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第一章 「大和撫子」
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しおりを挟む「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花という、美人な女性を表す江戸時代の言葉があります。これはもともと、漢方薬の生薬の用い方の比喩として……」と国語教師がやけに達筆な字をホワイトボードに走らせていく。続いて「大和撫子」という、これもまた昔の美人の代名詞を取り上げ、なぜこの名称になったのかと詳しく説明していく。
「大和撫子は、日本人女性の美しさを称える時に用いられてきた表現です。控えめな印象があるものの、芯が強くて凛とした様子を、撫子という花に例えています。万葉集が登場した平安時代から広く使われてきた言葉で、大人しくて清楚な女性が美しいという、昔の日本の美意識が如実に表れた……」
普段授業を聞かない俺は、この日だけは真面目な態度で国語教師の話をしっかりと耳に入れていた。
美人の代表格。
大和撫子。
まさにその名を冠するのがふさわしいほどの人物を、俺は知っていた。
が、こっちが一方的に顔を知っているだけで、知り合いではない。第一名前も聞いていないのでお近づきになれる術がない。
一つわかるとすれば、彼の制服が、うちの学校の向かい側にある名門お坊ちゃん私立校だということだ。
そう、俺が「大和撫子」と認めた美貌の人物は、男である。
帰りのバスは俺らと同じ学校と、向かいの坊ちゃん私立校の制服でぎっしり埋まっている。俺と千代田、飯田、矢来はいつもの定位置である最後列座席を陣取り、下校時のフリートークという名の雑談に花を咲かせた。
車内には生徒以外にも乗客がいたが、半端な時間帯だし社会人はあまり乗ってこない。何人かが俺たち四人組をチラッと横目で見て、恐れをなしたようにすぐに視線をそらす。そうそう、危険な道は渡らない方がいいぜ。
何せ俺の外見は、ピンクに染めた頭に、両耳に空いたピアス、適度に着崩した制服だ。うちの学校の制服は黒をベースにしたダークカラーだから、俺が着ると迫力がすごいって周りによく言われるのだ。俺はそんな自分の体格を自慢に思っている。
友だち三人も大体似たような恰好なもんで、どんなに騒がしくしようとも注意するやつはいない。運転手も他人事と決め込むように淡々と運転しているだけだ。
世の中、不良が勝つのよ、結局。
俺は、高校生という無敵の年齢を惜しげもなく周囲にさらして生きている。
「今日は怒られなかったなー。京橋幸介《きょうばし こうすけ》くん」
千代田夏広《ちよだ なつひろ》が独特の間延びしたテンションの声で、俺を茶化す。フルネームで呼ぶ時は俺にかまってほしい時だ。
こいつは金に染めた髪に両耳にも鼻にも口元にも開けまくったピアスのぎらつきで、道を歩けば通行人が自然と道を譲るように避けて通るため、狭い道も歩きやすいんだと冗談交じりに笑っている男だ。たぶん心の中では本気で「誰も俺に寄ってこないからマジ生きやすいわー」とせせら笑っているに違いない。普段のやる気のなさと、体からあふれる底知れないオーラが不思議な調和を保っている。俺の中学時代からの腐れ縁である。
「うっせぇ。俺だってたまには真面目に勉強するっつの」
「怪しい、怪しい。それか怪奇現象かもしれないな」
「言えてるー。何か悪い霊にでも取り憑かれてない? 大丈夫?」
飯田剛太《いいだ ごうた》と矢来悠《やらい ゆう》が茶々を入れながら愉快に相槌を打って、互いにじゃれ合う。ゴツい飯田と小柄な矢来が仲良くしてると、大型犬と小型犬の戯れみたいに思えてほっこりする。……なんてことはわざわざ本人たちに伝えたりしないが、こいつらとは高校入学時に知り合い、ノリの良さと趣味や価値観の一致で仲間意識が芽生え、俺ら二人とつるむようになった。飯田は黒髪短髪だが、矢来の方は赤に染めた髪と、千代田ほどではなくても両耳に開けたピアスが派手なデザインをぎらつかせて揺れている。矢来は可愛い見かけの割に趣味が大胆で、ド派手なものを好む。二人とも、油断して気安く近づいたらいけないタイプである。
仲間たちの俺いじりが盛り上がり、こっちもムキになって言い返したりしているうちにバスは進み、乗客たちは降りていく。ちらりと、迷惑そうな視線を向けて。
しかし俺たちは反省しない。不良として胸張って生きているこっちに、大人たちからのマナーがどうこうなどの命令や説教を聞くような従順さは一切ない。せいぜい大いに困れ。敷かれたレールの上しか歩けない大人たちよ。
ふんと鼻を鳴らして、俺は車内を見渡す。最後列の座席から見下ろす視界は実に景色がいい。
と、ふいに引き寄せられるままに目を向けると、前方の座席に「あの人」が座っていた。
まさかの、まさかである。
いつもは帰宅時間がずれてるのか、遭遇しないのに。
すぅー、と血の気が引いていくのを感じた。
座席から立ち、後方のドアに向かうその人は、まさに俺の意中の人だったからだ。
細いが、すらりとした体型。柔らかそうな髪の毛。向こうの学校の、青を基調とした爽やかな制服の色がまぶしい。
彼が顔を上げた。
一瞬、俺と彼の目が合う。
――やっぱり、綺麗な顔だ。
――初めて見た時から。
優しげな印象を感じさせる目元は、男性ファッション誌の表紙を飾ってもいいくらい様になっている。通った鼻筋も、きゅっと引き締まった口元も、この上なく俺を魅了してやまない。
視線が交差した一瞬、彼はほんの少しだけ、本当に少しだけ、陰のある表情を浮かべた。
……な、何だろう、その顔の意味は。
やっぱり、うるさいという意思表示だろうか。
「お、お前ら、静かにしろ! 他の客に迷惑だろ!」
俺はあわてて千代田の頭をはたいた。
「は? どうしたの、京?」
叩かれた千代田は頭をさすりながら解せない顔で俺を見る。その間に彼はドアを通り抜け、バスから降りて帰路を歩いていってしまった。
颯爽と、意外と速い足取りで遠ざかっていく彼の後ろ姿。
――ああ、やっちまった。向こうの印象は最悪に違いない。
「……ふーん?」と千代田を筆頭に、仲間たちがニヤニヤ笑って俺をからかう準備を始める。「カッコつけたいもんねえ?」と千代田の野郎が肩を叩き、さっきはたかれた仕返しとばかりに意地の悪い笑みを張りつかせた。このドS野郎め。
こいつらは、俺の性的指向を知っている。
知った上で、こんな風に理解してくれる。
その意味では最高級にいいやつらなのだが。
千代田たちをにらみながらも、俺は目ざとく彼が降りた停留所を頭の中にメモした。本道《ほんどう》区一丁目。一丁目か、やっぱり金持ちだな。
東京都本道《とうきょうとほんどう》区は、一つの区の中でリッチな層と俺らみたいな治安悪めのやつらが隣り合って暮らしているという、実にカオスな街である。バカでかい幅の一本道がどこまでもまっすぐに伸び、そこを挟んで右側が坊ちゃん私立校のある金持ちクラスの家々、左側が俺ら不良たちがはびこるボロい家々が並んでいる。部外者から見ればツッコミどころ満載の地区だが、学校に向かうまでのあの一本道は、ほぼ歩行者天国の状態で、多くの人間が賑やかに行き来する、ちょっと楽しい場所だ。少なくとも俺はそう思っている。
三丁目で降りた俺たちは帰路につきながら、馬鹿話を再開した。というより、俺が一方的に言い訳していた。
「だからさあ、男が好きな男はみんな、男らしい男を好むんだろっていう世の中の偏見が嫌なわけよ。俺は男臭いやつ見たら、めちゃくちゃ対抗心燃やすからな! 俺の方が男として格上だし! って牽制するから! 綺麗系や可愛い系の男が好きなやつも絶対いるんだって! 俺は仲間を増やしたいわけよ!」
「それはお前が正真正銘のタチだからじゃね?」
千代田がズバッと核心を突き、飯田と矢来が「タチって何?」「えっとねー、抱く側の男をー」と公共の歩道でしてはいけない話をし始める。俺から話題を振っといて何だが、未成年が堂々とキワドイ話をするんじゃない。
……あいつ、俺のこと見てたよな。
あんまりポジティブじゃない視線、向けてたよな。
「俺の好きなタイプは清楚系だ。ゴールデンのCMに出れるような上品さが絶対なんだ。ああ、俺の大和撫子……っ! 絶対嫌われた……!」
「大和撫子?」
頭を抱える俺をよそに、千代田が疑問符を浮かべて解せない顔をする。「ほら、今日の授業で美人の誉め言葉を紹介してたじゃん」と矢来が千代田の服の裾を引っ張りながら教える。合点がいった千代田は、
「お前にとっての理想の男はあいつなのかー。そりゃ無理ゲーってやつだな」
と世にも残酷な言葉を吐きやがった。
「あれは、俺らみたいなヤンキーは除外ってタイプよ。そもそもセクシャリティ違うかもしれないだろ」
俺はぐっと詰まる。そう、この世で幅を利かせているのは異性愛者というマジョリティだ。大和撫子がそれだという確率は大いにある。
多様性だ何だと言いながら、異性愛者がどこでも堂々とカップルとして振る舞える一方で、肩身の狭い思いをする俺を、世の中は放っておくばかりだ。むしゃくしゃするぜ。
――でも、それでも好きなんだよ。
一目惚れはやっかいだ。
何をどう処置すればいいか、手段がないから。
最初に彼を見たのは、高校の入学式の日。
四月だというのに大きな寒波が来たとかで、その日は寒くてしかたなかった。俺は制服の上にでかめのマフラーを巻いて、今時珍しい気温の低さに心中で悪態をついていた。早く山吹《やまぶき》高校に停まれ、このオンボロバス、と。
スマホで何か暇つぶしをしようかと、ポケットに突っ込んでいた手をリュックに伸ばし、ふと斜め後ろを見た時が最後だった。
俺の運命の鐘が鳴った。
平たく言うと、彼がいたんだ。
向かいの金持ち私立、水ノ宮《みずのみや》学園高校の制服を着て、少し寒そうに震えながらも凛として立っている彼を、俺は、視界に入れてしまった。
目の奥に、電流のような衝撃が走った。
体内に雷を落とされたなら、こういうすさまじい感覚がするんだろうか。そう疑うくらいに、彼の顔も、佇まいも、体全体から感じ取れる上品な品格も、すべてがパーフェクトだった。
つまり、俺の理想の人、ド真ん中の見た目だったのだ。
――一目惚れをしてしまった。
何て綺麗で、整った顔立ちをしているんだろう。
一瞬で恋に落ちてしまった己が恥ずかしいやら、情けないやらで、その後の詳細な記憶が頭から消し飛んでいる。
あの日の俺はそのまま花畑の世界へ行った頭で、心ここにあらずの状態で入学式を終えた。千代田たち仲間の挨拶にもうわの空で、ついに怪しいブツに手を出したんじゃないだろうかと心配されていたらしい。失礼な。俺は真っ当な世界の不良だぞ。超えちゃいけない一線を超える不良は、俺の目指す粋な不良じゃねえ。俺はあくまで少年漫画に掲載できるタイプを目指してるんだ。
それはそうと、あの人、俺のこと、軽蔑しただろうか。
……したよな、きっと。向こうの苦手なタイプっぽいもん、俺。
ずっと見ていたのになあ……。
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はあー、とこの上なく深いため息を落とす。
「俺は……どうすればいいんだろう……」
「さっさと告白して振られれば?」
「お前、友だち失くす! ぜってー失くす!」
千代田の無慈悲な返しにイラっと来た俺は再度、やつの頭をはたく。暴力反対ー、と千代田は逃げ回ったり突っかかったりして、結局俺らのバカ騒ぎはいつも通りのテンションだった。
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