上 下
32 / 50
第一章

第8話(3)早朝の出発

しおりを挟む
「ふあ~あ……」

 技師が大きなあくびをする。藤花が笑う。

「ふふっ、随分と眠そうだね」

「そりゃあそうでしょ……今何時よ……?」

 技師が眼鏡を外して、まぶたをこする。

「もうお日様は昇り始めているよ」

 藤花が空を指差して答える。

「いくらなんでも朝早すぎない?」

「遅すぎるくらいだよ……」

「! ……」

 技師が眼鏡をかけて真顔になる。

「さっさとここを抜けるよ」

「ご主人に挨拶をきちんとしたかったけどね……」

「また機会はあるさ」

「藤花さん、技師さん」

 楽土が馬を三頭連れてくる。

「どうもありがとうございます、楽土さん。さあ、屋敷を出ましょう」

「はい」

 藤花たちは馬を連れて屋敷を出る。藤花は技師が進もうとした方向とは逆を行く。

「あれ?」

「藤花さん?」

「……こちらです」

「町を出るんだろう?」

「そうですよ」

「ならこっちの方が近道だよ」

「急がば回れっていうでしょう?」

「え?」

「大きな通りには監視の目が光っている恐れがあります……」

「もう手が回っているのですか?」

 楽土がやや驚きながら尋ねる。

「さあ?」

「さ、さあ?って……」

「分かりませんよ。ただ、警戒するに越したことはないです……」

「ふむ……」

「なんとも用心深いねえ……」

 楽土と技師が方向を転換し、藤花に続く。

「……ほら、こちらは人通りが少ない……」

 藤花が呟く。

「そうですね」

 楽土が頷く。

「読み通りです……」

「すごいですね」

「……単に朝早いからじゃないの?」

「……」

「おい、無視すんな」

 技師が藤花に呼びかける。

「え?」

「え?じゃないよ」

「それにしたって、朝早く出るという判断は間違っていなかったはずです」

「まあ、それは確かにね……」

 技師が顎をさすりながら頷く。

「ふふっ……」

 藤花が微笑む。

「この道を通るというのは昨日、地図とにらめっこをした結果?」

「ああ、これですね」

 藤花が懐から地図を取り出す。

「この城下町の地図かい?」

「そうですよ」

「いつの間にそんなものを……」

「日ノ本中の有名な町の地図は大体持ち歩いていますから」

「そうか」

 技師が頷く。楽土が口を開く。

「え、ちょっと……」

「? どうかしましたか、楽土さん?」

「い、いや、日ノ本中の地図を持ち歩いているって……」

「ええ、それが何か?」

「ど、どこにそんな量の紙を……」

「……楽土さん、いやらしいですね」

 藤花が冷たい目を楽土に向ける。

「えっ⁉」

「楽土さん、それは流石に引くわ……」

「ええっ⁉」

 技師の言葉に楽土が驚く。

「楽土さんも所詮は男ですか……」

「残念だね……」

 藤花と技師が同意する。

「い、いや、意味が分からない……」

 楽土が困惑する。

「白々しいですね……」

「そ、その紙は質が良いですね!」

 楽土が半ば強引に話題を変える。

「……この辺の名産ですからね」

「ああ、ご公儀や公方さまへも献上しているとか……」

「それどころか南蛮のお偉いさんの奥方も鼻かみに使ったとか使ってないとか……」

「ええ?」

「まあ、それはあくまでも噂ですけれど」

「は、はあ……」

「これだけ良質なのです。ゆくゆくは国の大事でも使われるかもしれませんね」

「国の大事?」

「ちょっとした戯言です……」

「はあ……」

「ちょいとそこのお三方……」

 しょぼくれた中年の侍が藤花たちに声をかけてくる。

「……なにか?」

 藤花が地図をさっとしまって問う。

「こんな朝早くにどちらに?」

「……ちょっと遠くまで出かけるのです」

「馬で仙台なら、遅くとも夕暮れまでには着くでしょうに。何もそんなに焦らなくても……」

「楽土さん!」

「はい!」

 楽土が技師を持ち上げ、馬に乗せる。

「どわっ⁉」

「逃げますよ!」

「はい‼」

 藤花たちも馬に跨って、その場を素早く離れる。

「読み通りだ……追え!」

「⁉」

 どこからか現れた、鎧武者が乗った馬たちが藤花たちを追いかけ始める。
しおりを挟む

処理中です...