オレと君以外

泉花凜 いずみ かりん

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第三章 「暗中模索」

2時限目

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 正直、千晃さんは反応しないだろうなと思っていたのに、予想に反して、彼は来た。俺たちのところへ。

 行きつけの図書館に学生用の自習スペースがあり、そこは私語が禁止されていないということで、千晃さんが指定した本道区一丁目の公共図書館に、俺たちは向かった。

 他の都区より圧倒的に広い、直線に伸びる一本道を六人でぞろぞろと歩く。道幅の余裕はまだまだあり、通行人の目も気にすることなく俺たちは思い思いにしゃべっていた。

 六人のメンバーは、俺たちいつもの集まりと、千晃さんと、ついて来た神楽坂。年上だが神楽坂に敬称も敬語もいらない。ライバルだし、気に食わねえし。

「あくまで勉強を教えてもらうだけだからな。これは借りじゃねえ。俺はお前の生徒になる気はないって意味だ」
 俺が神楽坂に突っかかると、やつは表情一つ変えず、
「こっちも、お前のような生徒はいらん」
 とのたまった。

「んだとぉ!? 言っとくがな、俺はメガネなんか怖くねえぞ! いくらお前がその高そうな銀縁をクイッと上げてアピールしたって、俺にダメージを与えられると思うなよ! お前がテストで満点取ったとしてもだ、俺には関係ねえ! お前が因数分解を余裕で解いたところで、俺は体育祭でクラスを優勝に導いた男だからな! たとえお前がフェルマーの最終定理を解き明かしたとしても、その頃の俺はオリンピックに出て金メダルを獲得している!」
「……そろそろ口を開くのをやめたらどうだ? 頭の悪さが露呈《ろてい》してるぞ」

 神楽坂は心底ドン引きした顔で俺を見ている。こいつひどくね? 何でこんなやつが千晃さんの隣を勝ち取ったんですかね?

 俺たちがにらみ合いをしているうちに、目的地は現れていた。

「着いたよ」と先頭を歩いていた千晃さんが振り向いて言う。はーい、と仲間たちは行儀よく答え、「暑いー、空調効いた図書館は天国―」とつぶやいた千代田の言葉にみんなが笑う。確かに夏休みはありがたいけどマジで暑いもんな。

 本道区一丁目の図書館は『中央図書館』であり、二丁目、三丁目もあるがそこは分館という扱いで、ここほどは広くも大きくもない。子どもの頃からまったく縁のなかった図書館は、ほどよく効いたクーラーの冷風が気持ちよく、本当に人の話し声が聞こえなくて静かだった。まるで異世界。

 千晃さんに案内された、二階の学生用自習スペースはもう少し賑やかだった。つっても騒いでるわけじゃなく、小さな声で話し合っている。髪の色が派手な俺たちを見つけ、周りは一瞬驚いた表情を浮かべるが、すぐに集中力を戻して自分たちの勉強に向かう。なかなかクールね。

「それじゃあ、始めようか」と千晃さんが言う。

 俺たちは空いてるテーブル席を埋め、千晃さんの教える担当は俺と千代田、神楽坂の担当は飯田と矢来となった。自然な流れで俺と千晃さんはペアにされてしまったが、千代田が中間に入って空気を引っ張ってくれる。ありがとう、心の友よ。

「俺さー、古典がわからないんだよ」

 千代田が教科書を出して千晃さんにアドバイスを乞う。

「古典は、まず古文の単語を覚えなきゃいけないから、今の日本人の僕たちにとっては、ほとんど外国語だよね」

 千晃さんはまず相手の苦手分野に同調してくれて、次に対策を立ててくれた。

「まず、古典は大昔の小説、つまりは物語だから、そういう風に捉えてみよう。主人公は誰で、何を、どうしたのか。ストーリー運びはどれもこの手法で展開されていくよ」

 へえー、と千代田が千晃さんの用意した古典ハンドブックを覗き込み、興味津々にうなずいている。千晃さん、用意周到だな。事前準備を怠らない彼の律儀な性格がまた俺の心をくすぐる。

「あと、苦手分野はある?」
「現代文も全部わかんない。そもそも国語が苦手でさー。特に小説読解なんか、『この時の作者の気持ちを述べよ』って、作者にしかわかんねえじゃん、そんなこと」
「あはは、確かにそうだね」
「俺たち、みんな他人なんだから。公式の正解がはっきり示されてる数学の方がまだマシ」

 千晃さんは頻繁にうなずいて、千代田の話を聞いてくれている。こいつ、どちらかといえば理数系だもんな。数学だけちょっと成績よかった気がする。

 千代田のふくれっ面を微笑ましく見つめながら、千晃さんが話し出した。

「確かに数学と全然違って、国語の解答は、本来は正解がないからね。小説の読解は、特に難しいよね。でも、こう考えてみたらどうだろう?」

 穏やかな声で、千晃さんが提案する。

「人の書く文章に、確固とした正解はない。間違いもない。それはつまり、すべてが正解ということなんだ」

 すべてが、正解。
 その定義は今まで考えたこともなかった。目から鱗だ。
 真剣に話を聞く俺ら二人に、千晃さんは丁寧に説明を続ける。

「これが正解で、これは間違っている。そういった区別がない分、国語は無限の可能性を秘めた分野の学問なのかもしれない」

 学問って、勉強って、可能性なのか。
 それも初めて知った感覚だ。

「例えるなら、一つの正解にたどり着くのが理数系。星の数ほど正解が存在するのが文系。地球から見れば、太陽や月は一つだけど、星は目に見えないものも含めて無数にある。太陽が数学、星が国語だと考えてみよう」

 千晃さんの説明は、穏やかな口調も相まって、俺たちの耳にストンと入ってきた。腑に落ちたような、何かを掴みかけたような、新しい感覚が宿る。

「音羽さん、やっぱ頭いいねー。例え方がすげえ。俺、なんか国語がわかった気がする」
「いや早えな! まだ問題集取りかかってねえぞ!?」

 俺が指摘しても、千代田はどこ吹く風だ。

「今のはそれぞれの学問の定義だと捉えてくれればいいよ。どの分野の学問も、人間社会に欠かせないからね。ただ、人は万能じゃないから、それぞれの専門にできるものは限られている。一人だけじゃ社会が成り立たないのと同じだね」

 千晃さんは視野が広い。一歳だけしか年齢が上じゃないのに、俺の精神年齢よりもずっと成熟した、大人のお兄さんって感じがする。ちょっと憧れに近いときめきが俺の脳内を駆け巡ったのは秘密だ。

 ぼうっと見とれていると、ふいに視線が合う。
 あの日のことなど何事もなかったかのように、千晃さんが聞いた。

「幸介くんは、どんな感じ?」
「俺は両方できねえぜ!」
「全部できないってことじゃんか」

 千代田よ、うっせぇぞ。

「僕は国語が得意だから、まずはそこから勉強しようか」

 千晃さんが体を寄せて、教科書を広げる。
 ふわり、と彼の匂いがかぐわしく、俺の鼻腔をくすぐる。

 甘い期待と、薄暗い情欲が、俺の中で混ざり合う。
 邪念を振り払い、千晃さんの指導に集中した。

「現代文読解のコツから教えていくね」

 教科書を広げ、千晃さんが要点をまとめた勉強の仕方を教えてくれる。千代田が相槌を打ちながら、テーブルの下で俺の足を小突く。

 いや、わかってるよ。
 でもいざ本人を前にすると、何もできねえんだよ。

 情けない男心を、千晃さんにだけは気づかれたくなくて、無理して話を合わせる。千代田がこっそりとため息をついている。

 友人も好きな人もあきれさせる俺って、一体何なんだろう。
 一瞬、空虚な気持ちになりかけた。

「まずはノートの取り方から覚えて、板書を丸写しするやり方じゃなく、大事なポイントを中心に書き留めるスタイルを身に着けていこうか」
「はーい」
「おう」

 二人して返事をし、せっせと千晃さんの言う通りに国語を覚えていく。素直に人の言うことを聞けるのは、相手が彼だからだろうな。

 あの日の、強引な行動を詫びるタイミングを見計らううちに、宿題だけが着々と進んでいった。



 一時間ほど経ったため、そろそろ集中力が切れそうだと思った頃、千晃さんは一息ついて「みんながんばったね。休憩しようか」と提案してくれた。

 ありがたく乗っかり、俺たちはフリートークに花を咲かせる。隣のテーブルの矢来と飯田、神楽坂も終わったようだ。

 それぞれ世間話をしながら、俺は千晃さんに質問した。

「千晃さんって、けっこう本読んでるよな。やっぱ頭がいいのって読書してるおかげ?」
「んー、それが理由と直接結びつくわけじゃないと思うけれど、自分一人だけの価値観に縛られない助けになるから、大事ではあるね」

 千晃さんの物の捉え方、教え方は全然押しつけがましくなくて、俺たちはすんなりと彼の発言を受け止めて咀嚼《そしゃく》できる。緩やかで、楽しい勉強時間があることを俺はこの時、初めて知った。

「読書が人々に与える影響は大きいよ」

 千晃さんは参考書を机の上でトントンと整え、リュックにしまった。

「本は、文学だから」

 彼の目はキラキラと輝いている。自分自身の好きなもの、信じるものについてひたむきな感情がうかがえた。

「文学は、世界を変えてきた学問の中の一つに数えられている、奥深い分野だよ。これをきっかけに興味を持ってくれたら嬉しいな」

 千晃さんが最後にまとめて、きりのいいところで神楽坂たちの方も一段落し、いったん休憩に入った。



 昼近くになり、食事を済ませたら勉強を再開という決まりになって、俺は館内のフリースペースでくつろいだ。一人がけのソファーがいくつか等間隔で並び、一人分の丸テーブルは荷物置き場として使うみたいだった。

 各々、好きに過ごすうちに、昼食を取ろうと周りの客が図書館を去っていく。その場は人が少なくなり、まったりした静かな空間になっていく。

 視界の端に、彼が映り込む。

 俺のことを探しに来たのか、同じように休憩しに来たのかわからないけれど、彼はこっちの席を二つ分ほど空けて、すとんと座る。文庫本を開いて読書をし始めるが、ページが捲られる速度はずいぶん遅い。あまり集中できていないらしい。

 息を吸い、席を立って彼に近づいた。

 彼が身を固くするのがわかる。

「千晃さん」と、俺は話しかけた。

 周囲に他の人はもういなかった。この場には二人の影しかない。

 彼は逃げることなく、けれどわずかに肩をこわばらせ、俺の方に振り向く。その表情はとても困っているように映った。

 やっぱり、気にしてるか。
 それか、怒ってるか。

 まず俺がすべき行動は、強引に欲を押しつけたあの日の事件を詫びることだ。

「あの時」と俺が口を開くと、千晃さんは瞳を泳がせる。

「無理やり……その、悪かった。もう、あんな真似しないから」
「……う、うん」

 千晃さんは歯切れ悪くも、俺の謝罪を受け取ってくれた。
 その後、千晃さんは何かを問いかけたそうな目をこちらに向けた。

 俺の胃の中に酸っぱい感情がせり上がって、逃げ出したくなる。でもここで退散したら、千晃さんと一生すれ違う一方だ。

「千晃さんに、伝えたいことがある」

 腹をくくり、俺は発言した。
 千晃さんは少し怯えつつ、俺の言葉を待つ。

「音羽千晃さん。俺は、あんたのことが好きだ」

 ぎゅっと、世界が凝縮されたような一瞬の沈黙。まるでストップウォッチで強制的に止められたみたいに体が硬かった。

 千晃さんは、しばらくの間、黙っていた。

 居心地が悪すぎて、しびれを切らして何か発言しようかと思った頃に、彼が口を開く。

「ごめんなさい、幸介くん」

 ――やっぱり、ダメか。
 ――あれは、俺の勘違いだったか。

 その場の空気を何とかしようと思ったのか、千晃さんは再び何かを言いかけ、また口を閉じる。噛みしめるように唇をぎゅっとすぼめる様子が、俺への申し訳なさから来ているのかと思うと、こっちも何かを言いたくなってきた。

「幸介くん」
 と千晃さんが名を呼ぶのに被せて、俺は言った。

「あー、もう気にしなくていいって! そうだよな、やっぱキモイよな!」
「え? あ、いや、そうじゃなくて」
「気遣わなくていいよ、千晃さん」
「ち、違うんだ、幸介くん。気持ち悪いなんて思ったわけじゃないんだ。本当に、それだけは違う」

 千晃さんは必死に、俺の気を引こうとしていた。それがダイレクトに伝わり過ぎて、弓矢のように俺の胸に刺さっていく。

 今は、この人の親切な心が、ひどく残酷に感じる。

「び、びっくり、してしまっただけで……」

 その先を、俺は言わせなかった。

「千晃さん、今はそれよりもさ、宿題教えてよ」

 俺は話題を切り上げるつもりで、彼の前に山吹高校の課題プリントを差し出す。

「幸介くん……」
「な! 俺のこと助けると思って!」

 俺は無理して、手を顔の前に合わせて拝むポーズをした。笑顔を張りつかせ、もう気にしてない風を装った。

 千晃さんはぐっと言葉を飲み込み、「……うん」と小さくうなずいた。

 俺は彼を遠ざけるように背を向け、「千代田―」と友だちの名を呼んでごまかした。
 後ろは、振り返りたくなかった。


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