも成長していく。
なのに・・・今更そんなこと言われても・・・出来ればそのまま放置しといてくれません?私は私で気楽にやってますので。
※魔法と剣の世界です。
※所々ご都合設定かもしれません。初ジャンルなので、暖かく見守っていただけたら幸いです。

没落した建築系お嬢様の優雅なスローライフ~地方でモフモフと楽しい仲間とのんびり楽しく生きます~
土偶の友
ファンタジー
優雅な貴族令嬢を目指していたクレア・フィレイア。
しかし、15歳の誕生日を前に両親から没落を宣言されてしまう。
そのショックで日本の知識を思いだし、ブラック企業で働いていた記憶からスローライフをしたいと気付いた。
両親に勧められた場所に逃げ、そこで楽しいモフモフの仲間と家を建てる。
女の子たちと出会い仲良くなって一緒に住む、のんびり緩い異世界生活。

〈完結〉【書籍化&コミカライズ・取り下げ予定】記憶を失ったらあなたへの恋心も消えました。
ごろごろみかん。
恋愛
婚約者には、何よりも大切にしている義妹がいる、らしい。
ある日、私は階段から転がり落ち、目が覚めた時には全てを忘れていた。
対面した婚約者は、
「お前がどうしても、というからこの婚約を結んだ。そんなことも覚えていないのか」
……とても偉そう。日記を見るに、以前の私は彼を慕っていたらしいけれど。
「階段から転げ落ちた衝撃であなたへの恋心もなくなったみたいです。ですから婚約は解消していただいて構いません。今まで無理を言って申し訳ありませんでした」
今の私はあなたを愛していません。
気弱令嬢(だった)シャーロットの逆襲が始まる。
☆タイトルコロコロ変えてすみません、これで決定、のはず。
☆商業化が決定したため取り下げ予定です(完結まで更新します)

モブ転生とはこんなもの
詩森さよ(さよ吉)
恋愛
あたしはナナ。貧乏伯爵令嬢で転生者です。
乙女ゲームのプロローグで死んじゃうモブに転生したけど、奇跡的に助かったおかげで現在元気で幸せです。
今ゲームのラスト近くの婚約破棄の現場にいるんだけど、なんだか様子がおかしいの。
いったいどうしたらいいのかしら……。
現在筆者の時間的かつ体力的に感想などを受け付けない設定にしております。
どうぞよろしくお願いいたします。
他サイトでも公開しています。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる