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第三章 青花翠
十六
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学生寮の食堂で、翠は隅のテーブル席に座って、一人きりの夕飯を過ごしていた。
野菜がたっぷりと入ったビーフシチューを口に含みながら、家族からの手紙を読んだ。
午後七時から九時まで、夕食の時間が決められているので、翠はいつも一番乗りで、がらんと空いている食堂に足を運んでいた。
テーブルに両親の綴った手紙を置く。料理担当の先生が作ってくれるものはどれも美味しかったが、やはり母の少し薄味気味の味付けが、この料理を食べるごとに、思い出されてしまうのだった。
父と母の文面は似ていた。寒い日が続くので体調に気をつけることと、たまには家に顔を出すということ。そして、学校に馴染めたかということ。
翠はその文に決まった返事を書く。学校では何も問題なく日々を過ごせています。友達もできました。寮ではその友達と一緒にくだらないことで笑いながら生活しています。だから何も心配しないで。
まるで演劇のようにすらすらと返事の内容を嘘で固めることに、もう感じるものはなくなっていた。
妹からの手紙が来ていた。花柄プリントの便箋。翠はそれをグシャリと丸めて、ポケットに押し込んだ。
夕飯を食べ終え、トレイを返却カウンターに戻し、両親の手紙だけを大事に持って、ワンルームの部屋へ行った。
廊下の突当りにある大型のゴミ箱に、妹の手紙をビリビリに引き裂いて捨て、二通の便箋だけを手に持って階段を上った。
自室へと入って、勉強机に手紙を置いた。父と母、それぞれ内容が被らないように、先ほど用意した言葉を文字にして綴った。
あくまで両親にあてた手紙として。妹のことだけは、絶対に書かないように。
返事を書き終えて、続けて明日の授業の課題をやり終えていた。予習も復習もまんべんなくして、完璧に準備を整えると、もう寝る時間だった。
ベッドに寝転がりながら、今日借りた本を、第一章の部分だけ読んで、電気を消した。
周りの皆は、一階の談話室のテレビで、こっそりと持ち込んだゲームでもしているのだろう。周囲の部屋にまだ誰の気配もなかった。
寮に通う生徒は、何かの推薦で地方から来た人がほとんどだった。互いに出身地を言い合い、夢を語り合い、あっという間に仲間になった。
翠はその輪には入れなかった。初めからわかっていたことだったが、胸を締め付ける何かが緩むことはなかった。一瞬でも油断をすれば、深い悲しみの落とし穴に突き落とされてしまいそうだった。名前もない何かに。
翠は身体を丸めて、早く眠気が来ることを願った。
真っ暗な部屋の中で目をつむると、押し寄せる何か底のない感情が、漂ってきた。その言いようのないモヤモヤは、翠を囲って離さなかった。そこから逃れるために、周りの皆に負けないように、成績だけは上げたかった。
寝つきの悪い体質のせいで、なかなか眠れなかったが、何とか朝を迎えた。
○
定期試験の年間成績表が、生徒たちに配られた。
まだ三月の期末が残っているが、春から二学期の終わりまでの総決算が一月末に送られるのが、この学校の小さな行事だった。
プリントをめくると、上位十名までの成績優秀者が、学年ごとに表紙に乗っていた。
翠の成績は七位だった。全科目の点数を見ると、理系の科目が足を引っ張ったようだった。やはり苦手分野をもう少し克服しないとなと、嬉しさよりも悔しさのほうが勝った。いつか一位になりたい。学年トップの成績を収めたい。できるならオール五の成績表を、ここにいるこいつらに見せつけたい。
芽生えた野心は消えることなく翠の内を燃やしていた。
「このクラスで一番の成績は、青花です」
ざわめきに満ちたクラスの中で、担任教師が誇らしげにつぶやいた。
その言葉は思ったより大きくクラスメイトの中に鋭く響いたようで、教室は一瞬、時が止まったかのようになった。
「へえ、青花、すごいじゃん」
昨日、翠の悪口を言っていた彼が、今日は人当たりの好い笑顔で遠くの席から話しかけていた。それを合図に、周りも声をそろえて、すごーい、えらいなー、と笑顔を向けた。
「馬鹿みたいだな」
何かに非常に苛立っていた。ここにいる生徒全員に、翠は一瞥をくれた。プツンと切れた糸は、今まで溜めてきた怒りをせき止めることが、もうできなくなっていた。
糸が一度切れると、あとはなだれ込むように、むき出しの感情が露わになった。
「そうやって上品な顔して、綺麗な言葉だけ並べて、俺がいなくなったらくだらない話で盛り上がるんだろ?」
教室の空気は、翠の掌の上にあった。
翠が動き出せば、皆は注目する。この異物を、絶対に受け入れないという固い意志が、今ここにいる生徒全員の目に映っていた。
「くだらねえ。本当にくだらねえな。俺がそんなに面白い生き物かよ。あちこち固まりを作って、動物の群れみたいに集団行動するお前らのほうが、よっぽどおかしいわ」
翠のすぐ後ろの席の男子生徒が、身体を乗り出して翠の顔を殴りつけた。
翠も傾いた身体を起こして相手を殴り返す。
「始めからこうすればよかったんじゃねえかよ!」
翠の叫びは誰にも聞こえず、生徒たちは怒りの表情を露わにして、野次を飛ばした。
担任教師があわてて男子生徒の身体を掴んで、翠から離す。
保健係の彼は、ああ、やっぱりね、というように、心から見下したような視線を投げていた。
翠は言葉にならない叫びを口に出し、吠えるように何事かを怒鳴って、教室内を走りだして外へ出た。
広い世界へ出たかった。こんな狭くて、誰かが誰かを格付けして噂するばかりの部屋に、愛着なんか一ミリもなかった。
翠は走った。力の限り走った。反射的に手にした学生鞄と成績表だけを持って、どこへ行くのかもわからず、衝動のまま走り続けた。
○
野菜がたっぷりと入ったビーフシチューを口に含みながら、家族からの手紙を読んだ。
午後七時から九時まで、夕食の時間が決められているので、翠はいつも一番乗りで、がらんと空いている食堂に足を運んでいた。
テーブルに両親の綴った手紙を置く。料理担当の先生が作ってくれるものはどれも美味しかったが、やはり母の少し薄味気味の味付けが、この料理を食べるごとに、思い出されてしまうのだった。
父と母の文面は似ていた。寒い日が続くので体調に気をつけることと、たまには家に顔を出すということ。そして、学校に馴染めたかということ。
翠はその文に決まった返事を書く。学校では何も問題なく日々を過ごせています。友達もできました。寮ではその友達と一緒にくだらないことで笑いながら生活しています。だから何も心配しないで。
まるで演劇のようにすらすらと返事の内容を嘘で固めることに、もう感じるものはなくなっていた。
妹からの手紙が来ていた。花柄プリントの便箋。翠はそれをグシャリと丸めて、ポケットに押し込んだ。
夕飯を食べ終え、トレイを返却カウンターに戻し、両親の手紙だけを大事に持って、ワンルームの部屋へ行った。
廊下の突当りにある大型のゴミ箱に、妹の手紙をビリビリに引き裂いて捨て、二通の便箋だけを手に持って階段を上った。
自室へと入って、勉強机に手紙を置いた。父と母、それぞれ内容が被らないように、先ほど用意した言葉を文字にして綴った。
あくまで両親にあてた手紙として。妹のことだけは、絶対に書かないように。
返事を書き終えて、続けて明日の授業の課題をやり終えていた。予習も復習もまんべんなくして、完璧に準備を整えると、もう寝る時間だった。
ベッドに寝転がりながら、今日借りた本を、第一章の部分だけ読んで、電気を消した。
周りの皆は、一階の談話室のテレビで、こっそりと持ち込んだゲームでもしているのだろう。周囲の部屋にまだ誰の気配もなかった。
寮に通う生徒は、何かの推薦で地方から来た人がほとんどだった。互いに出身地を言い合い、夢を語り合い、あっという間に仲間になった。
翠はその輪には入れなかった。初めからわかっていたことだったが、胸を締め付ける何かが緩むことはなかった。一瞬でも油断をすれば、深い悲しみの落とし穴に突き落とされてしまいそうだった。名前もない何かに。
翠は身体を丸めて、早く眠気が来ることを願った。
真っ暗な部屋の中で目をつむると、押し寄せる何か底のない感情が、漂ってきた。その言いようのないモヤモヤは、翠を囲って離さなかった。そこから逃れるために、周りの皆に負けないように、成績だけは上げたかった。
寝つきの悪い体質のせいで、なかなか眠れなかったが、何とか朝を迎えた。
○
定期試験の年間成績表が、生徒たちに配られた。
まだ三月の期末が残っているが、春から二学期の終わりまでの総決算が一月末に送られるのが、この学校の小さな行事だった。
プリントをめくると、上位十名までの成績優秀者が、学年ごとに表紙に乗っていた。
翠の成績は七位だった。全科目の点数を見ると、理系の科目が足を引っ張ったようだった。やはり苦手分野をもう少し克服しないとなと、嬉しさよりも悔しさのほうが勝った。いつか一位になりたい。学年トップの成績を収めたい。できるならオール五の成績表を、ここにいるこいつらに見せつけたい。
芽生えた野心は消えることなく翠の内を燃やしていた。
「このクラスで一番の成績は、青花です」
ざわめきに満ちたクラスの中で、担任教師が誇らしげにつぶやいた。
その言葉は思ったより大きくクラスメイトの中に鋭く響いたようで、教室は一瞬、時が止まったかのようになった。
「へえ、青花、すごいじゃん」
昨日、翠の悪口を言っていた彼が、今日は人当たりの好い笑顔で遠くの席から話しかけていた。それを合図に、周りも声をそろえて、すごーい、えらいなー、と笑顔を向けた。
「馬鹿みたいだな」
何かに非常に苛立っていた。ここにいる生徒全員に、翠は一瞥をくれた。プツンと切れた糸は、今まで溜めてきた怒りをせき止めることが、もうできなくなっていた。
糸が一度切れると、あとはなだれ込むように、むき出しの感情が露わになった。
「そうやって上品な顔して、綺麗な言葉だけ並べて、俺がいなくなったらくだらない話で盛り上がるんだろ?」
教室の空気は、翠の掌の上にあった。
翠が動き出せば、皆は注目する。この異物を、絶対に受け入れないという固い意志が、今ここにいる生徒全員の目に映っていた。
「くだらねえ。本当にくだらねえな。俺がそんなに面白い生き物かよ。あちこち固まりを作って、動物の群れみたいに集団行動するお前らのほうが、よっぽどおかしいわ」
翠のすぐ後ろの席の男子生徒が、身体を乗り出して翠の顔を殴りつけた。
翠も傾いた身体を起こして相手を殴り返す。
「始めからこうすればよかったんじゃねえかよ!」
翠の叫びは誰にも聞こえず、生徒たちは怒りの表情を露わにして、野次を飛ばした。
担任教師があわてて男子生徒の身体を掴んで、翠から離す。
保健係の彼は、ああ、やっぱりね、というように、心から見下したような視線を投げていた。
翠は言葉にならない叫びを口に出し、吠えるように何事かを怒鳴って、教室内を走りだして外へ出た。
広い世界へ出たかった。こんな狭くて、誰かが誰かを格付けして噂するばかりの部屋に、愛着なんか一ミリもなかった。
翠は走った。力の限り走った。反射的に手にした学生鞄と成績表だけを持って、どこへ行くのかもわからず、衝動のまま走り続けた。
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