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人形流し

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(美味しい……)



 駅の裏手の小さな喫茶店の前を通った時、鼻をくすぐったコーヒーの良い香りに誘われて、私は思わずその店に入っていた。
 四人掛けのテーブル席が三つとカウンター席がいくつか。
お客は、奥のテーブル席に年配のカップルがいるだけだった。



 白髪のマスターがコーヒーを点てていた。
 私は、カウンターの端に座った。
 期待通りの味だった。
 私は特にコーヒー通ってわけではないけど、これは絶対に美味しいコーヒーだ。



コーヒーを一口すすっては、小さな溜め息を吐く。
さっきのことをぼんやりと考えながら…



私は思ったよりもずっと落ち着いていた。
 達成感のようなもので心が満たされているせいだろうか?
だけど、高揚感はない。
 凪いだ海みたいな…そんな感じ。



 「お客さん、これ、ご存知ですか?」

カウンター越しに、マスターの連れ合いらしき女性が差し出したのは、人の形をした紙だった。



 「知らないです。なんですか?」

 「これは人形というもので、人の身代わりみたいなものです。
この人形に身の罪や穢れを移してもらって、それを川に流すんです。」

 「……罪や穢れ……?」

 「ええ、正しく生きてるようでも、人は知らないうちに罪を犯しているものですからね。
 知らず知らずのうちに、穢れがたまっていくんです。
すぐ傍の神社に人形流しの川があるんですけど、宜しければあなたもいかがですか?」



その話を聞いた時…私はおかしくなってたまらず、必死になって笑いを噛み殺した。



 「あの……どうかなさいましたか?」

 「い、いえ……」



 私は、彼女の提案を断ると、店を後にした。



 (あ……ここか……)



 店の人が言ってた神社はすぐにわかった。
さっきの話が気になったわけではないけど、暇だからちょっと寄ってみることにした。



 神社の中には小さな浅い川があった。
おそらく、そこが人形流しの川だ。



 残念ながら、誰もいなくて人形の流れる様子は見られなかったけれど…
見た所で、それほど面白いものでもないだろう。



 穢れ……
私には一体どれほどの穢れがあるだろう?



 私の罪や穢れを移したら…
人形は真っ黒になってしまうんじゃないだろうか?
それとも……赤?



 順子の口から流れた血が、思い出された。



 私から彼を奪った順子…
大学の時からの親友だったのに、私を裏切った順子…



何度も諦めよう…順子と彼を赦そうって思ったけど、だめだった。



 結婚のお祝いを渡したいと言って、私は順子の家を訪ねた。
 彼女は私の話をすっかり信用していた。
 他愛ない話をして、結婚のお祝いの品を渡し…
乾杯しようと言って、ワインに毒を入れた。



 穏やかな笑みを浮かべた顔が、急に苦痛に満ちた顔に変わって…
彼女は口から血を吐いて、絶命した。
とても簡単で、とても呆気なくて…



人を殺したという事実がピンと来ない程だった。



 私の罪、穢れをみんな流してしまうには、一体どのくらいの人形が必要だろう?
 無数の黒や赤の人形が、この小さな川を群れを成して流れて行く様を想像したら、とてもおかしい気分になった。



 私はいつの間にか笑っていた。
 声高らかに…



川のほとりに佇む花菖蒲だけが、そんな私を静かに見ていた。


 
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