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第三章 「暗中模索」
3時限目
しおりを挟む夏休みの後半を集中的に使い、俺らは千晃さんと神楽坂に教えてもらいながら、多すぎる課題を何とかしてやり遂げた。すげえ、宿題って終わるものなんだな。
矢来、飯田、千代田の順で宿題を終了する。最後は俺だったけど、千晃さんが懇切丁寧に、かつ辛抱強く付き合ってくれたおかげでギリギリ間に合った。今は二十五日だ。まさか〆切前に仕上げられるとは。水ノ宮学園の知性は偉大である。
先に仕上げた千代田たちは「後はお二人で仲良くな!」とメッセージだけ残して、俺を決戦場へ送り出していった。礼を言うのも悔しいので既読スルーしてやった。
いつもの待ち合わせ場所に着き、千晃さんの指導を受けながら最後の数学の公式を解いていく。
千晃さんの隣には神楽坂がいて、ウンウン唸る俺の問題集に助言を与えたり、「こら、寝るな」「サボるな」とスパルタ教官よろしく俺を小突いた。ムカつくが今の立場では逆ギレもできない。
昼も過ぎて、施設内の併設カフェで軽く食事を済ませた後、ラストスパートをかける。俺の最も苦手とする数学は、無理ゲーの中のラスボスのようだ。こんなに強い敵を今まで見たことがない。
けれど、自分一人では太刀打ちできない状況でも、隣には千晃さんがいる。ついでに神楽坂も、邪魔だがここにいてくれる。
心強いサポーターのおかげで、俺はついに最後のページの応用問題を解くことに成功した。
「……お、おぉ……!」
宝の山を発見したみたいな歓声を漏らし、俺は震えた。
「できた……。数学が、できた……!」
「すごいよ、幸介くん!」
感動で打ち震える俺に合わせて、千晃さんが満面の笑みを浮かべて褒めてくれる。
「うぉー! 千晃さん、頭撫でてくれ!」
「ふふ、いいよ」
千晃さんの、細いが節ばった男の手が俺の頭にふわりと降り、優しくわしゃわしゃと触れてくれる。気持ちいいなあ。
「よくがんばったね」
千晃さんが笑いかけてくれた。めちゃくちゃ可愛い。そして綺麗だ。
やっぱりこの人、整った顔立ちだなあ。
共学だったら、間違いなく「爽やか王子」とか呼ばれて、女子たちがこぞってファンクラブとか作ってただろうな。
「千晃さんって、水ノ宮でもモテてる?」
腕組みをして俺たち二人の様子を観察している神楽坂に、俺は聞いた。「何言ってるの、幸介くん」と千晃さんは焦ってるけど、男子校でも人気ありそうだよな、この人。
「知らん、そんなことは。ただ、千晃を追いかけてうちの学校に転入してきた男の噂なら流れたことがあるが」
「いやストーカーだろ! 追い出せや! 何でそいつ入学できた!?」
大和撫子を俗世に解き放ってはいけなかった。あちこちから悪い虫が沸いて出てきやがる。
「ただの悪い噂だよ」と千晃さんは笑いながら否定するばかりだ。あのね、あんた、身の危険を感じなさ過ぎだから。
――あの時のキスだって、あんたがあまりにも無防備で。
……俺は最低な思考回路をしているな。あれは完全に俺の方に非があるのに。
三人で図書館から出て、帰り道を歩く。
気温はまだまだ高いけれど、空の色は夕刻になるにつれて、だんだんと九月の色に近づきつつあった。日の入りが早くなったり、風の温度が熱風から涼風になりつつあったり、時間は前へと着実に進んでいる。
「見ろ、神楽坂! 俺の本領発揮を!」
「お前の頭にしてはがんばったな」
相変わらずこいつは偉そうだな。そんな態度で、千晃さん以外に友だちいるのかね?
「啓はみんなに頼りにされていて、学級委員長もやってるんだよ」
千晃さんが俺の心を読んだかのようなタイミングで神楽坂をフォローする。マジで? 見た目的に何の違和感もないけど、こいつが人の世話を焼くとは思えないんだが。
だべっているうちに分かれ道に差しかかり、神楽坂は「駅の書店に寄ってくる」と言って、先に帰るように俺たちを促した。
「わかった。じゃあまたね、啓」
千晃さんが手を振り、俺も義理として同じようにする。神楽坂はメガネの縁をスッと上げ、「じゃあ」と一言残すと本道《ほんどう》駅に向かっていった。
その場は俺と千晃さんの二人になる。
夏の名残の風が俺たちの間を吹き抜ける。
いろいろな物事が終わって、次の季節へ行くんだなと、突然思った。
「幸介くん、今日は本当によくがんばったね」
千晃さんが、隣の俺に視線を向けて「おめでとう」と言ってくれる。優しくて、律儀で、礼儀を欠かさない彼のことが大好きで、だからこそ、こんなに苦しい思いをしてしまうのかもしれない。
俺は足を止める。
不思議そうな顔を浮かべ、千晃さんも立ち止まって俺を見た。
向かい合わせになる形で、俺たちは対峙した。
周りに人はいない。夏休みだし、ここの一本道は混雑する時間帯がある程度決まっていて、それ以外は空《す》いているんだ。
俺はこの日を狙っていた。
そして、言ってやった。
「今日は神楽坂と帰らないんだな」
ぎくりとした顔を浮かべ、千晃さんの表情が固まる。少し青ざめたようにさえ見える。
俺は畳みかけた。
腹の中に渦巻く、どす黒い感情に身を任せて。
「俺が勘づいてないとでも思った? あんた、神楽坂を護衛に使ってるだろ。一人じゃもう俺らの前に出れないんだ」
千晃さんの目が泳ぐ。口をつぐみ、黙り込んでしまう。こうなるとこの人はなかなか次の言葉を発しない。しばらく一緒に過ごして、見えてきた一面だ。
「何で、そんなことすんの」
千晃さんが下を向く。「……それは」とつぶやいたきり、こっちに目を合わせようとしない。気まずくなるとこういう行動に出るのは彼の癖だ。
「俺が、怖いからか?」
彼の瞳が見開かれた。
ああ、図星なんだなと、俺は合点がいった。
「もう、近づくことも許されない?」
自分で言ってて虚しいな、これ。でもぶつけてやらないと気が済まない。済みそうにない。
俺の問いに千晃さんはようやく顔を上げ、首を振って否定した。
「そんなことないよ。ただ……、断るべきことが一つ、あって」
スゥ、と息を吸う音が聞こえた。彼の呼吸がやけにリアルに俺の耳に響いたのは、偶然だろうか。
一拍分の間をおいて、説《と》かれる相手の感情。
「僕は、男性を、友だちという意識でしか見れないんだ。それ以上の感情は、持てない」
千晃さんの口調は柔らかかったけれど、その裏には確固とした断りの意思が感じられた。俺と恋仲になるつもりはないという、優しくも閉じられた返事。俺が踏み込むことはもうできないんだ。
彼は慰めるつもりなのか、次の一言を放った。
「友情なら、あるから」
心の中を、乾いた風が吹き抜けていく。
容赦なく、ぱさついた皮膚を剥がすかのように。
「友だちのままじゃ、ダメかな?」
――ああ、千晃さん。
あんたも、それ言っちゃうタイプですか。
その返しは正直、聞き飽きました。
「友だち」
空虚な心で、俺はくり返した。
「うん」と千晃さんが顔色をうかがうようにうなずく。その目には俺への許しを請うような、今までに見ない媚びを含めたまなざしが宿っていた。
それが、何だかひどく癇に障った。
何で?
あんた、そんなことをする人じゃなかったじゃん。
好きな人と、友だちのままでいる。
ずっと隣にいることができて、最も美味しいポジションに見えて、何も手に入れられないカスの位置。
思い出を共有しながら、楽しい時間だけ一緒にいて、何もかも分かち合う気になれただけで、相手の心の中には別の誰かが存在しているんだ。
世界でいちばん愛しい人は、俺じゃないってことなんだ。
だけど、そばには居てほしいってか。
それを、受け入れろというのか。
「無理に決まってんだろ、そんなこと」
強めの口調で、俺は吐き捨てた。
その場の空気が一瞬にしてひりつき、千晃さんが怯えるように顔をこわばらせる。俺も同じくらい傷ついているのに。
ダメだ。止まらない。怒りなのか悲しみなのか判断がつかない感情に揺さぶられて、今まで隠してきた本音をまくしたてた。
「俺はあんたのこと、下心で見てるよ。これからも、ずっと。そういう相手に、“ずっと友だちでいよう”なんて残酷な台詞、よりによってあんたが吐くわけ?」
千晃さんが硬直している。
これ以上、彼を責めるわけにはいかないと心が警告を出している。けれどもう一人の俺が警告を無視して突っ走る。
俺は言った。
「仮にずっと友情が続いたとして、将来あんたに恋人ができたらさ、俺はあんたを祝福しなきゃいけないわけか? 友だちの立場であんたに接することは、俺にとって我慢できることじゃない。そんな関係じゃいられない」
「幸介くん……」
千晃さんは泣きそうだった。
俺も、泣きたい。
何だか二人、すごく愚かな行為に走っている気がしてならなかった。
発する声は、誤魔化しようがないほどに涙声で濡れている。
「……想像してくれよ。あんたがずっと忘れられなかった人がいたとして、友だちのままでいようって言われて、納得できるのかどうか」
その場の空気が変わった。千晃さんが息を飲んだのがわかった。
何で、気づかないかな。
「あんた、俺に同じこと、してるよ」
人は自分に対しては甘くなってしまう。俺も千晃さんも、聖人君子なんかじゃない。そんな器の大きい人格者には程遠い、まだまだガキのままの、未熟な高校生そのものだった。
「ごめん」
千晃さんの謝罪が聞こえる。でも俺がほしいのはそんな言葉じゃない。
腹が立った。そして猛烈に悲しかった。千晃さんに対しても、俺自身に対しても、ひどい裏切られ方をされた時と似た烈しい感情が湧き上がって止まらない。
俺は、大人の対応をする術など、何一つ持っていない。
「何で少しも想像してくれないんだよ!」
叫んだ。
ひどくみじめで、自分がどうしようもないガキに思えた。
感情をぶつけている時点で、俺は負けているのに。いろいろな意味での、すべてに対しての敗北なのに。
わかっているのに抑制が効かない。
「あんたはバカだ! 大バカなやつだよ! 音羽千晃なんか大嫌いだ!」
俺は、何を言っているんだろう。
こんな風に接したいわけじゃないんだ。
でも止まらなかった。駄々っ子と同じだと自覚していても、この人が俺のことを少しもわかってくれない事実に傷ついている。情けない女々しさを晒している自分自身にも嫌気が差して、どうにもならなくて、俺は千晃さんから背を向けた。
大股で離れていく俺に、向こうから声がかかることはなかった。
――千晃さんの、バカ野郎。
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