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ルカ(聖夜月ルカ)

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008 : 芸術神(ミューズ)の指先

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ところが、しばらくすると広場のあちらこちらから、すすり泣く声が聞こえてきたのだ。
クロワも…そして、カーラまでもが涙を流している。 
私の中にも胸が締め付けられるような想いが去来し、理性を忘れ、思いっきり涙を流した。

男だから、大人だからという理性はどこかに吹き飛び、泣いて泣いて泣いて…心の澱が涙に変わって流れていくようだった。

その不思議な音色が止まるまで、私はずっと涙を流し続けていた…

やがて、演奏が終わり、広場には割れんばかりの歓声が巻き起こった。

男は立ち上がり、皆に向かって深々と頭を下げる。

本当に、なんと素晴らしい演奏だったのだろう…
私もその興奮が覚めないまま、男に賞賛の拍手を送っていた。

その時だった。
男の身体がぐらりと揺れたかと思うと、そのまま前のめりに倒れこんでいった。

女性の悲鳴があがり、何人かが男に駆け寄って行った。
クロワもその中に混じって男の元へ走った。
そして、持っていた薬を飲ませた。
ミシェルは男を背負い木陰へと運んだ。

しばらくすると、男は気分が楽になったらしく、やっと起き上がれるようになった。



「すまなかったな…迷惑をかけてしまって…」

「気にすることないさ。
それより、あんたの演奏すごかったよ!
あたし、涙が止まらなくなってさ…!」

「そうかい。
聴いてくれてありがとうよ。」

「あんた、どこに泊まってるんだい?
良かったら送って行くよ。」

「ここへはまだ着いたばかりでな。
宿は取ってないんだ。」

「そうなのかい?
じゃ、うちに来なよ!
このあたりにはろくな宿はないからさ。」

「そんな…会ったばかりでそこまでは…」

「良いのさ、私達はそういうこと気にしない性質なんだよ。」

結局、男もカーラの家で厄介になることになった。

男の名は、エドモンと言うらしかった。

「ねぇ、あの楽器はなんて言うんだい?」

「あれは…ミューズ…」

「ミューズ?」

「正式な名前じゃないんだ。
言ってみれば、呼び名みたいなもんだな。」

「ふ~ん。
あんたの故郷の楽器かい?」

「…いや…そうではないんだけどな。」

エドモンはミューズについては、それ以上、語ろうとはしなかった。

エドモンは演奏をしながら、町から町へと渡り歩いているらしい。

たまたまエドモンと出会え、彼の演奏を聴けたことに私は感謝した。
一日でも前後していたら、あの素晴らしい演奏を聴けることはなかったのだから… 
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